三日目の夜
サマンサは入浴後、自室で今日の昼セリムが置いていった地図を広げていた。母国より国土は狭いと祖父より聞いているものの、彼女は母国の広さがわからない。嫁ぐ前のほとんどの時間を王宮で過ごした為、話には聞いていても距離感は全く掴めないのだ。だから王都ラービタタルが母国の王都より広いのかさえ彼女には判断出来なかった。
サマンサは広げながら、夕食時のセリムの態度を思い出していた。今夜も四人での食事だったが、彼はあまり話さなかった。ガラス工房での態度が王太子妃らしくなかったかもしれないと、彼女は少し不安になっていた。初めて見る光景に目を奪われてしまい、思わずはしゃいでしまった。あの時は彼も楽しそうにしていたように見えたけれど、自分がそう見えたと思い込んでいるだけで実際は咎めるような視線だったのかもしれないと彼女は悩んでいだ。
使用人の声にサマンサははっとして返事をし、セリムが室内に入ってきた。彼女は謝るべきか、態度がおかしくなかったかをまず問うべきか迷っていると、セリムが先に口を開いた。
「エイメンの事、どう思う?」
予想外の質問にサマンサは一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに微笑を零した。
「どうとは、どのような意味でしょうか」
「あ、いや。その。私とは顔が似ていないから」
「顔の好みの話という事で宜しいでしょうか」
微笑むサマンサにセリムは気まずそうな顔をする。
「いや、聞かなかった事にして。わかっている答えなら聞かなければいいのだ。私が浅はかだった」
「申し訳ありません。好みで言うならば、どちらも好みではないのですよ」
サマンサはあえてそう言った。実際嘘ではない。レヴィ王家は端正な顔立ちでも有名で、ジョージ以外は全員顔が整っているし、公爵家もその血が流れているので端正な顔立ちの者が多い。その中で育った彼女にとって美形はあまり興味がないのだ。見た目は不潔でなければ問題なく、それ故に彼女は母国では誰に対しても同じように接していて男性貴族達から人気があったのである。
「どちらも好みではない?」
「本来でしたらセリム殿下の方が好みですと答えるのが筋だとは思うのですけれども、最初に小さな嘘を吐くと後で首を絞めそうなので素直に答えました。申し訳ありません」
「あ、いや。ありがとう。そうか。うん」
セリムは安堵の表情を浮かべて何かに納得したように頷く。サマンサはその意図を図りかねて首を傾げた。
「エイメンには外見では勝てないから、どこで差を埋めようと思っていたのだけど、サマンサがそう言うならいい」
「エイメン殿下と何か張り合っていらっしゃるのですか?」
「え? いや、張り合っては……あ、うん。ある意味そうなるかもしれない」
サマンサはセリムが何を言っているのかよくわからなかった。彼は真面目な顔つきでサマンサを見つめる。
「どこの国でも王位継承権問題はあると思うのだけど、この国にもある。私もサマンサに嘘を吐いて後から困るといけないから先に言ってしまうけど、王位に左程固執していない。兄上が次は私だと準備してくれたから従っているだけで、エイメンに譲れと言われたらいつでも譲っていいと思っていた」
サマンサは思っていたと過去形が気になり、問うような視線をセリムに向ける。
「サマンサが私の妻でなくなってしまうのは困る。私はまだまだだけど、サマンサが何不自由なく暮らす為にも頑張るから、もし今後サマンサの好みの男性が現れたとしても、その、いや、サマンサが我慢する必要はない。もし誰か運命の人を見つけてしまったのなら、それはその……」
セリムはそこで俯いてしまった。サマンサは王位継承権の話をしていたはずなのに、話がどこへ向かっているのかよくわからず困った表情を浮かべる。
「その、もしサマンサの運命の人が俺でなかったとしたら、その時は一度その男と会わせて欲しい。そしてその相手と幸せになれると感じた場合は何も言わないけれど、相応しくなければ何をしても奪うから」
サマンサはセリムの仮想の話に、どう反応するのが正しいのかわからず無表情のまま彼を見つめた。そもそも運命が何かもわからないのに、彼以外の男性に運命を感じる事が想像出来なかった。少なくともカイルに対しては運命など感じなかった。
