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時亀

作者: aoto

   時亀

               青都



 出産後、私は赤ん坊の持つ重みに驚いた。かつて私の身に宿していたものが、自分の手を離れていく浮遊感。


 私より先に子供を作っていた同級生の友達は、会えば必ず、育児の愚痴を私に零した。

「自分の時間が、子供に全部吸い取られているみたい。栄養も、お小遣いも、なにからなにまで」

「でも、可愛いでしょ?」

「可愛いわよ。あたりまえじゃない。でもねえ、ちょっとくらい自分の時間が欲しい、なんていうのは贅沢なことなのかな」

「贅沢言っちゃダメよ。自分の子供につきっきりになれるなんて、幸せなことじゃない」

「あら、あなたはまだ子育ての大変さを知らないから、そんなことが言えるのよ」

 彼女のように、私も子育ての愚痴を吐くようになるのだろうか。


 赤ちゃんは夫に顔立ちが似ていた。夫は元気な赤ちゃんに喜んだ。私ももちろん喜んだ。それは確かに喜んだのだ。

 病院の外にでて、デジタルカメラと、ケータイの写メの両方で赤ちゃんの姿を撮り、その後、私が赤ちゃんを抱きかかえている姿を夫に撮らせた。看護師さんに頼んで、家族3人の写真も撮ってもらった。

 赤ちゃんはタイミングよく寝付いてくれていて、写真はきれいな絵になった。


 私は幸せの絶頂にいた。

 子どもが生まれるまで、どういう風に子どもと過ごそうかということを考えていて、他の物事にはいっさい興味を惹かなかった。

 子どもが生まれたなら、どんな服を着させてあげようか。石油で作られた服ではなく、肌にやさしい綿を使ったものがいいだろうか。どんな部屋で、どんなベッドを拵えようか。色彩感覚を豊かにさせてあげるために、カラフルな色合いの壁紙を敷こう。そこで私はどんな風に笑いかけてあげようか。どんな歌を歌って、どんな風にお腹を撫でてやり、ミルクを飲ませようか。ベビーカーは日よけの大きなものがいい。

 特に気に入ったアイデアは予定を実行させるためのリストに加えた。

 それなのに、赤ん坊が生まれるとほぼ同時に、私は家出を行っていた。瀬戸内海に面する愛媛県に通じる列車に乗った。

 私はまだ赤ちゃんの名前すら決めていなかった。夫が、

「産まれたときの直感を持ち合い、二人で相談して決めよう」

 と、言ったのだ。この世の中、赤ちゃんの名前を決める前にしなければいけないことなんて、何があるだろうか。けれども、私はどうしてもウチに帰るわけにはいかなかった。



 列車の中でシートを倒し、私は眠りについていた。夢を見ていた。いつしか私は無人島にいた。

 海の波は静かで、風だけが妙に強かった。遠くを見ていると、不思議な心地になった。あまりにも海水が青色で、穏やかな波間は抗うことのできない海の広さを感じさせた。

 いくつもの波が遠くなったり、近くなったりしていた。私は一人ぼっちで、無人島には沈黙だけが存在していた。風がいっそう強くなる。私は寒さに凍えた。私は海を眺めた。海は墨汁をたらしたように暗くなっていた。夕陽はなかった。


 夢の中の無人島で、魔力を持つ生き物と私は出会っていた。


 時亀という名の生き物だった。

 時亀はその甲羅にふれたものの時間を奪ってしまうことで有名だった。時間を奪われたものは、年をとって老人になってしまう。私はそんな悪名高い彼と出会ったのだった。


 時亀の甲羅のひとかけらには時計の針が刻まれていて、チクタクと音を鳴らしていた。時折、12時を示した針があると、ごーん、ごーんとお腹の中に沈むような鳴き声を彼は口にした。


 甲羅に刻まれたいくつもの時計はこの世の人々の人生の時間を計っていた。まるで運命の蝋燭のように、甲羅の針が12時を示すと、その時計の持ち主は余命を終えてしまうのだった。時亀は宇宙に存在する時間を支配している。


