443手間
最高学部のとある一角、足の診察に頻繁に来ているのでアニスにとっては勝手知ったるといったところだろうか。
その中の一室に目当ての場所を見つけ、アニスへそこへ行くよう指示をする。
指示した部屋の扉をコンコンコンとワシに代わりアニスがノックする、ややあって中から「どうぞ」と少し間延びした声が聞こえてきた。
それを聞いたアニスが扉を開けると、封じられたポプリを開けた時のように中から漂ってきたのは緑の香り、まるで雨上がりの森の香りから土の匂いだけを取り除いたようなそんな雑多な香りがしてきた。
ワシがピンと来てやってきたのは先生が、高位貴族の令嬢に紹介するような所ではないがと断ってから教えてくれた場所。
「そこの御仁やここが薬学部かの?」
「そうですよ…っと失礼、私はケンネル子爵家の次男のレイロフと申します」
「うむ、ワシはセルカじゃ。エヴェリウス侯爵家の養女じゃな」
ややだるそうに返事をしながら振り返った男は、ワシの姿を認めるとパッと立ち上がり軽く身を改めると慇懃に礼を取る。
赤褐色の髪を短く綺麗に切り揃え、やや切れ長の瞳はきれいな常盤緑、痩せぎすで細長い姿はまさに研究者といった風貌。
彼の挨拶に続いてワシも名乗り、思い出したかのようにエヴェリウス侯爵家の者であると付け加える。
「エヴェリウス侯爵閣下がご息女をお迎えになったというお噂はかねがね伺っております。失礼ですが…その様なお方が、我が薬学部に何の御用で御座いましょう?」
高位貴族の令嬢に紹介するような所では、という評判はレイロフ本人も知っているのだろう。
薬の御用立てであれば間に誰かを立てればいい、むしろ高貴な身ならそれこそがマナーだ。というのにワシは直接来たので、実に不思議そうな顔をしてレイロフはワシを窺っている。
「んむ、薬学部に入ろうかと思うてな。しかし聞いただけではどの様な所か分からぬ、なので失礼とは思うが様子を見にの」
「御身に来ていただき光栄に思うこそすれ、失礼だなんてそんな…。しかし、侯爵家の令嬢が来られるような場所でもないのは確かです」
「ここを教えてもらった者も同じようなことを言っておったが、どういうことじゃ?」
「そうですね…。立ち話も…いえ、部屋の入り口でする話でもないのでどうぞこちらへ」
立ち話も何だからと言いかけて、車いすに座っているワシを見て少し苦笑いをしたレイロフが部屋の奥、衝立に遮られた場所を手で示す。
衝立の先には向かい合わせのソファー一対と、それに挟まれる形の背が低めのテーブルだけの簡単な空間。
レイロフはアニスが適当な場所に車いすを止め、ワシの後ろに控えるのを確認すると「失礼します」といって向かいのソファーに腰を下ろし話し始めた。
「セルカ様は、ここがどの様なことをする場所かご存知でしょうか?」
「うむ、無論少々耳に挟んだ程度の話じゃが、薬の研究やら後進の育成をする所じゃと聞いたのじゃ」
「えぇまぁ、大雑把に言ってしまえばその通りでございます」
薬の研究と並行して、研究成果である薬を作成もしているとレイロフは言う。
魔法を扱う以上、怪我をする者は確実に出るその為にもそして研究成果の確認も兼ねてという事らしい。
「しかしそれでは余りおすすめせぬ理由には思えぬがの、女人禁制という訳でもなかろう?」
「えぇ、それはもちろん。騎士の妻の中には玄人はだしの者もおりますし、むしろ平民などでは女人の嗜みとも。いま問題なのはセルカ様ご自身の身分とお相手にございます」
「お相手というとクリスのことかの?」
「はい。騎士の妻も薬を作るのは夫の一人の為にございます。夫が妻の作った薬を他の者に渡すのであれば問題はございませんが、初めから人に渡すつもりで作るものは…あまり外聞が良くないといいますか」
なるほど…例えるならば愛妻弁当を夫が出先で同僚に分けるのは良いが、初めから同僚にあげるつもりで弁当を作るのは…要は浮気を疑われるという訳だ。
「して、お相手というのは分かったのじゃが、もう一つの身分とは?」
「こちらは単純明快、畏れ多いのでございます。怪我をする者の大半は私と同じ子爵や男爵などの下位の者、こちらも単純に人数が多いからでございます」
「なるほどのぉ…しかし、いきなり素人が作ったものを配りはせんじゃろう?」
「はい、そこは如何に侯爵令嬢と言えど…」
「では、問題無いのではないかえ? それに将来渡すとしてもクリスのみに渡せば良いのではないかの、クリスの身分であればそれも許されるじゃろうて」
「えぇ、まぁ…その通りですね」
やや…いや、かなり強引な言い回しではあるがレイロフも元々特に反対と言ったわけではないのかワシの入部を認めてくれた。
「ところで、話を聞く限りこの学院の怪我人に配る薬まで作っておる割には人が少ない…というかおぬし一人のようじゃが?」
「何と言いますか…薬学部は人気が無くて、配る分は配合だけ教えて殆ど学院お抱えの薬師に作ってもらっています」
「あぁ…なるほどのぉ…」
貴族のしかも魔法を習う学院で薬を学ぶというのは、言い方は悪いが確かにパッとしない。
それはそれで煩わしい関係が無くて良いものだと苦笑いするレイロフを尻目に、久々に嗅ぐ森の香りにワシはほうと息をつくのだった…。




