301手間
真っ暗な…天も地も、全てが塗りつぶされたかの様な空間。そんな中を緑の目だけが揺らめいている。
斬ろうが裂こうが殴ろうが、どれほどの間…何をやっても変わらずそこにある緑の目に業を煮やす。
「こうなればワシの全力で以って……」
グッと右腕に力を籠めた途端、腹部に衝撃がはしりその衝撃で目が覚める。
「うっむっ? ぬぅ?」
がばっと体を起こすも未だ目の前は真っ暗で…。
「おぬしは何故、そんな所にへばりついておるんじゃ」
ベリッと左手で、目元に張り付いているスズリを引っぺがす。
ようやく開けた視界で夢の中で受けた衝撃の場所を確認すれば、お腹に足を乗せてこちらを見つめる狐の姿。
左手はスズリを掴んでいるので、右手でなでてやろうと手を伸ばせば、目に入るのは魔手となっている右腕。
「むっまさか……」
夢の中で随分と暴れたがと慌てて周りを見渡すも、飛び起きたせいで乱れた布団以外は特に部屋に被害は無く、ほっと息を吐く。
「おぬしが止めんかったら、部屋が吹き飛んでおったかも知れんのぉ…」
右手を元に戻し、今度こそ頭から背中へ滑るようになでてやる。
しばらく左手でスズリ、右手で狐の感触を楽しんでいると、がらりと寝室の引き戸が開けられ湯桶に手ぬぐいをかけた、まるでこれから銭湯にでも行くのかというような格好のスズシロが入ってきた。
「セルカ様、お気づきになられたのですね」
「うぅむ…一体何があったのじゃ?」
カルンにせがまれて、夜中に屋敷の中を巡ったことは覚えているのだが…そこから先がぼんやりとしか思い出せない。
「昨晩、セルカ様と王太子様を見つけた夜警の者が駆けつけた際には、すでにセルカ様は気を失われていたとしか…。王太子様にお話を聞きましても、夜警の者が顔を出したくらいで気を失ったとしか」
「う…うぅむ…」
「もしやお体の調子が悪いのでは無いでしょうか? 明日の謁見を無しにすることは出来ませんが…それでも最大限――」
「いや、うむ。 大丈夫じゃ、体調が悪いとかでは無くての…」
心底心配しているスズシロには悪いが、真相はおばけが怖くて気絶しただけである。
正直恥ずかしくてたまらない、けれどもそれを言わなければスズシロはしばらくの間、体調は体調はと心配し続けることになりかねない。
「原因はわかっておる…」
「それは何でしょうか!? 出来る範囲ではございますが、侍中、侍従一同全力でそれを排除させていただきます!」
「いや、そこまで気合をいれんでもよい。 それよりもじゃ…カルンには絶対いわんでくれよ?」
「王太子様にですか? 畏まりました、このスズシロ…王太子様に漏らさぬと女神様に誓います」
「そこまでは…うむ……なんじゃ、ほれ……おばけが…の? 苦手なだけじゃ……」
恥ずかしさでペタリと耳が伏せられ、顔から火が出るかと思うほど血が集まっているのがわかる。
ワシの肌は白いから、誰が見ても顔を赤くしてると思うはずだ。
「それは…何ともまぁ」
「いい歳して、おばけが苦手なぞ恥ずかしいじゃろ…?」
「いえいえいえ、そんなそんな…どの様な御方にも苦手なモノの一つや二つ…むしろセルカ様の様な御方でしたら、おばけが苦手というのはすばら…いえいえ、欠点にはなりえないかと…」
「カルンに言わねばよい…心配をかけてすまんかったの。 ところでそのカルンは何処かの?」
まるで、もふもふのぬいぐるみでも見つめるかのような、スズシロの愛らしいものを見る視線に耐えかねて話を変える。
実際周りを見渡しても、既にカルンの布団は片付けられ寝室にはワシとスズシロしか居ない。
「王太子様はいま朝餉でございます。 先程まではここに居られたのですが、王太子様も倒れられてはという侍従の言葉に従ってのことですので、決してセルカ様を心配されてないということではございませんので」
「あぁ……よいよい。あやつがそうそう人を放ったらかして、飯を食べられるような奴ではないのは知っておる」
そう言えばカルンとワシは婚約者という設定だったなということを、スズシロの慌てた様子に思い出す。
確かに倒れた婚約者を放っておいて、自分だけご飯を食べるというのは…。
いや…そこまで問題でも無いような…? あぁ…でも子供であればその辺りは五月蝿いか…恐らくスズシロはそれを心配していたのであろう。
スズシロたちにはワシの年齢は言っていない。王国に居る獣人の女性は見た目が幼い風に見える位は知っているので、見た目通りか多少高いくらいとしか思ってないだろう。
「では、ワシも朝食を食べるかのぉ…っと用意はしてあるのかえ?」
「もちろん、いつ起きられても大丈夫なようにご用意させていただいています。 ですが…万が一があってはいけませんのでせめてお昼まではこの部屋でご養生ください。すぐに支度をさせていただきますので」
「ふーむ、体調は問題ないのじゃが…わかったのじゃ。 しかし、昼までというのはどういうことかの?」
「はい、お昼からは明日着ていただくお着物のご試着をと思いまして、もちろん体調次第ではすぐに止めさせますが」
「ふむ、わかったのじゃ。 では昼まではこの部屋でのんびりとさせてもらおうかの」
「では、少し失礼します……あ、セルカ様。 先程のお話侍中や侍従の皆に伝えてもよろしいでしょうか?」
「おばけが苦手ということ…かの?」
「はい、セルカ様が倒れたと聞いて皆気が気でない様子でしたので」
「うぅむ…皆にカルンには内緒ということを徹底させればよいのじゃ」
「畏まりました」
部屋を辞するスズシロを見送り、スズリと狐を撫でながら気絶した理由をカルンに伝えるのに、おばけが苦手と言わなければならない事にふっと気がつく。
「あぁあ…スズシロらに口止めしても意味がないではないか…」
がっくりと肩を落とし、どうにかして誤魔化す手はないかとワシが起きたと聞いたカルンが来るまで、あれやこれやと考えを巡らすのだった…。




