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この歳になって源平合戦とか勘弁して欲しい  作者: 秋月羽音
十五 『吉:失せモノは必ず見つかります。よく探しましょう』
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十五 『吉:失せモノは必ず見つかります。よく探しましょう』

十五 『吉:失せモノは必ず見つかります。よく探しましょう』


 本州の西端に彦島が浮かぶ。元々引島と呼ばれていたが、引くのは縁起が悪いと平家が改名して、彦島と呼ぶ。

 縁起も何も、これ以上の撤退先ひきさきは、平家には残されていなかった。範頼軍が先に九州を支配し、配下の武士に占領地を分け与えている。中国、四国地方は、義経軍が制圧していた。義経が呼んだ熊野水軍をはじめ、瀬戸内の水軍はみな源氏を支持している。

 熊野水軍二百隻、伊予水軍百五十隻、これらを含めた源氏の総隻数は三千超、一方の平家は千隻と平家物語には記載されているが、吾妻鏡には、源氏八百、平家五百とあり、こちらの方が実情に近い。源氏には小舟が多く、平家には中国風の大きな船が含まれることから、総トン数は互角。日本史上なかった大船団が壇ノ浦に対峙し、九州側の田浦たのうらには範頼の陸軍が陣を敷く。

 寿永四年三月二十三日。決戦を前にして、浪戸たちは最後の軍議を開いていた。

「今回は逆落としはやらんのか」

範頼、義経連合軍の軍議の場で、奇策は無しかと梶原景時かじわらかげときが嘲るように尋ねた。

「無い」

浪戸が端的に答える。代わりに、一の谷の仕返しをすると切り出した。

「開戦は、潮の流れが静かな昼時になるだろう」

その後、潮は西から東、平家から源氏へと流れる。これに乗って平家方が攻め込む。暫くは平家が優勢になると浪戸は説明した。

「そこで、水軍は、押されつつ撤退するふりをして、田浦の沖に誘い込む」

ハサミの上半分は義経の水軍、下半分を範頼の陸軍として、平家方を切り裂く。浪戸は人差し指と中指でブイ字をつくり、目の前でパチンと挟んで見せた。

「包み込むのか」

一の谷では、生田の森に源氏勢が引き込まれて包囲された。海上でそれを仕掛けようと言うのだな。眼帯を直しながら、実平さねひらが案を咀嚼する。当時包囲された範頼は、渋い顔をして唸り声をあげた。

「しかし」

景時が反駁する。海峡は狭いところでも六百メートル、範頼の陸軍が布陣する田浦に誘導出来なければ矢が届かない。

「そこは我々にお任せあれ」

熊野水軍を率いる老将湛増たんぞうが答えた。伊予水軍の棟梁、河野通信こうのみちのぶも頷く。

「弩も用意する」

弩は弓に比べて発射速度は遅いが、壇ノ浦すべてを最大射程範囲に収める。ペイロードが大きい事もメリットだった。

三種神器みくさのかむだからはどう考える」

範頼が尋ねた。平家は都落ちする時に、支配の正統性を示す三種の神器を持ち出している。単なる平家の打倒を考えている地方豪族とは異なり、これらの奪還も必要であった。

「御所船に乗り込むしかあるまい」

実平が答える。浮かぶ御所、大型の中国風の船。平家政権が擁立した幼い安徳天皇も乗船しており、三種の神器も保管されていると考えられた。

「火矢は禁止」

話が進む中、末席に座る常春は迷う。天皇や公家は別の船に移されており、御所船は兵隊を満載した囮であると、平家物語には書かれている。しかし平家物語の通りの展開になるかどうかは判断がつかない。

「御所船が罠の可能性もあるわよっ」

海尊が発言するが、景時に一笑に付されて地団駄を踏んだ。実平が、一応考慮に入れるべきと進言する。注意して見守る程度の考慮の入れ方ではあるが。

「それより先陣は、我が景時に任せて頂きたい」

どういう意図か、景時が申し出る。

「いや、義経が先陣を切る」

浪戸がぴしゃりと答える。

「義経殿は大将軍。堂々と後ろに控えてこそ」

「大将軍は頼朝兄だ。義経はただの将軍に過ぎない」

景時の言葉を遮って、浪戸はにやりと笑った。景時殿こそ、頼朝兄の信任厚い、鎌倉ノ本体ノ武士ではないかと付け加える。義経を演じている浪戸は、義経以上に義経になる。ああ、言い過ぎだ、常春は頭を抱えた。

「大将軍の器ではない、か」

景時は溜息を吐いた。

「何だと」

浪戸は動かない。しかし忠信ただのぶが声を上げると立ち上がり、腰の太刀に手を伸ばした。景時の子、景季かげすえや郎党が、防御すべく景時を取り囲む。それに反応して、与一たち義経チームが立ち上がる。

