289手間
目の前に広がる雄大な自然を眺めながら温泉に浸かる、可能であれば連泊してのんびりしたいところ。
しかし、観光で来ているわけではないので、その様なワガママは許されない。
とはいえこの世界の一年に当たる一巡りは居ることになるはずなので、また温泉に来るチャンスは何度もあるだろう。
「ふーむ、各地の温泉を入り比べるというのも、良いかも知れんのぉ…」
「それは良い考えでございますね。セルカ様の玉のような……いえ、玉すら霞む美肌をさらに磨くに相応しいお湯も我が国にはありますので、ぜひ」
「ほほう、やはりその様な効能の温泉もあるのじゃのぉ」
スズシロの若干熱の入った賛美を聞き流し、首だけで振り返り背後で控えているスズシロへ都合のいいところだけ聞き取って返事をする。
「はい。各地で違う効能がございまして、本日のお湯は疲労回復の効能があると言われており、旅人や商い人に人気の湯でございます」
「なるほどのぉ…」
ぽつりと呟き、ぱちゃりと湯を顔にかける。ワシらは早々…特にワシなどは疲れることなぞ無いが、普通の人であれば数日馬車に乗り続けるのはかなり体にくるだろう。
とはいえ文字通りの疲れ知らずの人間なぞは彼女らには与り知らぬこと、温泉の効能もワシが温泉について言及しなければスズシロも言うことも無かっただろう。なかなかに小憎らしい気遣いだ。
なればこちらもそれに対してわざわざ礼を言うのも粋では無いと、再び不思議な山へと視線を向ける。
目隠しの壁の上からも、頂上付近が十分見えるほどの標高を誇るその不思議な山のシルエットを例えるならば、ダルマ落としされた山だろうか。
三角形の山の中腹をスコンとダルマ落としのように打ち抜いたかのような見た目、ダルマ部分に当たる山が少し下の山と距離がずれてるようにみえるので、まともに考えるのであればカルデラの中に山でもあるのだろうか…。
「あちらのお山が気になりますか?」
「うむ、不思議な形じゃなと思うてな…形からみて火山なのじゃろうが…山の中に山があるのが不思議での」
「あのお山は霊峰フガク、我々にとって女神様と並ぶ信仰の対象でございます」
「フガクとな? 人の様な名前じゃのぉ…」
「さすがセルカ様、そのとおりで御座います。霊峰フガクは一人の英雄の名からですので」
思わず飛び出た面白そうな逸話に、耳をピクピクと動かして興味を示す。
新たな逸話や御伽噺を知るのは、幾つになっても心躍るものだ。
「その話詳しく聞かせてくれんかのぉ」
「かしこまりました。霊峰フガクがまだ名も無き火を噴く山だったころ、麓に一人男が住んでおりました。その男こそがフガク、しかしフガクはまるで小山のような巨躯で、そのせいで人々に忌み嫌われ危険な山の麓で暮らしておったのです。ですが、ある日たびたび火を噴いていた山が尋常一様でない様子、忌み嫌われながらも心優しかったフガクは近くの村に危険だと伝えに行ったのですが、村の人々はそう言って我々を村から追い出す魂胆だろうと、石を投げフガクを追い払ってしまったのです」
スズシロの語りだした御伽噺に、首だけで相槌を打ち続く言葉に耳を傾ける。
「フガクは石を投げられたことよりも信じてもらえなかった事を悲しみ麓へと戻る途中、遂に山が火を噴いたのですがそこまではよくあること。けれどもその日はフガクがおかしいと思った通り、常ならば止まるところでも一向に火の噴く勢いが衰える事はなく、とうとう地をひっくり返さんばかりの勢いで山の天辺が吹き飛んでしまったのです。もちろんそれは村からも見えたでしょうが山までは距離があるため村の人は今日は凄かったと思うだけ、けれども木々を超す背丈を持つフガクは見てしまったのです天辺が吹き飛んだ山から、まるで吹き飛んだものが堰だったと言わんばかりの赤い河が流れてくる様を。遠い村の人は知りませんでしたが近くに住んでいたフガクはそれが火で出来た河だと知っていました。普段であれば麓で火の河は冷え止まるのですが今日は止まる気配がなく、如何にも村に届きそう。フガクは振り返り村に知らせに行こうかと思ったけれども信無き自分の言葉ではきっと村人は逃げてはくれない。自分ひとり逃げることも出来たけれども心優しきフガクは村人を見捨てることはせず、自分が河をせき止めて見せると山へ向かったのです」
ここからが面白いところといったところで、コホンとスズシロが咳払いをして話を区切る。
「どうやら王太子様が外で長らくお待ちのようですので、続きはまた後程…」
「な、なんじゃと…」
スズシロの言葉にバッと振り返れば、入り口に困り顔の侍中が一人。
「朝食も既に用意が済まされているとのことですので、またお昼前に入るのでしたらそれまでの無聊の慰めにと思いいただければ」
「う…うぅむ、それであれば仕方あるまいのぉ…」
カルンよりもワシを優先するような侍中連中がこういうとは相当な間カルンを待たせたのだろう。
小説も一気に読み切ってしまってはつまらないと気分を切り替え、未練を溜め息とともに追い出して湯から上がるのだった…。




