152手間
洞窟独特の澄んだ空気の更に上澄みだけを集めたかのような凛とした空気の中、水のダンジョン最初の中継地点である五階層へとたどり着いた。
ここまで来るのに攻略自体には半刻とも掛かっていないだろう。何せ最初は一直線でその後も多少迷路要素があったとは言え難易度はワシの主観では幼児向け程度、さらに地図もあるのだ。長引く要素がない。所々正解の通路近くに通称お宝部屋と呼ばれる、遺物などがある部屋に寄ったのが数回、遅れる要因は精々その程度だろう。お宝部屋はその殆どが持って行かれた後なのか、それともハズレなだけだったのか何も無かった。そんな中唯一見つけたのが遺物どころか魔具ですら無いグラスとハンドベルのセットだった。
魔具ですら無いそれに皆が落胆する中、ワシだけがそのセットに目を奪われていた、形状は釣り鐘を逆さまにして縁を外側に反らせて、Tを逆さにした脚が付いており、ワイングラスのようなといえばいいだろうか。その逆さ釣り鐘状の部分には丸い装飾がいくつもついており、その全てが夜明け前の夜空をそのまま切り出して来たかのような艶やかな瑠璃色のヒンヤリとしたガラスの様なもので作られていた。大きさは逆さ釣り鐘部分が精々人差し指と親指を無理なく広げた先を結んだ程度、脚は指を二、三本重ねた程度のかなり小さなものだ。鈴の方はそれをそのまま逆さにして中に音を出すためのガラス部分と同じ色の玉があり、持ち手の先がTの字状ではない程度の違いしか無い。
「これは…綺麗な紺瑠璃杯じゃのぉ…」
「綺麗っちゃぁ綺麗だけどよ。それ魔具でもなんでもないんだろ?」
魔具とはその名の通り魔石を利用して動作する道具の事、これにはそんな部分は一切見当たらない。遺物と呼ばれる物の中には周囲のマナを利用して動作するものもあるがこれにはそのような様子もない。つまりはただ単に綺麗なだけのグラスと鈴なだけだ。とは言えガラスが存在すれば確実に高級品になるであろうこの世界では、かなりの値打ちものになりそうな気はするのだが、普段から嗜好品を利用する事のない人からすればただ単に珍しい器程度なのだろう。
「では、これはワシが個人的に貰ってもよいかの?」
「ん?あぁ、別にそのぐらい良いんじゃね?俺ならそんなもん持って帰りすらしないしな」
「うん、僕も自分のコップ持ってるしね」
アレックスやアイナの反応が一般的なのだろう、ワシもあとで売ってなどとは考えていないので、特に後ろめたさも感じること無く腕輪へと紺瑠璃杯とハンドベルを仕舞いこみ、ここに至る…と、そんな感じだ。
あと不思議だったのが地図にも注釈として書かれていたことなのだがその一つが魔物の出現傾向だ。水のダンジョンは三十五階層からなる火のダンジョンの二倍近い大きさなのだが、五刻みに転送装置がありそれを境に交互にトラップ階層、モンスター階層といった感じの階層が続くことになるらしい、今回一から五まではトラップ階層なので次の六から十はモンスター階層となる。
そしてこのトラップ階層、浅い内は魔物が殆ど出現せず深くなると段々と出てくるようになる、モンスター階層はその逆に深くなるとトラップが増えてくるそんな具合になると丁寧に書き込んであった。なので五階層の最奥、そこにある扉でうんうん唸っているアレックスやジョーンズを尻目に、そこまで魔物に警戒すること無くその醜態をニヤニヤと眺めていられる。何よりワシらにはフェンがいる。頼り切るのはまずいがそれでも此方が視認できない位置にいる魔物などの接近が分かるのはありがたい。
そんなワシの視界の隅をちょっと通りますよとばかりにスィーと水色の水滴のようなものが通り過ぎていった。フェンが反応すらしない、あれがここまでに見た唯一の魔物…水色のスライムだ…。水のダンジョンだから水色と少し頭痛を覚えないでもないが、そんな事は今はどうでもいい…あれはこちらに襲いかかるでもなく床や天井、至る所を重力と摩擦など仕事はしていないとばかりに軽やかに滑っていく様を何度も見かけた。視界の端を通り過ぎるその様にはゲームなどによくある倒せたら美味しいボーナスキャラの様な感じがして、幾度も襲いかかろうとしたのだがそもそも視界の端にちょこっと見えるだけですぐさま離脱していくので倒すどころか近寄ることさえ出来ない。
