3.家族
産院に着くと、その入り口には午後休診の札が下がっていた。しかし、K博士が脇のインターホンに二、三言話すと、すぐに看護師がやって来る。彼女は、K博士の姿を見てぎょっと目を丸くするが、産院の真ん前に停められた車の中の、ヨリコの顔色を見て自分の仕事を思い出し、助手席のドアを開けて言った。
「歩けますか?」
ヨリコはどうにか頷き、看護師の手を借りて産院の中へ入って行った。ショウタとテツコ、そしてサクラコも後に続くが、さすがに診察室には入れてもらえず、仕方なく彼らは待合室のソファに、ショウタを挟んで三人並びに腰を落ち着けた。
「大丈夫?」
サクラコに聞かれ、ショウタはしょんぼりと首を振った。普通、そこは強がって頷くところだろうと、テツコは胸の内でツッコんだ。
「心配だね」
サクラコはショウタの手を取り、それを自分の膝に乗せて両手で包み込んだ。ショウタは、はっと息を飲んでサクラコを見つめた。ここへ来て、テツコはようやく気付く。この女は敵だ。うっかりしていると、ショウタくんを盗られかねないぞ。
「ほら。K博士のお屋敷の前で、ショウタくんも同じようにしてくれたから」
ショウタに見つめられ、少し照れた様子でサクラコは言い訳した。
「うん。その時にも思ったんだけど」
ショウタはサクラコの手の平を、くるりとひっくり返した。それは彼女の可愛らしい見た目に反して、マメだらけでごつごつしていた。
「どれだけ練習したら、こんな風になるの?」
ショウタは真顔で問うた。サクラコは顔を真っ赤にして、その手を背中に隠す。フラグをへし折る主人のファインプレーに、テツコはこっそり親指を立てた。
「こんな手、可愛くないよね」
サクラコはうつむいた。ショウタは首を振り、彼女の手を優しく引っ張り出して自分の手を重ねた。彼女の指先は、ショウタの指先に関節一つ分、届いていなかった。
「小さくて可愛い手だと思うよ」
顔を上げたサクラコは目を丸くしてショウタを見た。ショウタはにっこりほほ笑んだ。計算ずくか、天然なのか。いずれにせよ、テツコは主人の頭をひっぱたいてやりたくなった。
診察室の扉が開いた。ショウタはサクラコの手を放り出して立ち上がった。ストレッチャーに乗せられたヨリコが、医師と二人の看護師に伴われて出てくる。看護師の一人は掲げた手に点滴の袋を提げていた。
「母さん!」
ショウタが駆け寄り、ヨリコは「大丈夫よ」とストレッチャーの上で微笑んだ。医師は立ち止まらずにストレッチャーをエレベーターへ運び込み、看護師を一人残して扉を閉めた。
「安心して。お母さんは大丈夫よ」と、残された看護師が言う。「ただ、念のため様子を見るから、今夜は入院してもらうわね。これからお母さんを病室に連れて行って、そこで少し検査するの。それが終わったら呼びに来るから、もうちょっと待っててくれる?」
ショウタはこくりと頷いた。看護師は「えらいね」と微笑み、エレベーター脇の階段を早足で昇っていった。その背を見送ってから、ショウタは振り返って言った。
「あれを見て安心出来る?」
テツコもサクラコも頷けなかった。医師や看護師の様子を見れば、急を要する事態であることは明らかだ。
「ショウタくん。シンジさんに電話して、帰って来てもらったらどうだろう?」
テツコは提案した。
「シンジさん?」
首を傾げるサクラコに、ショウタが「父さんだよ」と説明する。
「テツコさんの言うとおりだ。父さんに連絡しなきゃ」
ショウタは公衆電話に駆け寄り、ふと動きを止め情けない顔で振り返った。
「ぼく、お金持ってないや」
「貸してあげる」
サクラコはポケットからがま口を出し、ショウタの手の平に十円玉と百円玉を何枚か落とした。
