4. 捧げられた生け贄
その洞窟からは血臭が漂って来た。それも相当な濃密さを感じる。中の凄惨な状況が容易に想像できるくらいに。
ゴブリンの棲処を探し当てたウィルは、自らの黒い姿を洞窟の闇に溶け込ませると周囲を見回した。
いた。ゴブリンたちが。――累々と転がる死屍となって。
地面には大きな血溜まりが出来ていた。
地獄絵図のような光景を目の当たりにしても、ウィルは眉ひとつ動かさず、まるで哲学者のような面持ちで洞窟の中を探索した。しかし、一番奥まで行っても、ゴブリンたちが引き摺って来たはずのヴァンパイア・ウルフの死骸は発見できない。
次にウィルはゴブリンの死体を調べた。
どれも喉笛を一撃で噛みちぎられていたり、脳天をかち割られたりしている。武器を手に取ることはおろか、逃げる間もなかったようだ。死後およそ半日──つまり、昨夜のうちに殺られたことになる。
最早、ヴァンパイア・ウルフの復活は疑いようもなかった。
ウィルは洞窟を出ると厳かに火炎魔法を唱え、皆殺しにされたゴブリンたちを火葬してやった。森に延焼しないよう結界も張っておく。
そしてモンタルンの村に迫った災厄に対応すべく次なる行動に移った。
村の静けさは異様だった。
人間の気配は途絶え、家畜たちの姿もない。
安全であるはずの村で、森から戻って来たリィーナはとても不安になった。
「きゃっ!」
それに追い討ちでもかけるかのように、教会の鐘がいきなり鳴り、リィーナは身を引きつらせた。いつもはさして気にならない教会の鐘なのに、なぜか今は聴く者を威圧するような波動がある。何がこうも変えたのだろうか。
もうひとつ気づいたことがある。それは──
「リィーナ」
すぐ後ろで声がして、リィーナは慌てて振り返った。自分でも尋常ではないくらい素早い反応だったと思う。
いつの間に近づいたのか、そこには見慣れた人物が立っていた。
「どうしたんだい、そんな怖い顔をして」
「お婆ちゃん!」
声の主はジェシカだった。リィーナは親代わりとして育ててくれた老婆にホッと胸を撫で下ろす。
「もお、脅かさないでよ」
娘というよりも孫と呼ぶべきリィーナに向かって、ジェシカは普段にないくらいニコニコしていた。
「今まで何処にいたんだね?」
「ウィルと一緒に “狼の塚” まで行って来たの」
「“狼の塚” だって?」
「ええ……そりゃ、行っちゃいけないって知ってはいたけど。──あっ、それより大変なのよ、お婆ちゃん! ヴァンパイア・ウルフが甦ったみたいの!」
「そのことかい。もう知っておるよ」
ジェシカは驚きも慌てもせずに言った。まるで雨が降ってきたくらいの感覚で。リィーナは怪訝な表情になる。
「知っているって……」
「みんな、教会に集まっておる。あそこならば安全じゃ。リィーナ、お前も来なさい」
「でも、ウィルが……」
「あの男のことはいいから。さあ」
ジェシカは有無を言わせず、リィーナの手を引いた。骨張った指に、老婆のものとは思えない力の強さが感じられる。
「痛い!」
リィーナは痛みを訴えたが、ジェシカは力を緩めようとしなかった。半ば強引に腕を引っ張られ、リィーナは教会の前まで連れて来られる。
神聖な場であるはずの教会からは、いつもの清らかさを微塵も感じられない。むしろ、あるのは邪悪な気配――
ここにいてはいけない、とリィーナの直感が警告する。
そこで初めてリィーナは抵抗した。
「イヤッ! 離して!」
ところが、ジェシカは家族であるはずの少女の訴えを無視した。
「どうしたと言うんだい? 教会の中ならば安全だよ」
「違うわ! 言葉で説明するのは難しいけど……その教会は違う!」
