175手間
薄暗い部屋の中に響くすすり泣きやうめき声で目を覚ます。
手には木の板に手首が通る程度の穴を二つ開け、それを半分に割ったものを利用した木製の手枷。
それを止めているのは鍵ではなく留め金にはめた閂だが、それは複雑に波打ち口や手枷を揺さぶった程度では取れないようになっている。
目線を上げれば鉄格子の先に揺れるランプの光が見える。
要するにワシは今牢屋に監禁されている。冷たい石組みの床に手枷といういかにも劣悪と言った環境だが牢番よればこれでもワシは一番の待遇らしい。
他の者は同じ牢屋にすし詰めでメシも禄に与えられず衰弱し、運悪く死んでもしばらく見せしめの為にそのままにされる。
そんな話を下卑た笑いと共に得意気に喋る奴の顔を思い出し、心の中であらん限りの罵声を浴びせておく。
商品価値が下がるとかで鞭打たれる何てことは無かったが、下手に厭悪を煽り待遇を悪くするのも馬鹿らしい…。
一日一回、パンと水だけとは言え毎日出すだけありがたいと思えと言っていたのだ。些細な反抗心でそれすらも無くすのはまずい。
そんな日々を過ごしているとある朝ガチャリと牢屋の扉が開く音で目覚めた。
「出ろ」
その一言だけ言うとワシの手枷に付いている金具に鎖をつなげ、無理矢理にワシを引っ張り上げ鎖をもってどこぞかに連れて行かれる。
「これからお前を買ってくれるかもしれない奴の所に連れて行く、だが何も喋るな相手の足元だけ向いて顔などを見るな。わかったな?」
ヒヤリと首元に冷たい物を当てられ、それから逃れるようにこくんと頷くと満足したのか首から冷たいものの感触は消え、再度鎖を引っ張られ歩かされる。
連れて行かれた先は、短い廊下の様な部屋で奥には恐らく客が来るであろう扉と背後にはワシがいま来た扉の二箇所だけ。
その狭い部屋の中にはワシ意外にも何人かの女性がすでに立っており、貫頭衣の様な簡単な服とワシと同じように手枷だけ付けられている。
女性の列にワシも並ばされると手枷から鎖が外され、ワシを連れてきた男は何処へと去ってしまう。
ワシが並ばされたのは客用の入り口から一番遠い場所、入り口側から客が見ていくとすれば、最後に見ることになるワシはさながら目玉商品という事なのだろう。
しばらくその場に立ち尽くしていると、客用の入り口が開きいよいよワシを買うかもしれない人が入ってきた。
「お待たせしました旦那様、こちらが本日ご用意できる最高の獣たちで御座います」
「そうか…」
「はい、どれもこれも獣とは言え見目麗しい乙女、必ずや気に入って…」
「御託はいい」
「はっはい!ではまずはこちらの―」
人に媚を売るのが仕事と言わんばかりの気持ち悪い声の後に聞こえてきたのは、いつもより低く威厳のある声。
その声を聞き、でっぷりと肥え太った奴が入ってくるのではないかと内心ひやひやしてたワシは、一先ず安堵の息を気付かれないようにそっと吐く。
商人の卑屈で下世話な紹介を耳から受け流していると、遂にワシの前で商人と客の足が止まった。
「そしてこれが本日最後の世にも珍しい九本の尻尾を持つ白眉の獣で御座います。肌は北に降るという雪の様に白くきめ細かやかで髪は陽光に煌めく清流の様に滑らか、誠に誠に申し訳ないのですが唯一生娘では無い事が悔やまれます…が、その分最初からお楽しみいただけるかと…」
「これにしよう」
「他の獣共はいかがし」
「いらん」
「で…では直ぐに手続き致します、名前は旦那様がお付けすることもできますが」
「元の名は?」
「はい旦那様、この獣の名はセルカと言います」
「そうか、ならそのままでいい」
「かしこまりました」
商人の言葉に苛立った様に客は吐き捨てると、これ以上此処に居たくないと言った足取りで入ってきた扉へと踵を返す。
「旦那様、旦那様!焼き印は如何しましょうか?」
