2. 凶 兆
ネフロン大陸の西方には、ひしめき合うように五大王国と呼ばれる列強が名を連ねている。ダラス二世が統治する《石の国》――ブリトン王国はそのひとつだ。
そのような大国に属していても、辺境として典型的な規模の村落であるモンタルンでは、村人は農耕と狩りとで慎ましく生計を立てるしかなかった。人口およそ二百。戦争も 竜 の襲撃も心配せずに済むこの村では、ほとんどの者が一度も外の世界を見ることなく生涯を終える。事件は冠婚葬祭の範囲内。生活そのものは厳しかったが、まったく平和そのものの村だった。
そんなモンタルンの村で、一大事件が持ち上がった。美麗の吟遊詩人の来訪である。
ウィルが村へ足を踏み入れると、感嘆の吐息を禁じ得ない容姿を目の当たりにした村人たちは、一様にその虜となってしまう。言うまでもなく、その大半は村の女たちであった。
或る者は恍惚とした表情を浮かべ、或る者は失神し、或る者は美青年のことを見た、見ない、という些細なことで諍いを起こす。美しき吟遊詩人が一歩を踏み出すたびに、騒ぎはたちまちのうちに広まった。
そんなウィルの後ろからノコノコと付いて行くのは、彼に危ないところを救われた村娘のリィーナだ。少女はウィルに助けられたことをかなり誇らしげに思っていた。通り道を作るかのように、両側に並んでこちらを見ている村の女たちへ得意げな顔をする。ここへ案内したのは自分だと。
しかし、そんなリィーナのことなど誰も気にも留めなかった。なぜなら、あくまでも彼女たちの関心の的はウィルだけなのだから。その後ろを付いて歩く十五歳の少女のことなど眼中にない。
ウィルはとある一軒の前で立ち止まった。ここモンタルンの村にひとつしかない宿屋だ。外観を少し眺めてから、決めたようだった。
「ここに泊まるの?」
リィーナは訊いてみた。その答えをウィルは行動で示す。中へと入って行く吟遊詩人に、彼女も続いた。
村唯一の宿屋は、実にささやかなものであった。
モンタルンと隣のテコムを行き来する行商人は定期的だが、その数は少なく、ウィルのような旅人がこのモンタルンを通ることも稀である――そもそも、ここはテコムへの道しかなく、この先に行けるようなところはない――ため、さして大きな宿でなくても差し支えはない。泊まり客がいないときは、一階で雑貨屋を営んでいる。どちらかというと、宿屋の方が副業と言っていいかも知れない。
どれくらいぶりの宿泊客か、ハッキリと思い出せないくらい久々に主人自らがウィルを出迎えた。
「ようこそ、ここモンタルンへお越しくださいました。私はこの宿屋の主で、エドと申します。お泊まりでございましょうか?」
ウィルは 旅帽子 を脱いだ。
その下から美女かと見紛うばかりの美貌が現れたので、宿屋のエドは息をするのを忘れて見惚れてしまい、危うく呼吸困難に陥りかけた。
自分もウィルに対して同じような反応だったくせに、その様子をこっそり窺っていたリィーナは、プッと吹き出す。同時に、女性は無論のこと、同性の男でさえもこの異邦人には骨抜きどころか魂まで抜き取られてしまうのだな、と感嘆した。
「三日ほど休みたい。部屋は空いているか?」
「そ、そりゃあ、もう」
エドはすぐに客人の前であったことを思い出すと、ようよう言って、誤魔化すように手揉みをした。もし、このとき、「無料でいいか?」と問われていたら、深く意味を考えぬまま、それを二つ返事で承諾してしまったかも知れない。
幸い、ウィルはその場で三日分の宿賃を銀貨で前払いした。エドは喜色満面で、それを懐に入れる。
「ありがとうございます。にしても、どうしてモンタルンへ? この村の者がこう言ってはなんですが、何もないところですよ」
「オレは吟遊詩人だ。歌と演奏を聴かせながら、諸国を旅している。見聞もオレの仕事だ」
「へえ、吟遊詩人ですか。ここ何年も、祭のときでさえ、お目にかかったことはありませんが。歌うなら、こんな湿気た村より、もっと賑やかなところの方が稼げるでしょうに。まあ、そのお美しい顔立ちなら、聴衆が集まるのは間違いないでしょうけれどね。この私でも変な気を起こしそうになりますわ」
