204手間
獣とは明らかに違う唸り声、まだ距離は離れている。
しかし音が聞こえる角度から、相手は明らかにワシの身長よりも高い。
つまりそれほどの体格をして、更には維持することが出来るもの。
それだけで既に厄介だと分かる相手が居るはずの咆哮へ、恐る恐る振り返る。
しかし、目に入るのは鬱蒼とした熱帯雨林だけ…。
だが確かにこの耳には、その森の中から何者かの息遣いが聞こえる。
目を凝らしているとメキメキと木々を踏みつけ押し倒しながら動く音。
魔獣や魔物であれば獲物を見つけた途端、一も二も無く襲い掛かってくる。
ましてやワシの身長を優に超えるモノであれば尚更。
だが獣の本能というべきか、襲いかかる直前までは極力その存在を隠す。
なのにこの相手は息遣いも、木々を踏む音も隠す気がない。
それでも問題ないほど成長してしまった魔物か…。
「あるいはここの住民…かの…」
いよいよ音が近づき、その主であろう者の手がまるで緑のカーテンを潜るかのように木に手を当て森から姿を表した。
「これは…」
現れたその姿に思わず声を失う。
ワシの倍程はあろう身の丈は森と同じ深緑の肌、その手足の太さはワシの胴周りでは足りないほど。
見て分かる程筋肉がはち切れそうな手足をしてるくせに、その腹はでっぷりと膨らみ擦り切れ汚れきった腰ミノ一枚だけをその身に纏っている。
見上げた顔はコレでもかとしゃくれ、二本の牙が顎から天をつきその存在を示している。
それだけであれば勇壮と言えるだろうが、鼻はまるで殴られたかのようにひしゃげ目は濁り、まさに醜悪という言葉を体現しているかのようだ。
丸太のような手には文字通りの丸太が、握りやすいよう柄の部分だけ削られただけの、とても簡素な鈍器を握りしめている。
原始人だってもっとまともなと思うが、それでも道具と衣服と言って良いものか腰ミノをしている時点で知能があるということ。
「うーむ、しかし見た目だけなら明らかに素っ首落としても良いのじゃが…」
その姿、まさにファンタジーの敵役として主にちょっとアレな事で有名なオークそのものだ。
けれど一応まだワシへ攻撃などを仕掛けては来ていない。言葉が通じるのであれば詳しいここの場所のことなどを聞きたいくらいだ。
「あー、うむ…ワシの言葉がわかるかの?」
「…………」
「ことば…わかる…かの?」
「グルァアアアアアアア!!」
意味ある言葉の代わりにその口から発せられたのは咆哮。
それと同時に鈍器と呼ぶのも烏滸がましい丸太を振り上げ力任せに此方へと振り下ろしてくる。
「もしかして縄張りとかかえ?」
「ブルァアアアアアアア!!!」
破裂しそうな筋肉に相応しい速度で持って打ち下ろされた丸太を難なく躱しながら言葉を交わす。
「そうじゃったら謝るから手を止めてはくれぬかのぉ…」
「ゴブルァアアア!!!」
「うーむ、ダメかのぉ?」
敵対的なのは既に分かりきってはいるのだが、明らかにその体色から魔物でないことは察せられる。
もしここがカカルニア国内であれば、彼も欠片とは言え知能がある以上は一応住人である、それをワシがおいそれと斬るわけにはいかない。
それしか出来ないとばかりに振り下ろされる丸太を避けることしばし、今度は街道の方から蹄の音が聞こえてきた。
「そこの人! 今助ける!!!」
蹄の音と共に裂帛の叫びを轟かせ、声の主がワシの横合いを駆け抜けながらオークへと長いものを突きつける。
しかし、ワシは背を向けていたため気づかなかったがオークは正面にすでに捉えていたのであろう、丸太を掲げその一撃を見事防ぎきってみせた。
「おぉ、話が通じそうな者が来たのぉ。ちょうど良いコヤツはなんなのじゃ?」
「はっ? 何を言っている早く逃げなさい!! それは豚鬼! 魔物ですよ!」
