62手間
ぼんやりと視界の中、隣で寝ているはずの愛しい人へと手を伸ばす、けれどそこには温もりは残ってはいるのに愛しい人は居なかった。
「 、 」
背後から私を呼ぶその声、素肌に擦れるシーツの感触に甘ったるいような気怠るげな吐息を漏らしながら振り向くと、大きなガラス窓から降り注ぐ太陽の光で顔が見えないその愛しい人にそっと手を伸ばして…。
「ほああああああああああああああああああ!!!」
奇声を上げつつ寝台から勢いよく体を起こす。両手で顔を覆えば火が付きそうなほど熱く、心臓は早鐘を打っていた。
「ゆ…夢か…なんぞ下手な海外ドラマみたいなもんを見るとはおもわなんだ…」
起きてしまえばそれが夢だと明確にわかる。この世界にはあり得ない大きなガラス窓に上質なベッドやシーツ…それに夢の中の「私」にはワシにあるはずの尻尾も耳も無かった。
思い出しただけで気恥ずかしくなるその夢にひとしきり寝台の上で身もだえし、ワシは乙女か!と頭の中で叫び。
「ワシは乙女じゃった!」
と今更ながらに今更なことを自覚する。
「はぁ、顔でも洗ってすっきりするかの…」
今の変な状態も夢見のせいだと取り出したタオルを法術で湿らせ顔を拭う。
「むぅ、ぬるい…」
法術で取り出した水は外気温に左右されないが、その代わりといっては何だが取り出した直後は必ず温かくも冷たくもない。
普段ならばその温度で丁度良いのだが、今は少しでも火照った顔を冷やしたい。
「裏の井戸にでも行ってくるかの」
部屋の空気を入れ替えようと落とし戸を開ければ、外は少し白み始めた程度でまだまだ暗かった。今のうちであれば、おそらく茹でタコの様に真っ赤になっているであろう顔を人に見られぬだろうと、そそくさと宿の裏手へと回ることにした。
法術で水を取り出すこと自体は、やり方を覚えればそれこそ子供でだって出来る。けれど宿屋の様に一日に大量の水を必要とする場所では、宝珠持ちでない一般の人には必要量を法術だけで毎日用意するのは不可能だ。
だからこそ普通に井戸などのインフラはどこだって整備されている。この世界は地下水が豊富で、たいていどこでだって掘れば水が出る。
まだまだ人が起きだす時間ではないが、こそこそと周りの様子をうかがいながら無事に井戸へとたどり着き、そばに置いてある釣瓶を落とし、カラカラと並々と水が入った釣瓶を引き上げる。
大量の水を扱うという宿屋の事情で、一般的な井戸のものより大きいそれに並々と水が入った釣瓶を引き上げるのは男でもそれなりに重労働なのだが、まるで水が入っていないかのように軽やかに引き上げる様は見るものがいたら驚愕していただろう。
「ふぅ、ようやっと目が覚めた気分じゃ」
冷たい水に浸したタオルで顔を拭き色々とさっぱりした顔で呟き、ようやく冷静になった頭で残った水を如何しようと考えるのだった。
「井戸に戻すのも気が引けるしの…そこらに流して下手に水浸しにするのものぉ…」
「それじゃあ、その水もらってもいいかい?」
一人顎に手をあて思案しているところに後ろから声をかけてきたのは、恰幅のいい肝っ玉かあちゃんと言った雰囲気の、この宿の従業員だった。
「ふむ、しかしこの水は今しがた布を浸したがよいのかの?」
「大丈夫大丈夫、洗濯物に使うからさ。やっぱ一人じゃきついからね、引き上げが一回減っただけもめっけものさ」
「ふむ、それでは…」
まだ日も昇っておらずどうせ手持無沙汰だと水汲みを手伝う事にしたのだった。水を汲み瓶に入れて運ぶを繰り返し、すべて終わるころには日が顔を覗かせようとしていた。
「ふぅ、これで終わりじゃの。それにしても毎日これをしているとはすごいのぉ…」
「いやいや、さすがに毎日この量じゃないよ。それにしたってこれだけの仕事を汗一つにこなす嬢ちゃんの方がすごいって」