 私は自分の赤ちゃんの人生の時計が見たくなった。それと同時に幾分か悲しくなってきた。

 まだ生まれてからわずかしかたっていないのに、赤ん坊はもうすでに死すべき運命を背負っているのだ。


 時亀が私を甲羅の上に載せようと促した。私は頑なにかぶりを振った。

「いや。私知っているわ。あなたの甲羅は生き物を老いさせるのよ」

 時亀は黙って耳を傾けていた。

「あんたなんかに私の時間をあげるものですか。だってこれは、これは、私の人生なのよ」

 私の顔は時亀の右側に浮かぶ海洋を向いていた。誰に向かってしゃべっているのか分からなくなってきた。私の頭は眠り込む前からずっと整理されていなかった。

「ならば私は去るまでだ」

 時亀はじらすようにゆっくりと、今来た道を戻ろうとした。時亀のいたところには砂跡が残った。

 そこをめがけ、獲物を逃してはいけないとばかりに波がやってきた。ゴゴゴとうなった。時亀のいた砂跡が、トンボで均されるようにきれいになった。私は迷っていた。何かいい手はないものかと、知恵を搾り出してみたが見つかるものはなにもなかった。時亀は宙に浮いたかのように水面にいて、波に身を任せている。

 波は時亀の体をどっちつかずに揺らしている。島に近づけようとしているように見えたし、あるいは遠ざけているようにも見えた。非常にゆっくりとしたペースで、時亀は島に近づき、近づいた距離分遠のいた。

私の心は焦りに焦った。私は震える声で待ってと叫んだ。

「もう少し時間を頂戴。心が定まらないの」


 息を整え、私は甲羅の上に乗った。乗り心地は『浦島太郎』の絵本の絵のようにはいかなかった。波の影響をもろにくらうから、体を安定させるために甲羅にしがみついた。甲羅はごつごつとしていて、私の手のひらとひざにくい込んだ。

 時亀が海に向けて泳ぎだす。時亀は海の中に潜り込んだ。

 私はビート版をもつようなかっこうで甲羅にしがみついた。水の流れは私をふわりと浮かばせる。その瞬間に海底の黒い草が見えた。


 海の中でも私は呼吸ができた。その点だけは信じていた。私を助けてくれるというのに、水に溺れさせてしまったでは考えが足りない。私は目を開けてみた。目に強い水流がぶつかって痛かった。私は目を閉じた。どうやら水中眼鏡の効果までは期待できないようだ。

 それでも少しばかり穏やかな流れになったときは目を開いた。体が老いているかどうかを確かめるためだ。

 腕の皮膚がたるみ始め、黒いしみが大きくなっていく。肩の肉が削げ落ち、わきの下から肋骨が浮き彫りにみえた。

 老いた手に力が入らなくなってきた。私は我慢ができずに左手を離す。右手だけでは体を支えきれずに両手を離す。私は腕を引っぱる水流に身体を預けた。泥で汚れた海草や小枝、ナイロンの片割れのようなものが身を包んだ。助けを待てばよかったなと思う。しかし、やってくる保証はあったか。それに、あの時私の頭はひどく混乱していた。私は急に体力が奪われていくのを感じた。