「王位継承権の話ですよね?」
「え? あぁ。そう。エイメンが王太子に相応しいと思っている派閥があるから、私を亡き者にしようと狙っている者もいる。それとレヴィ王国がアスランを乗っ取ろうとしているのではないかと、くだらない事を言っている者もいるそうだけど、サマンサには危害が及ばないように対応するから心配しないで欲しい」
サマンサは眉根を寄せた。レヴィは豊かな国であり、他国を侵略する事はジョージが総司令官を務めている間は絶対にないと彼女は思っている。そもそも船で十二日もかかる場所を侵略して何の得になるのか、彼女には理解出来なかった。
「レヴィは決してアスラン王国を乗っ取りません」
「私はジョージ閣下とも話して理解している。だが、残念ながらわかっていない者もいるし、ただ余所者を受け入れたがらない頭の固い人間もいる。私がどうであろうと、自分の利益の為だけに動く者もいる」
「それはわかります。国の為と言いながら自分の為に動く人間は、どこにもいるのだと思います」
サマンサの答えにセリムは困ったように笑った。
「あぁ。その筆頭が伯父上、つまりゼフラの父親だ。伯父上は母上と兄上の死により権力が弱まったので何かと私に言ってくるが、サマンサとの結婚に最後まで反対をしたから正直好きではない」
「反対を押し切られたのですか?」
「そもそも父上が認めているのに反対をする伯父上がおかしいとは思わないか?」
セリムの問いかけにサマンサは頷いた。国王が認めているのを臣下が反対するのはおかしい。
「伯父上は自分の権力を勘違いしている。母上が父上に嫁いだからと言って伯父上が偉いわけではない。正直外戚ならエイメンの方がまともだから難しい」
「それはセリム殿下が毅然とした態度で接すれば宜しいと思います」
サマンサは真面目な表情をセリムに向けた。レヴィ王太子エドワードは公爵家出身の母を持っていたが、伯父である公爵家当主を近寄らせず、悪事を暴いて爵位を剥奪した。利用出来ると思わせない態度が重要だろうと彼女は思ったのだ。
「毅然は苦手だ。私はまだまだ知らない事も多いし、大きな口は叩けない」
「嫌な事を嫌とも言えないような関係は宜しくありません。利用されてしまいます」
「嫌な事は嫌か。利用されるのは困るから覚えておく。サマンサは凄いね。王女として立派に暮らしていたのだろうな」
「私は側室の娘ですから、色々とあっただけですよ」
サマンサは微笑んだ。彼女の母親は側室で、彼女が六歳の時に病死している。それでも父や兄達が可愛がってくれたので不自由な生活はしていないが、白い目で見ていた貴族達はいた。その視線が嫌で、彼女は笑顔を絶やさず誰とでも接するという事を覚えたのだ。それは息の詰まる生活であったが、息抜きが出来る場所もあり、今振り返るとそこまで辛くはなかったかもしれないと彼女は思った。
「苦労をしてきたのに苦労が見えないとは凄いな。やはり私はまだまだだ」
セリムは視線を落とした。
「セリム殿下の理想の王太子像はオルハン殿下なのでしょうか」
「兄上はとても賢い人で、何か言われても切り返した方がいい人、黙っていた方がいい人なども、すぐに見分けて対応出来るような人だった。私はそういうのが苦手で」
「人には得手不得手がありますから、苦手な事は誰かに任せて、得意な所を伸ばした方が宜しいかもしれません」
「得意か。私は剣しか振れないから王都では無能かもしれない」
「そのような事はありません。今日の視察の時、突然の訪問にもかかわらず皆優しくしてくれました。セリム殿下の人柄故の事と思います」
サマンサは柔らかく微笑んだ。セリムははにかむ。
「そうかな。サマンサに褒められると少し嬉しい」
二人の間に優しい空気が流れる。サマンサがこの空気は夫婦みたいかもしれないと思っていると、セリムが急に立ち上がった。
「今日も歩いて疲れているのに長く話してしまってすまない。おやすみ」
「えぇ、おやすみなさい」
サマンサはセリムを目で追ったが、彼は彼女を振り返る事なく自室へと消えていった。どうやら今日の自分の態度は問題なかったようだと安心しつつ、会話が途切れると彼は自室へ戻ってしまうので、明日は会話を続ける努力をしようと考えながら、彼女は地図を折り畳んだ。




