1. ゴブリンと少女と
狩りが始まった。
狩人は五匹のゴブリンである。彼らは森に棲む邪悪な “亜人種” だ。手には、それぞれ凶器となる粗末な棍棒が握られていた。
そのゴブリンたちから獲物として追われているのは、か弱き人間の少女リィーナであった。
捕まるまい、と懸命に歯を食いしばりながら、十五歳の少女は森の中を逃げていた。それこそ立ち木にぶつかりそうな勢いで、右へ、そして左へとジグザグに。少しでも背後のゴブリンから逃れようとして。
リィーナは脚力にいささかの自信があった。しかし、それも人間同士ならばの話だ。血眼になったゴブリンは執拗で、追撃を振り切るのは容易なことではない。
こんなことになったのも、リィーナが決して行ってはならないとされる場所へ足を踏み入れてしまったせいだ。
森の奥は危険だ、と村の大人たちから、再三、注意されていたにもかかわらず、つい夢中になって稼ぎとなる薬草を探し求め、うっかり彼らの 領域 を侵してしまったのである。ゴブリンの縄張り意識は異常とも言えるほど強い。彼らはその追手だ。
このネフロン大陸には、人間を脅かす異形の怪物が数多く棲息している。ゴブリンに代表される妖魔たち、地上最恐と畏怖される 竜 を始めとした多種多様な魔法生物、そして、悪魔とも呼ばれている異界からの来訪者、すなわち魔族――
この世界を治めているのは人間だ、と多くの権力者たちはうぬぼれているが、それは驕りと誤った認識でしかない。未開の地はなおもまだ広大であり、多くの人々の生活は常に危険と隣り合わせなのだ。それは辺境の地であればあるほど、顕著だと言える。
その生命にかかわる危険に、今、リィーナはさらされていた。後ろを振り返る余裕もない。そんなことをしたら追いつかれてしまうのではないか、という強迫観念に捉われていた。
「助けてーっ! 誰か、助けてぇ!」
ようやく彼女が暮らしている村、モンタルンの近くまで逃げて来られた。リィーナはあらん限りの声を振り絞る。誰かがこの声を聞きつけ、駆けつけてくれさえすれば、と走りながら祈った。
ゴブリンは集団で襲って来られると厄介な相手だが、その個々の力は人間の子供くらいしかない身長からも分かる通り、案外、脆弱だと知られている。そのため、何人かの大人たちが来てくれれば、助かる可能性はまだ残されていた。
とにかく、誰でもいいから助けに来て欲しい。
リィーナは奇跡を信じ、二度、三度と叫んだ。ところが――
「あっ――!」
いつもは目をつむっていても歩き回れるくらい、何処もかしこも知り尽くしたはずの森なのに、どういうわけかこんなときに限って、リィーナは土の下から盛りあがっていた木の根っ子に足を取られた。しかも、この辺りは村へ向かって下っているのに加え、かなり走りにも勢いがついていたため、リィーナの身体はつまずいた拍子に宙を飛び、頭から見事一回転して倒れてしまう。
「つぅ――!」
リィーナは背中をしたたかに打ちつけたが、痛い、などと泣き言を口にしてはいられなかった。背後に迫るゴブリンへの恐怖心から反射的に身体が動き、すぐに立ち上がろうとする。だが、正面に不吉な気配があることに気づいた。
恐る恐るリィーナが頭を上げたときには、すっかり五匹のゴブリンに追いつかれていた。最悪の事態に、リィーナは息を呑む。
さらにゴブリンは転倒したリィーナを素早く取り囲んだ。彼らの身に染みついた悪臭がまとわりつき、リィーナは鼻が曲がりそうだった。
「イヤッ! こっちに来ないで!」
手にした落ち葉をゴブリンに投げつけたが、もちろん、そんなものは何の役にも立ちはしない。
獲物を捕まえたゴブリンがやることは分かっている。リィーナを殺し、その健康的で柔らかい腸を喰らうのだ。ときどき、村の家畜がいなくなると、そうやって無残な有様となった死骸が発見されることをリィーナは知っている。そのときのおぞましい光景が目の前にちらつき、余計に気分が悪くなった。
死への恐怖に身を縮めながら、それでもリィーナは這いつくばってでも逃げようとした。もう腰が抜けて立てそうにない。
そんなリィーナを嘲笑うかのように、ゴブリンは易々と行く手を塞いだ。他の連中も可哀そうな少女を押し包もうとする。もはや逃げ道はない。絶体絶命だ。
「もう、来ないでったらぁ!」
リィーナは涙を浮かべながら、ヒステリックに叫んだ。そんなことをしてもゴブリンが許してくれるはずがないことを知りながら。
──と。
不意に眼前が翳ったのは次の刹那である。
気がつくと、自分をかばうようにして立つ黒い影が目の前にあった。思いがけない状況に、リィーナは恐怖を忘れて息を呑み込む。果たして、いつの間にゴブリンたちの輪の中に入り込み、自分の前に立ったのか。不思議だった。
黒い影と見えたのは、何も逆光のせいばかりではなかった。その人物自身が漆黒のマントを身につけていたからである。何処からともなく助けに駆けつけてくれた人物。今のリィーナには、とても頼もしく見える背中だ。あまりにも安堵したせいで力が抜け、そのマントにすがりつきたいくらいだった。
