264手間
遠く雄大なシン皇国との国境を隔てる山脈を望む平原へ、人が主に活動する範囲からそれなりに踏み入った場所に、今ワシらがいる野営地は建設されている。
元々長期訓練をする予定だった上に、この度の魔物の連絡を受け王軍も増援としてやって来ているので、百名以上を十分収容できる広い範囲をグルリと簡易的な柵で庇ったかなり本格的な野営地だ。
ちなみにではあるが、このシン皇国側の辺境伯はウィル…ウィルヘルムの家であるリベルタ家とは別の、レクタリス家という辺境伯が治めている地域である。
シン皇国という長い付き合いの友好国が隣国故に、リベルタ辺境伯領の様に辺境伯軍は擁していない。
その代わり、天高く聳える国境山脈とその裾野に広がる鬱蒼とした森林地帯やそこから伸びる平原地帯と、魔物が出没し易い地域を有しているため王軍の規模はかなりのものになっている。
なので増援と言っても向こうの方が数は多い、こちら数は精々三十名強、詳しい増援の人数は聞かされていないが、ダブルスコアどころかトリプル…下手したらクアドラプルスコアかもしれない。
それほどの数を増援と称して送ってくるのだからレクタリス辺境伯が擁する王軍の規模は推して知るべし、そしてそれを送ってくる程の数が来ているという事か…。
昨日、豚鬼を倒し帰ってきた報告に行く教官と共に、こちらのお偉いさんに王子とウィルの紹介をするのに同道した。
だがまさか、昨日戦った豚鬼とほぼ同規模の集団と、こちらの軍は軍で戦っていたとは一体全体どれほどの量の豚鬼が押し寄せていたのか。
民族大移動とでも言うのだろうか…シン皇国からの連絡がなければ街の一つや二つ滅んでいてもおかしくはない、いやそれ以前になぜシン皇国からそれほどの規模が…向こうで一体何が起こったのやら。
その原因がこちらに飛び火したりしたら…などと考えると頭が痛くなったのを思い出し、また頭が痛くなる。
「はぁ…これはもう性と言うものかのぉ…」
「何か言ったかね?」
「いや何、どれほどの魔石が無駄になったかのぉ…とな」
普通の人ではニ、三代は入れ替わる程に政に関わってきたせいか、思わずこぼれた愚痴にギロリと差し向けられた音がしそうな声で何事か尋ねられたので、聞こえていなかったのだろうをいいことに冗談めかして返す。
「ははははは! 確かにな。だがあれ程の数だ、魔石や牙を回収するだけの部隊が必要になり、さらにそれを維持するための部隊が必要になりで、ここに街ができてしまうな!」
「その街が、減らんだっただけマシと思うしか無いの」
「然り」
ワシの冗談に、豪快な笑いと共に冗談を返してきたのは増援として来た王軍の指令官、実質今回のワシらの上司となる人物。
国王が軍人なら彼は武人といった雰囲気を醸し出す偉丈夫、壮年ながらも並の男なぞ太刀打ちすらできそうにないはち切れんばかりの筋肉。
乱暴に切りそろえた、白髪混じりなのか元々の髪色なのかは分からない灰色の髪から伸びる、狼の様な耳と途中から千切れたかの様な尻尾。
そう…彼は珍しく獣人の士官である、と言うよりも士官にまでなっている獣人は、レクタリスという家系の者だけである。
とまれ、ここの指令官が彼であり、彼はレクタリスという名を持つ…そしてここはレクタリス辺境伯領。
そう彼は紛うことなきレクタリス辺境伯家の者、むしろ辺境伯その人である。
この王国唯一の獣人の領主であり、この国 ―少し前まで― 唯一の獣人の士官の男。
普通の獣人はその気質から軍などの厳しい規律を嫌うのだが、元々この辺りは王国成立前に獣人の都市国家が在り、レクタリス家はその王の流れらしいが、結局のところ変わり者一族なのだろう。
ここに獣人の国が昔在った事と、それでこの国には獣人が多いのだと歴史書で読んだ時は、なるほどと膝を叩いたものだ。
しかし、そんな人がこんな前線まで出てくるとは、どこぞの侯爵と私軍の連中に見習って欲しいものである。あ、いや侯爵どもは見習わなくてよろしい。
教官含め三十名強というワシらの人数が示す通り、私軍連中は一人たりとも着いてきていない。
昨日の戦闘のことを思えば着いてきて無くてお互いに助かったが、私軍の連中には確実に死者が出ていたはずだしそれのフォローの為にこちらも重傷者が増え、最悪死者が出たかもしれないのだから。
「さて、諸君らも知っての通り、元々この辺りは魔物どもが出て来る量が多いのは普通なのだが、昨日の豚鬼どもの数は異常としか言いようがない」
「はい、閣下。皇国からの知らせでは、精々大規模な巣からの群れ二つ程度ということでしたが昨日のは明らかに……」
「うむ。大規模な巣そのものが二つどころか、三つ四つではきかないだろう」
何故ワシがそんな大人物と一緒に居るかと言えば理由は単純。作戦会議というやつだ。
野営地の中にある丈夫そうな天幕の中、ワシら訓練兵の中で一番階級が高いのは訓練兵ではない教官なので彼が出るのは分かるのだが、何故カルンやウィルではなくワシを伴って来ているのだろう…。
そんな疑問はとりあえず脇に置き…ワシも王都で聞いた話では、多くても百匹程度の豚鬼ということだった…だが昨日の豚鬼はワシらの所に来ただけでもそれ以上居た。
「大規模な巣から一部が巣立つのは別段不思議ではない。つまり皇国側では何ら異常は起こっていない。豚鬼どもはバカだが、流石にあの山脈を巣から別れた奴らは兎も角、巣そのものが集まったと言えるほどの数で越えようと考えるほどはバカではないだろう……。だから私は…忌まわしき獣が現れたのではないかと考える」
「なっ…確かにあの山や森一帯はマナが豊富ですが……」
「でなけれれば、あれほどの数の豚鬼どもが死兵の様になるはずがなかろう…」
忌まわしき獣が何かは分からないが、やはり追い立てられていたという考えは当たっていたようだ。
「ちと、よいかの?」
「何だ?」
「忌まわしき獣とは何かの?」
「あぁ、そうか…」
歴史書などにもそんな風に呼ばれる獣は居なかった。もしかしたら書く必要が無いほど誰でも知っているものかと思ったが辺境伯の顔を見るに、どうやら杞憂だったようだ。
知らないのも無理はないと、得心がいった感じで離しだした辺境伯の忌まわしき獣の話に、周りの者がだんだんと悲壮感に包まれるのとは裏腹に、ワシはニヤリと笑うのだった…。