「いい加減にしろ」

実平が一喝しながら割って入った。手は太刀に無い。歴戦の武士、気迫だけで動きを制する。

「この大切な時に同士討ちなど、平家を喜ばせるだけですぞ」

鎌倉殿に知られたらどうなるか、と両方を睨みながら続けた。

「ありがとう。下がってください」

浪戸は忠信に声を掛ける。景時を睨みつつ、手を柄から離し、ゆっくりと腰を下ろした。他の面々も自分の場所に戻る。景季も郎党を率いて引き上げる。

「明日は決戦。小細工なしの正面突破。今日はここまでとしよう」

実平が場を仕切った。真っ先に景時は部屋を後にする。ひやひやして見守っていた他の武士もほっとして、引き上げようとする。

「明日の先陣」

浪戸が突然蒸し返して、誰もが足を止めた。問いたげな視線、うんざりした顔を向けられる。まだ残っていた景季が、殺気立った表情を見せる。

三浦義澄みうらよしずみを先陣とする」

浪戸は現地で合流した、範頼軍の武将を指名した。突然聞く名前に、武士たちはどよめく。

「義澄は先にこの地に入り、地元の事情にも船戦にも明るい」

名誉を競い合うのではなく勝つための布陣を取りたいと説明する。

「よいな」

視線を集めた義澄は、打ち合わせ無しの思わぬ指名に、顔を上気させて平伏した。

「しかし、ずっと義経殿に付き従って来た者に手柄を分け与えるのも、棟梁の仕事ですぞ」

実平が小声で諭した。近くの武士が頷く。

「先陣争いは大切だが」

浪戸は全員に聞こえるように大声を上げた。

「この戦は最後の大戦になるだろう」

平家の総大将、経盛つねもりを討つのは誰だ。棟梁の宗盛むねもりを討つのは誰だ。三種の神器を取り返す恐れ多い任務は誰が果たす、とその場のテンションを盛り上げる。

「高綱、景季」

浪戸は、二人の名前を呼んだ。

「宇治川での、先陣争い以上の以上の戦功を期待している」

高綱は深々と頭を下げた。こう言われてしまえば、景季も頷かざるを得ない。父のいる時にそう申してくだされば、と小声で呟きつつ、不承不承頭を下げる。その声が届いたかどうか。浪戸は鷹揚に頷いた。


 翌日。源平双方の船が布陣する。平家は武士だけでなく、公家も神器も船上にあった。源氏は、浪戸が率いる部隊は船上、範頼が率いる部隊は田浦に展開、常春の率いる弩の部隊は、対岸の椋野に展開した。弩は増援を含め十基。

「申し訳ないけど、大将首を討ち取って手柄を挙げるのは目的じゃない」

源氏勝利のために流れをつくるのがこの部隊の仕事だと、常春は隣に立つ忠信に声を掛ける。

「我が姫君のために」

既に一度死んでいる身、我が姫君と常春殿の道具で構いません、と忠信が応じた。

 二人が話している内に。

 南の空に陽が昇る。ほぼ同時に両軍から鬨の声があがった。壇ノ浦の戦いが始まる。


 平家の船団は三つに分かれて布陣していた。二百隻の先陣、百隻の第二陣に、御所船を含む残り二百隻の第三陣が続く。

 一方の源氏は、八百の船が水軍の小集団毎に分かれて散らばっていた。主力の熊野水軍と伊予水軍は、それぞれ百隻前後が集結し、最大勢力となっている。地元の水軍の連合軍百隻が義澄の一党を乗せ、予告通り先陣を務める。

 ひゅん戦端を切ったのは平家。何百もの矢が、源氏の先鋒へと一斉に射掛けられる。盾を用意はしていたが、漕ぎ手を射すくめられた義澄隊は、一時的に船のコントロールを失った。悔しさに歯ぎしりする義澄を乗せたまま、潮に流され後退する。

「おおっ」

後退する船に邪魔されて後続の船も隊列を乱すさまを見て、平家は勝鬨をあげた。

「追え」

「総大将義経を討て」

潮に流されつつ後退する源氏と、潮に乗り追撃する平家。潮に押され、両軍勢は本州側に流された。範頼の指揮する地上部隊から離れて行く。

「撃ち返せ」

源氏側は隊列を乱しながら、それぞれに弓を引く。

「撃て」

平家は斉射を繰り返した。波のある洋上。狙っても当てるのは難しい事を知っている平家は、遠距離からの斉射で、流れ弾のヒットを目論んでいる。源氏の小舟に並べられた藁俵や土嚢に、何百もの矢が突き立ち、頭を上げる事が出来ない。

「支援を」

「矢が届かん」

範頼も仁王立ちになりながら戦況を見る。制海権を失えば、鎌倉への撤退も困難になる。浮足立つ配下の前で、範頼は腕を組み海を睨んだ。自分が慌てると戦わずして総崩れになる、そう我慢するものの、もどかしさに歯を噛みしめる。

 一方、船が押し流されてくる対岸の椋野には、常春の部隊が海岸沿いに展開していた。弓の射程を大きく超えて遠く海岸から見遣っていた常春は、射撃開始を指示する。

「先頭の船を狙い撃て」

忠信の号令で、弩が重い矢を放った。ペイロードを増やした改良型の鏑矢。炭と獣脂を押し込んで火をつけた矢が、先頭を切って走る平家の船を襲う。舳先、ともを問わず、複数個所から火の手があがった。漕ぎ手が海へと逃れる。炎はすぐに船全体に回り、その場で浮かぶ障害になった。コントロールされない危険な燃える障害。

「よし、各個撃破」

次弾を装填すると、今度は平家の先頭集団に目掛けて矢を放つ。大型船からそこここで黒い煙が昇り、視界を遮った。平家の船は、煙と弩を嫌って田浦へと押しやられる。常春の部隊は、僅か数十本の矢で当初の目的を果たした。

「撃て」

範頼が太刀を振るう。我慢して待機していた田浦の地上軍が、馬の腹まで海水に浸かりながら前進、矢を射掛けた。誰もが武将首を狙うが、波に揺れる船上での命中は難しい。代わりに多くの漕ぎ手や船頭が、流れ弾に射抜かれた。コントロールの効かない平家の船は、そのまま潮に流されて源氏方へと押し流される。

