73手間
目を開けると、息をすれば届きそうなほど近くにカルンの顔があった。その寝顔に思わずにへらと締まりのない顔になってしまう。
ずっと眺めていたいような、そんな胸の奥にじんわりと広がる暖かさは、徐々に頭が冴えてくると烈火の如き恥ずかしさへと変わる。
締まりのない表情をしていた顔はぷるぷると震え、みるみる内に赤く染まっていく。
ガバッっと勢いよく体を起こそうとして、わずかに残った理性によってカルンを起こさないようにと何とかゆっくりと体を起こすことに成功する。
火照った処ではない沸騰寸前の頭を冷やそうと風呂場に向かおうとするが、寝台から降りる前に引っ掛かりを覚える。
違和感の方向を見ると、ワシとカルンは右手と左手を指を絡めた、所謂恋人つなぎをしていた。
それが残っていた理性をひっぺがし、起こしてしまう、とかそういう事は頭から完全に消え脇目もふらず脱衣所へと駆けこむ。
「おぉおぉぉぉ、ワシは何という事を…見つめあったまま処か手を繋いだまま寝てしまうとは…」
頭を抱えた姿勢でしゃがみ込み羞恥に震える。
「さささっさと風呂に入って頭を冷さねば…」
手早く身に着けているものを脱ぎ、空の浴槽に法術で水を貯める。普通であればさらに法術で水を温めるところだが、今回はそのまま水風呂にする。
法術で取り出したものは川の水程冷たくはないが、それでも体を浸けて火照った体を冷ます分には丁度いいだろう。
浴槽の中ほどまで溜めると、お先にとばかりにスズリが尻尾から飛び出し風呂へと浸かる。
それを追うように無作法ではあるが、そのままざぶんと一度頭のてっぺんまで浸かる。
浮き上がって顔に滴る水を一度払うと、先ほどまで繋いでいた右手を眺める。
「ワ、ワシとカルンがこっこっこっ恋人に…」
動揺している声とは裏腹に水で冷まそうと拭えぬ、拭いたくない温もりを感じるかの様に愛おしそうに左手で右手を包み、右の頬に当てる。
しかし、水風呂に使っていささか冷静になったのがいけなかった。昨晩の事をバッチリと思い出すことができてしまった。
「告白されて泣いて抱きしめられて…それから…あぁああぁあああ」
けれど、その事実が嬉しくて嬉しくて、幸せで胸の内が張り裂けそうなほどの想いを今すぐ叫びたい。
そんな衝動を抑えるかのように顔の中ほどまで水に浸かりぶくぶくと息を吐きだす。
「はぁ…この間までそんな気も何も無かったはずなんじゃが、言われた途端ぶわっと溢れてきおった。これではまるで…いや、まごうことなきちょろインじゃのぉワシ…」
伸ばしていた足を引っ込め体育座りの姿勢で、水から飛び出した膝に顎を乗せひとりごちる。
けれどそんな悔恨のような口調だが、その表情を見る者がいれば幸せの絶頂という顔をしてるじゃないかと突っ込まずにはいれなかっただろう。
「さてと、そろそろ上がらねば冷えすぎるのぉ。しかし、風呂場があってよかったわい。そうでなければタライの水に顔を突っ込むところを見せてしまうところじゃったしのぉ」
名残惜しそうにしているスズリを抱え水を抜いて風呂場から出ると、備え付けのタオルで体を拭き、髪と濡れ萎んだ尻尾、スズリを法術で乾かす。
着替えを済ませ脱衣所から出ると、丁度カルンが起きてくるところだった。
「おぉ、カルンやおはよう。風呂の水を抜いてしもうたが残しておいた方がよかったかのぉ?」
「おはようございます、セルカさん。僕は朝お風呂に入ることはしないので大丈夫ですよ」
朝の挨拶をしつつ寝台の縁へと座ったカルンの左隣へと座り、無意識に寝台についたカルンの左手の上に右手を添える。
「の…のぅカルンや、ワシら…その…恋仲なんじゃし呼び捨てで呼んでもらえんかの…」
「あぅ…えっと………セル・・・カ・・・?」
視線を彷徨わせてから此方を見据えてつぶやかれたその名前にお互いの顔が徐々に近づいて…静かな部屋にノックの音が響く。
その音にパッと触れそうだった距離を遠ざけ、響き続けるノックの音に慌てて扉へと向かう。
「よぉ、セルカがなぜ朝にこの部屋にいるんだぁ?この部屋は俺とカルンが使うはずなんだが?」
「ぐ、ぐぬぬ。おぬしこそ尻尾を巻いて逃げたのではないのかの?」
扉を開けたそこには心底嫌らしいニヤニヤとした顔のアレックスが立っていた。
「いやいやぁ。あれだけ焚き付けられて逃げ帰ったら男が廃るっていうかぁ。それで部屋に帰ろうと扉に手をかけたら、中からカルンの告白が聞こえてくるじゃないか、これは邪魔しちゃいかんとジョーンズ達の部屋に退散したってわけよ。しかし、その様子を見ると」
昨晩の陰鬱とした雰囲気は何処へやら実にいじりがいのあるという気持ちが透けて見える声でそこまで言うと、腰を曲げてワシの耳元でアレックスはボソっと。
「昨晩はお楽しみだったようで?」
「むっきぃいいいいいいいいいいいいい、おぬしなどさっさと郷里に逃げ帰っておればよかったのじゃああああああああああ!!!」
