186手間
地を喰む大蛇の欠伸が如くの音が未だ町中に響いている。
宿の女将さんが開けた窓から脱走した犯罪奴隷を追いかけているであろう衛兵の怒号が聞こえる。
確かにある程度登れば防壁は無く一見逃げ放題、入り放題に見えるがその辺りは峻険な殆ど崖と言っていい岩肌。
少しでも足を踏み外せば鋭く突き出た岩に体を打ち付け、ただでは済まないだろう。
もしそんな所から逃げれる事ができるのは一部の宝珠持ちや山羊くらいなものだ。
しかし、そんな事ができる宝珠持ちは犯罪奴隷になる前に処刑、山羊はそもそも犯罪奴隷にならない。
そんな事を考えていたからか、脱走した山羊を全力で追いかける衛兵を想像して、折角綺麗にしてもらった寝台の上で転げ回りぐしゃぐしゃにしてしまう。
「ふぅ…山羊だったら良かったんじゃがのぉ…」
実際には何をやったか知らないが、奴隷として死ぬまで働かせる咎を負った犯罪者が逃げ回っているのだ。
ワシやカルンの様に戦う術があれば実に滑稽な事だが、ここで生きてここで死ぬ人達にとっては魔物とさして変わらない。
追い詰められたしかも犯罪に手を染めた事のある奴らだ。逃げ切れないならばと腹いせに近くの人に危害を加えるかもしれない。
それを考えたらこのおどろおどろしい地を震わす音を鳴らし続ける事もさもありなん。
どの位は鳴り続けただろうか、そろそろ心地よい子守唄にでもなりそうになるんじゃないかと思うほど慣れた時、漸く音が残響と共に遠ざかっていった。
「やっとこさ捕まったのかのぉ…。結構逃げ回ったのかそれともいつもこの位なのじゃろうか…」
やれやれカルンが帰るのを邪魔しおって等と気を抜いた瞬間に、爆発とは違う何か硬いものを無理矢理ぶち破ったかのような破裂音が響く。
「な!なんじゃ!」
慌てて窓から身を乗り出して外を見回すと、防壁の門より少し離れているところにある犯罪奴隷用の宿舎の壁周辺からもうもうと土煙が立ち込めていた。
「爆発…ではなさそうじゃな…。しかし、こんな事出来るものが今まで大人しく捕まっておるはずが無いと思うのじゃが…」
火薬の匂いもしないし、何よりそんなものを犯罪奴隷などに持たせる訳がない、だとすれば力任せに壁を壊したのだろうが…。
仮にそんなことが出来るものが野放しになっているわけがない、まず捕まった時に処刑されている。
「ワシであれば似たような芸当は出来るとは思うのじゃが…むっ」
土煙が内側から強烈な爆風でも受けたかのように晴れ、風が起きたであろう中央に何者かが佇んでいるのが見える。
「奴隷、いや…魔獣…魔物じゃ!」
魔獣は元となった動物そのままか多少崩れている程度で大きく姿形は変わらない、もし変わっているのであればスライムのような不定形だ。
しかし、佇むその姿は狼の胴体に引きちぎった足の代わりに、無理矢理にも人間の手足を繋げたかのような悍ましく不格好な姿。
「どこから魔物が入ってきたのじゃ…。そうか犯罪奴隷の坑道からかの!」
いや、今はそんなことは良いさして重要ではない。
衛兵にも宝珠持ちは居るが大抵は持っていない人達だ、そして何より此処に狩人ギルドは無い。
麦の収穫時期にだけ動く出張所しか無いのだ。この辺りは森が少なく山から吹き下ろすマナを豊富に含んだ風のお陰でそもそも穢れが溜まりにくく、出たとしても弱々しい魔獣で衛兵の中の僅かな宝珠持ちだけで対処できる。
それでも衛兵すらいない村落よりマシだが…それでも犯罪奴隷を収容しているような場所の壁をぶち破るほどの力がある魔物ではやはり本職が居ないとキツイ。
いや、本職でも魔物相手は複数人で対処するようなものなのだ。ギルドも無く麦の収穫時期でなくとも鍛冶と細工の輸出があるはずなのでそれを護衛する狩人が居るはずなのだが…。
「むぐぐ、アレほど派手に暴れておるのに出てくる気配が無いのじゃ!」
魔物は現在これ幸いと壁の穴から抜け出してきた犯罪奴隷を相手に大暴れしている。
そのお蔭で衛兵や町の住人に被害はない、前世の論理観から言えば言語道断ではあろうが…。
どうせ奴隷か死罪かの二択しか無いそれに相応しい罪を犯した奴らなのだ。ここは大人しく人身御供になってもらおう。
そんな時複数の氷柱が魔物へと襲いかかる。
飛んできた方向を見れば見慣れた夕焼けに靡く稲穂の様な赤みを帯びた金の髪。
中央の川付近に立ち背中しか見えないが、凛々しい瞳で魔物を睥睨しているであろう。
「カルン!」
ここから向こうまでそれなりの距離がある声が聞こえた訳ではないだろうが、ワシが叫んだ瞬間続けざまに魔物へ向けて幾つもの氷柱が正確無比に飛んでいく。
しかし氷柱が当たる度に怯み多少は傷を負ってはいるのだろうが、遠目からでも致命傷に程遠いことが分かる。
現役から長期間退いていたとは言え、カルンの魔法の腕前は二等級に相応しく相当なもの。
この旅の途中でもほぼすべての魔獣は一撃のもとに下してきた。
それでも倒すに至らないとなるとかなりの上位の魔物だ…相当力を蓄えてきたに違いない。
「アホがアホな事を流布しておらねば、ワシの手で引導を渡してやるものを…」
もし此処に他の狩人が居れば魔物を屠れる力を持つ獣人のワシはたちまち狩りの対象となる。
「いや、これほどまでして出て来ぬのであればおらんのではないか?」
葛藤しているうちに魔物はカルンを獲物と見定めたのか、立ちふさがる衛兵を吹き飛ばし一直線にカルンへと駆け出している。
「こうしてはおれんのじゃ!」
一応は言い訳が効くようにと魔手ではなく、剣先から柄頭がワシの肩ほとまである長剣を取り出し、朗々たる高音を響かせ鞘から剣を走らせる。
「今行くのじゃご主人様!」
窓枠に足をかけ外へと飛び出し着地するや否や姿勢を低くし、獲物を見つけたのは貴様ではないと魔物へ向けて一気に駆け出す。
カイルの練習相手として鍛えた剣ではあったが、どこで何が役に立つかわからないと一人苦笑して、カルンには傷一つ付けさせはしないと柄を強く握り直し一際強く踏み出し一足の元に川を飛び越えるのだった。