きっとあれはお掃除をしているだけだと、うずうずする心を必死に鎮める方がトラップよりも何倍も苦しめられた。あとでカルンに話を聞くとそのボリューム故か普段はそこまで動かない尻尾が、視界の端にスライムが見える度にわさわさと動き、此方も何をとは言わなかったが抑えるのに必死だったそうだ。
そしてトラップ階層と銘打つからには肝心要のトラップなのだが、拍子抜けどころか鼻で笑う前にため息すら出そうなほどだった。ダンジョンのトラップといって思い浮かべるような落とし穴、仕掛け弓、天井からのギロチン、転がってくる岩など一切なく、踏み込んだらガコンとヘコみ足を取られるトラップ…それだけだったのだ…。確かに下手をすれば足の骨が折れそうな凶悪なトラップとも言えなくは無いのだが…ここに来るのはハンターだけ。その程度で骨折するはずがない。何度か先頭を行くジョーンズや殿のアレックスが引っかかってはいたのだが、よくよく見ると若干トラップ部分だけ他より浮き上がって見えるので、それが分かってからはジョーンズは引っかからなくなった。
初めてそのトラップにジョーンズが引っかかった時は、スイッチを踏みましたとばかりのその動きに、何か罠が作動するのではないかと焦ったものだが、もしかしたらこれは今後こういうスイッチで罠が作動しますよという見本というかお試しみたいなものではなかろうか、そしてハンターの油断を誘うための罠…と、流石にそこまでは考えすぎか。
「よっしゃ出来た!!!」
アレックスがそう叫ぶと同時に、目の前の扉がズズズと重い岩を引き摺るような音を立てて開いていく。そしてその先には階段がありそれはこの階層を突破したことを意味する。
「どうだ?尊敬してもいいんだぜ?」
「すごい!すごいです、僕は全然わかんなかったですよ」
汗もかいていないのにまるで一仕事終えたとばかりにアレックスがイラッとするような顔で額を拭い、アイナが本気かどうかわからないが褒め称えると、ますます得意となったアレックスが鼻を伸ばしていく。
「あれでそれほど悩むほうがすごいのじゃ…」
と言うのもアレックスとジョーンズの二人が唸っていた…実際に謎解きに挑戦していたのはアレックスだけだが、それは扉の脇にある三×三のマス目の上にある八枚の板をスライドさせて一つの絵柄を完成させるというよくあるパズルを解くと言うもの、脇にある説明文であろう女神文字も"絵柄を完成させよ"という身も蓋もない文章だった。
「いやいや、こんなもん初めて見るしよ。悩むだろ普通悩むだろ、それをヒント無しで完成させたんだ褒めてもいいだろ?」
確かにやりかたすら聞かないでやったのだから、凄いのだろうが流石にやり方が分かってから四半刻とまでは行かないものの三×三でかなり悩んでた事実は消えない。そうこうしている内に無常にも目の前で扉が音を立ててしまってしまった。それと同時にカカカカと軽快な音を立ててどういう仕組みかパズルの絵柄がランダムに移動して、また解き直しになってしまった。
「あーっ!閉まっちまったじゃねーか!俺が折角解いたのによ!」
「わかった、わかったのじゃ。今度はワシがやるのじゃ」
まるで子供のように言い募るアレックスを尻目にワシはパズルの前に立ち、感触から石で出来ているのだろうが滑らかに動く板をカンカンカンと移動させ、両手の指を折って広げるよりも早く扉を開くのだった。
「こんなもんじゃ」
「ぐぬぬぬ」
「さて今度は閉まる前に行こうかの」
悔しそうに歯ぎしりをするアレックスをアイナが慰めているが、どうやら扉が開いている時間は結構短いようなのでさっさと先に進むことにした、再度開いた扉の先にある階段を降りきるとダンジョンの入り口の転送装置があった部屋と装置がないだけで全く同じ間取りの部屋がそこにはあった。
「休憩所といった感じかの…?」
「まぁ、今のとこそんなに時間はかかってないし次までさっさと行くか?」
「うむ、それがよいじゃろうの。…むっ?」
「うん?どうした?なんかあったか?」
「いや…なんでもないのじゃ」
ジョーンズが休憩を取ること無く先に進むことを提案し、それに同意した時わずかばかり下腹部にシリシリとした痛みを感じ思わず声を上げてしまったが、休憩を取るほどの痛みでも無かったので何でも無いと首を振った。
この世界に転生して怪我を負ったことはあるが、体調不良らしいものなど一度も無かった、それの初めてが腹痛とは何とも…と思いつつ腹を冷やしたかなと服をぎゅっと強く整えるのだった。
一部話数が閑話を含む全話の合計数になっていた所を修正しました。




