313手間
ふわりと鼻先をくすぐる臭いに目を覚ます。
そして反射的にその臭いは何だと強く嗅いだことによって、ガバッと飛び起きてしまう。
「ふぐっ! なんじゃこれは」
「温泉の香りでございます、ここは特に湯量が多いですから慣れぬ間はキツイとは思いますが…」
「あぁ、うむ…大丈夫、だいじょうぶじゃ」
卵が腐ったかの様と表現される硫黄の香り、刺激臭の正体が何なのか理解するとそこまで気にならなくなるのだから、なんとも不思議なものだ。
それにしてもなんだろう馬車が心なしか狭くなったような…。
「ん? んん? ここはどこじゃ?」
「セルカ様がお眠りになっている間に街へと着きましたので、勝手ながら牛車に移動させていただきました」
「なんじゃ、それならば着いた頃に起こしてくれれば良いではないか」
「いえいえ、この様な些事で気持ちよさそうに寝ておられたセルカ様を起こすなんてこと、私どもにはとてもとても」
「うぅむ…」
まるでそれは禁忌であるとばかりに語るスズシロに、確かに気持ちよく寝ているところを起こされるのは気分が悪いなと、スズシロの気遣いに感謝する。
「それにしても、牛車なぞようすぐに用意できたものじゃの」
「ここは位の高い者もよく利用する街ですので、牛車の貸出をしている所があるのです」
「なるほどのぉ…」
どこの世でも似たような需要があれば似たようなサービスが行われるのだなぁ…などと考えつつチラと牛車の入り口の簾をよけて、町並みを眺める。
「お…? おぉ、あれは火事かえ?」
表通りに立ち並ぶ家屋の向こうそのあちらこちらから、もうもうと立ち上る白煙しかし街人はそれに慌てるでもなし、ただ喧騒の一助となっているだけだ。
「セルカ様、あれは火事などではなく、湧き出る湯から昇る湯気でございます。湯もそうなのですが、あの湯気はとても熱いのであれを使った料理などが、ここらの名物となっております」
「ほほう…それはなんとも楽しみじゃのぉ」
なるほど、確かによくよく見れば火による煙でない事がわかる。
それにしても温泉の蒸気を利用した料理…実に楽しみで今から涎が止まらない、そう思えば立ち上る湯気のどれもこれもが炊事の煙に見えてくる。
「それでは、せっかくの昼前の到着ですしお宿にはすぐに昼食の準備をさせましょう」
そう言ってスズシロは簾越しに外にいる侍中に指示を出すと、指示を出された侍中が町中を駆けていく。
「ところで前に言うておった、見せたいものとはこれのことかの?」
「いえ、これもですがまだ御座います」
「ほう…何かのぉ何かのぉ」
ワシの雰囲気に釣られれたのか、楽しそうに尻尾を揺らす狐を撫でながら、この温泉の町といった風情以上のモノとは何か心を踊らせる。
牛歩の歩みに揺られることしばし、ようやく着いた宿の外観は歌に詠まれ小説に出てきた、どこぞの有名な温泉の様な佇まい。
「おぉ…これは立派な宿じゃなぁ」
「このお宿はこの辺りで最も古く、女皇陛下もお泊りになられたこともあるお宿でございます」
「ふむ、そんな由緒ある宿にこの子も連れて行って良いものかの?」
そう言ってワシは抱きかかえている狐を、ずいとスズシロの前に突き出す。
「えぇ、もちろん。むしろ箔がつくと宿の者も喜びましょう」
「ふむ…」
どうしても宿に動物を連れ込むのはご法度という感覚がある。立派な宿となればなおさらその感覚は強い。
ここまで連れてきて何を今更という話ではあるが、一応確認しておくに越したことはない。
懸念も晴れたならば後に残るはどんな料理が出てくるかという疑問だけ。過剰なまでに辺りを警戒する侍中を気にしないようにしながら、今にもスキップしそうな足取りで宿の中へと入るのだった。




