6. 幻影舞曲
「来たか」
リィーナの肉体からようやく身を離し、ヴァンパイア・ウルフは閉ざされた教会の扉に眼を向けた。
途端に外側から扉が打ち破られ、一体の 人狼 が床の上に転がり込む。微動だにしない様子から、すでに絶命しているのは明らかであった。
そこから黒衣の吟遊詩人が現れた。ここへ辿り着くまでの間にいくつもの死闘を演じて来たとは思えない。しかし、身にまとう鬼気は疑念を払拭させるのに充分なものだった。
教会には復活したヴァンパイア・ウルフと生け贄に選ばれたリィーナ、それにジェシカと宿屋の主人エドがいた。他の者は残らず討って出たわけだが、誰一人として戻らず、今は 表通り で死屍と化している。
祭壇の上でヴァンパイア・ウルフは笑った。
「早かったな。もう少し刻を稼げるかと思ったが」
「夜まで、ということか」
「そうだ。──貴様、遙かな昔に我らの主人だった、あの偉大なる闇の貴族より強いかも知れぬな」
「………」
「やれやれ、大変なヤツに目をつけられたものだ。しかも、こんな辺境で。だが、もう少しばかり刻を稼がせてもらうぞ」
主人の意に従ってか、ジェシカとエドがウィルの前に立ち塞がった。身の毛もよだつような咆吼を発して、二人は変身を始める。人狼 へと。
「分かっているとは思うが、今まで片づけた雑魚と一緒にしない方がいい。此奴らは特別製だ。もっとも、あの 司教 もそのつもりだったのだが、簡単に斃されてしまったところを見ると、どうやら失敗作だったようだな。見せてもらうぞ、貴様の力とやらを」
それが引き金となり、二体の 人狼 はウィルへ跳んだ。ジェシカは白、エドは赤い毛並みをしている。通常は茶褐色か灰褐色だから、ヴァンパイア・ウルフが殊更に強調した「特別製」というのも、満更、嘘ではなさそうだ。
白い 人狼 がウィルの背後、赤い 人狼 が正面に回り、挟撃した。
背後でバリバリと肉が裂けるような音がするや、ウィルは跳躍した。巨大な蜘蛛の脚のようなものが、その残像を捉える。それは胸を突き破るようにして強固に伸びた、白い 人狼 の肋骨による仕業だった。
頭上のウィルに、今度は赤毛が仕掛けた。竜 に勝るとも劣らない強力な炎 が口から吐かれ、黒い影を押し包む。それをウィルはマントで跳ね除けた。
着地と同時に、ウィルは呪文を唱えた。
「ディノン!」
ウィルの右手から光弾が放たれた。ゴブリンを一撃で斃した 魔導光弾 だ。赤毛に三発ヒットする。魔導光弾 の直撃を受けた赤毛の 人狼 は、教会の長椅子を破壊しながら豪快に吹き飛んだ。
すると、いつの間にかもう一体の白毛の姿が消えていた。
そこへ──
美しき吟遊詩人の足下から白い牙が襲う。肋骨の牙が。逃げる隙もない。ウィルは捕獲された。
「捕まったか。あいつの 保護色 を見抜けぬとは」
そう。この白毛の 人狼 は、まるでカメレオンのように自らの姿を周囲に溶け込ませることが可能であった。そして目標にひっそりと近づき、第二の牙たる肋骨を武器にして、息の根を止めるのだ。
ガッチリと肋骨の牙に取り込まれたウィルは身動ぎひとつ出来なかった。にも拘わらず、その彼の表情に一片の曇りなし。焦りも、悔しさも、何ひとつ浮かんではいなかった。
「拍子抜けだな。もう少しやるかと思ったのだが」
ヴァンパイア・ウルフはあっさりと捕縛されたウィルを嘲笑した。すると無表情だったウィルの顔にも変化が。それを目にしたヴァンパイア・ウルフは眉間にシワを寄せた。
「何がおかしい?」
そう、ウィルは微笑を浮かべていた。この絶体絶命としか思えぬ状況で。
魔導光弾 を喰らった赤毛の 人狼 がゆっくりと身を起こす。その眼は魔法を行使した者へ対する憎悪に燃えていた。
ウィルは白毛の 人狼 に捕縛されたまま。
美しき吟遊詩人の白い喉笛が赤毛の眼にどう映ったか。
赤毛の鋭い爪が長く伸びた。右腕が振り上げられる。その喉元を狙って。
その刹那、旋律が流れた――
いや、それはいつから聴こえていただろう。
気づいたとき、それはすでに流れていた。竪琴の甘やかな調べ――それが吟遊詩人ウィルの持つ《銀の竪琴》からのものであったと誰が気づいたか。
そんなはずはなかった。白毛の 人狼 に捕まり、身動きすらままならぬウィルに演奏など出来るわけが――
確かめようとヴァンパイア・ウルフが眼を向けたとき、肋骨の牙からウィルの姿は忽然と消えていた。
「バカな――!?」
人狼 たちがウィルの姿を探し求めると、黒い影は光と共に、教会の入口から射し込んでいた。まるで初めからそこにいたかのように。
「どうだ、オレの詩は? “幻影” という」
手に《銀の竪琴》を奏でながら、ウィルは静かに言った。
すべては幻影、すべては虚像――
教会に足を踏み入れたときから、戦っていたウィルはウィルにあらず。本物は教会の入口で、ただ曲を奏でていたのだ。
ヴァンパイア・ウルフは自分たちが謀られたことに歯軋りした。
「確か魔法に似た効果を生む不思議な演奏曲があると聞いたような覚えが……なるほど。それが、これか。初めて聴かせてもらったぞ」
「魔奏曲 だ。気に入ってもらえたか?」
「面白い。このヴァンパイア・ウルフに幻覚を見せるとは。──だが、それはもう二度と通用せんぞ」
また白毛の 人狼 が姿を消していた。周囲の色に溶け込んだのだ。少しの気配も感じさせず、そっと忍び寄る。
「お前たちも芸がない。すでに、そちらの手の内は見せてもらった」
ウィルは呟きを洩らした。
《銀の竪琴》の代わりに《光の短剣》が抜かれるや否や――
鮮血が床にしたたり落ちた。
そこに立ち尽くしていたのは、腸を裂かれた白毛の 人狼 だ。
ウィルは気配だけで敵の接近を察知し、必殺の一撃を放ったというのか。
オォォォォォン……ッ!
