287手間
翌朝、夜半まで続いた雨はすっかり上がり晴れ渡る青空は正に行楽日和、葉に垂れる雫も朝日を浴びてまるで宝石のようだ。
いつもより朝日が眩しい部屋の中、そわそわと侍中が報告を持って帰って来るのを今か今かと待ち構える。
「ねえや…そんなにそわそわしなくても…」
「何を言うておる、温泉じゃぞ温泉。それに昨日はお預けを食ろうたのじゃ、それ故楽しみでのぉ」
そわそわしすぎで耳がひくひくと動くのが分かるほど、そんなワシを呆れた風にカルンが見るのだが。
カルンには温泉の良さを覚えてもらって、是が非でも王国でも温泉を発掘して欲しい。
「朝昼晩と食事の前に入って、夜は星見で一杯といくかのぉ…」
「体を洗うのなんて、日に一回で十分でしょう」
「確かに体も洗うのじゃが、目的はそんなことでは無いのじゃ! 温泉にじっくりと浸かってじんわりと日頃の疲れをじゃな、湯に溶かすのはそれはもう…」
「ねえやに日頃の疲れなんてあるの?」
「無いの。じゃがそれはそれ、気分の問題というやつじゃ。無いならないで諦めて我慢できる類のものじゃが、あるとしれば是が非でも入りたくなるというものじゃ。一度浸かればカルンにも良さが分かるじゃろうて」
疲れと言えば昔『縮地』などの『技』を使った時に感じたくらいで、それ以降は疲れどころか肩こりなどとも無縁の生活。
今では『縮地』はわざわざ発動せずとも息をするように使える域にまで達している、お蔭でいくら使おうとももう疲れることはない。
「セルカ様、スズシロで御座います。温泉の準備ができたとのことですのでお呼びに上がりました」
「おぉ、ご苦労じゃったなスズシロや。では行くとしようかのカルン」
「朝食をしてからでいいんじゃないの?」
侍中が部屋に入ると同時に立ち上がり、はやくはやくとカルンを手招きするがまさか自分もとは思わなかったのか、少し驚いたように問い返してくるが興味はあるのかのんびりと腰を上げる。
「ダメじゃ、風呂の前の食事は体に悪いからの。食事をとるもの風呂から上がり四半刻ほど体を落ち着かせてからの方がよい」
「へぇ、そうなんだ…。今度から城でもそうしようかな」
「うむ、それが良いじゃろうの。長生きは小さなことの積み重ねが重要じゃて」
二人して侍中に温泉へと案内されながらカルンの問いへと答えを返す。ワシが長生きどうこう言っても説得力皆無だろうが、カルンにはできるだけ長生きして欲しいものだ。
今まではどうやら夕食の後に風呂に入っていたようだが、ワシと違いカルンの風呂はお湯を沸かしてそれを風呂に溜めてと手間をかけているので、食事後から入浴まで十分に時間をとる事になり問題はないのだが。
「ここより女性と男性別れますので、セルカ様には私が王太子様にはあちらの者がお付きいたします」
しばらく歩き、暖簾代わりのこの辺りはどこも認識は一緒なのか、赤と青に塗り分けられた引き戸の前で、スズシロが後ろから着いてきたもう一人の侍中を手で指し示す。
「む? 女湯の方は兎も角じゃが…男湯に侍中が入っていくのは大丈夫なのかえ?」
「はい、そのことも侍中の仕事ですので」
「いや…そうではなくの?」
「あぁ、本日は貸し切りですのでご安心ください」
一度勘違いしたスズシロだったが、すぐに気づいたのか…ぽんと手を叩いて可愛らしく顔の横で手を合わせてそんなことを言ってのけた。
「む、それは何ともありがたいのじゃが…。他の宿泊客に悪いのぉ」
「それも大丈夫で御座います、他に宿泊客はおりませんので」
「ほう…そうなのかえ、見たところ悪い宿では無さそうなのじゃが」
確かに建材に使われている木はすっかり変色し、古いということを雄弁に伝えてきているが、それは手入れされた古さであり決してボロいという訳ではない。
まさに老舗旅館といった風情で、世が世であれば「予約の取れない」などと枕詞がつきそうな程だ。
「はい、それはもちろん貸し切りでございますので」
「もしや温泉ではなく旅館全部貸し切りなのかえ?」
「はい、巫女様がご宿泊なのですから、当然でございます」
道理でとても静かで落ち着く良い宿だと…それはそうだ、人が居なければ煩くなるはずがない。
「もしや今までの宿も?」
「はい」
「宿泊客を追い出してはおらんじゃろうな? 流石にそこまでする必要は無いし、追い出してまでと言うのは気分が悪いからのぉ」
「ご安心ください、セルカ様がご宿泊なさる前後は客を取らせぬよう、ご宿泊なさる前後すべて貸し切っております」
「お…おう、それは何とも豪勢じゃの…」
客をわざわざ追い出しているわけではないと分かって一安心だが、当日だけでなく前後まるまる貸し切りとは…ワシらはいうなれば国賓であるし当たり前なのだろうか。
「セルカ様、温泉の方はよろしいので?」
「おぉ、そうじゃったそうじゃった。せっかくの貸し切りじゃ、一番風呂を楽しむかとしようかの!」
他の客に気兼ねなく入れるとなれば、湯に盆を浮かべて酒を飲むということもし放題。
唯一の懸念と言えば、恨めしそうにスズシロを睨みつけている、カルンに付くと言われた侍中くらいだろうか…。
カルンは城で侍女に風呂で洗われているので気にはしないのだろうが、侍中にしてみれば男の風呂の世話は仕事とはいえ面白いものではないだろう。
けれど藪をつついて魔物を出す必要もなし、心の中で侍中に詫て引き戸を開けるとぶわりと香る温泉独特の匂いに、知らず知らず口角が上がるのだった…。




