心外だな? 僕が人殺し経験ないと、本当に思うのかな?
唇を引き結んでナイフをぎゅっと握りしめ、ニーナは中華おばさんの方へ歩み寄る。
そこで僕は、わざとらしく「最後なんだし、おばさんも何か言うことがあれば、発言していいですよ」と許可してやった。
夫婦二人だとステレオになってうるさいので、おばさんだけ。
すると――許可した途端に、いきなりおばさんから涙声がほとばしり出た。
「待っておくれ! ほ、本当は、罵倒するまでもなく、うちにはお金なんかなかったんだ! 仮に貸す気があったとしても、店ですら赤字なのに、無理だったんだようっ」
「嘘よっ」
ニーナが低い声で言い返す。
「あの時、散々ママに悪口叩きつけたじゃないっ。子供まで連れて借りにくるなんて、恥さらしなっとか! 他にもずっと悪口ばっかりっ。あの晩、ママはずっと泣いてたんだからっ」
「……そ、それはっ」
旗色が悪くなったばかりか、当時を思いだしたのか、おばさんを見つめる夫の目が厳しくなった。
なにか文句が言いたいようだが、もちろん、口をパクパクさせるだけだ。周囲の野次馬も、おばさんをじっとり睨んでいる。
「あ、あたしはどうしても素直な物言いができないだけさねっ。正直に無いって言えばよかったんだけど、どうしても言えなかった! だいたい、本当にうちは困窮してるんだってば! まだ店のローンだって終わっちゃいないし……やめてええっ。助けてっ」
ニーナが無言でそばまで近付くと、とうとう言い訳の種が尽きたのか、おばさんは頭を抱えてしまった。
もっとも、僕の命令が生きているから、できるとすれば、そのくらいがせいぜいだろう。
薄毛の夫の方は、祈るように手を合わせてニーナを拝んでいる。
そっちを睨んで、ニーナが渋々宣言した。
「あなたは助けてあげる。厨房でむずかしい顔して腕組みしてただけだから。……本当は、それでも許せなかったんだけど」
「そ、それはずるいんじゃないかいっ」
おばさんの方が喚いたけど、ニーナは「うるさいっ」と喚き返した。
「ひっ」
慌ててまたおばさんが頭を抱える。
やはり、おばさんへの怒りは強いらしい。
「ほら! とりあえずは、一人助かっただろ?」
僕が小声でダニーと先生に言ったが、二人揃って非難の目で見てくれた。
……これだから、人間は。
ともあれ、ニーナは夫は許せても、まだまだ中華おばさんは許せないらしい。本命なので当然だが。
そのうち、「ママを殺したも同然だもんっ」とか自らを鼓舞するようにナイフを振り上げる。
そこで僕はようやく声をかけた。
「そうそう、言っておくことがあるのを忘れてたよ」
「今更、なによっ」
「君のために、ぜひ教えておいてあげる」
僕は罵倒を気にせず、言ってやった。
「まともな人間は、人を殺すと自分が死ぬまで、それが重荷になるよ。……以後、絶対に安眠できなくなる。夢にまで殺した相手の死に顔が浮かび、汗まみれで何度も飛び起きる経験が待っているのさ。もう心から笑うことも生涯ないだろうね。殺すのは結構だが、そのことを忘れないでおくことだ」
「こ、殺したこともないくせにっ」
大いにびびった顔つきながら、ニーナが辛うじて言い返した。
「……心外だな? 僕が人殺し経験ないと、本当に思うのかな? これでも結構、敵が多いんだけど」
断言口調で答え、ニーナを見つめ返す。
さすがに息を呑んでいたが……そのうち無言でおばさんに向き直った。
「ま、ママだってきっと」
「――望んでるもんか、自分の娘が人殺しすることなんか」
すかさず僕が後を引き取る。
「う、うるさいうるさいっ。ぜったいに仕返しするんだからっ」
頑固なニーナはぷるぷる震える手で辛うじてまたナイフを持ち上げた。
「後生だから、助けておくれっ。あたしが悪かったようっ。殺さないで殺さないで殺さないで殺さないでぇええっ」
気の強いおばさんも、最後は涙声で繰り返すだけになった。
ニーナはもう答えず、何度もナイフを持ち替えて身構えたが、実際には振り下ろさない。先生が小声で「止めましょうよっ」と意見したが、僕は無言を通した。
緊迫した時間が過ぎ、ニーナの肩が派手に震え出す。
おばさんはもう涙声で祈ることしかしてないが、まるでその声に背中を押されたかのように、ニーナの腕が下がり……やがてナイフが手から滑り落ちた。
この瞬間、明らかに周囲から安堵のため息が洩れた。
そこで僕はようやく大股で近付き、ナイフを拾い上げてポケットにしまった。
いざという時はダッシュで奪うつもりだったが……まあ、本人の決断に任せて正解だったようだ。
「殺人仲間にはなり損なったけど、それでよかったと思うよ」
静かに言い聞かせ、僕がニーナの肩に手を置くと、途端に彼女は堰を切ったように泣き出した。
……まだ、後始末が控えているっていうのにな。
それでもため息を堪え、僕は泣き止むまでニーナを抱き締めていた……ヴァンパイアだろうと、たまには相手を気遣うこともある。