219手間
ガタゴトと走る馬車の振動に合わせて揺れる耳に、若葉のような柔らかな手を目一杯伸ばし腕の中の赤子がキャッキャと笑う。
耳へと伸ばした手と反対の手は逃してなるものかとばかりに胸元を掴んで放さない。赤子の握力も中々侮れないもので手を放しても落ちないのでは無いかと思うほどしっかりと握られている。
うりうりと赤ちゃんの胸元に鼻をこすりつけてやれば、笑い声と共にふわりと独特な匂いが鼻をくすぐる。
「ほんとすみません、このところずっと面倒見てもらって…」
「いやなに気にすることはないのじゃ。慣れぬ馬車旅とは存外疲れるものじゃからのぉ」
軽い乗り物酔いもあるのだろう。この赤ちゃんの母親がぐったりとした様子で呟くが、何も疲弊しているのは彼女だけではない。
実は結婚を機に引退した元冒険者だったという御者の女性以外、みな大小あれどぐったりとしている。
彼女たちが疲弊している理由は乗り物酔いや、慣れない馬車での移動だけでなく連日襲い来る小角鬼達のせいでもある。
数は多くなく散発的に襲ってくるため被害はないものの、迎え撃つのに一々足を止めねばならず数日ほど予定に遅れが出ている。
小角鬼達を無視して行ければ一番良いのだが、魔法を使うものに出遭っていないとは言え弓を使う小角鬼はそれなりにいるので襲ってくるものはなるべく倒さないといけない。
例え弓を使うものが紛れて無くても、矮小な小角鬼と言えど女性を軽く抑えつける位の力はある、石でも投げられて馬や彼女たちに当たっては目も当てられない。
「それにしてもこんな状態ですから夜泣きやぐずりが減ったのはありがたいのですが、子供のあやし方が慣れてるのはわかりますが私より懐かれてるのは…」
「この子にとってはお気に入りの玩具でも見つけたと言った所ではないかのぉ。それにお主がそんな状態じゃから遠慮しておるのじゃろ、子供は意外と親の状態に敏感じゃからの」
「それは経験ですか?」
「うむ、自分では隠しておるつもりでも意外と目ざとく気付いておるもんじゃ。それにいくら懐かれようと母親には勝てんしの」
「だと良いのですが…すみませんが私は横になりますね」
「うむ、休めるときに休んだほうがよい」
話している間も赤ちゃんの脇をくすぐったりしていたのだが、いつの間にか反応がなくなっていたのでふと見れば、すやすやと気持ちよさそうな寝息をたてていた。
よく遊びよく寝るのは健康な証拠と頬を緩ませ、タオル等を集めて作ったなるべく馬車の揺れが来ない様にした簡易的な寝床に赤ちゃんをそっと下ろす。
ぐったりとした女性陣の合間を抜けて幌の隙間から周りを見れば、護衛の男たちも隠しきれない疲労を顔に浮かべていた。
「小角鬼だ! とまれ!」
先に進んでいるリヒャルトの荷馬車側から、声からしてフリードリヒだろう叫びが聞こえた。
ここからではその顔は見えないが、声には疲れとまたかという呆れが含まれている。
「ここで皆を見ておいてくれ、ワシも行ってくるのじゃ」
「分かりました、セルカさんもお気をつけて」
「うむ!」
御者台に足をかけて外へと飛び出し、恐らく一番よく見えるであろう荷馬車の側へと駆け寄りその御者台へと飛び上がる。
「小角鬼共はどこじゃ?」
「あっちです」
「ふーむ、もう見つかっておるようじゃの」
「えぇ…でもあれは…」
御者台の上に立ち手で目の上にひさしを作りリヒャルトが指差す方向を見れば、此方めがけ一直線に小角鬼の集団が駆けてくるのが見える。
ギラギラと欲望に濡れ、此方まで臭いが届きそうなほどの醜悪な顔が動きながらも一時も外すこと無くこちらを睨みつけているその数…。
「ふむ、四十は居そうじゃのぉ」
「どうしますか? 荷馬車を捨てて逃げますか?」
「どうじゃろうのぉ…小角鬼の生態は知っておろう? あの数じゃ荷馬車を捨てた所で大した囮にも為らぬじゃろうの」
「どうするよ、流石にあの数はヤバイ。逃げるのも無理だろうな。荷馬車は捨てれるが女が乗ってる方は捨てられない、あれがある限り絶対に追いつかれる」
リヒャルトの弱気な発言に同意するかのような声音でフリードリヒが尋ねるその顔は、重要な書類に判子を押す前の年寄りのように老けて見える。
「うーむ、手がないわけではないのじゃが…」
「あるなら言ってくれ、何か必要な物があればいくらでも出す!」
「いや、物はいらぬのじゃ。これからするのはワシの奥の手の様なものじゃからの。このような事が出来ると他の冒険者にみだりに広めんでくれればそれでよい」
「わかった! お前たちもそれでいいな!?」
「おう!」と言う見事に揃った声に鷹揚に頷くと、小角鬼共がよく見えるよう荷馬車に積まれた箱に登り立ち上がる。
「ふむ、四十と思うたがもう少し居るようじゃな、まぁよいどっちにしろ大盤振る舞いじゃ!」
一体何をするんだという訝しげな幾つもの視線が、この後どんな風に変わるだろうかと想像すると思わずニヤリと笑みが漏れる。
「あぁ、そうじゃ。角やら魔石やらは取れんこうなるが良いかの?」
「え? あ…あぁ。確かに勿体無いと言えばそうだが…今はそんな事言ってる暇ないしな、それで一体何をするんだ?」
「ふふふ、そう急くでない。今見せてやるのじゃ『狐火』! んふふふ、灼き尽くすが良い!」
ノリノリで小角鬼の集団をビシリと指し示せば、九本の尻尾全てに灯る以前ウィーガーに見せた時よりも大きく勢いのある火の玉がそれぞれの方向に向かい勢い良く投げたボールの様に飛んでいく。
その火の玉は小角鬼共の只中へ飛び込むと、まるで万雷の喝采かの如く地面から小角鬼全てを覆い尽くすほどの巨大な蒼い火柱が天へと昇っていった。
極炎の喝采が鳴り止むとそこには最初から何も無かったのように焼け跡一つ無い地面が広がり、ただ足跡だけがそこに何かが居たと言うのを伝えている。
「うむうむ、狙い通り小角鬼だけを灼けたようじゃな重畳重畳」
何も居なくなった大地にはワシのふふんと得意げな鼻息と、誰かが腰を抜かして尻もちをついた音だけが良く聴こえるのだった…。




