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ファンタジー的世界観でサクッと読むヒューマンドラマのすゝめ

キャンバスの対価

作者: 絹ごし春雨

「あなた、私を上手に描きたいの?」

彼女は言った。


 私はしがない画家だ。自画像にも飽きたので、少しばかし売れた絵のお代で娼館に向かった。食うものにも困る生活をしつつも、なぜ娼館に通うのか。それは、絵を描くために私が生きているから、と答える。馬鹿馬鹿しいと思われても、私は本気でそう思っている。


 私はとりつかれたように毎日絵を描いている。それも人物ばかりだ。静物画も書かないことはないが、人間ほど複雑で美しい造形はないと思う。絵はその外観だけを写すものではない。内面を描くこと。私はもっぱらそれに注力していた。


 その点でいうと娼婦というものは絶品だった。複雑な事情を抱え、葛藤し、毎日をそれでもたくましく生き抜く女性。彼女たちは、自らを最も美しく見せる方法を知っている。


私が馴染みの娼館の扉を叩くと、そこには見慣れた顔の女が立っていた。

「今日は私が受付なのよ。いらっしゃい。そろそろ来るんじゃないかと思ってたわ」

「そうだったのか。違う日に改めようか?キリを訪ねて来たんだが」

「あら嬉しい。私みたいなので良いのかしら?」

「ああ」


私はキリという女性を気に入っていた。色が白く、顔はそばかすがちょっと浮いていて可愛らしい感じだが、特別美人ではない。なぜ、彼女を選ぶのか。それは、私の仕事に一定の理解があるからだ。


 私が娼館で絵を描いているのは皆知っている。しかし、実際にモデルになってもらうと、緊張しすぎたり、逆に自らの仕事ではないと緩みすぎたり、上手いこといかないのだ。その点、キリは自然だった。


自然に振る舞うのは、頼み込んでもなかなか難しいことで、だから私は彼女を指名するのだ。


「待ってて。受付変わってもらうから」

彼女は壁にかかっていた札を整理し、そこに名のないものの部屋へ向かった。

「話はついたわ」

「ああ。ありがとう」


私が背負っていたキャンバスを部屋に持ち込むと、入れ違いに出て来た女性は鼻を鳴らした。

「物好きねぇ。本来の仕事の方がよっぽど楽だわ」

キリは曖昧に微笑んで言った。

「彼はお得意さんよ。失礼なことは言わないで」


パタン、と扉が閉まると私は言った。

「やはり、迷惑だろうか」

「そんなことはないわ」

「いつもと同じで良いのね?」

「ああ頼む」


彼女は、身につけていたドレスを脱ぎ落とすと、寝台ベッドの上に背を向けて座った。特段気負うことも、気取ることもなく、横ずわりをし、手をわきにつく。


「今日でその絵は何回めだったかしら?」

「この構図は3回目だな。何も一枚をずっと描いているわけではない。キャンバスは一応持って来てはいるが。ここではスケッチをしているだけだ」


私は彼女の背中を何度も描いていた。でも何か気に入らないのだ。白くて首筋のところにほんの少し骨が浮いている。その骨を想像の中で私の指はつつと撫ぜる。それから背中をたどってその細い腰へ。


