僕がもし、そこらの普通の人間だったら、巻き添えで死んでたはずだ
「誰ですか、それ?」
当然、呆れて言い返した。
「僕には神代零という、れっきとした名前がありますが」
「あ、ごめんなさい、神代君。つい、あだ名を思い出して」
髪から雨の雫を垂らしつつ、先生はどこか他人事のように低頭した。
そんなあだ名があったとは、初耳だ。
「あの――千景先のバス停まで行きたいのだけど、なぜか迷ってしまって」
「千景先? それなら、国道の先で、迷うような場所じゃない気がしますが」
僕が首を傾げると、不破先生は疲れたように微笑した。
「本当に……不思議ね」
「お嬢さん」
ふいにホームズ氏が、声をかけた。
「外の雨は激しくなったし、しばらく止みませんよ。ここで温かいコーヒーでもどうですか? 淹れるのは、この零君ですけどね」
閉店間際になに言い出しますか? と僕は思わないでもなかった。
しかし、先生が青白い顔で震えているのを見て、辛うじて文句を控えた。
「ともかく、濡れた身体を乾かしては? 義母の服がありますし――」
言いかけたところ、不破先生は激しく首を振り、後退った。
「いえ、急ぎますので……本当に、いきなり入ってきてごめんなさい!」
言うなり、ちらっと僕を見つめる。
「こんな時だけど、会えて良かったわ……影踏みさん」
「いや、だから僕は――」
人の話を聞かず、先生は身を翻して店を走り出ていった。
せめて傘くらいは借りていけばいいのに。カウンターの内側に置いてあった傘を持ち上げた姿勢で、僕は顔をしかめる。
すると、ポツンとホームズ氏が述べた。
「君の先生は、自殺する気だね」
ホームズ氏の唐突な指摘に慣れている僕は、驚きはしなかったものの……眉根を寄せたのは仕方ない。なにしろ、彼の指摘は当たるのだ。
あんまり自殺しそうな人じゃないと思ってたんだがな、あの先生。
「その推理の流れは?」
一応、尋ねてみた。
「小雨が降っていたのは、もうだいぶ前からだよ。なのに傘も持参していない。家は近所だと最初にほのめかしたんだから、忘れたにしても取りに戻るのは容易いだろうに、なぜかその気配もない。しかも、千景坂は海のそばで、ここから徒歩だとかなり歩くよ。それなのに、手ぶらでハンドバッグ一つ持ってない。大人の女性が手ぶらで深夜に海へいく? 妙じゃないか。さらに言えば、目が充血してて泣いたような跡があるし、思い詰めた表情でもあった」
「いつもながら、お見事です。他には?」
「パンプスが、左右違うものだ。同じ色だったけど、明らかに別物だね。細かいことには関心がなくなっているんだろう……繰り返すが、彼女は自殺するよ? 場所はおそらく、千景先のバス停近くの崖かな。海へダイブするのにちょうどいいし、実際に自殺が多いんだ」
なぜか僕に向かって、ホームズ氏が熱心に説明する。
しかも、じっと僕を見つめつつ。
『僕は、人間に無関心なモンスターなので』
とでも答えようかと思ったが、どうもそんな気になれなかった。
「……まあ一応、僕のクラスの担任ですしね。彼女がいなくなって、もっとひどい奴が後釜に座らないとも限りませんか」
「うん、そうだね。だから、助けに行くといい。若者が美姫を助けるのは、古来よりのセオリーだよ。零君なら、おそらく彼女の悩みも解消できそうだ」
先生の悩みについてもなにか推理があるらしいが、僕はもう訊き返さなかった。
ただし、「美姫を助けるのは、別にロマンスグレーの中年でもいいと思いますよ!」とだけ、言い返し、僕は無言で外に出た。
傘を差して走るのは馬鹿みたいなので、そのままびしょ濡れで走り出す。
不快な限りだが、こうなったからには、文句を言うためにもぜひあの人の自殺を止めないとな……本当に自殺だったらだが。
――いつものことだが、今回もホームズ氏は正しかった。
むしろ、全力で追いかけず、渋々海に向かった僕は、危うく遅すぎたほどだった。担任の不破先生……確か、歩夢とかいう名前だったと思うが、とにかく先生は既に死ぬ一歩手前だった。
つまり、ホームズ氏の読み通り、自殺のプチ名所である崖まで走り、本当にためらいなく飛び降りたのだ。少しはためらうだろうと思った僕の読みこそ、あっさり外れた。
「こんな時、なんて言うべきか」
続いて飛び込み、既に溺れた彼女を暗い海から引き上げた僕は、海水を吐き出しつつ、唸り声を上げた。
何が哀しくて、深夜の海で泳がねばならないのか。
僕がもし、そこらの普通の人間だったら、巻き添えで死んでたはずだ。
この辺の海は海流が強く、波も激しいから。
「コミックみたいに、『やれやれだぜ』とか? ああ、それより早く店仕舞いすべきだったな」
薄情なことを述べつつ、僕は急いでブラだけ残して上は全部剥ぎ取り、彼女の蘇生のため、心臓マッサージと人工呼吸に移る。
他にも助ける方法はあるが、さすがにこんなことで力を使うのもどうかと思ったのだ。
あと、ホームズ氏が指摘した彼女の悩みとやらは、僕にもわかる気がする。
出自が出自だけに、僕は鼻が利くし、有り得ないようなことも当てられる。たとえばそう、この先生がアダルトな外見の割に中身はそうでもないとか、それに一人暮らしだとか。
……そして、どうやら内蔵のどこかを病んでいる……もう手遅れなほどに。
おそらく癌かな? 臭いが独特なのでこれもわかるのだ。
「げほっ。げほげほっ」
……奥の手を使う必要はなかったようで、ようやく目覚めてくれた。