「ありがとう、サクラコさん」
ショウタは硬貨を公衆電話に放り込み、父親の携帯番号をダイヤルした。
「もしもし、父さん? 母さんが入院したんだ。うん、そうだよ。病院の人は大丈夫って言ってた。でも、念のため様子を見るんだって。わかった。じゃあ、また後でね」
「どうだった?」
ショウタが受話器を置くなりテツコが聞くと、彼は小さく首を振った。
「今夜中に帰れるように、飛行機か新幹線の予約が取れるかやってみるって。一〇分後に掛け直せって言われた」
「お父さん、今はどこにいるの?」
と、サクラコ。
「出張。本当だと土曜日に帰る予定なんだ」
それから三人は、じりじりと過ぎる一〇分を待った。ショウタが再び電話を掛ける。
「あ、父さん。どうだった? そっか……うん、わかった。ちょっと待って、メモする」
ショウタは公衆電話の脇に備え付けてあったメモ用紙に、ボールペンで何か書き付けた。それから父親と二言三言話して電話を切り、やきもきと待っていたテツコとサクラコに向き直った。
「明日の昼まで、予約が取れなかったって言ってた。今夜は空港の近くのホテルに泊まるって。ホテルの名前と電話番号を教えてもらったけど……」
頼りにしていた父が今夜中に帰れないと知って、ショウタはがっくり肩を落とした。テツコはショウタを励まそうと手を伸ばすが、その前にサクラコが彼の背中に手を置いて、「大丈夫?」と声を掛けながらソファの方へ連れて行ってしまった。やはり、この女の子は油断ならない。
テツコは考えた。サクラコは温かくて柔らかくて――手はごつごつだが――いい匂いのする人間の女の子なのだ。冷たくて硬くてミシン油の匂いがするブリキの空き缶ロボでは、同じ土俵で張り合っても勝ち目はないし、意味も無い。テツコはショウタのために、テツコにしか出来ないことをしなければならない。
テツコは辺りを見回した。彼はどこへ行ったのだろう。もう帰ってしまったのだろうか。彼女は玄関へ向かった。外に出ると、入口から少し離れた場所にある喫煙所では、山高帽をかぶったK博士が、緑の藻をふいたプラスチック製の椅子に腰掛けパイプをふかしていた。彼はテツコを見るなり、パイプをくわえたまま小首を傾げた。テツコが状況を説明すると、彼はふうと鼻から煙を吐いた。
「K博士、そこで一つ相談なんだが」
テツコが自分の考えを告げると、K博士はパイプの火種を灰皿に落としてから、すくと立ち上がった。彼は懐にパイプをしまい、テツコに向かって手を差し出した。テツコは玄関の方をちらりと見てから、その手に飛び乗った。
K博士はテツコを抱え、ステッキを突いて一歩踏み出した。周りの風景がしみのようになって、びゅんと後ろに流れて消え、二人はK博士のお屋敷の前に立っていた。博士は玄関を通らず、そのまま庭へ向かい例の角井戸の蓋を開け、その中へ降りていく。鉄の扉を開け、照明を点け、壁のレバーをぐいと引けば、ごろごろと音を立て床が開き、赤く燃える液体をたたえた溶鉱炉が姿を現した。そしてK博士は問い掛けるような眼差しをテツコに向けた。テツコは「覚悟は出来ている」と答えた。K博士は黙って頷き、白衣を着込んだ。
ショウタは、まだ待合室のソファに座っていた。ヨリコが診察室を出てから三〇分以上経つと言うのに、未だ誰も呼びに来ないのだから仕方ない。看護師の言った大丈夫が、ますます方便だったのではと思えてくる。横にはサクラコがいて、ずっと彼の手を握ってくれていた。その温もりは彼の不安をなだめるのに、これ以上ないほど効果的だった。彼女は、どうしてこんなにも優しいのだろう。元々、そう言う性格の女の子なのか。それとも、ショウタが友だちだから?
