185手間
寝台の隅の方でごろごろしながら一人にやにやと相貌を崩す。
朝の爽やかな風に吹き飛ばされないように、降り注ぐ陽の光に焼けないように。
まるでそんな風に窓をしっかりと閉ざし、実際は奇声を聞かれないようにと言う色気も何もない理由だが…。
昨日宿までの道のりでその後寝台に押し倒したカルンの顔を見て…。
優しいカルンは建前とは言え奴隷というワシの立場に心を痛めてるんじゃないか、追い詰められてるんじゃないかと思っていた。
そう…思っていた…。
「んふふふ、ただの酔っぱらいの嫉妬じゃったとはのぉ…」
ワシがちやほやされてる後ろでガパガパと嫉妬の炎を鎮めるかの様に酒を飲んでいたのだろう。
だが飲んでいたのは水ではないのだ。火に油…ではなく酒を注いだらどうなるか。
しかも、それが強い酒なら尚更…嫉妬の炎は猛り狂い宿にワシをお持ち帰りして後は獣の様にと…。
それがどれほどだったかは寝台の中央に行かないのと、朝まで足腰が立たなかった事で察して欲しい。
そんな肝心要の愛しのカルンは此処にはいない、それもただ単に細工屋に杖を取りに行ったという理由で。
一晩立って酔いの抜けたカルンがすまなそうにしている姿は、出会った当初のおどおどとした姿そのままで。
「思えばあの時から実は惚れておったのかもしれんのぉ…」
良いと思えば過去の全く関係の無いところからだって掘り起こしてしまう。存外恋心なんてそんなものなのかもしれない。
昔好んで読んでいた小説では、それを自覚しても元男だからと葛藤する様をみて男なら潔くしろよと何度も思ったものだ…。
だが実際それの当事者になってしまえば、人のことは言えないワシにその心があればワシも葛藤したであろうことは想像に難くない。
「しかし…惜しいほんに惜しいことをしたものじゃ…」
パタパタと犬の様に揺れる尻尾をハタと止め顎に手を当て考える。
やっと鬱陶しいものが止まったとワシの側に来るスズリを尻目に、当てた手そのままに天井を仰ぐ。
「なんと言われたのかさっぱり憶えておらぬ」
睦言を何度も囁かれたのは憶えている。甘い熱に浮かされ耳朶を蕩かすその言葉…。
蕩かされすぎて、耳に入ってこなかった…。
「うぅ…む、なんじゃったかのぉ…」
カルンに聞くわけにもいかず、いくら考えてもトロトロに溶けきった脳みそからはそれすらも溶けて混ざり合い、言の葉一つすくい上げることは不可能だった。
そんな時、不意にノックの音が響き渡る。
「誰じゃ?」
「えーっと、敷布の交換に」
「おぉ、そうじゃったか。戸は開いておるのじゃ」
「失礼します」
入ってきたのはもう少しで恰幅のいいという称号が貰えそうな中年の女性、この酒場兼宿屋の主人の奥さんだ。
「あー今日はまた一段と…」
「う…うむ…すまんの…」
「あぁ、あんたを責めてるわけじゃないのよ?しかし…体の方は大丈夫なのかい?」
「うむ、そこらのドワーフ共よりよほど頑丈じゃからの」
「と言っても、こんな子にこんな無理させてねぇ…」
「あー…うむ、ワシはこんななりじゃが…ご主人様と年の頃は大して変わらんのじゃが…」
「あらそうなの?この辺りじゃ獣人なんて昔からまず見ないから知らなかったわ」
「ワシがそういう種なだけじゃがの」
未だにワシは十代前半と言っても誰も疑いようも無い容姿だ、勘違いされるのも仕方がない。
あぁ、よくよく考えれば戦う力を残す必要が無いのであれば、大人の姿になり続けるのも一つの手だった。
けれどそれも今更、万が一もあるかもしれないし何事も余裕を持つのは大切だ。
それに宝珠で寿命が極端に伸びることもあり、一見親子ほど離れて見えようとも夫婦だったりなどは良くある事。
