カルン公爵記:前編
ぐっと目頭を押さえながら首を回し背を伸ばす。
バキバキと首がなりほんの僅かだけ楽になった気がする。
ほんの少しの事だが、他に誰かがいればこんなほぐし方すら出来ないので慰め程度にはなるがそれだけだ。
今朝まで感じていた心地よい疲労を塗りつぶす不愉快な疲労に、思わずため息が漏れる。
本音を言えば誰かが来るまでぐったりと背凭れに体を預け、一眠りしたいところだがそうもいかない。
「父様、追加の書類持ってきました」
前が見えなくなほど…ではないが書類を抱えてきた我が息子。
そう、寝てるところを見られてしまったらカイルに怒られてしまう。
子供に怒られる親などどうかと思うのだが…今日は訪問予定の人も居ないし、見られることは無いのだけが幸いか。
「カイル…もう少し書類は少なくならない?」
「無理、と言うか自業自得。この書類だって、本当は母様が今日明日にやる分だよ?」
「今日は分かるけど、何で明日の分も?」
「母様にゆっくり休んで欲しいからですよ」
子供が母親を大切にしてくれるのは嬉しいが、同じ様に父親も大切にしてくれないだろうか…。
そう思ったのが顔に出たのかカイルが目を眇めてこちらをじーっと見てきた。
「昨日まで一月ほど離れてて寂しいのは分かるけど、夕食が終わったらさっさと連れて行ってそのまま潰したのが悪い」
「仕方ないだろう!? カイルにだってその内分かる日が来る、それよりもカイル。お前はいい人は居ないのかい?」
横抱き…セルカさんが言うにはお姫様抱っことやらで寝室に連れて行って…と。
未だにセルカさんはこのお姫様抱っこになれないのか、恥ずかしがって大人しくなる様がもう愛らしい。
寝台も横たえると菫青色に染まった水晶の様にきれいな瞳を潤ませて、北で見た雪の如くきめ細やかで白い肌を羞恥に染める様を見て我慢できる男が居るものか。
「なっ! 何で僕のことに、僕はまだ―」
「お前ももう成人したんだ、そろそろ考えても良い頃だぞ」
やはり普段から賢く大人びていてもこの手の話題には弱いのか、しどろもどろになっているカイルにニヤリと告げる。
言外にお前ぐらいの歳で、私はセルカさんと結婚したんだぞと優越感を匂わせて。
「はぁ…母様みたいにチョロい人は早々居ませんって…そんな事より今はこれです」
「ちょろ…? しかし…これ本当に全部?」
無情にも、カイルによってどさりと机の上に置かれた書類の山にため息しか出ない。
用事は済んだとばかりに部屋から出ていこうとするカイルに視線を向けるが、即座に首を振られてしまう。
「今度アレックスさんにも謝っていてくださいね、今頃本当はライラと一緒に狩りに出てるはずだったんですから。まぁ、当人は暇ができたと喜んでましたけど」
「わかった…それでセルカさんは今どうしてる?」
「ライラと使用人の皆さんがお世話してますよ、今回の事が無くとも母様は最近働き詰めでしたしいい機会です。それにしても本当に比喩でなく足腰立たなくなる人なんて初めてみましたよ。どうやったらあの母様をあそこまで出来るんです」
「それはだ――」
「いいです! 言わなくていいです、聞きたくないです」
「そ…そうか…」
思わず椅子から腰を上げて語りだそうとしたところを、即座に切って捨てられた。
本日何度めかわからない溜め息と共に椅子へと腰掛け直し、書類の山へと手を伸ばす。
「そうそう…」
「ん? どうしたカイル」
「とりあえず、明後日までに終わらせておけば大丈夫ですから、それ」
「そうか…」
「それと、その書類を父様がやるって言ったら、母様感謝してましたよ父様に」
「そうか!」
カイルの一言に喜々として書類に手を伸ばす、妻からの感謝の言葉でやる気にならぬ男がいるものか。
「うーん、父様もたいがいチョロい…」
カイルが何か言ったようだが、部屋を辞しただけだろう。
まったく父さんを手伝って領…今は国だったか、それの発展に手を尽くすのは昔からの目標だったけど、どうしてこうなったのか…。
元カカルニア領、現カカルニア王国の国王になった父さんの一族を王族として、その王族から臣下になった家を公爵とする。
大昔にあった国家という制度とやらを再現したらしいのだが、流石のセルカさんも詳しくは知らないらしい。
兎も角、その公爵とやらに自分がなったわけだ…カイル曰く国家の中で王族に次いで二番目くらいに偉いらしいがよく分からない。
とは言え偉くなったらその分、責任が増えるという事はわかる。その一端がこのうず高く積まれた書類に現れているだが…。
それにしても、セルカさんはいつもこんな細かい数字なんかを判断しているのか。
書類に書き連ねられた数字の羅列に軽く目眩を覚える。
セルカさんによれば学習院がもっと大きくなり、沢山の人が学び卒業すればこういう物も減るということだが、それも何時になることか。
けれどもそれがこの国の為になるという事はよく分かる。セルカさんも私財を投じていることだしそれだけ重要なのだろう。
何にせよ、セルカさんに褒められるためにも、この目の前の山を片付けねば。
初代カルン公爵としてセルカさんにも子供たちにも、そして家を継いでくれるまだ見ぬ子孫の為にも今は一つ一つ片付けていかねば。
頬を叩いて気合を入れ、まだまだ書類が運び込まれる事も知らずに上機嫌で書類へ集中し始めるのだった…。




