5. 呪われし聖職者
モンタルンの村の入口まで来たところで、ウィルはようやく速度を緩めた。尋常ならざる疾走であったにも関わらず、この男に息の乱れは見られない。彼にとっては歩くのと大差ないことだったのだろうか。
その到着をまるで予期していたかのように、ウィルの前方から近づこうとする五つの影――彼らは、このモンタルンで暮らす村人だった。それは自分たちの村への再訪を歓迎する雰囲気ではなかったが、一見したところ、武器のようなものは手にしていない。
「止まれ! 異邦人よ!」
立ち止まった真ん中の男が警告を発した。だが、ウィルは足を止めない。そのまま歩調を緩めずに村へ足を踏み入れる。
「聞こえぬか! ここはお前のような者が来るところではない! 立ち去れ!」
それでもウィルは従わなかった。無言の圧を感じ、村人たちは気色ばむ。
「それ以上、近づくならば、死ぬことになるぞ! 良いか?」
「好きにしろ」
初めて言葉が返って来た。
すると――
「ウッ、ウウウウウゥゥゥッ……!」
異邦の吟遊詩人を敵と断じた五人の村人は、その人の形をした皮を脱いだ。
現れたるは、おぞましき異形の姿――全身が針金のような剛毛によって覆われ、鋭い犬歯が牙となって口許から覗く。
村人たちの正体は 人狼 だった。
五人──いや、五体の 人狼 は美しき吟遊詩人に向かって牙を剥いた。腕は今や前肢となり、地面を四肢で蹴りながら、真っ向から突撃して来る。
対してウィルの涼しげな──それでいて凄絶なものを感じさせる美貌は揺るぎもしない。彼も人の形を成していながら、人ならざる者なのかも知れなかった。
ウィルは腰のベルトから吊るしていた護身用と思しき 短剣 に手をかけると、静かに鞘から抜き放った。
その瞬間――
「ガッ――!?」
目の潰れそうな強い光が視界を満たし、世界は眩しさに、一瞬、支配された。それがウィルの 短剣 から放たれたものだと相対す 人狼 たちが気づいたものかどうか。彼らは目を開けていられず、敵の姿を見失った。
光が収まったのはウィルの 短剣 が鞘の中に収められたあとだった。行く手を塞がれた事実などなかったかのように黒衣の吟遊詩人は歩み行く。その場に首のない 人狼 たちの死体だけを残して。
この僅かな間の出来事がウィルの仕業であったのは言うまでもない。が、それがどのようにして起こったのか、一部始終を把握できた者は誰もいなかった。剣を振るった、ただ一人を除いては。
前もって配置させておいた刺客が易々と斃されたことを、ここより離れた教会で知ったヴァンパイア・ウルフは、ならば、と次々に刺客の 人狼 を差し向けた。
教会が建つのはモンタルンの 表通り を真っ直ぐに進んだ突き当たりだ。人外の怪物さえ障害にならず、ウィルは堂々と、その道を選んだ。
そこへ今度は二十に近い人狼が、たった一人の吟遊詩人へと襲いかかる。ウィルが教会へ近づくのを断固として阻止するつもりらしい。
「バリウス!」
ウィルは 人狼 たちに向かって進みながら呪文を詠唱した。しかし、今度の魔法は 白魔術師 が使う 白魔術 ではない。それは──
数に物を言わせた 人狼 たちが一斉に群がった。吟遊詩人のウィルも、今回こそは万事休すか。
否。
次の刹那、辺りの空気が赤く煙った。血風だ。
ウィルが唱えた呪文──それこそが 聖職者 たち神の使徒が扱う数少ない攻撃呪文のひとつであった。己の周囲に真空状態を作り出し、近づく敵をかまいたちのような見えない刃で切り刻む。その効果範囲は術者の制御によって拡大させることも可能だ。
発動した魔法の効果によって犠牲者たる 人狼 の血潮は巻き上げられ、文字通り手を触れることもなく、次々と細切れにされてゆく。あっと思う間もなく、半数もの敵が葬られてしまった。
そんな惨状を目の当たりにした生き残りの 人狼 たちは、迂闊には魔法の発動範囲へ飛び込めなくなった。
ウィルはそんな雑魚には目もくれず、依然として教会へ近づいてゆく。
人狼 たちは打つ手を失い、標的を前にしながら遠巻きにするしかなかった。
そのウィルの足が止まったのは、表通り も半ばに差しかかったところだ。
新たに現れた人物が一人――
「いやはや、お見事です。白魔術 を使えるだけでも驚きなのに、今度はバリウスの呪文ですか。吟遊詩人であるはずのあなたが、何処でそれほどの力を?」
白い法衣を着た老人がウィルの前に立ち塞がった。前任者が亡くなったあと、この村へ駐在することになった現 司教 である。
答えの代わりに、ウィルの右手が無言で振り上げられようとした。
「モーツ!」
