180手間
日も天辺から落ち始めた頃、遠く霞の向こうから巨大な岩石をハンマーで砕いて出来たかのような、空へと鋭く伸びる山々が現れた。
世界樹とは比べるべくも無いが、雲にも届きそうなそれは十分すぎるほどの威容を誇っている。
西多領の西側の殆どはこの山岳地帯が覆っており、ちょうど西多領で最も広い領地の中央盆地を北から西を通って南側へと馬蹄状に囲むようにして君臨している。
多領の東側はこの山にぶつかり吹き下ろす、マナを潤沢に含んだ風を受けて肥沃な大地となり麦の一大産地として有名だった。
と言っても西側の領の殆どがこの山岳地帯にある猫の額のような土地に存在するので、殆どの麦は西多領内で消費され輸出は全くと言っていいほど無かったが。
「ご主人様ー。町が見えてきたのじゃー」
「んんー…あぁ…ほんとうだ…」
のっそりと荷台からご主人様が大きく伸びをしながら欠伸混じりに起き上がる。
いくらゆっくり走りなるべく揺れないようにしていたとは言え、ガタゴトと響く馬車の上でよく寝れるものだと思ったが、先程までの事を考えればそれも仕方ないだろう。
昨日泊まった野営地から大きく森を迂回する街道を通ったにも関わらず、多数の狼の群れと遭遇したのだ。
この時期この街道は往来が少ない、久々の食いでのある餌だとばかりに襲い来る狼と、それを追っかけていたのか混じっていた魔獣の対処は大変だった。主にご主人様が。
ハデに魔法をばら撒き何とか撃退したものの、疲労困憊で先程まで寝ていたというわけだ。
まったく…町と町を繋ぐ街道近くでアレほどの量の狼と魔獣、どうもこの辺りの狩人は討伐をサボっているらしい。
獣人狩りに夢中になってないで本分の獣狩りを疎かにしないで欲しいものだ。むしろ獣人狩りを疎かにして欲しい。
そんな事を考えながら町へと馬車でゆっくり近づいていくと、山々と同じ岩石で建てられているため遠目からはよく分からなかった町の細部がよく見えてくる。
岩を切り出して造ったのであろうが防壁は、門から横幅はあるものの奥行きは見た限りすぐに背後の山へと突き刺さり、精々規模の大きな村程度の面積しか中は無いだろう。
だが町は上へ上へと続いている、まるで棚田に揺れる稲穂の様に階段状に削られた岩肌の上に総石造りの家々が立ち並び、その頂点には一際大きく要塞の様な屋敷が下の暮らしを睥睨するかの如く鎮座している。
「年寄りには辛そうな町じゃのぉ…」
「ま…」
ポツリとこぼした感想にご主人様が何か言いかけた気がするが、口を噤んだということは特に意味のないことだろう…。
この町の水源であろう防壁の一部分から伸びている川に掛かる橋を越え、門でいつもの手続きを済ませて町へと入る。
既に陽は山陰に隠れ、町には山が落とす長い影が覆いかぶさっているが、それがまた一種の威容となって見た目以上の凄みを感じさせる。
「衛兵様、宿屋はどこにあるのじゃろうか?」
「ん?あぁ…様なんて付けなくたって良いよ、宿屋なら二つ上の川を渡って三番目の建物だよ。あぁ、そうだ馬車はすべて下の厩で管理してるからそこでに連れて行ってくれ」
「わかった、ありがとうなのじゃ」
外へと流れ出る川の側にある厩へと荷車ごと馬を預け、ちょうど町の中央付近を縦に貫く川の右手に沿って上へと続く道がありそれにそって上へと向かう。
下から二番目の棚に着くと川に掛かる橋を渡り言われた建物の前へとたどり着く。棚の建物はすべて山側に建てられ道は谷側にあるのでここからだと遠くまでよく見える。
町は既に闇の中に沈んでいるが、遠くにはまだ陽の光が指しており木々や草原が赤く燃えるように映えて美しい。
そんな光景にそっと肩を抱いてワシを引き寄せるが、流石に奴隷にする事ではないだろうと断腸の思いで手を引き剥がす。
「ご主人様、いつまでも外に居ると冷えるのじゃ、そろそろ宿には行くのじゃ」
「あぁ…そうだな」
逃げられるとは思わなかったのか、ショックを受けたかのような残念そうな顔をするが、直ぐに凛と顔を引き締めワシの言葉に鷹揚に頷く。
これは後で埋め合わせをしないとな…と苦笑いを隠しさっとドアマンの様に宿の扉を開け中へとご主人様を誘う。
今のところ獣人狩りが誰憚れること無く行われている事以外は、様子がおかしい所はない…むしろ奴隷にも普通に優しく対応してくれる人のほうが多いほどだ。
これまで寄った町は元々教会が無かった場所の様で新しい聖堂の関係者にも会っていない。今後も
何事もなく新しい宗教と変な主張をしていると言う報告だけ持ち帰れれば良いのだが…きっとそうもいかないのだろう…。
そんな想いを締め出すかのように扉を閉め、暗い街を視界から遠ざけるのだった…。




