⇔真紅
どんよりとした部屋の空気が、ふいに、変わった気がした。
「さぁーてと!」
唐突で申し訳ないが私は仕事終わりには決まって、部屋のベッドで寝転んで、雑誌と小説を同時よみすることが好きなのだ。それから、帰りに適当な店で買った適当な不細工のぬいぐるみを、座布団のようにずっしり踏みつけて、淹れたての紅茶を飲む。ああ、明日はロマンチックな雨でも降らないかしら。なんて。時間が優しく流れゆくこの、穏やかな時間にまぶたをそっと閉じる。
書類は積み上げないタチであるせいか、淵術師としての仕事は早い。次の予定(淵術関係)まで時間を余らせてしまうのはいつものことだ。でも私は、趣味が多くてそのことを人一倍至福に感じている。自由はサイコーだ。革命だ。ナポレオンだ。もう一度言わせてほしい。自由革命スーパーナポレオン状態だと。だからその時思わず口にしてしまう掛け声があった。
「・・・?」
(なんだ、ずいぶんのんきな声が出たな。)
カルロスは振り返って彼女の顔を見る。黒き炎は美しく、、、かくも果敢に炎上している。
―――――――そうか。
「・・フッ」
きたか。・・・ついに。カルロスはしなっとした前髪をゆっくりと整える。それから疲労で重くなった腕を無理やりすくい上げて、帽子を正す。リボンは外れていないか。ズボンは、破れ一つない上出来だ。靴はボロボロ。だが、それがいい。淵術の歴史的瞬間に立ち会うのに、身だしなみは重要だ。ただ歯磨きは面倒くさい、しなくて良い。そうだそれがいい。
「カルロス!」
「なんだい、黒」
「準備、できたわよ」
「ああ、こちらも準備オーケーだよ」
ニコリと笑みを返す。
赤黒い足がうねうねともう間近まで迫ってきていた。全ての終わりが近い。
色々な感情が混じりあい表情を決めかねていた様子だったが、彼女は柄にもなく微笑み返して、こう言った。
「なんかごめんね!」
「紳士はどんな罪も女性も許すものさ、好きにやっておくれ!」
ハハッ、ハッハッハッハ。
黒い夜のようなしっとりとした炎が包む彼女の手の中で、ゼロに達するほんの僅かで留めた火球が、ゆるゆると、
無に達した。
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ゴー↻、ゴー↻、ゴーン、↻ーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン
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鐘の音が聞こえる。地球の裏側からなっているような遠く間延びした音なのに、全身を揺さぶる物凄い音量だ。世界が破裂した光景が続く。両の腕で自分を抱きしめたはずだが、その感じすらわからない。視界がぶれすぎて、ここがどこだかすらもはや忘れてしまった。
(私は――――誰?)
何回なったのだろうか。永遠に続く様なその音はいつの間にかだんだんと止んでいった。
。
。。
。。。
鐘の音が完全に聞こえなくなったと思う。それから、
・・・多分、私は地べたに倒れ伏している。と思う。人の体がまだちゃんとあるのか知れないが、自分よりも確かな存在感を前面に感じるからだ。
(そうか、魂ってこんなものなのかもしれないな。思ったより体がソフトで軽い。楽しいかもしれない。)
あまりにも現実的ではなくて、自分が何者で、何をしていたかどうでもよくなる。ただ飛躍した感想だけががこぼれ落ちる。
こういう経験なんか滅多にない。素晴らしい。
ああ、
(人間はエゴで出来ていて、どんな所にいても自分のこと以外に考えられない動物だから、魂を想像できないことは仕方のないことかもしれないな。)
達観した状況判断でもって、つぶやいた。
(我ながらこんな哲学的な文章を読めるなんて、学者向きだったのだろうか)
なんて自分らしくないセリフ。
そう思ったらいつの間にか笑いが噴き出ていた。
「ーーアッハッハッハッハッハッハ!!」
「え?」
「・・・・・は?」
何か聞こえた。私の感激を邪魔するかのように発せられた声。
「だ、大丈夫かい、黒?」