「囲め」

船の上では、浪戸が声を張り上げる。源氏の小舟は機動力を生かし、乱戦になった。同士討ちを避けるために、ここからは弩の出番は無い。集団からはぐれた船を数隻松明にすると、常春は陣地の移動を命じた。

「吉祥作戦開始」

杭を打って、弩を斜面に据え直す。太陽を射る姿勢となった。

「撃て」

忠信が手を振り下ろす。一斉に十本の矢が放たれた。

「空を見ろ」

両軍が束の間戦いの手を止める。空には、源氏の白く長い旗がたなびいていた。鏑矢に挟んで旗を打ち上げたのだが、誰もその瞬間を見ていない。

「源氏の旗だ」

「これぞ八幡大菩薩の顕現」

風に乗り、ふわふわとたなびく旗に士気が上がる。

「これで士気が上がるなら、八幡大菩薩に感謝しなくちゃな」

それとも秀衡の爺さんに、かと常春は呟いた。その間にも、忠信は既に弩の配置を、水平射撃ポイントに戻す。チャンスがあれば、的になる大型船を狙撃する態勢。

「御所船を狙いたいところだが」

万が一、三種の神器があれば焼いてしまう訳に行かない。常春は我慢して、戦の行方を見守った。直接手を出せるのはここまで。しかし、もうひとつ、秘密兵器を用意している。波をたてて走る、常識はずれの高速艇に目をやった。


「突撃っ」

海尊が操縦桿を握って叫ぶ。次の瞬間、小型のモーターボートは大型船の脇に衝突。喫水線の下に隠れた鋼鉄製の衝角ラムが、めりめると相手の脇腹をえぐった。

「みんな、大丈夫っ」

シートベルトを外して振り返る。

「うす」

背中を進行方向にして屈強な男が四名、やはりシートベルトに支えられて力強い返事をした。海尊がレバーを押し込むと、艇尾のスクリューが海面に飛び出す。

「逃がすか」

大型船から平家の武士が飛び移った。海尊が薙刀を一閃、海へと叩き込む。

「漕いで」

うす、男たちは櫂を持ち出すと一斉に漕いだ。それ以上の追撃を受ける前に後退する。大型船がガタンと傾いた。浸水する。

「急いで、巻き込まれるわよ」

充分に後退すると、海尊はレバーを引く。空中でくるくると空回りをしていたスクリューが海中に沈んだ。操縦桿を倒して舵を切る。

「前進」

漕ぎ手は身体の向きを反対にすると、スクリューの補助を補うべく漕ぐ。ゆるゆるとモーターボートは回転した。

「次の獲物を狙うわよ」

海尊は前を睨んだままシートベルトを着用する。矢の射程を避け、戦場をゆっくりと回り込んだ。漕ぎ手はかま手に仕事を変えて、木炭をくべる。加速した。

「気持ちいいわねっ」

馬を駆けさせるのに似て、風が心地よい。椋野に布陣した常春たちの前を走り抜けた。海尊は右腕を突き立てる。

「うまくいった」

常春も手を振って答えた。

 常春の秘密兵器は蒸気機関。忠信の参戦時に試作品を運んで貰っている。元々奥州には南部鉄器の伝統がある。ヤカンを作れるなら、大型化して蒸気機関を作る事も可能と、常春は職人にその原理を伝え、制作を依頼してしていた。

「もっと詳しければな」

常春は、自分の知識が乏しい事を悔やむ。大型のボイラーは、爆発の恐れがあり実用化出来なかった。大がかりな割には出力も弱く、長時間の連続運転も出来ない。おもちゃの域を越えなかったが、小型のボートを一時間程度なら走らせる事が出来た。

「届けてくれてありがとう」

傍らに控える忠信に礼を言う。

「いや、何の道具かと思っていたら」

忠信は目を丸くして答えた。


 新兵器もあれば、最も古い兵器も活躍した。

「はっ」

胴を覆うだけの軽装の鎧、後は半袖のワークシャツに半ズボンという姿の弁慶は、長さ二メートル弱の六尺棒を手に、敵の船に飛び移る。

「動きやすいですねぇ」

常春の服装を元に仕立てた服装は裾袖が細く、和装に比べて捌きやすい。船上を駆け巡り、六尺棒を振るう。

「たあっ」

気合を入れて棒を突き出した。鎧の上から胸を突かれた相手は、反動で海に落ちる。

 ガン棒先で、次の武士の太刀を弾いた。屋形船はデッキが狭い。刃先が木の壁に食込んで抜けなくなる。得物を失った相手を突いて、これも海へ落とした。矢が髪を掠める。

「狙って当たるものじゃないですよぉ」

数歩走って、屋根の上の射手の足を棒で払った。背中から落ちてきたところを、舷側から蹴り飛ばす。適材適所だった。ただの棒が、弓や太刀よりも活躍する。弁慶は敵を探して、そのまま船尾の広いデッキに走り出た。

 デッキでは鎧兜に身を包んだ武将姿のトモエが、長い薙刀を振り回していた。独りで何人もの鎧武者を相手にしている。

「あらあらぁ。薙刀は使いにくいんじゃあないかしら」

トモエは黙って、ひっかけようと突き出された熊手の柄を切り落とした。続けてその相手の兜を断ち割る。

「大丈夫」

「そうみたいですねぇ」

二人は背中合わせに陣取る。突き出される太刀を払い、飛んでくる矢を斬って互いを支援しつつ、平家の武士たちを移動しつつ倒していく。狭い船上で包囲出来ず、矢の優位性も生かせない平家は、歯噛みしながら損耗を続けた。


