夢はいつかは覚めるもの
「ねえ、まーちゃん。あなたはいつ結婚するの?」
それは十数年間の交際の末、高校の先輩と結婚した姉さんの式が終わり、いい式であったと感動に浸っているときのことだった。
母は私を責めるわけではなく、写真屋さんに頼んだ写真はいつ現像できるのかと時間を尋ねるかのように言った。
まるで私が結婚できることを疑っていないかのように。
それはとても衝撃的で、そしてとても申し訳ないような何とも言えない気持ちにさせた。
私、東 麻衣子は彼氏がいない。
婚活もしていない。脈がありそうな人もいない。
高校卒業後から務めている小さな会社には、定年まで残すところあと数年の吉村さんと先日孫ができたのだと自慢げに写真を見せてきた田上さん、そして御年80歳の三上社長とその奥さんがいるだけだ。
平日は8時に出社して定時の5時になったら、近くのスーパーに寄ってその日の特売品を探す日々。
疲れて帰る先は、就職してしばらくしてから借り始めた会社の近くのアパート。1LDKの部屋は私一人が暮らすには十分な大きさだ。
そんないつもは静かなこの部屋は休日には少し騒がしくなる。
幼馴染がほとんど毎週訪れるからだ。
私が結婚できない、それどころか彼氏すらできない原因はおそらくここにある。
自覚をしているのだから直せばいいのかもしれないがそれが存外難しい。
なぜなら、私はまだ初恋を引きずっているのだから。
私の初恋の人兼幼馴染の安西 悠は、サッカー選手だ。
小学校に入学する前から教室に通っていた彼は高校と大学、そして就職先までそのサッカーの実力で決めてしまうほどにうまいらしい。
なぜ、らしいなのか。それは私が彼の実力を知らないからだ。
悠は私のことが嫌いだ。
私が悠の試合を見に行きたいといえば「絶対に来るな」とすごい剣幕で拒否をし、「同じ高校に通おうかな」といえば「お前の頭で入れるわけがないだろう」と馬鹿にしてくる。極めつけは私が高校の時にお世話になった委員会の先輩にクッキーを渡そうとすれば
「お前の作ったものなんか食べさせられる奴の気にもなってみろよ。かわいそうだろ?」
そういって私の手の中にある綺麗にラッピングしたそれは悠の手によって回収されてしまった。
そんな悠のことを嫌いにはなれなかった。
『初恋は実らないものだ』とよく言う人がいる。私だってそう思っているし、もしかしたら何かいろいろあって最終的に結ばれたら……なんて夢見がちなことは思っていない。いや、高校生くらいまでは思っていたけれど。もうそう思うには歳をとりすぎた。
友人はみんな結婚していて、中学の時の一番の友人・由子に至っては一番上の子の和虎君は来年には小学生になるのだという。
「まいちゃん、だいすき」
と私の後ろをぴょこぴょことヒヨコのようについてきた和虎君がもうランドセルを背負うなんて。それは如 実に時間の経過を示していて、夢を見るにはもう遅いのだと実感させられる。
それに周りの目というものがある。
私が結婚するのだと疑うことをしない母だって、私にはいい人がいるのだと思っているのだろう。
友人の結婚式に行くたびに「次は麻衣子の番だね」なんて幸せそうに言って、ブーケトスでは必ずと言ってもいいほどにみんな私をめがけて投げてくる友人達。
そんな恒例行事化していたものももうない。
そろそろ見合いでもするべきかもしれない。そう思ってはいるもののなかなか上がらない腰をまた座椅子の上に落ちつけながらもまだ読めていない朝刊を手に取る。
手を伸ばせばぎりぎり届く距離にあった新聞は、思っていたよりも遠く目測を間違っていたことに気付く。 しかし、立つのは面倒だ。朝早くに起きて美容院行って結婚式に出席して姉さんの幸せを分けてもらった。 それは私にとっても幸せな時間だった。ただ、昨日も仕事だったので疲労というものが溜まっている。そして極め付けとばかりの母の言葉。身体的・精神的に打撃を受けた私のヒットポイントは残りわずか。たかが1mくらいしか離れていない棚のものをとるために立ち上がることすら億劫で、少しでも楽をしたいのだ。
「もうちょっと……っと」
指に引っかかって落ちてしまった新聞は落ちた衝撃からなのかページが開き、中の面が見えてしまっていた。
テレビ欄が見たかったのにと思いつつ自分のもとに手繰り寄せようと手を伸ばした私の目にある記事が入ってきた。
『6月の花嫁特集 ~幸せをあなたに~』
…………私のヒットポイントは完全になくなった。
残念ながらここはゲーム内ではないので、宿屋も教会もない。私を回復させてくれるようなパーティの仲間ももちろんいない。
「寝るか……」
仕方ないので私はふて寝することにした。
明日は休日。今日受け取りにした荷物もないはずだ。
まだ日が傾いたばかりで寝るには早いかもしれないがこんな日くらいいいだろう。
明日からは現実に向き合わなくてはいけないのだ。
今までの、二十数年間逃げ続けていた、ごまかしていた現実に。
「……こ、……いこ」
誰かが何か言っている?