「ホホホッ、聞き分けのない娘だねえ。さあ、来るんだ!」
「イヤッ!」
リィーナは思い切り手を振り払った。すると何かがズルッと抜けるような感覚。見れば、リィーナの手首から何かが垂れ下がっている。それは土気色をした人間の皮膚──ジェシカの右手の皮膚だった。
「キャアアアッ!」
それを見たリィーナは恐怖に目を見開き、悲鳴を上げて失神した。倒れかかるところをジェシカが素早く支える。それはもう明らかに身体の動きがままならない老婆のものではなかった。
「バカな娘だよ。黙ってついてくれば良かったものを」
ジェシカは気を失ったリィーナの顔を覗き込んだ。そして、左手で皮膚のなくなった右手に振れる。
「さて、この娘を祭壇へ捧げるとしようかね」
皮膚の代わりに、狼の剛毛に覆われた腕を擦りながら。
ウィルは疾風の如く駆けていた。
黒いマントは翼のように翻り、頭の 旅帽子 が風を切る。目撃する者がいれば、人知を越えた脚力だと目を見張ったに違いない。
木々の合間から遠くモンタルンの村が見えたとき、ウィルの頭上から三匹の狼が飛びかかって来た。森から戻って来るならこの道だろう、と前もって待ち伏せていたか、方向、スピードとも逃れようのない見事なタイミングによる攻撃――間近に三つの咆吼が迫った。
「ガァァァァァッ!」
その刹那──
ウィルは疾駆から跳躍へと移った。翔んだのである。空を。
「ベルクカザーン!」
易々と標的に逃げられ、空中で交錯した狼たちに、頭上から目も眩むような青白い電撃が叩きつけられた。白魔術 のひとつ――閃光雷撃 だ。
電光石火が炸裂し、一瞬にして三匹の狼たちは黒焦げになった。
着地するや否や、攻撃魔法の餌食となった狼に目もくれず、ウィルは再び村へと走り出す。
そのモンタルンからは教会の不気味な鐘の音が怨念めいて聞こえていた。
いつ果てるともなく打ち鳴らされる鐘の音が村唯一の教会を揺さぶっていた。
その教会に集まった人々は禍々しい詠唱を唱えながら、大勢で生け贄を掲げて、ゆっくりと祭壇へ運ぶ。生け贄に抵抗の意思は見られない。魔力で身体の自由を奪われているのだ。
生け贄に選ばれたのはリィーナだった。
身体の自由は奪われていても、なぜか意識はハッキリとしていた。
──みんな、ヴァンパイア・ウルフに噛まれてしまったのね。
吸血鬼 に噛まれた人間が 劣等吸血鬼 や 隷属吸血鬼 になるように、ヴァンパイア・ウルフによって噛まれた人間は狼男──すなわち、人狼 になる。
そもそも闇の貴族と呼ばれた 吸血鬼 は、先史魔法王国期に 黒魔術 を使った魔法実験を行い、数多くの邪悪な怪物たちを作り出した。ヴァンパイア・ウルフもそのような実験成果のひとつなのである。
狼の中で最も凶暴凶悪なキラー・ウルフに自らの血を混入させることによって、人語を解し、魔法をも操ることの出来る魔獣――ヴァンパイア・ウルフが造られ、彼ら 吸血鬼 たちの愛玩動物となったのだ。
だが、そんな闇の貴族たちも先史魔法王国期の文明が失われて久しく、今や滅びの道を辿ろうとしている。創造主を失ったヴァンパイア・ウルフは辺境の荒野に生きる術を見つけ、それぞれ散って行ってしまった。彼らもまた、哀しき宿命を負わされた怪物なのかも知れない。
けれども、それより今はリィーナの方が憂うべき状況だった。
──ダメ、身体が全然、動かないわ。
腕はおろか、指一本すら自由にならなかった。術によって、まるで全身が彫像と化してしまったかのようだ。
目は見開かれたまま閉じることも叶わず、教会の高い天井ばかりが視界を一杯に埋める。
リィーナの身体は、とうとう石の祭壇の上に横たえられた。
──私をどうする気!?