 平家の軍勢の中に、田口重能たぐちしげよしがいる。この三年間は平家に仕え、平清盛の信任も厚い。重能には教能のりよしという息子がいた。この息子が屋島の戦いの後、浪戸の捕虜になっている。時代の趨勢もあったが、息子の身が案じられた重能は、ここで壇ノ浦の戦いに決定的な役割を果たした。

「投降する」

第二陣、百隻の一翼を担っていた数十の船が戦列を離れると赤旗を降ろし、海面に浮かんでいた白旗を拾って掲げる。その一旒は奇しくも、南無八幡大菩薩、と染め抜いて空をたなびいていた白旗だった。

「田口重能、義経殿にお味方する」

船首に立って宣言する。

「裏切り者め」

至近距離での矢の射掛けあいが始まるなか、一隻の連絡船が源氏方に向かった。やがて浪戸の乗船に、日の丸が掲げられる。

「やはり御所船は罠だったか」

常春は日の丸を確認して頷いた。罠と判明すれば日の丸を揚げると、浪戸と事前に取り決めをしている。

「御所船に三種の神器は無い。焼き払え」

常春が命じ、忠信が指揮を執った。十本の燃える矢が御所船を襲う。ごうごうと音を立て、たちまち御所船は炎に包まれた。潜んでいた武士が海に飛び降りる。

 一方で、変哲もない兵船に、源氏の小舟は殺到した。重能の情報で指揮船が判明している。平家の段取りは狂った。ここが潮時と、重能に続いて四国、九州地方の武士が平家から離反する。

「潮目が変わった」

時間が過ぎ、東から西へと海流の流れも変わった。強い流れではないが、船をゆっくりと押し流す。田浦からの射撃で漕ぎ手を失った平家の船は、ゆらゆらと西へと流されはじめた。潮に背を押され、源氏が追撃に回る。


 混戦の中。

 戦場に不釣り合いな、灰色の喪服姿の女性が船べりに立った。子供を帯で結わえつけ、腰に中国風の剣、腕には木箱を抱える。清盛の妻と、数えで八歳になる孫の安徳天皇の姿だった。何か話しているのが見て取れる。やにわに二人は海に飛び込んだ。

「しまった」

接近していた景季がその様子を見て声を上げる。続いて別の女性が飛び込み波間に浮かぶところを、熊手でひっかけて引き上げさせた。

「その方は安徳天皇のお母様、建礼門院様。武士如き汚い手で触るな」

平家の船から、別の女性に睨まれる。景季は苦笑すると、それ以上の戦闘を避けて船を後退させた。今回は大将首を取る機会に恵まれなかったかと、残念に思う。


 高綱は同じ船の反対側で、別の女性が海に飛び込もうとする瞬間に遭遇した。至近距離から反射的に弓を射て、裾を船に縫い付ける。

「あ」

女性は悲鳴をあげて倒れた。高綱が飛び移る。近寄ろうとする他の女官を太刀で脅し、女性に近づくと力任せに矢を引き抜いた。

「どなたか」

「大納言の典侍すけの局」

なんと気の強い。睨みつけられて高綱は気に入った。

「それは失礼した。そちらの箱ごとお預かりする」

手にしていた箱と女性を担ぎ上げると、高綱は自分の船に戻る。

「ところでこれは何かな」

「三種の神器のひとつ、八咫鏡やたのかがみ。お前などが見れば、目が見えなくなり体中から血が吹き出すわ」

「それは恐ろしいな」

鏡よりもその気性の激しさに感想を口にすると、高綱は船を浪戸の乗船に向けて進めさせた。これも立派な戦利品と理解している。


 平家の指揮船に源氏勢が殺到する一方で、浪戸の乗船する源氏の指揮船にも平家の武士が殺到した。

「東国の奴らに弱みを見せるな」

「命を惜しむな、名を惜しめ」

矢の雨の中、勇猛果敢に突進する。

「義経ぇ、どこへ逃げやがった」

平教経たいらのりつねが、吠えながら乗りこんで来た。屋島と同じく素肌の上に唐綾縅の鎧、荒々しいいでたちであたりを睨みつける。今日も兜は無い。既に矢は撃ちつくし、右手に黒漆の大太刀、左手に白い柄の大薙刀を握りしめていた。

「覚悟しろ」

雑兵をいとも簡単に切り捨てつつ、白髪を振り乱して浪戸に肉薄する。浪戸は近くの小船に飛び移った。着地時に無様に尻もちをつくが、教経から距離を置く事に成功する。

「逃がすかよ」

うおおと雄たけびをあげて、教経も飛び移った。浪戸は更に別の船に飛んで逃げる。船頭が慌てて漕ぎ始めた。離れる。

「ちょこまかと。おい卑怯者」

教経は両手の得物を海に投げ入れると鎧も脱ぎ捨て、裸で船べりに立って叫んだ。

「この教経を生け捕りにしてみろよ。鎌倉に一言言ってやりてえ事があるんだ」

「そこで待っておれ」

三人の源氏の武士が、示し合わせて斬りかかる。

「ふん」

教経は一人目を躱して海に蹴り入れると、二人目を右わきに三人目を左わきに抱え、ぐいと締め上げた。

「義経よく見ろよ。こいつらはな、冥土の旅の共にしてやるぜ」

待て、と浪戸が叫ぶ。教経は構わずににやりと笑い、両脇に武士を抱えたまま海へと飛び込んだ。

「あばよ」


 幕間劇を他所に、大勢は決する。

 夕方。

 黒煙を上げていた平家の船も殆どが水没して、後も残っていなかった。海面には、平家の赤い旗が頼りなく浮かぶ。流れ矢で漕ぎ手を失った事。御所船の罠が裏切りにより露見した事。狭く浅い海峡で、源氏の小舟が機動力に勝った事。教経のような優れた武人はいても、大勢を覆す事は出来なかった。