気が付くとカルロスが膝をついて不安げな顔で見下ろしている。その顔はさっきまで見たカルロスとそっくりそのまま変わっていなかった。
目を凝らすと視界より先に、いつのまにか体の感覚が元通りになっていることを真っ先に感じた。しかし。
あの赤黒い「足」が。カルロスの顔の横からチラリと見えている。見えてしまっている。
「・・・・」
「黒?」
うつぶせに倒れていた体をゆっくりとおこし、イライラとクルーネックとブルゾンについた煤を払う。
思考がまだよく回ってないが、辺りを確認するため無理やり体をおこす。ここは先ほどまでいた部屋だ。急に聴覚がスッと元に戻って、闇を音に変換した様な音が聞こえてくる。顔をしかめながら見ると、カルロスの炎が「足」の進行をどうにか押さえている。ッ・・・ジーパンについたもう色々なものを手で叩き落とす。
私は相変わらず気味の悪い、ブグかどうかも知れない何かがもぞもぞとしている事にかつてない苛立ちを覚える。はぁ――――月光が射してないのだ。あの、美しい優雅な月光が。
あーあ。
「ッ何よ!」
「く、黒?」
「失敗したのね!」
「っえ?ちょ、ちょっと黒!?」
「む・か・つくわ!!」
私は黒くなってしまった安物の絨毯がひかれた(たぶん安物だろう)床をぶち抜くかのように立ち上がり、汚らしいアカ大根を睨みつける。体全身を使って息をしつつ、体勢を整える。
避けられぬ怒りだ・・・。焔魔は、淵術師としての私が全てをかけて達成したかった生涯の目標である。
人生の目的だった。
まあ、失敗してしまったが。
・・・・・・失敗だ、と・・・・・?失敗?失敗したのか?誰が?私が?では、私はこれからどうしたらいいのだ?ただひたすら炎だけを見て生きてきた私は。炎しか知らない私は。生きる意味など・・・残されているのか・・・・?
「なんなのよもう!」
世界中にある世界という世界に向かって、この今にも切れそうな人の意志と尊厳を、ハンマーのように浴びせつけた。
「・・・・ちょっとこの子大丈夫か?いつもこんな感じ?」
「え?あ、は、ええと・・・」
「俺は推測するよ。彼女はきっと日頃のストレスを巧く解消できていないクチなんだと。ユビキタス社会は唐突に人間に変化を迫った。これは悪いことではないのだがね」
「は、はあ」
「ストレスは今や、パンと同じくらいの頻度で口にするとんでもない時代になった。ああ、でもね、ストレスは現代特有のものだが、昔からあったにはあったよ。だが、昔はやたらめったらにやつあたりできる空間と自由があったからそう問題にはされていなかったがね!」
「そうなんですか」
「そうなんだ!」
「・・・・・」
「法と軍事力、そして理性ともいうべき価値観で作られた場所にストレスは、煙のようにもうもうと籠ってしまう。それはどうしようもないことなんだ。」
「あの」
「しかし人間とは進化する生き物さ。少女がぬいぐるみを取り上げられた時に出る癇癪のようなものに、なんとまあ高尚な名前を付けてしまったんだ!そう、ストレスとね!」
「あのー・・・」
「名前ができてしまえばいくらでも対処ができる。名札をつけた園児たちは、つけた前とくらべて魅力的に感じてしまうものだが、それは不可解なものに接することができるようになったという感動を表現したものだと、私は思うんだ。彼女にぜひ、教えてあげてほしい。見つけることができたストレスは、あっさり克服できるとね!」
「は、はい」
カルロスは終止圧倒されっぱなしの様子で、こいつにしては珍しく目を白黒させていた。
いや・・・、いやいや、それにしてもカルロスが会話していた人間だ。
パッと見、歳は二十代半ばくらいだろうか?賢く気高いカラスの羽を思わせる黒い色の服を上下で合わせていて、上質な雰囲気を漂わせている。
人ごみの中にいたらまず目に付くだろう。すらりとした体のラインからはどことなく知的な振る舞いができる事を理解させる。肩幅はそれなりにあって
スタイルがいい。意外と力仕事でもこなせそうな芯がある。鼻筋が通って、ショートカットの黒髪が眉にかかっている。目はキリッとしつつも穏やかで、深い赤だ。口元は思ったより大きい。急に、このわけのわからない空間に現れた謎の男。いやはや、意味不明だ。
