2.剣道少女
ショウタは鼻の奥がツンとしみるのを感じながら、絶対に泣くもんかと必死に涙をこらえていた。ここは公園で、彼は今、三人の男子に取り囲まれている。みんな、ショウタのクラスメートだ。少年の一人は、ショウタの野球帽を持ってにやにや笑いを浮かべていた。
「返せ!」
ショウタは怒鳴って、野球帽を持った少年に飛び掛かる。少年は馬鹿にするようにひょいと身をかわし、ショウタの野球帽を放り投げた。野球帽は空中で弧を描き、それを他の男子がジャンプして捕まえる。ショウタは振り返って野球帽を取り返そうと走るが、結果は同じだった。野球帽を受け取った三人目は、ショウタよりも一回り身体の大きな男子だった。彼は突進してくるショウタをよけようともせず、代わりに片手で乱暴に突き返した。ショウタは尻もちを突き、そのままころころと後ろに転がった。
「どうした、転校生。さっさと取り返さないと、公園の便所にこいつを放り込むぞ」
身体の大きな少年は、ショウタの野球帽をぱたぱた振りながら言った。
「マジかよ、ジョージ。ここの便所、汲み取りだぞ?」
「えげつねえ」
他の少年たちはげらげらと笑った。
ショウタは素早く立ち上がり、ジョージと呼ばれた少年にむしゃぶりついた。しかし、あっけなく投げ飛ばされ、再び地面に転がる。悔しかった。泣きたかった。しかし、泣いてもこの残酷ないじめっ子たちを喜ばせるだけで、何の得にもならない。とにかく、今は戦うしかなかった。とは言え、多勢に無勢である。彼には助けが必要だった。
「ブリキンダー、キーック!」
銀色の物体が飛んできて、ジョージの頭に当たり、コーンと小気味のよい音を立てた。ジョージは「ぎゃっ!」と悲鳴を上げてショウタの野球帽を落っことし、額を押さえてうずくまった。銀色の物体は空中でくるくる回転してから、地面に這いつくばるショウタの顔の前に着地して、勇ましいポーズを決める。
「テツコさん!」
「今はブリキンダーだ、ショウタくん」
心強い援軍だった。空き缶サイズの彼女に何ができるか分からないが、それでも一緒に戦ってくれる友人がいるだけで勇気がわいてきた。ショウタは立ち上がり、テツコに並んで立った。
「くそっ。なんなんだ、お前は!」
ジョージは立ち上がり、こぶのできた額を押さえながら吠えた。
「私はブリキンダーロボ。ショウタくんをよってたかっていじめるなんて、許さないぞ!」
「うるせえ、このガラクタめ。ぺちゃんこにしてやる!」
「出来るものならやってみろ。まあ私は、象に踏まれたってつぶれないけどな」
テツコがフフフと不敵に笑っていると、ジョージの子分の一人が横から走り込んできて、彼女を力いっぱい蹴飛ばした。テツコはコーンと音を立て、くるくる回転しながらクズカゴの中に落下した。
「ナイスシュート」
と、もう一人の子分が言った。
「こりゃいいや。転校生も、同じクズカゴに突っ込んでやろうぜ」
ジョージは残忍な笑みを浮かべて言った。
「さすが、ジョージ。面白いこと考えるな」
「もちろん、頭からだろ?」
三人はニヤニヤ笑いながらショウタに迫ってきた。ショウタは身構えた。例え最後は逆さまにクズカゴへ放り込まれることになっても、そうなる前に精一杯抵抗してやるつもりだった。そうでなければ、助けに来てくれたテツコに申し訳ない。そして、いよいよ三人の手がショウタに伸びた時。
「あんたたち、なにやってるの」
少女の声が凛と響いた。いじめっ子の三人がぎょっとして振り返った先に、髪の長い小柄な女子の姿があった。ショウタにも覚えのある顔だ。クラスメートで、名前は確か――
「うえっ、サクラコ!」
子分の一人が、明らかに怯えた様子でその名を口にした。
少女は剣道の竹刀と防具の袋を足下に置くと、険しい表情でいじめっ子たちに歩み寄った。
「お前には関係ないだろ。さっさとどっか行かないと痛い目見るぞ?」
ジョージは脅し文句を口にするが、それは明らかに虚勢と分かるものだった。サクラコは、いじめっ子たちの少し手前で立ち止まり、冷たい目で彼らを見回してから、びゅんと風を切って脚を振り上げた。足刀と呼ばれる空手の横蹴りで、その踵はジョージの鼻先にぴたりと止められていた。
「もう、彼にちょっかい出すのは止めなさい。じゃないと、今度は当てるよ?」
ジョージは目を丸くして一歩後退った。その鼻から、ぽたりと鼻血が落ちる。
「あれ、当たっちゃった?」
サクラコはきょとんとして、脚を降ろした。
「うるせえ」ジョージは袖口で鼻血を拭った。「覚えてろよ、イチゴパンツ!」
サクラコは顔を赤くして、遅ればせながらスカートの裾を押さえた。その隙にいじめっ子たちは彼女の脇を抜け、尻尾を巻いて逃げていく。サクラコはその背中をしばらく睨み付けてから、振り返って赤い顔をショウタに向けた。