「知盛殿。雌雄は決した」

船の舳先に立って浪戸が呼びかける。弁慶と海尊が自分の身体を盾にして護衛するが、既に平家には戦力は残されていなかった。船べりに、鎧を重ね着した武士が顔を出す。手に武器はない。

「義経殿か」

数える程しか残らない武将を従えて姿を見せると、総大将の知盛とももりは微笑んだ。部下たちも全員同じく鎧を重ね着して、武器は持たない。

「知盛殿とお見受けする」

「いかにも」

「投降して頂けませんか」

ふふん、知盛が鼻で笑う。平家は決して投降しないと言い放つ。浪戸の後ろに武士が並んだ。与一をはじめ、腕自慢が弓を構える。

「・・・」

知盛が何か呟いた。平家の武将たちは知盛の盾になる。浪戸は手を上げ、振り下ろした。

 ひょん一斉に矢が放たれる。何人かの武将が絶命していく中、知盛は海へと飛び込んだ。生き残った武将たちも、次々海面に身を躍らせる。

「捨て置け」

海面を狙う源氏方を、浪戸が制止した。重い鎧の重ね着は重り代わり。さらし首の辱めを避けるための、覚悟の入水自殺と知れた。追撃は不要と浪戸は宣言する。

「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害をせん、か」

浪戸は知盛の最期の言葉を、小さく呟いた。平家の栄華から滅亡までを見届けた。総大将としてすべき事は全部行ったという事か。

 同じ事は、浪戸にも言える。

「志を辿ってここまで来たものの」

義経の志を遂に果たした達成感は無い。これからどうしたらよいのか、浪戸は疲れを感じながら、途方に暮れた。


 壇ノ浦の戦いで、平家は殆どの人材を失い滅亡した。

「平教経は、ああ、あの筋肉男ね。教盛はそのお父さんで、錨を抱いて入水っと。安徳天皇は時子に連れられて心中。清盛がゴリ押しして立てた天皇で、正統性は無いって言うけど。子供なのにかわいそうよね。大人の都合で」

海尊が土肥実平の用意した祐筆と協力して、壇ノ浦の結末を整理する。

「大納言スケって、ああ、重衡しげひらの奥さんか。重衡って、一の谷の戦いで捕虜になった人よね」

「三種の神器と引き換えにしようと交渉したんだけど、知盛に断られたんだよね」

作業を眺めていた常春が口を挟んだ。

「ちょっと、邪魔しないでよねっ」

海尊が怒る。

「その神器は、剣と玉が行方不明。何処に行ったか知らないか」

「知らないわよ。剣はともかく、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまは見つかりそうなものなんだけど」

アンタもこんなところで遊んでないで、探して来なさいよと追い出されて、常春は海岸に向かう。三種の神器の内、八咫鏡は高綱の機転で回収出来たものの、八尺瓊勾玉と草薙剣は海に沈んでしまって行方不明。海の上をしらみつぶしに漁師が探り、海中を海女が捜索するが、まだ見つからない。潮の流れが速い海峡、何処かに流されたのかもしれない。安徳天皇、その祖母の時子の遺体も見つからなかった。

「どんなものかも分からないのに、探すって言ってもなあ」

草薙剣は見つからなかったと、平家物語には書かれていたと思う。

「勾玉は見つかるはずなんだけど。誰が見つけたっけ」

常春があても無く海岸沿いを歩いていると、木箱が流れ着いているのに気が付いた。

「まさかね」

拾い上げる。新しい白木の箱だった。結構重たい。墨で何か書かれているが、流れるような文字で常春には読めない。蓋を開くと、海水の中に、絹で包まれた何かが入っている。絹を開くと、緑色の勾玉。勾玉のイメージ通りに、丸い頭から尻尾が生えていた。頭には穴が開いていて、紐が通してある。意外にも新しい、しっかりした紐だった。勾玉のミニチュアが、携帯のストラップのようにその紐に通されている。

「嘘だろ」

初めて見たので判断がつかないが、それらしきものに見えた。水を捨てて、箱に詰め直す。

「海尊に読んで貰おう。うん」

常春は箱を抱えると、今来た道を急いで戻った。


 その夜。箱書きにも八尺瓊勾玉と書かれ、恐らく本物であろうと騒ぎになった。常春はちょっとした時の人になる。

「アンタ気づいて無かったの。それはアンタが拾ったって書いてあったのよ」

呆れたように海尊が笑った。そんな細かいところまで覚えてないよと常春は抗議。

「縁があるのだから、常春殿が守られるべきだ」

何時もは好意を持ってくれない景時が珍しくそう褒めて、京都に帰るまで常春が管理する事になる。正確には、常春が勾玉と共に、部屋の奥に閉じ込められる事になった。

「俺と浪戸を切り離したいのかな」

他の武士に守らせた方が余程安全だろうに、俺を殺して勾玉を奪うつもりかと、常春は勘ぐってしまう。与一や忠信が郎党を引き連れ、交代で警護してくれているから大丈夫だとは思うのだが、普段の景時の言動からすると、常春は危険を感じた。