エドが思わず調子に乗って余計なことを言い、下卑た笑いを洩らす。
「この下衆親父!」
宿屋の主人にしては失礼な態度がリィーナの癇に障った。堪らずウィルの後ろから飛び出すと、エドの足を思い切り踏みつける。
「ぎゃあああああっ! な、何をしやがる!? ――あっ、お前はリィーナ!」
片足でピョンピョン跳ねながら、エドは自分の足を踏んだ犯人をねめつけた。だが、怒りの度合いならリィーナも負けていない。
「このひとをそんな汚らわしい目で見ないで! また、そんなイヤらしい目でウィルを見たら、私が許さないんだからぁ!」
「何だと!? 小便臭い小娘が、一丁前に色気づきやがったか!? 何処で油売ってやがったか知らねえが、ジェシカ婆さんが捜していたぞ!」
エドの口から名前が出たジェシカ婆さんとは、孤児であるリィーナにとっての親代わりだ。とても厳格な人物で、もしも不注意でゴブリンの縄張りに足を踏み入れたと知られたら大目玉を喰らうのは避けられないだろう。
リィーナは首をすくめた。雑貨屋兼宿屋の主であるエドなど怖くないが、ジェシカは別だ。これは早く帰った方がいい。
「分かっているわよ!」
リィーナは反抗的な態度を隠しもせず、エドの脛を腹いせに蹴飛ばすと、ウィルにくるりと向き直った。飛び上がって痛がるエドを尻目に、
「また来るわ」
上気した顔でそれだけ言うと、リィーナは後ろ髪を引かれる思いでウィルと別れた。宿屋を出て、走って帰って行く。
「クソッ! あのジャジャ馬娘め! いつか、あの青い尻をひっぱたいてやる!」
エドが悪態をついているのに構わず、ウィルは静かに部屋のある二階へと上がった。
夜――
それは月が鮮やかに映える晩だった。
モンタルンの村は死んだように眠っていた。
そのモンタルンの村を囲む、影、影、影。
四本の肢。
全身を覆う灰色の体毛。
低い唸り声。
殺気をみなぎらせた獣――
狼だ。
何処から集まって来たのか、百匹近い狼がモンタルンの村を包囲していた。
しかし、こんなことが有り得ようか。狼たちが人間の村を取り囲むなど。
遠吠えが村中を震わせた。
こんな夜は誰も外を出歩きたがらない。家の中にさえいれば安全だ。そう思って寝床に潜り込み、頭から布団を被る。そして、まんじりともせずに夜が明けるのをただひたすら待つ――
ところが、そんな気味の悪い夜にもかかわらず、宿屋を訪れる者がいた。
しつこいくらいに扉をノックされ、聞こえないふりも限界になった宿屋の主人であるエドは、一言どやしつけてやろうと出て行くことにした。ただし、不用心に開けるようなことはしない。いくら辺境の貧しい村とはいえ、強盗などの可能性がないとは言い切れないからだ。
相手が誰なのか、扉を細く開けて確認し、賊であれば手にした護身棒で反撃できるよう備えた。
「まったく、誰なんだ!? こんな夜中にうるさいなぁ!」
「あたしだよ」
扉の外から答えたのは、しゃがれた老女の声だった。エドが思い当たる人物は、この村で一人しかいない。
「ジェシカ婆さんか!?」
「夜分にごめんよ」
入口を開けると、リィーナの保護者であるジェシカが愛用の杖と 角灯 を手に立っていた。立っていたと言っても、高齢からかなり腰が曲がっている。一年ほど前から杖に頼らないと出歩けない身体になっていた。
「どうしたっつうんですか、こんな時分に? それに、もしも狼が村にまで降りて来たら、あっという間にお陀仏ですぜ」
「あたしの命なんかより大事なことがあってね。ここに泊まっているっていう客人に会いに来たのさ」
「あの男だか女だか分からない吟遊詩人にですかい?」
エドはチラリと、胡乱げに二階を見上げた。
とりあえず外で立ち話も物騒だ。エドはジェシカを中に招き入れ、再び厳重に戸締りをした。
「どんな用件かは知らんけど、明日にしちゃどうです? どうせ客人も、今頃は旅の疲れで寝入っているだろうし、こんな夜中にジェシカ婆さんをお通ししたら、こっちが叱られちまいますよ」