私はそのまま鼻息荒くズカズカ歩み寄って、男の前に立ちふさがる。
「誰よ。あなた」
「・・・なっ・・・・!?」
その男は酷く驚いて両手をコメディよろしく開いた。そしてあたふたとその手をまたもとの位置に引っ張り込む。
「? だ~れ~な~の?」
それを見た私は少し意地悪に追及した。なんなんだ。
「!?」
首をキョロキョロさせて周りを確認している。いや、誰かに何かを説明してほしがっているような気がする。生憎だが、そこにはポカンとしたキザ男とアカ大根があるだけだ。
私はカルロスに顔を近づけ、逆に説明を求める。
「なんなのよこいつ」
「それが、ハッハ、僕にもわからないんだ」
愉快そうに話す。
「どういうことよ?」
「ああ、君が焔魔を完成してしまった時だけどね、どういう訳か何も起こらなかったんだ。でも君は急に倒れてしまったから本当は何かあったのだと思ってすぐに助け起こした」
「うん」
「最初は眠っているだけだと思っていたけど、最悪の事態になったんじゃないかと思ってね。何回か顔を」
「ぶったのね」
「ああ」
当然の処置だ。怒るわけはないが・・・ムカつくことは回避できない。
「それで?」
緑色の髪をくるくる指に巻いて、少し申し訳なさそうにしたカルロスだった。
「急に君が笑い出したんだ。何事かと思ったよ」
「フーン、それであんたは、え?とか言ったのね、そうね」
「いや、あれは僕が言ったんじゃないんだ」
「?」
「あの御仁が最初に言った言葉が、それなんだ」
「はい?」説明になっていない。
「あの男が何故いるかの説明すっぽかしてるわよ」
「いや僕にも訳が分からないんだよ。いつの間にか居て、いつの間にか会話に参加してしまっていたんだ」
よく分かった。何も分かっていないことが。私はそう、と一言置いて、ジーパンに付着している煤を改めてパンパンと払って、例の男に向き直った。
カルロスの炎が円になって周りを囲っているが、すでに半径2mあるかどうか。こんな末期的状況で何故男が現れただなんて、紅白歌合戦の出場者がどうでもいいくらいに、地球が右回転か左回転とかどうでもいいくらいに、ミラクルどうでもよかったが、ここで倒れるにしても聞かねば野暮だろうと思った。
「あなた」
せわしない様子だった男と視線が合う。するとその男はあわてた様子でこういう。
「じゃあ、ちょっと見ててくれ、そうしたらわかる!」
「へ?」
倦怠感のある押し問答が続くかと思われた、途端。それは悪化してしまったようだ。
☡
☡☡
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☡ ☡ ☡☡ ☡ ☡☡☡☡☡☡☡☡☡
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☡
・・・こんな赤があったのか。思わず口を開けてしまうような、最高としか形容できない深紅より真紅の炎。それを急に両手に発生させたかと思うと、
フッと風船のように浮かせて、宙を漂い、そのままゆるゆると赤黒い足に落下する。そして着地。
朝日が夜明け直前のソワソワした感じを一斉に薙ぎ払うように、周囲が火にそまって、足を溶かした。汚らしい色が一瞬で美しい紅にとってかわった。
そして、鎮火。一瞬の出来事だった。
さらに、
―――――――私たちは戻ってきていた。あの黒いビルの展望室に。いつの間にか。・・・え?
よく状況がのみこめず立ち尽くしていると、
男はクルリとふりかえって、やはりわたわたとした様子で、
「これで、俺が伝説のえんゆつ、淵術師であることが分かっただろう!」
と、残念ながら噛んでしまったが、立派な口調で言い切った。
男に対して私が機嫌を悪くしていたのは、無粋なえ?の一言のせいだったのだろうが、何故か許せてしまう色々な迫力がそこにはあった。
「・・・コイツ、多分アホね・・・」
「・・・。」
とにかく、こうして運命の火が粛然と、三人に点いてしまったのだった。