 夜、独りの部屋で勾玉を眺めるしかする他する事が無い。全長二十センチほど。身体を丸めた胎児の形にも見える。そう思うと気味が悪くなってきた。明かりを絶やさずに見張る。一晩ぐらいなら寝なくても大丈夫だろう、常春は残り少ないカフェインの錠剤を口に運んだ。水で流し込む。しかし。


「義経は景時の言う事など聞きません」

景時の声がして、常春は目を覚ました。何時うとうとしてしまったのだろうと腕時計を見る。確かに身に着けていたはずだが見当たらなかった。見当たらないと言えば、腕自体が見当たらない。脚も身体も実感が無かった。ふわふわと浮いている感覚。

 ああ、俺はまだ寝ているのか常春は納得する。

「先陣も逃したか」

「頼朝殿の言う通り、先陣を求めたのですが、断られました」

悔しそうな声がする。そちらに目を遣ると、自分と同じように白い影が、ふわふわと浮かんでいた。更に目を凝らすと、ひとつの影はえび茶色の着物を来た景時に、もうひとつの影は大鎧一式を身に着けた鎧武者へと姿を変える。

「そうであろう」

鎧武者の人影は、しわがれた声で満足そうに答える。頼朝殿と呼んでいたな、これが頼朝なのかと常春はしげしげと見つめた。鎧兜共に源氏カラーの白。顔は兜の覆いに隠れてはっきりしない。鍬形(兜の前に取りつける飾り板)が無く、代わりに二本の白いサイのようなツノが額の位置から生えているのが風変りなデザインだった。

「義経は誰の言う事も聞かない。勝つ事しか考えない戦の申し子。平家を倒してくれさえすれば、もはや用は無い」

義経一党以外の戦果を報告せよ。存分に義経の讒言ざんげんを書いて送れ、頼朝の影はゆらゆら揺れながら命じ、景時が平伏した。史実より酷いんじゃないかと常春が憤る。

「ところで神器はどうなっている」

「八咫鏡と八尺瓊勾玉は取り戻しておりますが、草薙剣がまだ」

探せ、頼朝は命じた。鏡と玉は霊力を集め強めるだけに過ぎん。あの剣だけが頼朝を害する事が出来る。法皇に返してはならん。三つ揃えて鎌倉に運び込むようにせよと告げる。

「勿論でございます。ところで、その、そうすれば、そろそろお約束は果たして頂けますでしょうか」

景時は平伏を続けながら尋ねた。

「約束だと」

声におもしろがるような響き。

「不老不死のお仲間に加えて頂くと言う、その、お願いでございます」

勿論出来るがな、こんな姿になっても不老不死になりたいか。頼朝がゆっくりと兜を取る。ツノが兜を潜り抜け、額に残った。常春は息を呑む。付け根もサイによく似た二本のツノが、頼朝の額から突き出していた。兜の飾りでは無い。本物。

「鬼にとってはツノは勲章でございましょう。それこそが支配者のしるし」

景時は追従した。

「剣を持って来い」

頼朝の影が揺れた。煙が掻き消えて行く。景時の姿も薄れて行った。これは何なんだと常春は考える。荒唐無稽。壇ノ浦の景時と、遠く離れた鎌倉の頼朝がどういう原理で話をしているのか分からない。何故常春が覗き見る事が出来たのかも不明。頼朝にツノがあるという話も聞いた事が無かった。

「そもそも鬼なんて実在しない」

天狗の面を被った超人的な人物に会った事はあるが、本当にツノを生やした鬼がいるとは思えない。全て自分の夢か妄想だと考えた方が常識的だろうと思う。

「俺がここにいる事が、もう非常識なんだけどな」

ひとつ常識が覆ったからと言って、何でもアリでも無いだろう。まずは目を覚ますべきだ。

 夢の中で、これは夢だと分かっているのも面白いなそう思いながら、常春は目を覚ませと自分に命じた。

 すとん、と目が覚める。

「本当に目が覚めた」

常春は苦笑いをして腕時計を見た。今度は何時も通り腕にある。午前三時過ぎ。草木も眠る丑三つ時。悪い夢を見るにはもってこいの時間だと思いながら、何の気なしに手を伸ばすと。