何か焦っているのだろう、途中途中で途切れてしまう男の声がする。
私には関係ないことか。そう割り切って再び眠りの世界に落ちようとすると今度は物音がした。
ドンドンドンドン――刑事ドラマの立てこもり犯に「お前のいることは分かっているんだぞ」って脅すときの音のようだ。
ん、刑事ドラマ?
そういえば去年高視聴率を記録した人気の刑事ドラマの再放送って今日だっけ?
再放送が決まった日、出勤してそうそう吉村さんが私の手を力強く握って
「名作だから! 見て損はないから!」
と熱く語っていたことを思い出す。
孫に夢中の田上さんにいくら言っても断られてしまった吉村さんは、
「この感動を誰かと分かち合いたいんだ。」
と熱心にドラマについて熱く語ってくれた。
寝ちゃったって言ったら吉村さん、悲しむんだろうな……。
………………録画するか。
リアルタイムで見ようと視聴予約をしていたものを録画予約に切り替えるだけだ。そこまでの苦労はない。
ただ今日はこの時期にしては少し肌寒いから布団からあまり出たくはない。
が、吉村さんのためだ。
あの日の吉村さんの目は最近の保険の営業の人よりも力強く、このドラマへの愛が感じられた。その目を思い出し、気合で布団から出る。
すると、完全に意識が覚醒したからか先ほどの声が鮮明に聞こえた。
「麻衣子! おい、麻衣子!」
刑事ドラマを彷彿とさせるドアのノック音とともに聞こえてくる男の声、それは悠の声だった。
悠がなんで?
そう思いつつ、明らかに近所迷惑になっているその声を止めるため一度考えることをやめドアを開けた。
「麻衣子! 大丈夫か!?」
ドアを開けた途端に肩をつかまれ、驚いた私は反射的にドアを閉めようとする。
「ちょっと待て、閉めるな!」
「悠……」
「いいから入れろ」
「……入って」
額に汗を浮かべる悠は、私がドアを閉めた途端に
「お前、ドアを開ける前に確認しなかっただろう」
と責め立てる。
悠だってわかっていたし、緊急を要するようだったから確認しなかったのだが私が思う以上に悠はドアを閉めようとしたことに怒っているようだ。
誰かわからない人から肩をつかまれたから閉めたわけではなく、驚いたから反射で閉めただけなのだがそういっても今の悠には火に油を注ぐだけなので黙っておく。
「いいか? あれほどちゃんと確認してから開けろと何度も言っているのに何でお前は……」
ブツブツと鬼嫁のように説教をしだした悠の言葉を半分以上聞き流しながら、結局ドラマ見れなかったな、吉村さんになんて言おうとのんきなことを考える。
結局録画予約に切り替えられなかったドラマは視聴予約がしてあったため勝手についたがその途端に説教中の悠によって消されてしまったのだ。
「って聞いてるのか!?」
「これからは注意する」
「全くいつもお前はそういって……」
「で、なんかあったの?」
悠の勢いが落ち着いてきたところで本題に入る。
それのせいで眠りの底から起こされたのだ。事情は話してほしい。
「……別に何でもない」
なんでもないわけがないだろう。
額に汗のしずくが溜まっていた悠を見て、
「ふーん、そっか」なんて簡単に信じられるはずがないだろう。
なのに、この幼馴染ときたらまるでそれがまかり通るだろうとばかりに先ほどとは打って変わって涼しい顔をして、私に教える気はないとばかりにそっぽを向く。
いつもの私ならここで食い下がるだろう。
ただ今日の私は疲れていた。
「そう、なら帰って」
「は?」
「何でもないんでしょ? なら帰って。疲れてるの」
悠のもう昔とは違って私よりも大きくなったたくましい背中を押して外に追いやる。
「……お前、これから和虎とかいうやつに会うんだろう」
私とは体格に違いがあるため頑張って押しても全くその場から動こうともしない悠は、20cmほど上から吐き捨てるように言った。
「え?」
見上げると恨めしそうに、そして悲しそうに見つめる悠の顔があった。