ショウタは、もう一人の友だちの姿が無いことにふと気付き、きょろきょろと辺りを見渡した。
「テツコさん?」
返事が無い。ソファから立ち上がり、柱や観葉植物の影を覗き込むが、どこにも姿は見えない。奥に向かって伸びる暗い廊下を見やり、どこか探検してるのかなと、そちらへ向かって足を踏み出した時。
「ショウタくん!」
サクラコの声に振り向けば、彼女は目を丸くして玄関の方を見ていた。そこからは真っ白な、まばゆい光が差し込んでいる。二人が外へ駆け出し見上げると、サーチライトのような光を地面に投げかける銀色の飛行物体が、音もなく宙に浮かんでいた。
「UFO!」
サクラコが興奮した様子で言った。しかし、それは葉巻型でも円盤型でもアダムスキー型でもなかった。小さいが翼も付いていたし、戦闘機のようなシルエットをしている。さらに謎の飛行物体は空中に留まったまま変形し、三階建ての産院と変らないほどの大きさの人型ロボットに姿を変え、ショウタたちの目の前に降り立った。ロボは片膝を突き、ショウタとサクラコに顔を近付けた。
「ショウタくん」
と、聞き覚えのある声でロボは言った。
「テツコさん?」
ロボは頷いた。
「その格好、どうしたの?」
「K博士に改造してもらったんだ」
テツコの胸元が開き、操縦室からK博士が姿を現す。彼は操縦室の前に差し出されたテツコの手の平に乗って地上に降り立つと、ショウタに歩み寄り、彼の肩を叩いてから操縦室を指さした。
「ショウタくん、シンジさんを迎えに行こう」テツコが言った。「今の私なら、あっと言う間に連れて帰れるぞ」
ショウタはサクラコを見た。彼女はふくれっ面でテツコを睨んでいた。テツコは、そんな彼女にVサインを送り、サクラコは目を丸くしてから、ふと苦笑いを浮かべた。ショウタはK博士を見た。彼は懐からパイプを取り出しながら、一つ頷いて見せた。ショウタはテツコに駆け寄り、彼女の手を借りて操縦室に飛び込んだ。すぐに風防が閉じ、中は一瞬、真っ暗になった。ぱらぱらと計器盤に光が灯り、左右と正面のスクリーンに外の景色が映し出される。
ショウタが見つめるスクリーンの中では、サクラコが手を振っていた。K博士はパイプに火を点け、煙を一つ吐いてから、ぐいと親指を突き立てた。
「行こう、テツコさん。父さんを迎えに」
「了解!」
テツコはジャンプをひとつ決めると、空中でがちゃがちゃと飛行機に変形し、暮れはじめた空に飛び去った。
テツコの行動は、サクラコにとって全くの予想外だった。彼女は、アニメに出てくるような変形ロボに自分自身を改造し、サクラコの前からまんまとショウタをかっさらって行ってしまったのだ。サクラコは、それを「ずるい」と思った。テツコが人間の自分にとりようがない方法でもってショウタの気を引くのは、フェアではないように思えたからだ。
そうじゃない――と、夕暮れ空の二人が飛び去った方角を見つめながら、彼女は自分の考えを否定した。テツコは、ただショウタのために自分が出来ることをしたのだ。ショウタが父親の助けを必要としていたから、彼女はK博士に頼んで飛べるように自分を改造してもらっただけで、むしろ、よくやったと褒めてあげるべきだろう。それを卑怯だと言うのなら、お互い様ではないか。サクラコだって、テツコに出来ない手段でショウタを慰めていたのだ。
それにしても、K博士とは何者だろう。サクラコが考えていた通り、宇宙人だろうか? 地球にはないスーパーテクノロジーをもってすれば、テツコをUFOロボに改造するくらい簡単だ。しかし、喫煙所の椅子に座ってパイプをふかす姿は、拍子抜けするくらい普通の人だった。
サクラコの背後で自動ドアの開く音がした。振り向くと、ショウタに「大丈夫」と告げた看護師が立っていて、彼女はきょろきょろと辺りを見回してから、慌てた様子でサクラコに聞いた。
「彼、どこへ行ったか知らない?」
サクラコは、二人が飛び去った方角を指さした。オレンジと水色が混じる空には、ぽつぽつと星が瞬き始めている。
「もうすぐ帰ってきます」
サクラコが言うと、夕暮れ空の星のひとつが、ふと動いた。それはあっと言う間に大きくなり、サーチライトの光を地上に投げかけながらロボに変形すると、産院の前に着陸した。看護師は目を丸くし、腰を抜かしてその場にぺたりと座り込んだ。
「お帰り、テツコさん」
「ただいま」
スーパーロボットのテツコは、ひらひらとサクラコに手を振って見せた。それは、友だちの女子がするのとそっくり同じ仕草だったので、サクラコはちょっとだけ可笑しくなって笑った。
「お父さん、うまく捕まえられた?」
テツコは頷き、片膝を突いて操縦室を開いた。中からショウタと、スーツを着たびっくり顔の男の人が姿を現す。二人はテツコさんの手の平に乗って地上に降りてきた。
「驚いたな。本当に三〇分足らずで着いたぞ」
シンジは、ほうとため息をもらした。
「だから言ったでしょ。テツコさんはすごいんだ」
ショウタは誇らしげに言った。父親は頷き、テツコを見上げて「ありがとう」と言った。それから彼は姿勢を正し、喫煙所のK博士にぺこりと頭を下げた。K博士はパイプをくわえたまま会釈を返した。シンジは玄関前にへたり込む看護師に手を貸すと、彼女を立たせて聞いた。
「ヨリコは?」
「あ、はい」看護師は我に返った。「ついさっき、お産が始まったので、坊ちゃんを呼びに来たのですが……」
「産まれる?」
シンジとショウタ、それにテツコとサクラコも声をそろえて聞き返した。では、医師たちが大慌てでヨリコを診察室から運び出したのは、彼女の容態が悪かったわけでなく?