「いらん!その肌に傷一つ付けるなよ?」
「しょっ、承知いたしました」
商人が慌ててて付け足した言葉に、客が聞いたことのないほどの鬼気を孕んだ声を出すと、小さく悲鳴をあげた商人はワシが男に連れてこられた時とは正反対の恭しい態度で牢屋側の扉へとワシの手を引いて行く。
「ふぅ、寿命が縮まるかと思った…いいか?絶対にあの旦那様の機嫌を損ねるなよ?」
「…わかっておるのじゃ」
「ならばいい。こっちへ来い手枷を外してやる」
ガチャガチャと複雑な操作で閂を外すとガタンと意外と軽い音と共に手枷が足元に落ち、久々に開放された両手首をさする。
そして手枷が外された代わりとばかりに、ワシの首へと革製の鎖を繋げる金具がついた首輪がはめられる。
「いいか、こいつは絶対に外すなよ。これがない獣は狩られるからな」
「わかったのじゃ」
「本来なら焼印を押して鎖を付けて引っ張って行くのだが…お優しい旦那様のご意向でそれはなしだ。感謝して精一杯ご奉仕してやれ」
「…うむ……」
「それと目隠しをしばらくしてもらう、暴れるなよ」
そう言って商人は黒い布でワシの視界を閉ざし、鎖の代わりに手を引いて真っ暗な視界の中何処かへとワシを連れて行く。
「おまたせいたしました旦那様」
「その目隠しはなんだ?」
「獣風情とは言え万が一ここがどこなのかバレて襲撃されるとも限りませんから」
「そうか…」
商人の答えに不機嫌そうな声音でそう答えると客…ワシのご主人様は手をぐいっと引っ張りワシを抱き込むようにワシの腰へと腕を伸ばしてきた。
「貴様は今日から俺の物だ、誰にも渡さない」
ワシに抱き着くような格好で耳元で囁かれた低い声に、甘く背筋を撫でられたかのようなゾクゾクとした感覚を憶える。
「はい、ご主人様」
お返しとばかりにそう答えると、すこしご主人様が震えた気がしたが腰に回した腕はそのままに体が離れ、ぐいっと腰が押される感覚に歩き出したのだろうコケないように慌ててワシも歩きだす。
「旦那様、その馬車が止まるまで目隠しは取られないように」
「わかった」
ご主人様がそういった途端ワシを横抱きに抱え上げ、上に登る感覚から馬車に乗り込んだのだろう。
しかしワシは馬車の椅子へと下ろされることはなくご主人様の膝に上に座らされ、さながら猫の様にしばらく頭を撫でられ続けた。
ゴトリと一際大きな音と共に馬車が止まると、外から御者の声が聞こえてきた。
「旦那指定の場所につきやしたぜ」
「わかった」
チンピラと言う言葉以外にどう表現したら分からない声に思わず吹き出しそうになるのを堪える。
未だ膝上に座ったままだったが、再度そのまま横抱きにされ馬車を降りると漸く地面へと降ろされた。
そのまましゅるしゅると目隠しを外されると目の前には豪華な建物そびえ、斜陽に照らされ赤く染め上げられていた。
「それでは旦那、またあればご贔屓の程をば」
ご主人様はそんな言葉に振り向きもせず建物の中に入っていく。
「おや…おかえりなさい。…これはこれは…獣なのが惜しいほどの…ひっ」
建物に入るなりワシに向けられた下卑た視線の主に対しご主人様が一睨みすると、背を曲げた老婆の様にすごすごと男が立ち去っていった。
「こっちだ」
どうやら連れてこられた場所は宿屋の様で、ジロジロと向けられる不躾な視線を掻い潜りご主人様の後に続いて部屋へと向かった。
「わかっているな?」
「はい、ご主人様」
部屋に入りくるりとこちらを向いたご主人様が扉に閂をかけると、カチャと音を立て首輪の金具を持ってご主人様が無理やりワシの顔を持ち上げさせ、こちらの方がよほど獣じみた欲に濡れた目が近づいてきてそのまま口付けをさせられる。
力任せのそれに背徳感にも似た甘美な刺激を感じ、実はワシにはこの手の趣味があったのだろうかと詮無いことを考えつつ貪る様な口づけに目を閉じるのだった…。