何度も何度も繰り返しながら、スケッチを重ねる。

まただ。また描けなかった。それこそ出会った始めの頃、こんな葛藤はなかった。果たしてこれは、私が上達したからなのか、それとも下手になった証なのか。

「キリは不思議だな。今の私では、何度描いても、この絵には君を写し取ることはできないみたいだ」


私が、そう言ったのはもう夜もだいぶけた頃だった。

「休憩にしよう。今日はもう休むと良い」

「変な気遣いは無用よ?お客さんなんだから」

彼女は、姿勢を崩し、ひとつ大きく伸びをした。


「ねえ。絵を見せてよ」

「え?」

「だめかしら」

私はしばらく躊躇ちゅうちょしたが、彼女に絵を見せることにした。


「すまない。君を私は上手く描くことが出来ないみたいだ」

「あら。十分綺麗に描いてくれてると思うけど」

「いや。何かが違う。君の中の複雑で美しい何かを私は表現出来ていない。それだけは、わかる」


私は彼女をじっと見つめた。その瞳から微かなきっかけでもつかめないかと、覗き込んだ。

「あなた、私を上手に描きたいの?」

「そりゃあ、もちろんだ。私は君の、その美しさを写し取りたいさ」


キリは何か言いあぐねているみたいだった。口を開き、また閉じる。それを何度か繰り返す。やがて、ぽつりと言った。

「1年よ」

「1年?」

「あなたが来るようになってから、もう1年経つの」

「人の気持ちって1年もあれば変わると思わない?」


「始めから私が描きにくかった?」

その問いに私は首を振る。そんなに頻繁ひんぱんに来ているわけでもないから、いつとは言えないのだが、だんだん彼女が見えなくなって行ったのだ。


弱り果てたような顔をした私に彼女は、シーツを巻きつけて歩み寄って来た。

しゃがみこんだ彼女に、頬を両手で挟まれる。

「情けない顔ね」

私は、なんと返せば良いかわからなかった。


そして、彼女は言った。

「私ね、あなたの絵が怖かったわ」

「あなたの目はなんでも見通してしまうの。その筆は、その人の気づいていない感情をさらけ出してしまうの」


絵を前に見せてもらったことがあったでしょう?と彼女は言った。ああ、と私は思い出す。半年くらい前に正面から服を着た彼女を描いたことがあった。それのことだろう。


「それがどうか?」

「私はその絵が怖かった」

その絵は珍しく自分ですごくよく描けたと思った。だから、つい見せたのだったか。

「あの絵はよく描けたと思ったのだが」

「そうね。とてもよく描けていたわ。私が怯えるくらいに」


そういえば、その後からだろうか。彼女は顔を見せることを嫌がるようになり、後ろ向きのポーズを描くようになったのは。そして、その時から私が彼女を正しく描けなくなったのだ。


「私は君に迷惑をかけていたのだろうか?」

「迷惑?」

「そうだろう?怯えていたと言っていたじゃないか」

私は少しばかり落ち込んでいた。彼女とはそれなりに上手くやっていると思っていたからだ。


「そう。迷惑、ね」

じゃあ、と彼女は続けた。

「迷惑料、対価を頂戴よ」


彼女は目の前で微笑んだ。歌うように告げて、驚く私と目線を合わせる。頬を挟まれたままだった私は、逃げることもできず、唇と唇がふれあい、硬直する。


彼女のしっとりとして、柔らかい唇の感触が、絵を描くということにのみ捧げていた精神から本能を引きずり出す。唇が離れても、私は呆然としていた。いや、はっきり言おう。彼女に欲情していた。


「あなた、私を上手に描きたいんでしょう?」

私の前で彼女は婉然えんぜんと微笑む。それは、明らかに私を誘っていた。私は、彼女の顎に手をかけ、親指でその唇をなぞった。


持っていた紙はバサリと落ちた。事の最中、彼女は何も言わなかったけれど、その瞳が、その指が、腕が、脚が、その全てが私を欲していた。

__彼女は私が好きなのだ。

それは、ストンと落ちて来て、私の胸を熱くさせた。


ああ、なんということだろう。こんな簡単なことに気づかなかったなんて。彼女が何も言わないのは、私たちの関係が発展しうるものではないからだ。しかし、せめて私は彼女に答えてやりたかった。だが、言葉を持たない私たちは、行為でそれをしめすしかなかった。私たちは身体でもって対話した。最後に微笑んだ彼女は、今までで一番美しかった。


朝、娼館を立つ時、私は言った。

「また来るよ。君と対話・・するのは有意義だ。今なら君が最も美しく描けそうだ」

この先も私は、彼女以外を指名することはないだろう。彼女は、私にとって最も興味深い人間だ。

「次は、ぜひ正面から描かせてほしい。お願いするよ」

覗き込んでそう言うと、彼女は一瞬恥ずかしそうな顔をしたものの、すぐにいつもの調子で答えた。

「ええ。わかったわ」

私の声ならぬ声は彼女に届いていたらしい。そうと決まれば、絵を少しでも売らないと。絵の具も少しだけ買うかと気合いを入れ直す。


あの彼女の白い背中を完成させるために。

あれは、私にしか描けない彼女の本当の姿なのだから。


そんなに重い話ではないつもりですが、死生観、人生観タグをつけさせていただきました。価値観というのが一番正解かもしれませんね。


”私”は絵画至上主義でキリとは別の感性を持っている。そんな全く違う感性を持つものが歩み寄る。そんな話のつもりで書きました。

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