278手間
シン皇国に行くと言っても、観光旅行では無いので、それでは行きましょうというわけにもいかない。
皇国側にはすでに、カルンとワシが行くがその話を詰めてくれという旨の書簡を、皇国に居る王国の外交の文官に送ってあるという。
書簡自体が海路の為に陸路よりも早いが、動力機関なぞ無いのでかなりの日数どころか月単位はかかってしまう、更にそこから諸々の手続きをしこちらに返事をとなれば…。
ともかく、その間も暇を持て余しているという訳でもない。軍学校での講義なども残っている…カルンは将来王になることが確定したので、そこまで軍略を詰め込む必要も無いのだが。
そもそもあまり詭道が好まれないので、かなり判りやすい戦術しか取られないということもある。夜討ち朝駆け忌むべきものよと正面からの殴り合いが主で、そこへ如何に騎兵で横槍を入れるかに終始している。
百人を指揮するよりも一人で突っ込んだほうが早いというのもあり、正直この手のことに興味がとんとないので、ワシは内容をよく覚えていない…。
ともあれ、出発の準備が整うまでの数ヶ月、講義や訓練を繰り返すだけの日々だった。
準備を待つ数ヶ月で一つ巡りを跨いだのでカルンは十三に、シン皇国に滞在するのは短くても一巡り…ながければ成人である十五まで。
軍学校はあと二巡りほどあるらしいのだが、それがどうなるかは知らない。帰って来て残りを消化するのかそれともそのまま抜けるのか。
「それもこれも、今となっては些事よのぉ」
「ねえや…これ? 面白い?」
今回の旅は船で例の港街から出発しシン皇国側の港へと向かう。航路上は特に問題が起きない限り途中港には寄らない。
外洋には出ないため、そこまで大きな帆船ではないからか速度はかなりゆっくりで、しめて二十日ほどの船旅になるそうだ。
とはいえプールも無ければカジノもあるわけがない。楽団や劇団など余計な人員を乗せるスペースもないので流れるのは音楽の代わりに水平線と海岸だけ。
唯一変化する風景も今は風が無くなったせいでまともに船は進まず、潮に流されないように錨を降ろして停泊している。
そんな船の事に関わることも当たり前ではあるがやるはずもなく、要するに暇で暇で仕方がない…となればそんな無聊を慰めて更に実益にもなることと言えば一つしか無い。
「風が無ければ船は動かんじゃろうしのぉ…これくらいしか暇潰しもなかろうし諦めることじゃ」
「じっと糸を見てるのも暇なんだけど…」
ワシは船の欄干に腰掛けて釣り糸を垂らしているので水面もよく見えるが、カルンは甲板に置いてある椅子に座っているので、家の梁にでも使えるのではないかと思える程の立派な欄干に阻まれて、釣り竿と糸しか見えていない。
釣れればそれこそ良いのだろうが、場所が悪いか潮が悪いか釣り始めてから暫く経つが、糸が沈み込む様子は一向に無い。
「魚は捌きたてが美味いからのぉ…」
「おぉ、嬢ちゃんわかってるじゃねーか」
「ん? おぉ、船長か…どうじゃ風は吹きそうかの?」
「そうだなぁ…飯時を過ぎれば…ってところか」
「ふぅむ、櫂で漕ぐわけにもいかぬしの。ま、倍もかからねば良かろう」
「この調子なら嵐でも突然こなきゃ、精々伸びて三十日だな。そのくらいであれば十分食料には余裕がある。今回は貨物は殿下だけだからな。水に関しては嬢ちゃんのお蔭で心配する必要が無いときた」
「カルンに、藻の浮いた水を飲ませるわけにはいかんからのぉ」
「ははははは! 流石にそれは無いな。外洋に何時か出られるようになれば、心配する必要がでるかもしれんがね」
豪快に笑い「魚が釣れたら教えてくれや」と離れていった人物はこの船の船長、日と潮に焼けた顔と筋骨隆々の姿は正に絵に描いたような水夫。
彼の服装は取り立てて飾りの無い動きやすく丈夫そうなモノであるが、一つだけ立派な三角帽子が彼を船長だと知らしめている。
眼帯やら鉤爪やら髭でも生やしたら実に似合いそうだ。船に乗ってすぐのころに髭を伸ばしたらどうだと聞いてみたのだが、もしロープに絡まったらと考えると恐ろしいと言っていたので、見ることは叶わないだろう。
「む、餌は取られてしもうたかの」
「そろそろお昼ですし、丁度いいんじゃないかな」
「それもそうじゃな」
よくしなる木の棒に、大きなボビンの様な糸巻きが付いただけの単純な釣り竿、それのエサだけが取られ寂しくなった糸先を巻き上げて欄干から甲板へひょいと飛び降りる。
「後は私共が…」
「おぉ、すまぬの」
下っ端の船員であろうか、彼に竿を渡し船の中にある食堂へとカルンと一緒に向かう。
出港してから数日が経っているのですでに新鮮な食材は無いが、専属のコックが腕を振るった料理はさすがに城のものと比べると分が悪いが、高級な店で出されるものにも引けを取らないほどである。
「うむ、毎度のことながら美味いのぉ」
「がははは、お城の飯を食ってるやつにそう言ってもらえりゃ、鼻が高いってもんよ」
見張りやら何やらで、全員いるわけではないが食堂は一つしか無いので、沢山の船員に混じっての食事。
そんな中で食べる久々とも言える懐かしい感覚に、華を添える美味しい料理、となれば上機嫌にもなろうというもの。
「のぉ船長、ここらの魚は生で食えるのかのぉ?」
「あー。ここらのは無理だな腹を下しちまう、皇国より先の海じゃぁ腹を下さねぇ魚が獲れるって話だが…それでも生魚なんざ食う気にはならねぇな。皇国の奴は生魚を好んで食うんだが…嬢ちゃん皇国の出かい?」
「いや、ワシはもっと別のところじゃよ、ふぅむ…しかし皇国では刺し身が食えるのか…うむうむ、楽しみじゃのぉ」
「似たような奴は似たようなもんが好きなのかねぇ…」
「それはどういう事じゃ?」
「おぉ、それはな――」
「風がでたぞおおお!!!」
「おっと悪い俺は行くぜその話はまた今度な!」
船長を筆頭にのんびり食事を楽しんでいた面々は、そとから聞こえてきた叫びに反応するように料理をかきこみ始め、慌てて甲板へと走っていく。
「うぅむ、焦らされるとますます楽しみになるのぉ…」
刺し身があるのなら、あとは醤油とお米があれば完璧だとまだ見ぬ国に思いを馳せるのだった…。