 冷たい金属に手が触れる。

 なんだろうと引き寄せてみると、黒く鈍い色を放つ、一振りの剣だった。太刀や日本刀のように切れ味を誇る、片刃の剣では無い。

「アーサー王とか、兵馬俑とか」

刃渡りは三十センチぐらい、柄は十五センチ程度の、両刃幅広の片手剣だった。源平合戦の時代の武器とは明らかに違う。もっと古いデザイン。

「まさか、草薙剣」

どこから沸いたんだこんなもの。常春は慌てた。こんな奇跡のような事が起きるなら、先刻の夢も夢と笑う事は不用心に思える。

「誰かいますか」

常春が呼ばわると、当番であったらしく忠信が部屋に入って来た。秘密を共有するならこちらがよいだろうと思う。

「これは」

忠信が声を上げそうになるのを手で制する。

「何処からともなく突然現れた」

浪戸のために使う事があるかも知れない。何処かへ隠して欲しいと常春が頼むと、忠信は服の袂に仕舞い込んだ。

「当面は誰にも言わないで」

忠信は頷くと、部屋を後にする。勾玉が呼んだ、という事だろうか。常春も時間を越えて連れて来られたのだから、入水直後の剣をここへ飛ばす事も出来るのかも知れない。

「誰が、どうやってはともかくとしても」

何のためにが分からない。この剣だけが、頼朝を害する事が出来ると話していた。頼朝を倒せと言う事か。そんな事をすれば、忠信を助けるどころではない歴史の改変になる。

「それとも、俺が殺すのか」

頼朝は病死や事故、暗殺説があるが、何れにせよ天寿は全うしていないと聞いた事がある。俺が犯人なのか、胃が冷たくなる。常春が散々に頭を悩ませていると、突然。

「火事だ」

突然悲鳴があがる。常春はウエストポーチを肩に掛けると、裸の勾玉を握りしめ、落とさないよう紐を手に通した。

「こっちだ」

飛び込んできた武士が常春に声を掛ける。

「景季、どうして」

飛びこんで来たのは忠信の郎党では無い。梶原景季だった。

「偶然通りかかった、急げ」

手を引かれて部屋を出る。確かに屋内には煙が回っていた。

「さあさあ」

建物を飛び出すと、景季は自分の宿舎へと走り出そうとする。

「いや、これは勾玉を狙った放火に違いない」

常春は足を止めた。少し遠いが義経の陣の方が手勢も多いからそちらへ逃げる。景季も来いと強引に言い切った。

「分かった、みなを呼んで合流する」

景季はそのまま走り去る。常春は反対方向に走った。あんな夢を見た後で、景時の息子を信用するのは難しい。更に向きを変えると、浪戸の宿舎へも向かわずに土肥実平の宿舎へと走る。幸いすぐに、本人とすれ違った。

「常春殿」

「勾玉をお願いする」

「承った」

実平は常春ごと勾玉を確保。十重二重に部下で囲むと、臨戦態勢を取る。

「八尺瓊勾玉も常春殿もご無事だ」

実平が大声で呼ばわると、やがて浪戸が鎧を身に着けて走ってきた。弁慶も一緒だ。

「無事で、よかった」

息を切らして無事を喜ぶ。

「八咫鏡も無事」

別の武士が宣言した。

「あれも無事です」

合流した忠信が、常春に耳打ちする。三種の神器は全て守られた。

「これは神器を狙ったテロ、じゃない、攻撃だ」

早く朝廷に返そうと常春が提案する。神器を奪おうなどなんと恐れ多いが、その通りだと実平も憤然としながら同意する。

「草薙剣が揃っておらん」

景時、景季親子が部下を引き連れ、完全装備で登場した。早速景時が反論する。

「いや、あるだけ先にお返ししましょう。ここでは守りも充分ではありません」

景季が道理にかなった反論した。景時が苦い顔をする。それでは剣の捜索を続けつつ、他は早速お返ししましょう、浪戸が決定した。

「それにしても父上のご判断、流石です」

景季が父親に声を掛ける。

「どうしたんだい」

常春がさりげなく尋ねた。

「胸騒ぎがするから常春殿を迎えに行けと」

景季が胸を張って言う。景季が引き返した時には、景時も部下も完全武装で出陣可能となっていたとも付け加えた。

「お蔭で命拾いしたよ。ありがとう」

常春が緊張を隠しつつ景時に礼を言う。言われた相手はそっぽを向いた。

 えび茶色の小袖か鎧の下に見える景時の着物に、常春は気が付いた。柄ははっきりしないが、夢で見たものと同じ色。

「常在戦場の精神ですね」

景季は無邪気に喜ぶ。事情を知らないのか。それともすべて知っていて油断ようとしているのか。常春には判断がつかない。実平を頼ったのも賭けだった。誰が敵で誰が味方か。浪戸に相談するか。後、海尊にも。それぞれ少しづつ知っている事情が異なるから、相談も難しい。常春は綱渡りを強いられる。

「油断は禁物だが、ひとつ山は越えたな」

実平が燃える宿舎を見ながら独りごちた。水を掛ける消火方法は、この時代無い。常春のいた宿舎は、延焼を防ぐために引き倒され、壊された。後は燃やし尽きるのを待つ事になる。

「そうだな。襲撃は失敗に終わった。これだけの人目がある中では盗めないだろう」

そう答える常春を、景時が嫌な目でちらりと見遣った。


十六 インターバル 志乃とシヅカと後白河法皇


 波戸たちが屋島遠征に向かう前。

 常春は、志乃とシヅカの二人に用事を頼んでいる。鎌倉にいる北条政子の懐柔がその用件。しかし実際には志乃だけが、弟の川越重房かわごえしげふさ他を警護に引き連れての鎌倉行きとなった。

「しずぽんも鎌倉見学したいよ」

だだをこねたが、公家が許可しない。最終的には後白河法皇が、裁可しなかった。

「シヅカの舞を所望する」

わがままにわがままで対抗する展開になる。実のところは、京都の安全保障を考えた公家の言い訳だった。

「錨が必要でございましょう」

鼓判官、平知康たいらともやすはそう表現した。

 義経の信頼厚い男娼とされる常春は戦地に同行、本妻の志乃と愛人のシヅカの両方まで不在となれば、義経の関心が京都から離れてしまう。紀伊半島の反乱も記憶に新しい公家たちは、平家の残党に襲われた時、義経を呼び戻す人質として、義経に縁が深い誰かを手元に置いておきたかった。最終的に、シヅカが人質の役目を果たす事になる。

「浅ましい話だ」

出かける前に、常春は顔をしかめてシヅカに裏事情を伝えた。公家の心配とは反対に、波戸は京都の事を充分気にかけている。今回の屋島攻略も、京都の食糧事情を考えての事だった。京都は戦乱続き、公家も庶民も等しく食糧事情は悪い。瀬戸内の制海権を平家から奪取して西日本からの輸送路を確保しない限り、京都は干上がる。