「こんなにも一緒にいるのに、俺のことをお前は分かってくれないんだな」
つぶやくような声で言った悠は声の大きさからは予想できないほどに痛いほどに力強く私を抱きしめた。
わかってくれない――か。
何も話そうとはしない悠の何をわかればいいというのか。
それに悠だって私のことをわかろうとはしない。
悠にとっては暇つぶしでも、私にとってはひそかに楽しみにしている時間で。
悠に美味しいって言ってもらいたくて、クッキーを取り上げられた日から練習している料理はいまだに美味しいなんて言ってもらえない。
悠が食べ終わって空になった皿を「ん」とだけ言って差し出される私の気持ちなんか考えていないのだろう。
初恋に、悠に縛り付けられた私の気持ちなんて分かってくれないのだろう。
「行くなよ。その男は出会って、たかだか数年だろう? 俺のほうがお前のことを知ってるんだ。俺のほうがいいに決まってる」
「意味わかんない」
どこに行くというんだ。
ここは私の家だ。疲れているからどこかに行く予定などはない。
「……っ。ああ、わかったよ。言えばいいんだろ、言えば。俺はお前が好きだから他の男の元には行ってほしくない。俺の隣にいてくれ。これでいいか!!」
「……え?」
今、好きって言った?
いや、これもすべて疲労感が生み出した幻聴だろう。悠がそんなこと言うはずない。
これが
「お前のこと嫌いだから、他の男のところに行くのを邪魔してるんだよ!」
とかだったら信じられる。
うん、こっちの方がしっくりくるな。
きっと脳内で勝手に変換して伝わってきたのだろう。
脳内で悠の言葉を変換して受け取って、また変換するなんてなんという二度手間!
疲れてるんだな、きっと。
よし、寝よう。
落ち着いたら帰るであろう悠を外に出すことを諦め、私はのそのそと自分の形がくっきりと残った布団の中へ戻る。
すでに先ほどまでのぬくもりは消え、とりあえず頭を冷やせとばかりにひんやりとした布団が私を包み込む。
今の私にはこれくらいのほうがちょうどいい。
「おい、寝るな!」
悠は睡魔に身を任せようとしていた私から勢いよく布団をはぎ取る。
「寒いんだけど」
布団を魔の手から奪い取ろうとしたが、悠の握力にはかなわないのか全く奪い返せる気がしない。
「いいか? 俺は今、告白したんだ。」
「誰に?」
「お前に、今、しただろう!」
ああ、あの脳内変換したやつか。返事が必要だというのか。
じゃあ、言おう。
「一緒にいたくない」
もう夢から覚めると決めたんだ。
悠と一緒にいたらこれからも夢を見続けてしまうだろう。
いつかは覚めなければいけないのだ。ずっとその時を伸ばし続けてやっと自分で折り合いをつけられた。
だから、邪魔しないで。
「っ」
「私だって幸せになりたいのよ!」
そうだ。私は幸せになりたいんだ。
幸せになりたくて、小さいころの夢を叶えたくて必死になっていた。
長年蓄積されていた望みと共に涙と鼻水も止めどもなく出てくる。
顔はぐしゃぐしゃになって、服はぐしょぐしょになっている。
そんなことも気にせず泣き続けた。
「俺が幸せにするから!」
何とも私に都合のいい言葉と共に、悠はどこからかポケットティッシュを取り出す。
明らかに足りないそれを使い果たす前に、部屋のものの配置をよく知っている悠は棚の上から取ってきたボックスティッシュを差し出す。
「ありがとう」
ボックスティッシュを受け取り、存分に鼻をかむ。
いつもなら乾燥肌が気になるところだが、今日は気にしないことにした。
「それはティッシュへのお礼か?」
「? うん」
愚痴を聞いてもらっていることにお礼なぞいわない。
これは半分私の本音で、残り半分は悠への言葉なのだから。
「はぁ」
長いため息をついた悠。
「まあ、どうせそんな顔じゃあいくら彼氏に会いに行けないだろうから」
いいか。とぽつりとつぶやく悠。
嫌味か? 嫌味なのか?