「大丈夫だった、ショウタくん?」
ショウタは頷いて見せた。
「ありがとう、助かったよ」
ショウタは野球帽を拾い上げ、はっと息を飲んだ。
「テツコさん!」
きょとんとするサクラコを置いて、ショウタはクズカゴに駆け寄り、ゴミに埋まったテツコを救い出した。
「すまない、ショウタくん。私は、力になれなかった」
テツコはしょんぼりと言った。
「そんなことないよ。だって、あいつにブリキンダーキックをしてくれたじゃないか」
とは言え、結局ショウタを助けたのはサクラコとか言う女の子だ。強いばかりか人形のように可愛らしくて、ガラクタな空き缶の彼女とは大違い。
「それ、なんなの?」
サクラコがやって来て、ショウタの手の中のテツコさんを覗き込む。
「テツコさんだよ。なんでもない普通の空き缶を、K博士がロボに改造してくれたんだ」
「K博士?」サクラコはぎょっとした。「ショウタくん、K博士と知り合いなの?」
「知り合いってほどじゃないよ。会ったのは昨日が初めてだし」
ショウタは、K博士との出会いについて説明した。
「K博士が宇宙人って本当?」
サクラコは目をきらきら輝かせている。
「ぼくには普通の人に見えたけどなあ」
腕組みをして、うーんと唸るショウタを見て、テツコは大事な用を思い出した。
「ショウタくん、ヨリコさんが待ってる」
「そうだ、K博士の家に行くんだっけ。遅くなっちゃったなあ。母さん、怒ってるかな?」
ショウタは不安げに言った。
「僕もついて行っていい?」
サクラコが妙なことを言いだした。
「いいけど、どうして?」
ショウタはきょとんとする。
「僕もK博士に会ってみたいの。だって、宇宙人に会えるなんて滅多にないでしょ?」
待ち合わせに遅刻したのだから、小言の一つももらうかと覚悟していたショウタだったが、ヨリコはあっさり息子を許した。女の子の友だちを作って連れてきたのは、色んなへまを帳消しして余りあるお手柄なのだと彼女は言う。ショウタは軽自動車の後部座席に、彼と並んで座るサクラコに目を向ける。
「ショウタくんの友だちの、島田サクラコです」
母との待ち合わせ場所の和菓子屋へ連れて行ったとき、サクラコはヨリコに向かってそう自己紹介した。クラスメートではなく、友だちと言ってくれたことが、ショウタは何より嬉しかった。
ショウタの視線に気付いたのか、窓の外を眺めていたサクラコは、ふと彼に顔を向けてきた。サクラコは、なんとも言い難い複雑な表情を浮かべている。わくわくしているようにも見えるが、これは――
「怖い?」
ショウタが聞くと、サクラコはさっと顔を赤くした。それから、少し間を置いて苦笑を浮かべながら頷く。
「それじゃあ、会ったらがっかりするかも知れないよ。だってK博士って、噂と違ってすごく普通なんだ。光線銃も持ってないし、銀色の宇宙服も着てない。もちろん、アンテナもついてなかった」
「宇宙人のセンス古いよ」サクラコはころころと笑った。「けど、ショウタくん、すごいな。テツコさんを取り返しに行くとき、怖くなかったの?」
「怖くないわけないよ」
ショウタは、空き缶だったテツコが恐ろしい噂のあるお屋敷へ飛び込んで行ったときの、絶望感を思い出して胸が締め付けられるように感じた。その後、玄関口まで歩いて行って「ごめんください!」とK博士を呼ばわったことが、未だに自分でも信じられない。あんな事、よくできたものだ。もちろん、噂じゃない本物のK博士を見た今は、恐ろしいことなど何もないが。
「それだけ、テツコさんが大事だったってことだよね?」
「うん。小さいころからの友だちだからね」
きっぱりと言い切るショウタの声を聞いて、助手席に座るテツコは少しだけ自信を取り戻した。ショウタはブリキンダーキックを褒めてくれたが、結局のところサクラコが助けに来なければ、彼はひどい目に遭っていただろう。せっかく喋ったり歩いたりできるようになったのに、大切な主人を守れなくて何がロボだ。しかし、ショウタはそんな彼女でも、まだ友だちと言ってくれている。
「やっぱり、ショウタくんはすごいよ」
サクラコが主人を称賛する声を聞いて、なぜかテツコは面白くなかった。
「ぼくは、サクラコさんのキックの方がすごいと思うけど」
イチゴパンツ丸見えだったけどな――とテツコは胸の内で付け加える。いじめっ子に蹴飛ばされてクズカゴに放り込まれた後も、彼女は脱出を試みながら、クズカゴの網目から一部始終を見ていたのだ。
「まあ、ほら、僕は剣道やってるから」
サクラコが照れた様子で言った。
「すごいや。だから、あんなに強いんだね!」
