369手間
質素ながらも色とりどりの小鉢が載った膳を前に箸を持ち、結局何にも手を付けることなく箸を置く。
ここ数日は水すら喉を通らない、まともな人間であれば衰弱しそうなものだがワシには何の痛痒も感じない。
普段であれば利点にしかならないが、今はそれが恨めしい。
「ナギや、すまぬが下げておくれ」
「ですが…」
「すまぬ」
「かしこまりました、ですが後ほどお話させてもよろしいでしょうか?」
「うむ…」
心配そうにワシの顔を覗きこんでから、カチャカチャと手を付けられることなかった膳をナギが運び出す。
ナギが社から出ていくと、ワシにすり寄ってくるコハクの頭を撫でてやる。
シンと静まり返った社の中にいるのはワシとスズリとコハクだけ、他の子たちはもう居ない。
ナギが言うにはワシがいない間に親狐が子狐を、まるで自分の子供だと分からなくなったかのような剣幕で追い出してしまったというのだ。
その後、親狐たちもコハクだけを残し名残惜しそうに出て行ったという。
「コハクは寂しくないかえ…?」
この中では一番あの子らと一緒にいたのはコハクだ。そう思って声をかけたのだが、当のコハクはようやくうるさいのが居なくなったとばかりのふてぶてしい態度で、一声こやんと鳴いてワシの膝の上で丸くなって眠り始めた。
ふぅと息を吐き、丸まった背中を撫でているとナギが戻ってきてワシの前に正座した。
「神子様。神子様は一体何に思い悩んでおられるのですか?」
「カルンにワシのせいで怪我を負わせてしまってのぉ…それもワシが手を抜いておったせいじゃ」
「ですが。神子様が王太子様を傷付けるために、手を抜いておられた訳では無いのでしょう?」
「もちろんじゃ」
「スズシロもあれは致し方なかったことと言っておりましたが、神子様が防げることが出来なかったことであれば、この世の誰も防げたことではございませぬ」
「しかしのぉ……」
出来なかったのではない、しなかったのだ…この差は大きい。いや、比べる事すら烏滸がましい。
もちろんどこぞの小悪党のように、命を落とすことを期待してなどでは断じてないが。
「人一人、手の届く範囲などたかが知れております。その手も小さく握りしめようと受け止めようと、指の隙間から零れ落ちるものの如何に多い事か…」
目をつぶり、悔恨するかのように声を絞り出すナギの姿をじっと見つめる。
「神子様の両の手は広くその腕は遠くまで届き、なるほど私どもが一生かかって届かせるモノも、手のひらを上に向けるだけで届くのかもしれません。ですが神子様もお人、大地の様に頼もしい手のひらだとしてもそれは器ではなく手のひらで御座います、いかにピタリと指を閉じようと隙間は開いてしまいます。此度の事はその指の隙間から零れてしまった砂の一粒。神子様にこの様なことを申し上げるのも何なのですが、同じようなことが無いように次を気を付ければ良いのです」
「つぎ…きをつける…」
「はい、子供に諭すような言葉で申し訳ございませんが……」
「次は…あるかのぉ」
命を王太子を危険に晒した罪は重い、例えワシでもそれから逃れ得るものでは無いだろう。
「神子様は王太子様を危険に晒した訳ではございません。危険からお救いしたのです」
「それは…」
おかしい、そう続けようとしてナギが手のひらを突き出してワシの言葉を遮る。
「スズシロや駆け付けた医師もいっておりました、これ以上私たちにできることは無いと…。傷は綺麗に清められ処置も施され後は治癒を待つだけだとも。幸い骨折は臓腑にも損傷は無いようですし数日の内には回復するでしょう。これは全て神子様のお陰で御座います。私も多少心得はございますし、心得があればだれでも出来るかもしれません。ですがそれは安全な街中でのこと、何時襲われるかも分からぬ場所で正しく対処できるものなどたかが知れております。だからこそ王太子様は多少大きな怪我をしたで済んでいるのでございます、もしこれが他の者であれば傷は膿み腐り、命まで腐り果てていたかもしれません」
「…そ……」
それは誰にでも出来ると口にしかけて、ナギはそれは誰にでもは出来ないと言っているのだとすぐに口をつぐむ。
「神子様は…もしかして、今まで誰にも叱られたことが無いのではないのでしょうか…?」
「む……そういえば…うーむ」
ナギがふと思いついたといった感じに言った言葉に首を捻る。
いわれてみれば小言などはあったかもしれないが、叱られたことは無いかもしれない。
「私の言葉でほんのほんの僅かでもお心が軽くなれば良いのですが、神子様のお心を晴れやかにするもっと良い方法がございます」
「それは…なんじゃ?」
「王太子様に謝りに行きましょう? あの後から一度もお会いになっていませんよね?」
「そう…そう…じゃな」
戻ってすぐワシは社へと引きこもり、ナギの言う通りあれから一度も会いに行っていない。
カルンが許してくれるか分からないが、謝りに行こう…謝る、そんな当たり前のことすら忘れていた自分の愚かしさに思わず苦笑するのだった…。




