890手間
翌朝、といっても随分と昼に近い時間だが、領主の館へと向かうクリスを見送る。
「何言ってるんだい、セルカも来るんだよ」
「ぬ?」
「当たり前だろう? 婚約者なんだから」
「んふふ、そうかえそうかえ」
なるほど確かに今日の身支度は余所行き用だった、クリスはワシが面倒は嫌じゃと言うとでも思っていたのだろうか。
急に上機嫌となったワシに首を傾げながらも、大人しくついて来てくれるならばいいかと納得したようだ。
「しかし、相手は子爵なんじゃろ? それならば挨拶に来るのは向こうからなのではないかえ?」
「普通はそうだけれどね、彼の場合は致し方ないのさ、足が悪いらしくてねあまり歩けないんだそうだよ」
「ふむ、それならば致し方ないの」
さらに言えば彼の領主の場合、当主代理として来れる者も居ないらしい。
領主といっても街一つと周囲を預かる程度の子爵位では、代官を立てたりなどと言うことも出来ないそうだ。
領主の用意した馬車にクリスと共に乗り込み、向かった先はクリスの話を聞く限りこぢんまりとした屋敷を想像していたのだが、なかなかに規模の大きい屋敷がででんと構えられていた。
「ほう、意外と大きいのぉ」
「領主の住居だけでなく、仕事をする場所や兵の詰め所、役所なんかも兼ねているからね」
「ふむ、なるほどのぉ」
馬車が車止めに止まると、待っていた使用人たちが扉を開けたりなどなどと甲斐甲斐しく動き回る。
そんな中、ワシはクリスにエスコートされ館の中へと足を踏み入れる。
するとそこには、椅子に座った老人が一人、その周囲に侍る使用人が数人待っていた。
「公子におかれましてはご機嫌麗しゅう、私がクレスター侯爵よりこの街を預かりまする、クレスター子爵でございます。本来であれば私から窺わなければならないところをご足労頂き、恐悦至極に存じます」
「あぁ、よい。ご老体にはこの寒さは厳しかろう」
「お気遣い誠かたじけなく」
「それと私は公子ではない」
「そう、そうでしたな。神王猊下が公爵に王位を下賜なされて……、どうも歳を取ると新しいことに付いていけず」
「積もる話もあろうが、ここでは辛かろう?」
「あぁ、私とした事が、公子を立たせ続けるなど何たる不敬、ささ、こちらでございます」
また間違えてると、ワシにだけ聴こえるような声で苦笑いを浮かべるクリスに続き、使用人に渡された杖を突きつつ、ヨボヨボと歩く老人の後ろをワシらはゆっくりとついてゆくのだった……