断末魔の叫びを最後に白毛は倒れかけた。
その刹那、ウィルがひらりと宙を跳んだ。次の瞬間、強烈な 炎 が白毛の死屍を焼き尽くす。言うまでもなく赤毛の仕業だった。ウィルが白毛を仕留めた一瞬の隙を衝いて、仲間諸共に始末しようとしたのだった。
しかし、その程度のこと、ウィルには予測の範疇に過ぎなかった。不意討ちに失敗した赤毛の 人狼 と間合いを取ると、油断なく《光の短剣》を構える。
黒衣の吟遊詩人と炎の化身と化した 人狼。
「来い」
とは、ウィル。迷いなく赤毛が応じた。
赤毛はその巨大な体躯を柔軟に丸め、自らを肉弾と化した。──いや、それだけではない。赤い体毛は真の炎に包まれ、巨大な火球へと変じたのである。
ウィルへの突進。それを美しき吟遊詩人は身を投げ出すようにして躱す。危うくマントに火が燃え移りそうだった。
火球はそのまま教会の壁をも突き破り、いずこかへ消えてしまう。
遠くで地響きのようなものが聞こえた。教会の外で勢いを持て余した火球が跳ね回っているのだろう。
だが、ウィルは動かない。ただ待ち構える。
それを見ながら、ヴァンパイア・ウルフは祭壇上で笑っていた。
突如――
天井を突き破り、その真下に立ちつくすウィルへ生きた火球が襲いかかった。
一瞬遅れて、ウィルが振り仰ぐ。
今なら躱すことは可能だ。が、いずれへ跳ぼうとも、火球は床で方向を変えてバウンドし、空中でウィルを直撃するだろう。
それが分かっていても動かないわけにはいかない。回避しなければ、まともに押し潰されるだけだ。やむなくウィルは跳躍した。
予想通り。赤毛の策は見事に決まるかに思われた。
「マドア!」
次の刹那、ヴァンパイア・ウルフの眼が驚きに見開かれた。
さっきまでウィルが立っていた床の上に、黒い染みのようなものが唐突に出現した。染みと思われるものは見る間に広がり、底知れぬ深淵の穴となる。
為す術なく火球は落ちた。その穴へ。存在しないはずの、床のさらなる下へ――
穴は赤毛の 人狼 を呑み込むと、まるで何事もなかったかのように閉じられた。あとには元通りの硬い石床だけが残る。赤毛の姿は何処かへ消えてしまった。
すべてを見届けたヴァンパイア・ウルフは茫然として、演奏でも終えたかのようなウィルに脅威を抱いた。
「い、今のは確かに 黒魔術……遥かな昔、我が創造主たちが得意とし、世界を統べていた魔法……きっ、貴様……白魔術 や 聖魔術 ばかりでなく、黒魔術 まで使えるというのか……? そ、それに、あの軽やかな身のこなし……貴様はいったい何者だ?」
明らかに逆転現象が起きていた。不死身を誇る怪物が一人の美影身から目を離せない。
ウィルは静かに答えた。
「ただの吟遊詩人だ」
それは何度問われようと、きっと変わらぬものであったに違いない。
「そ、そんな……そんなはずは……異空間の入口を作れる 黒魔術師 など、そうそういるわけが……」
「オレが作ることの出来るのは入口だけだ。残念ながら出口までは作れん」
別に冗談のつもりで言っているわけではないらしい。ヴァンパイア・ウルフとしても、これ以上、追及したところで無駄だとと悟ったのだろう。のっそりと祭壇から降り立った。
「……まあ、いい。フッフッフッ、刻は稼いだ」