「とにかく急ごう!」
シンジは小走りに産院へ駆け込んだ。看護師が続き、ショウタも後を追う。
「僕も、一緒に行ってもいい?」
サクラコは言った。ショウタは頷き、それからふとテツコを見上げる。彼女は首を振って言った。
「構わず行ってくれ。この身体じゃ、建物には入れないからな」
するとK博士が立ち上がり、テツコに歩み寄って彼女に顔を近付けるよう、身振りで示した。テツコが言われた通りにすると、K博士はステッキの柄で彼女の頭をコツコツと叩いた。テツコの頭に四角い蓋がぱかっと開いた。中から空き缶ロボのテツコが転がり出て、地面にぶつかりコーン、カラカラと音を立ててた。
「K博士。これは、どういう事だ?」
がばっと身を起こしたテツコはK博士に詰め寄った。
「あの思わせぶりな溶鉱炉はなんだったんだ。私はてっきり――」
「溶鉱炉?」
ショウタはぎょっとして、テツコとK博士を交互に見た。K博士は意地悪なにやにや笑いをテツコに向け、片目を閉じて見せた。テツコはしばらくK博士を睨み付けてから、ぴょんとジャンプしてショウタの腕の中に飛び込んだ。
「さあ行こう、ショウタくん。急がないと、君の妹が産まれてきてしまうぞ」
テツコは入口を指さし、彼らは中へ向かって歩き出した。
「妹なの?」
入口のドアをくぐりながらサクラコが聞くと、ショウタは満面の笑みで頷いた。サクラコは、親馬鹿ならぬ兄馬鹿になるんだろうなと言う予感を覚えた。
エレベータの前では、シンジと看護師がそわそわしながら三人が来るのを待っていた。彼らはエレベータに乗り込み、目的の階に着くと廊下を早足で進んだ。しばらく行くと、シンジがぴたりと足を止めた。彼は振り返り、子供たちに笑顔を向けた。
サクラコの耳に、かすかな産声が届いた。行く先の一室の扉が開き、廊下に響く産声が大きくなった。医師と、器具を載せたワゴンを押す看護師が部屋から出て来る。シンジは二人に駆け寄り、頭を下げてから病室に駆け込んだ。ショウタとテツコが彼のあとを追い、サクラコも遠慮がちに室内に踏み込むと、ベッドの上には疲れ切った様子ながらも、誇らしげな笑顔で産まれたばかりの娘を抱くヨリコの姿があった。シンジは妻の頬ににキスを一つくれ、娘を抱いて目を細めた。赤ん坊はもう泣いていなかった。意外に泣かないものだなと、サクラコは静かに驚いた。シンジは、小さな人間の抱き方を息子にレクチャーしてから、彼に娘を差し出した。ショウタはテツコをベッドに置き、ぎこちない手つきで赤ん坊を抱いて、引きつった笑みを浮かべた。彼は救いを求めるように、サクラコに目を向けた。しかし彼女も、赤ん坊の扱いなど心得があるわけではない。それでも、産まれたばかりの赤ん坊を抱くチャンスは見過ごせなかった。サクラコは、おっかなびっくりショウタの妹を抱き、あまりの軽さにぎょっとした。何か母性本能的なものでも感じるかと期待したが、落っことさないように気を付けるだけで精一杯だった。
「私も抱っこしたかったな」
テツコがぽつりと言った。
「K博士に頼んで、もっと人間っぽい身体を作ってもらったら?」
ショウタが提案した。
「ナイスアイディアだ、ショウタくん」
テツコはノリノリだ。サクラコは勘弁してくれと思った。