遂に我慢できずに叫びアレックスを蹴り飛ばす。
「いってぇ!けれどよぉ、そんな嬉しそうな顔して言ってもなんも怖くはないけどなっていってぇええ!」
「えぇい、だまれだまれだまれ。ここで討ち果たしてくれるわ!」
「ムキになってますます怪し…すみません、それはやめてください死んでしまいます」
一度の蹴りでは懲りないのか再度蹴とばすがそれでもへこたれないので、魔手を振りかぶるとようやく大人しくなる。
「で、何の用じゃ?」
「何の用ってここは俺の…はぁ、いや飯を食わねぇかとな…それと誰一人逃げちゃいねぇって事を伝えにな」
「ふん、最初から素直に言っておれば痛い目を見ずにすんだのじゃ」
「あ、僕は昨日セルカさんが運んできてくれた食事が残ってるのでそれで済ませてしまいます」
「むぅ…名前…」
「あはは…すみません、やっぱりこれは性分ですから…」
「けっ。お熱いこって、それじゃ俺は先に行ってるぞ」
アレックスの言葉も耳に入らず、頭を掻きつつ申し訳なさそうに言うカルンに何も言えなくなる。
「ま、それがカルンじゃしの、しかしそれはもう冷め切ってしもうとるし…」
「温めますからいいですよ、それにこんな時ですしもったいないですからね」
「それではワシは行ってくるの、それじゃ行くかのアレックス…ってあれ?おらんの?」
「さっき行っちゃいましたよ?」
「ぬ、一言伝えていけばいいものを…。食い意地ばかり張りおって」
「あはは…それじゃ僕はこれを食べ終わったら向かいますね」
「んむ、待っておるのじゃ」
部屋を出ようとして一度引き返し、先ほど出来なかったことの続きをしてから逃げるようにレストランへと向かう。
レストランではすでにアレックスら三人が席を確保していたのだが、なぜか三人とも、昨日の陰鬱とした落ち込んだ様とは少し違う、何となしに情けなさを感じる暗い雰囲気を醸し出していた。
「よう、お嬢ちゃんちょっといいか?」
何事かと話しかけようとすると、アレックスらより少し年上に見える壮年のハンターに声をかけられた。
「なんじゃ?ナンパであればお断りじゃよ?」
ワシはもう人の女じゃからのと思い、緩みそうになる顔を必死に抑える。
さすがに真剣な顔をしてこれから真面目な話をしようという雰囲気の者に向ける表情ではない。
「いやいや、これでも妻子のいる身でな、そんなことはしないよ」
「冗談じゃよ冗談、それよりなんじゃ?戦況でも悪くなったのかの?」
「いや、今んとこ外は小規模の氾濫みたいな状態になってるくらいだ。残ってる衛兵でも余裕をもって対処できている。とは言っても昨日の様な状況にいつまたなるとも限らないからな、後続が来るまでしばらくはここで適度に狩りつつ待機ってとこだな」
「ふむ、なるほどな。ありがとう、情報助かったのじゃ」
そういって立ち去ろうとするも慌ててさらに話を続けられる。
「まてまて、今の話はついでだ、本題はこれからだ」
「本題とはなんじゃ?」
彼はあいつらの事だとアレックス達三人を顎で示す。
「アレックスらがどうかしたのか?確かに昨日はダメダメじゃったが、今は一応吹っ切れとる筈じゃったぞ?…なんか今はなぜか落ち込んどるが」
「今日のはまぁ…あいつらがヘタレなだけだ。昨日の件について、とりあえず先輩ハンターからの忠告だと思って聞いてくれや」
「ふむ?先達の話を疎かにするほど愚かなつもりは無いのじゃよ」
「ははっ。俺がその位の時分にはもっとツンケンしてたがなぁ…いいことだ。昨日あいつらが陥っていたのは…」
「戦うのが怖くなったとか死ぬのが怖くなったといったところかの?駆け出しで直面しそうな問題じゃが、あやつらは運が悪かったのかのぉ」
「さっきの殊勝な態度はどこいった。まぁ、そういう事だろうな。運がいいのか悪いのか…幸いあいつらは、これまでの積み重ねによる自信とお嬢ちゃんの発破ですぐ立ち直れた訳だが、新米の場合はそこから立ち直れるかどうかで決まるわけだが… お嬢ちゃんの戦いぶりを見ていたが、あれほど強かったら今まで死にかけたことすらないんじゃないか?」
「たしかに、まずいとは思うても死ぬとまでは思ったことは無いのぉ」
「だろうな…だが今後何があるかはわからない。仮に今までの鼻っ柱が折れるようなことがあっても心までは折れるんじゃないぞ?お嬢ちゃんは潰れちまうには惜しいからな」
「くくく、その様なことはありえぬの。ただの自意識過剰ではないぞ?ワシには心折れぬ理由が出来たからの!」
挫折なら嫌というほど前世で経験してきた。それに今のワシにはカルンがおる。心など折れるはずがない。
「ははっ青春してるねぇ…それならいい。余計な話だったな」
「いや、ありがたい話じゃった。忠言、心にしかと留めておくのじゃ」
「まるで歴戦の猛者の言い様だな。ま、話ってのはそれだ。それじゃあな」
そう言って去っていく背中を見送り、今度こそと未だ落ち込んでいるアレックスらの下に行くのだった。




