194手間
部屋の中の明かりはとうに消え、通路から漏れ出る光だけが辺りを照らす中、ダーシュと対峙している。
絶対的な窮地というわけでもなかった、けれどあのまま魔手を封印して戦っていたら誰かしらが大怪我を負っていただろう。
もしかしたらワシに敵わないと判断して町に逃げ出したかもしれない。
そうなったら被害はどれほどのものだったか、魔手を使ったワシの判断に間違いは無かっただろう。
しかし、この領では今や獣人は狩りの対象となっている。
大半は奴隷として売りさばかれるが、獣人の中でも特に強い者は賞金首の様な扱いにすらなっている。
具体的に言えばハンターとしての資格がある獣人が…だ。
ワシは今までは無害を装ってきた、誰も居ないような町の外でも戦わず過ごしてきた。
だがこの町で…今のこの領に来て初めて剣を振るった。
それを彼に見られたのだが、そこは町を救ってくれたからと見逃してくれた。
彼としてはちょっとした隠し事、その程度の考えだったのかもしれない。
けれども魔手はちょっとした隠し事では済まない。
何せ魔物をたやすく屠ることが出来るのだ。彼は知らないだろうが魔法すらこの手の前には意味を成さない。
魔法だけではない、マナを媒体としたありとあらゆる現象が成されることはない。
この世界に存在するありとあらゆるものがマナを内包している。
だが既に物質として確定しているものにはそこまで劇的な効果はない。
けれども爪の鋭さ、岩すら砕く膂力は十分すぎるほどの脅威だ。
「魔手を見なかったことにするか…それとも…おぬしはどうするのじゃ?」
ダーシュへ見せつけるかのように魔手を翳すと、彼はぺたりと支えがなくなったかのように尻もちをついた。
そのせいでワシの影に入り、顔は薄っすらとしか見えないが明らかに怯えている。
息も喉に膜が張り付いてるかのように不規則に喘ぎ、ちゃんと呼吸できているのか疑わしい。
確かに脅してはいるのだが、その怯え様は酷いのではなかろうか。
メイド服に獣耳ともふもふ尻尾、多少右手がやばいとは言え、一部の人であれば脅されるのだって喜びそうな容姿のはず。
「セルカさん、セルカさん。今どんな姿か忘れてますね?」
カルンがとんとんと肩を叩き手鏡を出してワシの姿を映し出す。
初めて湖に映した顔と未だ変わらぬ姿がそこに映る。
「うむ、別に変わりは無い気がするのじゃが?」
「魔手出した時どうなってるか気付いてます?」
「うん…? あ…っ!」
魔手から無い方の腕へと木の根や葉脈の様に体の表面を走る緋色の線。
確かにこれは…何も知らない人であれば怖い、しかし暗い中とは言え脈打つように燐光を放っていたっけ…?
暗いところでこんな風にまじまじと見たことが無かったから気づかなかっただけかもしれないが…。
「まぁよい…それで? 出来るかの?」
「あぁ、黙ってる黙ってる。どうせそんなこと聞きに来るやつなんて居ないだろうし」
魔手を引っ込めたからか今度は捲し立てるように早口で、キツツキの様に首を縦に振りながらダーシュが宣言する。
「では、改めて先に進むかの。この調子ではまだ残りがおらんとも限らん」
「わかった…だがその前に一つ良いか?」
「なんじゃ?」
キリッとした表情でダーシュが言ってきたが、未だに尻もちをついたままなので格好がつかない。
「腰が抜けた、立たせてくれ…」
「はぁ…仕様がないのぉ」
引き締めた顔でそんな情けないことを言うダーシュの伸ばされた手を掴もうとした途端、横合いからサッとカルンの手が伸ばされ乱暴にダーシュを引き上げた。
「これでいいか」
「あ、あぁ。ありがとう」
「どうしたのじゃー?」
「いや…なんでもない」
「そういやさっきと口調が違うが…」
「なんでもない!」
魔手も見せてしまったし今更口調の一つや二つ取り繕う必要も無いとは思うのだが…。
「この際じゃし口調も戻してもいいではないかの?」
「なんだぁ?もしかしてどっかのわがままお嬢様と、それのお仕えって訳でもないんだろ?」
ワシに対しての丁寧な口調でそう判断したのだろう、ダーシュが茶化して言ってくる。
「むっ! 違うのじゃ、ワシらは見ての通り夫婦じゃ!」
「は?見ての…通り?」
「うむ!」
「あー、なんだ・・・随分歳が…いや宝珠持ちならそう大して珍しい事じゃないけどさ」
「いや、ワシの方が確かに年下じゃが大して離れてはおらんのじゃよ」
「え?まじで?」
確かにワシの見た目は未だ十代前半、けれども魔手を突きつけたときよりも驚き固まるのは失礼なんじゃないだろうか。
魔物にまだまだ襲われるかもしれない、そんな空間で何故か変に和やかな何とも言えない空気が漂うのだった…。