彼氏という言葉に情緒が不安定になっている私はすかさず
「どんなに化粧バッチリとしたところで見せる彼氏なんていませんけどね!?」
と悠に食い掛る。
「は?」
「は? って何? 私が化粧したってそんなに変わんないとでも言いたいわけ?」
つい数か月前、悠の家のおばさんに久しぶりに会うからといつもよりしっかりと化粧した。
そんな私を
「綺麗になったわね」
とほめてくれるおばさんの言葉を聞いて悠は
「いつもと変わんないだろ」
と鼻で笑ったのだ。
褒めてほしかったわけではないが、努力が無駄だといわれているようで無性に腹が立ったのを思い出した。
「いや、そうじゃなくて……。お前彼氏いないって本当か?」
「ほんとよ。いい年こいて彼氏の一人もいないのかって? 笑うなら笑うがいいわ」
夢、見てるとそのうち婚期逃すぞ! とでもいえばいいさ。
存分に笑うがいい。
その方がすっきりするってものだ。
「そうか……。いない、いないのか」
ほっとしたような顔で「いない」と反芻する悠。
その顔を見ているとなんだか気が抜けてしまう。
するといきなり立ったかと思ったら、冷蔵庫をあさり私の好きな蜂蜜がたくさん入ったホットミルクを作ってきた悠。
「ん」
食べ終わって空になった皿を差し出すときと同じようにマグカップを差し出す。
これは飲めということなのだろう。
まだ熱いホットミルクをふーふーと冷まして飲める頃になったころにはすっかり落ち着いていた。
「ごめん」
ここになってようやく今までのは八つ当たりであったと考え直した。
「あっつ」
私よりも猫舌でまだホットミルクを冷ましていた悠は私の言葉に驚いて舌をやけどしたようだ。
悠はホットミルクを飲むことをいったん止めたのかマグカップを机の上に置いた。そして、私に向き合って正座をした。
「それはさっきの返事か?」
それは初めて見る顔で、きっとサッカーをしているときはこんな顔をしているんだろうなと思ってしまうような真剣な顔だった。
「いや、さっきの、その……八つ当たり?して悪かったなって」
「それはいいんだ」
「そっか」
いきなり来たのは悠だが、いきなりキレられて泣かれて、大変だっただろうにそれを受け入れてしまう悠は 私が思っている以上に大人なのかもしれない。
私の知っている悠はほとんどが中学生までの悠で、それ以降も会っているとはいえ毎日会っていた中学時代に比べれば少ない。
きっと私は悠を知った気でいたのだ。
いつまでも中学の頃と変わらないと思い込んでいた。
「で、そのさっきの返事は……」
「さっき? どれのこと?」
「はぁ」
首をかしげる私を見て、頭を抱える悠。
「悠?」
わざとではないんだろうな。とぼそぼそと言っている悠をどこか悪くなったのか心配して顔を覗き込む。
「いいか、よく聞け。もう二度は言わないからな」
「うん」
「幸せにするから俺の隣にいてくれ」
「え? えっと、夢?」
「夢じゃない。」
「え、でも……」
「今まで麻衣子は俺のものだって思い込んでいた。けど、近くで強姦魔が出たって聞いて心配で来たらお前は平然としてて。無事だとわかった途端にカレンダーに男の名前があって……」
強姦魔……。だから、悠はあんなに焦っていたのか。
それにしても
「男の名前?」
? 何のことだろう?
「ここ。赤ペンで大きな丸して、その下に書いてあるだろう?」
悠の指さす先には和虎君と書かれた赤字があった。
……確かに和虎君は男の子だけど、彼は由子の息子だ。
「悠も和虎君、知ってるでしょ?」
「知らん」
俺がお前の近くの男の名前を憶えていないはずないだろうと胸を張る。
「由子の息子よ」
確かみんなに年賀状送ったって言ってたんだけどな……。
私には毎年元旦になると由子からは家族写真付きの年賀状が送られてくる。
「……ああ!」
悠は思い出したのか納得がいったとばかりに大きく目を開いた。
「わかってくれて何よりよ」
「ところで、麻衣子。俺は二度も告白したんだ。返事はもちろん『はい』だよな?」
すっかり自信を取り戻した悠はいつものように自信ありげに言った。
「そうね。幸せにしてね」
もちろん答えはこれしかありえない。
『夢はいつかは覚めるもの』――よく聞く言葉。だけど、見続ければいつかはかなうものなのかもしれない。
だって、私は手に入れられたから。
ずっと夢見た悠の隣を。