896手間
目の前、といっても両手を広げた距離の八倍ほどの距離にゴロゴロと獣人が転がって来た。
その姿にまだ僅かに獣人の体が宙に浮かんでいる間に、フレデリック次いで隊長の順でワシとクリスを守る様に二人が立ちふさがる。
件の獣人は百人力だとか、そう隊長が自慢してたはずなのだが、転がって来た獣人はしっかりとした体付きではあるものの、百人力という言葉が相応しいようには見えない。
しかも、吹き飛んできたという事は、それをなした者が居るという訳で、これは拍子抜けという奴だろうか、そんな視線を含ませながら隊長を見やる。
「これが例の獣人かえ?」
「いえ、こいつはお話した獣人の部下です」
「ぬ、獣人は一人では無かったのかえ」
「はい、その獣人の噂を聞きつけて、方々の町や村からやって来た者たちが居ります。彼らを纏めて一つの部隊にしているのです」
「なるほどの」
なるほど、確かに上も下も獣人で纏めた方がやりやすいに違いない、一つの群れと認識した時の獣人の団結力はすさまじい。
下剋上こそするものの、まずお互い裏切らないし群れの長の命令には忠実だ、面倒を嫌う気質さえ気にしなければ、これほど兵隊に相応しい種族も居ないだろう。
フレデリックと隊長が構えを解くと、転がって来た獣人を吹き飛ばした方の獣人がドスドスドスと荒っぽい歩調でやって来た。
「おうおう、だらしねぇな。そいじゃ次は誰が、ってこりゃ隊長さん、っと誰だ?」
「ミドル! 口を慎め、こちらにおわす御方をどなたと心得る。畏れ多くもヴェルギリウス国王陛下がご令息、クリストファー・ヴェルギリウス王太子殿下にあらせられるぞ」
思わず、さきのふくしょうぐん、と呟いてしまうような口上を隊長が述べる。
ミドルと呼ばれた獣人は、不敬とかそういう事では無く、ただ単純に知らないから誰だと聞いたに過ぎない。
それはともかく、目の前のミドルとやらが例の獣人だろう、なるほど確かに百人力と呼ばれるに相応しい。
その体躯は縦も横もワシの倍はあろうかという偉丈夫、人相は気のいい盗賊の親分と言った所だろうか、やや表情に傲岸さが滲んでいるが。
全体的に如何にも強面といった感じだが ただ一点、熊のような丸みのある茶色の髪と同色の耳がかわいらしい。
「隊長さん……もちっと簡単な言葉でお願いしますわ」
ミドルが眉を顰め、神妙な顔で呟いたかと思うとガクッと隊長が肩を落とす。
「お前はただ余計なことは考えず、王太子殿下とお呼びすればいい」
「はぁ、ところで、おうたいしでんかって何だ?」
「次の国王さまだ!」
まぁったく身分など気にもしないようなミドルの態度に、隊長は思わず天に向かって吠えるように叫ぶ。
「おぉ、なるほど。えぇっと、見ての通りなんで、よろしく」
ミドルは右手を後頭部に当て、ぺこりと頭を下げて軽い挨拶をする。
近所のお兄さんを紹介されたような、そんな気安さに遂に隊長は頽れて、両手両膝を地面につき項垂れる。
「雲の高さを言われてもピンとこんのと一緒じゃろうて、まぁ、今回おぬしにようがあるのはワシじゃがの」
「ほう?」
同じ獣人だからか、先ほどの気楽さは消え、獲物を見るような目つきでミドルはワシをねめつける。
実力差は理解できていないようだが、その視線には嘲りも油断も含まれない、前に戦った自称国一番の男より余程楽しめそうだとワシは目を細める。
ミドルも何か納得したのか目を閉じ一つ頷くと、ニヤリとワシとミドルは同時に獰猛に口角を上げるのだった……