窓の外がぱっと明るくなった。ショウタがそちらへ歩み寄って、さっとカーテンを開けると、窓の向こうには例のUFOが浮いていて、その上にK博士が立っていた。ショウタの両親は彼に向かって笑顔で頭を下げた。
ショウタは窓を開け放った。テツコはベッドから飛び降りると窓辺に駆け寄り、ぴょんとジャンプしてから窓の縁に飛び乗って、小さな手をぶんぶん振った。サクラコも窓辺に歩み寄り、K博士から赤ん坊の顔が見えるように、身体を斜にした。K博士は満足げに頷き、こつんとステッキを突いた。操縦室の風防が勝手に開き、彼はその中に身体を滑り込ませた。
「K博士、ありがとう!」
ショウタが叫んだ。K博士は操縦室の中で親指を立てて応じから、ぴしゃりと風防を閉じた。そうしてUFOは、ぎらぎらと輝きながらあっと言う間に夜空へ飛び去った。
「不思議な人だなあ」
シンジがぽつりと言った。
「そうね」と、ヨリコは言った。「でも、とても親切な人よ」
サクラコはベッドの側へ戻り、赤ん坊をヨリコに返した。彼女は「ありがとう」と微笑んだ。サクラコは笑みを返しながらも、なんとなく腕の中が寂しくなるを感じていた。
「今度、お礼に行かなきゃならないな」
シンジが言った。
「菓子折りを持って行くなら、どら焼きがおすすめだ。どうやらK博士の好物のようだからな」
テツコはアドバイスした。
「なるほど」と言ってから、シンジは今さら目を丸くした。「しゃべる空き缶?」
「私だよ、テツコだ」
「あの、でっかいロボットは?」
「あれも私だ」
シンジはふと考え、「換装ボディパーツみたいなものか」と勝手に納得した。
「そもそも私はショウタくんの桃缶だぞ。五歳の頃ひどい熱を出した彼に、あなたがお土産と言って買ってきた、あの桃缶だ。忘れたのか?」
テツコは思い出させた。
「ああ、あの桃缶か」シンジはショウタに目を向けた。「おまえ、ずっと大事にしてくれてたもんな。しゃべれるようになってよかったじゃないか」
ショウタは笑顔で頷いた。
「そうだ」シンジは天啓を受けた様子で言った。「この子、モモコって名前にしよう」
「あら、いいわね」
ヨリコが言った。
「ぼくも賛成」
ショウタが手を挙げて言った。テツコは「待て、考え直せ」と、おろおろしながら親子を止めようとするが、盛り上がる彼らは耳を貸そうとしない。テツコは救いを求めるようにサクラコを見た。
「桃缶から取ってモモコなんて、あんまりだと思わないか?」
「そう?」サクラコは言った。「僕も、いいと思う」
テツコはがっくりとうなだれた。
「だって、ただの桃缶じゃなくて、桃缶のテツコさんから取った名前なのよ。それって、すごく素敵なことじゃない?」
「そうかな?」
顔を上げたテツコは、まんざらでもない様子だった。サクラコは勇気付けるように笑みを向けた。テツコは彼女に背を向けると、赤ん坊を囲む親子に混じって「モモコちゃん」と新しい家族に呼びかけた。
サクラコはこっそり舌を出した。モモコと言う名前に賛成した理由が、実は他にもあったのだ。サクラコは桜で、モモコは桃。なんだか、姉妹みたいではないか。二つの名前を噛みしめながら、サクラコはショウタの家族の輪を見つめた。そして、彼らの幸せのおすそ分けを、ひとりこっそりと味わうのだった。
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