 何の抵抗もなく、私は暗い水流の渦に飲み込まれていった。呼吸ができるという超能力は時亀がいるときだけのようだ。私は苦しくなって、ついに気を失った。





 どれほど長い時間がたっただろう。私はまた病院にいた。話によれば、病院の近くの海岸で倒れていたらしい。

 私は自分の体を見て回った。腕は老いていなかった。幾分かやつれているようだが、疲れただけだろう。安堵感が立ち込めた。

 それと同時に違和感が背を打った。ちょうど水流の中にいたとき、波がむち打つように私の身体は前のめりにしなった。

 私はそれを受け入れずにいられなかった。私は自分の二対の手のひらをまじまじと眺めた。他の誰のものでもない。何十年間ともに歩んだ、紛れもない私の体だった。

 けれども、あの感覚は、夢の中で得た老いの感覚は本物だった。それならば、私の老いた身体はどこへいったというのだろう。私の身体は再生されたということだろうか。





 夫は知らせを受けて飛んできた。

「一体何があったんだ」

 と、しきりに話を聞きたがった。私ももちろん話したかった。私は無人島に行ったこと、時亀の背中に乗ったこと、途中で力尽きたことなどを話した。

 夫は「馬鹿な」と顔をしかめた。

「それが本当の話なら、お前はおばあちゃんになっているはずだろ」 

 夫は私の話を現実におきたことだと思いたくなかったようだった。 

「でも、私が無人島に行ったのは本当の話よ。私はあそこで痛みを感じたわ」

 私は大きく反論した。夫は少し考えるようにして、ベットの周りを徘徊し、窓を開閉し、お見舞いのりんごを弄んでから、再び私の目の前に立った。

 夫には質問がまだ残っていた。

「仮に不思議な力でお前がおばあちゃんにならずにすんだとしよう。しかし、一体お前は、どうして無人島なんかに行ったんだ」

「わからないわ。気がつくと私はそこにいたのよ」

 私は言った。この日の出来事は私にとっても不可思議なものばかりだった。

「そんな話は一体全体聞いたことがない。お前は出産したばかりだった、考えてみれば、財布1つお前は持っていなかった。お前は無人島にいけるはずがないんだ。仮にテレポートが起きたとしても、俺はそんなことが現実として起きるはずがないと思う。きっと悪い夢だったんだよ」

 夫が確証を得たかのように力強く説明した。

 私も夢であればいいと思った。しかし、私は以前の私ではなくなったことを悟っていた。

 家族三人の写真を心待ちにしていた、あの頃の私ではない。夫はそのことに気づいてはいない。

 私は浦島太郎にはならなかった。白いひげもない。だけど、私には見えていた。くっきりとした輪郭で存在しているその姿を。それはいつ私を再び無人島に連れ出すともしれないのだ。

 浦島太郎が玉手箱を開けてしまったように、私は運命から逃げることができない。

私はそのことをどうにかして夫に伝えようとした。

 身振り手振りを使って三十分奮闘しても、それが伝わることはなかった。言葉は、まるで桜が散った後の五月闇に呑まれるようにして姿を消した。

「なんだか孤独だわ」

 私はベッドの上で膝を抱え込んだ。とりとめもない疲労を感じ、病室内の時計に目をやった。白色の事務的な時計だった。

「俺がいるだろ」

 夫はひどく哀しそうに私の目を見つめた。私は弁解をした。

「違うのよ、そういうのとは別の種類の孤独なの」

「一体どんな?」

「違う。違う」

 私は顔に苦渋を浮かべた。「一体どんな?」それは私の方こそ誰かに聞きたい質問だった。

「何が違うって言うんだよ」

 夫は窓際に立ち、目を閉じて、合わせた両手に顔をうずめた。夫の苛立ちが辛かった。

 私は時計の針の立つ音に耳をすませた。音は、まるでこの世界のどこにも重なり合うことのないような、奇妙な響きを持っていた。

「あなたに決して伝えられないから孤独なのよ」

 私は言った。説明になってないだろう、と夫は抗議した。

 私は黙って首を二、三回振った。水差しに入った水をコップ一杯飲み干し、夫に弄ばれたりんごを一口かじって咀嚼した。夫は釈然としない様子で、ベッドの脇にある椅子に座った。空しい堂々巡りが続くようだった。

「ごめん」

 私がうつむくと、夫も慌てて私に謝った。

「いや、俺も悪かった。本当はお前のほうが辛いはずなんだ」

「いいのよ」

「本当にごめん」

「だからいいって」

「急な話だったんだ。一体何がどうなっているのか、わからなくて、でも、誰も納得いくように話してくれなくて、俺ホント心配で」

 夫のやさしさに私は微笑んだ。夫も安心して、少しは落ち着きを取り戻したみたいだった。忘れよう。私は誓うことにした。そして、机の上に飾られた写真の、私が抱きかかえている赤ちゃんに向けて、静かな視線を送った。


2008 1/29

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