叫びは声にならなかった。
リィーナの視界に教会の 司教 と数人の 僧侶、それに村長を始め、ジェシカら村の実力者たちが囲むようにして現れた。宿屋の主人であるエドもいる。皆、何かに祈りを捧げていたが、その対象が信仰する創造母神アイリスでないことは確かだった。
「我らが神よ!」
司教 が叫んだ。
「今ここに汚れなき乙女の肉体を捧ぐ。その加護を我らに与えたまえ!」
「与えたまえ!」
村人たちが復唱すると、またしても教会が揺らいだ。本来、神聖な場所であるはずの教会が、何処からともなく発せられている邪悪な波動に耐えられなくなって来ているのだ。壁の漆喰がパラパラと剥がれ落ちる。祀られた創造母神アイリスの像に不吉な亀裂が下から上へ走った。
「さあ、エド殿」
「そなたの望んでいたことをするがいい」
皆より一歩、エドが進み出た。顔は無表情だが、目は欲情の炎に燃えている。リィーナはそのおぞましさに怯えた。
不意にエドの手がリィーナの襟元に伸びた。彼女のお気に入りだった麻のドレスを掴む。そのまま腕に力が込められ、ドレスは無残にも引き裂かれた。
──やめて!
布を裂く音は、まるでリィーナの悲鳴のように聞こえた。
エドはまだ十四歳の少女に対して容赦がなかった。熱に浮かされたように一糸まとわぬ裸にしてゆく。それは夢魔の如き出来事だった。
叫ぼうにも声が出ない。
胸を覆い隠そうにも腕が動かない。
目を瞑ろうにも、それさえ叶わない。
ただ、涙だけが零れた。
この世に神様はいないのか、と思った。
下着まで剥ぎ取られ、とうとうリィーナは全裸にされてしまった。
すると再び詠唱が行われ、教会がビリビリと震え始める。
凌辱までされるのだはないかとリィーナは身の危険を覚えていたが、予想に反してエドは大人しく引き下がった。それだけがせめてもの救いか。
「いい肉体だ」
「いい生け贄だ」
誰もがリィーナのことを褒め称え、無表情だった顔に初めて薄ら笑いを浮かべた。皆からの視線が集まることにリィーナは怖気立つ。
「さあ、神よ!」
「ここに汚れなき生け贄を捧げる!」
とうとう教会が音を立てて崩れ始めた。地響きも聞こえる。邪悪なるものを退ける結界など役には立たなかった。
ガルルルルッ!
横たわったリィーナの脚の方から、低い唸り声が聞こえた。
──お、狼っ!?
リィーナは心の中で悲鳴を上げた。自分は生け贄として喰われてしまうのか。意識を失うことも許されず、じっくりと時間をかけて貪られるのか。気が狂わずに、どれだけの間、耐えることが出来るだろう。
祭壇の上に這い上がる気配がした。頭はおろか眼球すら動かせず、足下にいる野獣の姿を見ることは出来ない。ただ、荒々しい獣の息遣いだけが感じられる。しばらく、そのまま動く様子がなかった。
──私を、私の身体を見ているんだわ。
そう思っただけでおぞましい。
どれだけの時間、見つめられていただろう。やがて空気が動いた。
──違う!
その姿を見たとき、リィーナは息を呑むほど戦慄した。通常の狼よりもふた回り以上は大きく、恐怖を禁じ得ない圧倒的な威圧感を持った怪物。その赤く禍々しい光を帯びた眼がリィーナに確信させる。
──ヴァンパイア・ウルフ!
悪魔の産物は捧げ物となった少女の上にのしかかってきた。生臭い息が間近からリィーナの顔にかかる。
「十何年ぶりかの人間の女か。どれ、じっくり味わってくれようぞ」
姿形は狼ながら、聞こえて来たのは明瞭な人語であった。やはり化け物だ。地獄の入口を連想させるヴァンパイア・ウルフの真っ赤な口がグアッと開き、鋭く並んだ牙が迫る。
──助けて、ウィル!
リィーナは絶望を覚えながらも心の中で精一杯の助けを求めた。