片やゴブリンたちは、一瞬、戸惑った様子だった。無理もないだろう。彼らも今の今まで黒マントの人物の出現に気づかなかったのだから。そもそも包囲の輪の中へ気づかれずに入って来られたこと自体がおかしい。
その唐突ともいえる登場に気圧されたのか、狩りの輪が少しだけ広がった。
黒いマントの人物は立ったきり動かない。リィーナのいる位置からだと背中を向けた救いの主の顔は、マントと同じ色をした鍔広の 旅帽子 を被っているせいで確認できなかったが、女性のような長い黒髪だけは見て取れる。ゴブリンに襲われた自分を見つけ、たった一人で救おうと飛び込んで来てくれた勇気ある人物。
だが、リィーナが冷静に観察すると、その後ろ姿からは、どうも剣の扱いに慣れた手練れの戦士といった感じはしなかった。むしろ、至って普通の旅人といった出立ちで、身体の線もかなり細い。助かった、と本当に安堵するには気が早過ぎただろうか。
ゴブリンと異邦人。形勢は五対一。数の上では明らかにゴブリンたちが有利だ。対する旅人に策はあるや否や。
「ゲェヴゥゥゥ!」
五匹のゴブリンは一斉に襲いかかった。これでは仮にひとつの攻撃を躱せても、何発かはもらってしまうだろう。粗末な棍棒は黒いマントの人物に向って振り上げられた。
所詮は多勢に無勢、少女を救おうとしたのは、旅人にとって無謀な行為に過ぎなかったのか。
無惨に殴打される光景を想像し、リィーナは目をつむりかけた。だが――
「ディノン!」
それよりも先んじて、黒衣の異邦人の動きは素早かった。マントを跳ね除けたのと、何か短い言葉を発したのは同時。リィーナには耳慣れぬ発音の言語だった。それは話にだけは聞いたことがある魔法の呪文であったろうか。
リィーナは思い出していた。幼い頃より寝物語に聞いた、世界から失われつつある魔法という不可思議な力のことを。そして、それを自在に操る “魔術師” という者の存在を。
かつて、この世界には魔法が満ちていたという。その世界を統治していたのは、現在とは違って魔法の扱いに長けた人間たちで、都市を山よりも高いところに浮かべたり、呪文ひとつで空を自由に行き来し、かの恐ろしい 竜 さえも従えていたらしい。彼ら魔法の使い手ならば、卑小な妖魔たるゴブリンなど取るに足りない相手だろう。
次の瞬間、黒いマントの人物を中心として、五つの方向に光跡が走った。一部始終を目撃していたはずのリィーナにも一瞬の出来事。それが 魔導光弾 という攻撃魔法だとは、知識のない村娘のリィーナが知る由もなかった。
「――っ!?」
勝負は呆気なく決まった。魔導光弾 の迎撃によって。
一様に腹部を貫かれたゴブリンたちは、その場で硬直したようになると、まるで計ったかの如く一斉に倒れ込んだ。黒マントの人物は、当然の結果だと確信しているのか、それらに一瞥も向けようとしない。代わりに後ろを振り返り、膝立ちしたまま呆然としていたリィーナを気にかけた。
「ケガはないか?」
興奮冷めやらぬ様子のリィーナに、男は美しい声音にそぐわない、あまり抑揚のない口調で尋ねた。――いや、本当に男なのか。そこで初めて、リィーナは救いの主の顔を見ることが出来た。
「あっ――!」
その瞬間、リィーナは用意していた感謝の言葉をすっかり呑み込んでしまった。なぜなら、こちらに向けられた男の顔――
古くからの言い伝えによれば、創造母神アイリスはこの世界を創り、子となる四女神と一体の荒神を創り、そして人間をも創ったと言われているが、まさに、その最高傑作こそ、この男のことではあるまいか。
絶世の美男子――いや、たとえ、どのような美女をここへ連れて来ようとも、彼の前では敵うべくもなく色褪せるであろう。白い美貌の神々しさ、麗しさの前には、どんなに著名な芸術家であろうとも、自分の腕のなさを悟り、打ちひしがれて、失望に押し潰されながら死を選ぼうとするに違いない。その唯一無二、至上至極の美しさは、魔性の妖しさも存分にたたえ、見る者を永遠に惹きつけてやまなかった。
だから、まだ初恋すら知らない少女リィーナの心も、一瞬にして男の美貌によって奪われたのは致し方のないことだろう。
黒衣の異邦人は、自身の持つ容貌ゆえか、少女と同じ反応には日頃から慣れているらしく、彼女にケガのないことを見た目で確認すると、それきり何も言わず、リィーナの元から立ち去ろうとした。
その遠ざかって行こうとする後ろ姿を見て、ようやくリィーナは夢の世界から、ハッと現実に戻った。
「あっ、お待ちください! あのっ――ありがとうございましたっ!」
礼を言われた男は、すでに少女から関心がなくなってしまったのか、それとも気分を害したのか、振り返ろうとはしなかった。すげない黒マントの背中をリィーナは慌てて追いかける。
「わ、私、リィーナって言います! この先にあるモンタルンという村の者で……あ、あの、せめて……せめて、お名前をお聞かせください!」
すがりつくような少女の必死な物言いに、男はようやく立ち止まった。そして、振り返る。向けられた白く美しい相貌をリィーナはまたしても正視していられず、ポッとうつむいてしまう。
そんな少女に、彼は静かに名乗った。
「オレはウィル。吟遊詩人のウィルだ」