「ふむ…」
ワシの場違いとも言える質問に苛立ちと焦りを感じる声音で、再度突撃をするつもりなのだろう見事に馬を操りながら叫んでいる。
「ま、お主には悪いがあちらのほうが信用できそうでの」
見事な馬術とはいえ再度の突撃にはまだ多少時間がかかる。
その隙きにとでも思ったのかワシへと振り下ろされた丸太を左手で受け止め、少し腕に力を入れて弾き返す。
その勢いで仰け反った豚鬼の胴体を抜刀しながら駆け上り、首を切り落とすと胸板を蹴って後方へと宙返りをしながら地面へと舞い戻る。
赤い血を撒き散らしながら蹴られた勢いも加わり、その巨体を大地へと激しく打ち付けるとそのままピクリとも動かず、その姿は絶命していることをありありと告げている。
「これが…魔物? うーむ、どういうことじゃ?」
魔物であればその身を維持できなくなれば塵と変わる、それ以前にマナも見たところ野生の動物などと同じ様に感じる。
そして何よりも、体が墨の様な黒さという魔物や魔獣の絶対的な特徴がないのだ。
「それよりも…うむ、助力感謝するのじゃ」
「いや…私の助けが必要だったようには見えなかったのだが?」
「いやいや、ちと攻めあぐねておっての」
主にこいつは倒してしまって良いのかどうかという判断ができかねて…だが。
改めて助けてくれたものを見れば、騎士の鎧といった感じの全身を覆う甲冑に身を包んだ見慣れぬ格好であった。
「どうやら助けは必要なかったようですね、遠くからでしたが見事な一撃でした」
「うん?」
見慣れぬ姿に集中していたら鈴の様な声が耳にはいってきた。
「はっ、確かにそのようでして。護衛の任を離れ誠に申し訳…」
「いえ、いいのです。襲われているものを助けようとした、この行動を称えこそすれ誰が咎めましょう」
「有り難きお言葉…」
助けに来てくれた者が馬から降り、恭しく礼をしていることからそれなりの身分があるものなのだろう。
しかし、その姿にも引き連れている者たちにも一切見覚えがない。
鈴の様な声の主は重さを軽減するためか、手足と胸と腰回りのみの甲冑に見事な刺繍の入ったサーコートを身にまとっている。
「お主らは誰かの?」
「貴様! 口を慎め、こちらに御わすお方をどなたと心得る!!」
「恐れ多くも先の副将軍?」
「何を言うか!! 」
「まぁ…そうじゃろうの…」
助けに来たものとは違う、しかし同じ甲冑を身にまとった者のセリフに思わず口走ってしまったが、当然と言うか案の定怒られてしまった。
「で、誰かの?」
「貴様…本当に知らないのか?」
「うむ、ちーとも知らぬ」
「抑えなさい、見れば幼子それにはぐれとなれば知らぬは当然でしょう」
「しかし…姫」
「抑えなさい?」
「はっ…」
ワシに怒鳴った男は姫と呼ばれた者に従い、フルフェイスの兜の下からでもありありと感じられる不満を残しながらその怒気を収めた。
「さてと私が誰かを名乗る前にあなたのお名前を聞いてもいいかしら?」
「ふむ…そうじゃの。ワシの名はセルカじゃ! 見ての通り獣人じゃの」
「そう…セルカっていうのね…その歳で豚鬼を倒すなんて大したものね。私の名はシャクア・ラ・ヴィエールよ、セルカちゃん」
「ふむ、シャクアのぉ…やはり聞き覚えがないの名じゃ」
「貴様! 様をつけぬか!」
怒れる甲冑の言葉を聞き流し、その名に聞き覚えが無いか考えるがやはり少しも聞いたことが無い。
それ以前に家名があるもの自体この世界に来て初めてだ。
「うーむ、これは一体どういうことじゃ…」
キャンキャンと何かが吠える音が聞こえるが、今はそれどころではない。
比較的近くに転移させられたのではないかという希望は砕け散り、突きつけられた事実に只々頭を抱えるのだった…。