「ワシはこれでもハンターじゃからの!」
「ははは、そうかいそうかい。それじゃ、手伝ってくれたハンターさんのために少し朝食はサービスしておくからね!」
そういって最後に一言お礼を述べておばちゃんは宿へと戻っていった。
「ちょうどいい運動にもなったし、早速朝食にするかのぉ」
伸びをして宿屋の食堂へと向かえばそこには既にカルン以外の三人が席を取っていた。
「お、セルカも起きてたのか。こっちこいよ、せっかくだから一緒に食おうぜ」
「そうじゃの。その前にアレックスや、ちょっとこっちに来るのじゃ」
そう声をかけてきたアレックスの顔で、ちょっとしたことを思い出し手招きをする。自分だけ?という顔で自らを指さしてから席を立って、こちらにくる頃には何かを勝手に納得したのかのような嫌らしい笑みを浮かべていた。
「カルンには色々教えてやったしな、昨日はお楽しみだったか?礼ならいいぜ、あのレストランの金は三人で出し合ったからな。あ、礼は要らないといったがぜひとも昨日の話をきかせて・・・うぼぁ!」
一息にまくし立てるアレックスの言葉を最後まで聞かないうちに、その鳩尾へとアッパーを繰り出すとアレックスの身体が浮き上がり、放物線を描いて床へと叩き付けられたアレックスは大の字でビクンビクンと白目をむいて痙攣している。
その様子に「ふんっ!」と鼻を鳴らして残る二人がいる席へと歩み寄ると二人は恐怖にゆがんだ顔で首をぶんぶんと横に振っている。
「おおおおお、俺たちはレストランの金を出しただけだ。ダンジョンじゃ二人に助けられたし、それのお礼だって意味で…カルンはそう言うと辞退しそうだったから、用事でいけないって事にしたんだ!なっ!なっ!」
何も聞いていないのに悪だくみを話してくれたジョーンズは必死にインディにも同意を求め、そのインディは壊れた玩具のように首を縦に何度も往復させていた。
「つまりあの妙な演出はアレックスの仕業というわけかの」
壊れた玩具が二つに増える。どうやらレストランで再三受けた恋人や夫婦扱いはアレックスの仕業だったようだ。当の本人のほうに目を向ければ未だに床で伸びており、その間抜けな姿に多少なりとも溜飲は下がる。それに妙な演出は兎も角レストランの質自体は超が付くほど一流だった…はずだ。途中からよく覚えていないが…。
「しかし、あれほどの店、お金もすべて先払いじゃったらしいがよかったのかの?かなりのものじゃったのじゃろう?」
「あぁ、気にすんなって。三人で出し合ったんだし、輸送依頼の報酬だけでも十分お釣りが来るくらいだからな」
ジョーンズのいう通り、動力装置そのもののお金とそれの輸送依頼の報酬でかなりのお金が懐に入っている。アレックス以外は純然たる好意によるものらしいし、その言葉に甘えておこう。
「それでだな、さすがにじっとしてるのも飽きたってことで次の目的地なんだが、北の街へ行かないか?サンドラの結婚祝いもしたいだろ?」
そう言っているジョーンズのそばでインディも首肯している。これはすでに三人で話し合ったということなのだろう。
「ふむ、そうじゃのワシも久々にサンドラに会いたいし、ついでに水のダンジョンにも寄ってみたいの」
「ダンジョンはついでで寄るような場所じゃないが…ま、いいか決まりだな!それじゃ飯食って出発の準備しようぜ!」
いまだに伸びているアレックスに、起きてきたカルンがぎょっとする事はあったがカルンもその話に否は無いようで、まだ見たことないという北方の話に興奮が隠し切れないようだった。
その楽しそうな横顔をじっと眺めながら、にぎやかになりそうな北への旅路に心を躍らせるのだった。
予約入れ忘れてました…。
これにてこの章はお終いです。
次回から北への旅程のお話に入ると思います…たぶん。