なので…ロリコンだとか幼女趣味だとか言われる恐れはない。まぁ仮にいくら罵られようがワシはカルンの味方じゃがの。
「けれどまぁ…買われたんでしょ?新しい領主さまも嫌な事をなさる…」
「確かに何でこんな事をしたのかのぉ…。極度の獣人嫌いという話は聞いたのじゃが、それにしてもやることが極端じゃ」
「さぁ…こんな辺鄙な場所じゃ噂程度しか届いてこないからねぇ…」
嫌いだから奴隷にしてやる!歯向かう力があるやつは皆殺しだーは子供っぽすぎるというか何というか…。
「けどま、逃げるなら今のうちだよ?」
「うん?どういうことじゃ?」
「あんたを買ったやつはいま出てるだろ?それに…」
「それに?」
キョロキョロと辺りを伺うような仕草をするとワシの耳に近づいて囁く。
「…犯罪奴隷どもが大それた事をやらかそうとしてるらしいのよ」
「衛兵がそんな事を見逃すはずが無いと思うのじゃが?」
「まぁね、脱走やら何やらなんて声高に言ってる奴らを阿呆を見るように話すのは、衛兵たちのいつものことなんだけどね」
まるで側に誰か耳を欹てている者が居るかのように、殊更声を潜めて。
「なんか今回は様子が違いそうなのよ、企てているっていうのに何も動きが無いどころかみんな大人しいから衛兵達も首を傾げててね」
「企てておるのが分かっておるのならば防ぐのは容易では無いかの?」
「いやー、それがね。脱走してやるーなんて叫ぶのは何時ものことなのよ。偶に此処まで聞こえるくらいよ」
女将さんは先程まで声を潜めていたのが嘘だったかのように、からからと笑う。
その瞬間カンカンカンと半鐘の音が外から聞こえ思わず振り返ってしまう。
「あははは、アレは鍛冶どもの音だよ、こんな所だからねなんか会った時は鐘の音じゃないのよ。それはそうと普段はまー言った側から脱走を実行しようとして連れ戻されたり…ね?」
「けれども今回は様子が違うと…しかしそれがワシが逃げるのと何の関係があるのじゃ?」
「なんか騒動があればその隙きに…ね? あの主人から自由になりたいとは思わないのかい?」
「思わぬの…ワシはご主人様の奴隷じゃからの」
女将さんの声音から心底ワシの事を心配しての事だとは分かるが…それでもきっぱりと言い放つ。
そんなワシを見て一瞬目を点にした女将さんはすぐにまた人の良さそうな、からからとした笑い声をあげた。
「あっはっは、いやぁ…うん、その顔を見ちゃったら余計なお世話だってわかったよ」
「う…うむ?」
「まぁ、あの主人が奴隷だろうとなんだろうと気にせず貰ってくれる人だと良いね!私も今の旦那と出会った頃を思い出しちゃったよ」
突然くるりと手のひらを返したかのようなその言葉に今度はワシが目を点にする。
「それじゃ、さっさと敷布変えちゃうから降りておくれ、今晩もどうせ泊まるんだろ?」
「うむ…その予定じゃ」
「汚すのはかまわないんだけど…お手柔らかに頼むよ?」
「それは…ご主人様に言って欲しいのじゃ…」
「それもそうだね!」
そんな時、地の底から響く汽笛の様な音が辺りを包んだ。その音は決して偶然に鳴った訳では無いことを示すかのように断続的に町中隅々までその存在を轟かす。
「な、なんじゃ!」
「噂をすればなんとやら…だね。大方脱走をしようとした奴が居るんだろうけど…ま、すぐに捕まるでしょ。けれど捕まるまではしばらくなり続けるから我慢しておくれ」
犯罪奴隷と言うのは基本的に盗賊などの重罪人の末路だ。それが逃げ出したとなれば警告を意味するこれがなり続けるこれを我慢するのは吝かではない。
けれどもそういう音なのかそれとも別の何かなのか、潮騒の様にじくじくとした嫌な思いが胸を締め付けるのだった…。
海辺育ちなので汽笛というと船の音の方が思い浮かばれます。