待て、ショウタくん。剣道に蹴り技は無いぞ――と言った調子で、二人はK博士のお屋敷までの道々を、とぼけた会話でテツコをやきもきさせ続けたのだった。
車が止まるとテツコはドアを開け、ぴょんと座席から飛び降りた。少し遅れてショウタとサクラコも後部座席から降りてくる。サクラコは、少し青い顔をしてK博士のお屋敷を見上げた。ショウタが横にやって来て、彼女の手を握る。サクラコは目を丸くするが、ショウタはにこにこ笑顔で「大丈夫だよ」と言った。テツコは、やっぱり何か面白くなかった。
ヨリコも運転席から降りてきて、お屋敷の玄関に向かった。そうして「ごめんください」と、よそ行きの声で呼ばわる。すぐに玄関の引き戸が五センチほど開き、にゃあと言う声が聞こえた。足元を見ると戸の隙間から黒猫が、片目でこちらを覗いていた。黒猫はさっとお屋敷の奥へ走って消え、少し遅れて人の足音が聞こえてきた。玄関の引き戸が大きく開き、K博士が顔を見せる。
「はじめまして、K博士。昨日は息子がお世話になったようで、お礼に伺いました」
ヨリコが頭を下げるとK博士は一同をぐるりと見渡し、ひとつ頷く。
「これ、つまらないものですが」
ヨリコは紙袋を差し出した。受け取ったK博士は中身がどら焼きであることを確認し、ふと笑みを浮かべた。それは本当に一瞬だったが、テツコは見逃さなかった。彼は脇の下駄箱からスリッパを四足出して並べ、テツコを見て一足を戻した。それから紙袋を手に提げ、さっさと奥へ歩いて行く。四人は顔を見合わせ、スリッパを履いてK博士の後に続いた。
K博士は庭の見える和室に客を通し、みなが座るのを見届けてから部屋を出て行った。しばらく経って戻ってきた彼は、どら焼きを盛った木鉢と、麦茶のグラスを三つ、それとミシン油をお盆に載せて戻ってきた。彼は人間の前に麦茶を、テツコさんにはミシン油を置いて腰を下ろし、さっそく一つ、どら焼きを取って食べた。実に美味しそうな食べっぷりだった。彼は一同を見渡し、どら焼きが入った木鉢を正面に座るヨリコの前に押しやった。みんなも食べろと言うことか。ショウタとヨリコは顔を見合わせ、ふと笑みをこぼして遠慮無くどら焼きを一つ取る。しかし、サクラコだけは青い顔で固まったままだった。すると襖がすっと開き、にゃあと一声鳴いて黒猫が入ってきた。猫は小さく首を上下に振って人間たちを観察した後、サクラコに歩み寄って膝の上に乗り、ぱたぱた尻尾を左右に振り始めた。サクラコが背中を撫でると、黒猫はごろごろと喉を鳴らした。彼女は「ちょっと重い」と言いながら、ようやく笑顔を見せた。
「それにしても、まさか普通の空き缶がロボットになって帰ってくるなんて、思ってもみませんでした」
ヨリコが言うと、K博士は二つ目のどら焼きを手に取りながら頷いた。
「今朝は彼女に家事を手伝ってもらったんですよ。こんなに小さいのに頑張ってくれて、ずいぶん助かりました」
K博士はテツコに目を向け、よくやったとでも言いたげに大きく頷いた。大人たちに褒められて、テツコはくすぐったいばかりだ。
それから、彼らはしばらく世間話に興じ――と言っても、しゃべるのはヨリコばかりでK博士は興味深げに頷くだけだったが、ヨリコは暇を告げた。K博士はヨリコが立ち上がるのに手を貸して、彼女の礼を黙って受け、それからふと目を見開き言った。
「君、大丈夫か?」
ヨリコは微笑んで頷くが、その顔は血の気が失せて真っ青だった。彼女はがくりと膝を折って、その場にへたり込んだ。
「母さん!」
「ヨリコさん!」
驚いたショウタとテツコがヨリコに駆け寄った。サクラコは目を丸くして立ち上がり、彼女の膝の上にいた黒猫はにゃっと短く抗議して飛び退いた。
「大丈夫、たぶん、ただの立ちくらみだから」
弱々しい笑顔で子供たちに言うヨリコに、K博士は言った。
「車の鍵はどこだ?」
ヨリコはポケットからそれを取り出した。K博士は鍵を受け取るとヨリコの身体の下に手を差し入れ、軽々と彼女を抱き上げた。それから玄関へ向かい、ふと振り向いてショウタに言った。
「少年、帽子とステッキを頼む」
玄関にはポールハンガーが有って、そこには山高帽がひとつ掛かっていた。ステッキは傘立てに突っ込んであった。ショウタはその二つをひっつかみ、外へ出て行くK博士を追った。サクラコもすぐについて来て、K博士から鍵を受け取り車のドアを開ける。K博士は助手席にヨリコを乗せ、シートベルトを掛け、自分は運転席に乗り込んだ。子供たちも後部座席に乗り込み、テツコはショウタの膝に乗った。
「どこの産科だ?」
K博士に問われ、ヨリコはその名前を告げる。K博士はひとつ頷き、車を発進させた。