それよりも素早く呪文を唱え、司教 はニヤリとした。ウィルが先に唱えようとしていた呪文が掻き消される。これも 聖職者 の魔法のひとつだ。呪文の詠唱を阻止され、ウィルは黙ったまま動かなかった。
「魔術師同士の戦いというものは、このモーツの呪文を扱える者が有利。ご存じでしょう?」
魔法には大きく分けて三つある。
ひとつは、聖職者 が神への信仰によって奇跡を起こす 聖魔術。
二つ目には、四大精霊(地・水・火・風)などを使役することによって、その力を操ることが出来る 白魔術。
そして三つ目には、その正体は誰も知らぬ魔界の支配者《悪魔王》との盟約を結ぶことにより、対価となる代償を払えば強大な力を得られる 黒魔術。
このうち、聖魔術 と 白魔術 の両方を使える者は修行を重ねた教会の 司教 などに多く見られ、人々から敬われている。無論、それ相応の素養がなければ、どんなに努力しても両魔法を体得することは出来ない。
司教 は尚も講釈を垂れた。
「魔法が使えぬとなれば肉弾戦しかあるまい。──おっと若者よ、目の前にいるのが年寄りだからと甘く見るでないぞ。これでも昔のことながら、修行僧 時代は腕っ節に物を言わせておったものよ。それに、何年かぶりに力がみなぎって来よる。実にいい気分だ」
「神の御遣いであるはずの 司教 が……噛まれたか」
骨張った拳を見せる 司教 にウィルは冷然と指摘した。司教 の薄い唇が笑いの形に歪む。
「今の私に創造母神アイリスなど無用! ゆくぞっ!」
とても高齢とは思えぬスピードで、司教 は一気に間合いを詰めた。眼前にウィル。所詮は戦いに不慣れと目される吟遊詩人、近接攻撃に反応しきれなかったか、避けようという素振りは皆無と言っていいほど見られなかった。
「どうした、捉えたぞ!」
素手で大理石の柱をも砕く鉄槌が下された。武器を振るったときのような拳圧が空気を唸らせる。
「──!?」
次の刹那、司教 の目が驚愕に見開かれた。あろうことか空振りだったのだ。
「おい、何処を狙っている?」
背後から聞こえた心臓さえ凍りつきそうな声。
司教 は驚愕の表情で素早く振り返った。いつの間にか、そこにウィルが平然と立っている。
「ば、馬鹿な……」
反撃を予想した 司教 は慌てて後退った。顔には明らかな動揺が見られる。自分は人間を超越した力とスピードを得たはず。なのに片手だけで簡単に首をへし折れそうな相手に躱されてしまうとは。
そう戦慄する 司教 に対し、ウィルは再び悠然と短剣を抜いた。ところが先程とは違って、その刀身から強烈な光は発せられていない。消えかかった弱々しい焚火の炎を思わせるくらい、微かにボーッと光っている程度だ。
とはいえ、一撃で仲間の首を切り落とした短剣の鋭さを目の当たりにし、ずっと遠巻きにしていた 人狼 たちから恐怖は拭い去れない。
「ええい! お前たち、何をしておる!? ヤツを押さ込まんか!」
司教 の命令には逆らえないのか、人狼 はやむを得ず襲いかかった。
それよりも一瞬早く、黒い翼が宙を飛ぶ。無論、司教 がその瞬間を見逃すはずがない。
「かかったな! エスラーダ・グレイス!」
白魔術 最強の凍結魔法が黒い翼へと迸った。絶対零度に達する凍気の奔流は何ものをも氷漬けにしてしまう。頭上に拡げられた黒い翼とて例外ではなかった。
「仕留めたぞ!」
確かな手応えを得て、司教 は高らかに勝利宣言した。
ところが、人狼 たちは騒がしく何かを叫んでいる。
何事か、と訝しむ間もなく、正面より迫り来る黒い疾風――
それこそが本物のウィルだと判明した刹那、司教 は己の過ちを悟った。
では、宙を舞った黒い翼は何だったのか。
凍りついた翼が地面に落ちた。それはこの男が身に着けていたはずの黒いマント――ウィルは自ら跳躍したのではなく、それを頭上へ放り投げたに過ぎなかったのだ。
一陣の風は光を呼び、そして厳かに死を運ぶ。
胸から染み広がる赤いものを、司教 は信じられぬといった面持ちで目を見開きながらも、なぜか不思議な安らぎに包まれつつ眺めた。
──ああ、これが死か。
膝から崩れ落ちる感覚と視界が暗転する様。
自身に注がれた美しき吟遊詩人の冷たい眼差しが、この世で最後に見たものだった。
完全に相手の実力を見誤った 司教 は呆気なく斃れた。ヴァンパイア・ウルフによってかけられた呪縛を、その死によって解きながら。
地面に落ちた凍ったマントを拾い上げ、たったのひと振りで元に戻すと、ウィルは何事もなかったかのように颯爽と身につけた。
「まだ来るか」
未だ取り囲んだまま攻撃の隙を窺う 人狼 たちへ、ウィルは憂うように冷徹なる一瞥を与えた。