「エド。お前さんには迷惑をかけないつもりだよ。もし、客人が怒って出てくってんなら、その宿賃をあたしが立替えてやったっていい。だから、会わせておくれ。あたしはどうしても、その吟遊詩人とやらに聞いてもらいたいことがあるんだ」
熱っぽく説得してくるジェシカにエドはほとほと困った。ジェシカはこの村の最長老で、村長よりも発言力がある。それに「年寄りには従うもの」というのが、このモンタルンではかねてからの習わしだ。
結局、エドは折れるしかなかった。
足の悪いジェシカは二階に上がるまで時間がかかった。エドの介添えも借りて、ようやくウィルが宿泊している部屋の前に辿り着く。ジェシカは扉をノックした。
「開いている」
返事は即座にあった。どうやら起きていたらしい。思わず、ジェシカとエドは互いに顔を見合わせた。
「お邪魔するよ」
ジェシカは中に入った。エドは廊下のところで遠慮しておく。部屋の明かりは消されていたが、開け放たれた窓から月明かりが射し込み、真っ暗というわけではなかった。
窓のところに黒い人影があった。ウィルだ。彼は昼間と変わらぬ黒い旅装束姿のままで、暗い外をジッと眺めていた。ベッドで寝た形跡はない。
「何の用だ?」
先に切り出したのはウィルだった。それでいて、ジェシカの方に振り向こうとはしない。まるで窓から眺められる月光の美しさを惜しむかのように。
「あたしはジェシカ。ウチのリィーナを助けてくれたんだってねえ。あの娘から聞いたよ。礼を言わせておくれ」
ジェシカは杖をつきながらベッドまで行き、許可も得ずに腰をかけた。そこから月の光に照らされたウィルの青白い横顔を眺められる。しばらく時を忘れた。
「──おっと、あたしとしたことが、いい年をして見惚れちまったようだね。あと五十年、あたしが若かったら――いや、十年でも構わない――、お前さんにゾッコン惚れ込んだろうよ」
「そんな話をしに来たのか?」
振り向かない吟遊詩人の声音はあくまでも冷たい。老婆は苦笑した。
「醜い年寄りは嫌いかい?」
「いいや」
「まあ、別にそれでも構わないよ。あたしの頼みさえ聞いてくれたらね」
「狼退治か?」
ようやくウィルは窓の月から目を離し、依頼人の方を向いた。月明りにも似た怜悧な視線だ。
「ほお、さすがだね。このあたしの頼みなど、お見通しってわけかい」
ジェシカは皺くちゃな口許に笑みを作った。
「この村の周囲を取り巻く気配を感じれば、な」
「どうやらこれは、予想以上の幸運に見舞われたようだね。この出会いを創造母神アイリス様に感謝しなくては。――リィーナの話からすると、お前さん、魔法を使うらしいじゃないか。五匹のゴブリンを一瞬にして始末したんだって? 白魔術師 かい? それとも 黒魔術師 かい?」
「ただの吟遊詩人だ」
ウィルの物言いはあっさりしていた。ジェシカは肩をすくめる。
「まあ、何だっていいさね。相当の手練れと見たよ。その腕前を見込んでお前さんに頼みたい。この村にも自警団くらいはあるが、連中では無理だからのう。──どうだい、引き受けちゃくれないかい?」
ジェシカの目が光った。ウィルは再び窓の外を眺め始める。
「こんな辺境には珍しく、この村には教会があるようだが?」
教会の神父や寺院の 僧侶 たちは信仰の厚い敬虔な 聖職者 であるが、日頃から肉体を鍛えている者も多く、また防御や治癒を主とする 聖魔術 と呼ばれる神の奇蹟も使いこなす。司教 や 高僧 など、さらに高位の役職に就く者なら気の塊――《気弾》を撃ち出したり、見えない刃を作り出す攻撃魔法も扱えるはずだ。
より攻撃的な魔法を使える 白魔術師 や 黒魔術師 には及ばないにしろ、狼程度の相手ならば 僧侶 のみで充分。わざわざ素性も分からない流れ者に依頼しなくてもいいはずである。ウィルの言葉はもっともだった。だが――
「ただの狼退治ならば、な」
ジェシカは目をつむって重々しく言った。