「京都の民を思って、出兵させてくれって頼んでいるのに」

義経が打倒平家を優先して京都を見捨てるのではないか、それが自前の武力を持たない公家の関心事だった。

「という事で、シヅカには別の用事を頼みたい」

「任せて」

単身で御所に向かい、秘密の手紙を法皇とやりとりする機転と度胸。実年齢より世間づれしていなければ、戦乱の時代を生き抜くのも難しいのだろう。常春は、信じて任せるしかないとシヅカには別の事業を託した。


 同じ戦乱の時代にあっても、志乃は世間の荒波を知らない。嫁入りする以上はひたすら義経に尽くせ、武士の妻として恥ずかしい事はするなと送り出された箱入り娘は、シヅカより年長であったが、まるで年下のようだった。シヅカが大人びているのであって、志乃は年相応ではあるのだけれど。

「ふええ。で、出来るのかなぁ」

常春から志乃に命じる事は出来ない。波戸経由で志乃に遣いを頼む。

「志乃だから、出来ます」

波戸は断言した。頼朝の妻、北条政子は軍人ではない。そうであれば軍事に疎い志乃がいいだろう、常春と波戸の意見も一致した。強引な性格が必要なら波戸の元にはいくらでもいたが、少なくとも関係を悪化させない小動物のようなタイプは他にいない。

「あいさつをして、お土産を渡すだけなんですよね」

そうだと改めて波戸は頷いた。道中は弟の警護もつく。心配はない。

「が、頑張ります」

志乃にしか出来ない、再度波戸から頼まれ、志乃は勇気を振り絞って鎌倉へと向かった。


 波戸が屋島を攻め落とし壇ノ浦の攻略準備をしている頃、志乃は鎌倉に入る。

「義経は無事に寡兵で屋島を制圧」

何倍もの兵力を僅かな兵力で攻撃したと聞いて、志乃は気を失いそうになった。鵯越でも無謀と思われる逆落としを行って成功させている。自分の夫は軍神なのか莫迦なのか。無事と聞いて、志乃は知っているありったけの神仏に感謝の祈りを捧げた。

 そうこうしているうちに、政子との面会が許される。板間の上で志乃が平伏すると、畳の一段高いところに政子が現れた。

「きれいだけど」

きらびやかな衣装に圧倒される。

「ちょっと苦手な感じ」

ちらりと目を上げると、色白の顔、神経質そうな細い顎が目に入った。志乃が国許で指導を受けた、苦手な家庭教師が思い浮かぶ。

「判官殿の。よく来たわね」

少し低い声でせかせかと話す。

「弟の妻とあれば妹も同じ。頭をあげて、さあこっちへいらっしゃい」

猫なで声に志乃が躊躇していると。

「私、怖いかなあ」

少しイラッとした声。あわてて志乃は頭を半分上げた。

「恐れ多いかと」

「形式ばるのはねえ、男たちに任せておけばいいのよ」

ざっくばらんな口調。だからと言って、馴れ馴れしくすると怒り出すんだろうなあと志乃は恐れた。

「そ、それでは失礼して」

志乃は畳の上にあがり、段の手前で座る。

「仕方ないわねえ」

政子は自分から一段降りた。どのみち、オシクラマンジュウをするつもりがないなら、雛壇は一人用の広さしかない。

「ねえ、早速だけど、京都ってどんなところ」

好奇心旺盛だとは聞いていたが、不意打ち。どんな、ですかと志乃は言葉に詰まる。

「そうですね。神社や寺が多くて、きれいなお庭も多いですよ。あまり見に行く機会はありませんけど」

「せっかくだから、観光すればいいのよ」

「義経様が忙しくされていますのに」

政子は頷いた。ここまでの会話は合格点らしいと、志乃は内心びくびくしながらあいまいな笑みを浮かべる。

「その義経だけど」

政子が話を引き取った。

「あなたみたいな素敵な奥さんがいるのに、困った性癖だと聞くけど、どうなの」

性癖、ですか。志乃は目を泳がせる。

「男娼と子供を傍に置いてるって聞くけど、ホントなの」

「えっと、あの」

「ホ、ン、ト、な、の」

これは圧迫面接です、志乃はやむなく小さく頷いた。

「仕方ないわねえ」

「ごめんなさい」

「違うわよ。男どもが」

政子の父が島流し時代の頼朝を支えている。政子も武士の娘、貴族貴族した事より政治や戦争に関心があった。男に負けない自負がある。この時代のウーマンリブ活動家だった。

「誰が家を支えてるのか、男はわかってないのよ。だからあっちこっちで愛人を作って」

男って感謝の念が足りないわ。政子は声を荒げた。

「そう、ですか」

この時代としては愛人が多いのも珍しくない。志乃は曖昧に頷いた。

「頼朝だって、子供が出来た途端に、ぜんっぜん寄りつかなくなったし」

「お忙しいのでは」

「そりゃあ忙しいのは分かるのよ。でもその合間にだって愛人を作ったりするし」

遠江(西静岡)に島流ししてやったけどさと、政子はからから笑う。

「えっと、お子さんがいるんですよね」

エキサイトする政子に恐れをなした志乃は、話を切り変えた。

「いるわよお。かわいいの。大姫っていうんだけどね」

それが頼朝が莫迦な事をしてくれてさあ、と政子が続けた。余計な方向に話を振ったと、志乃は反省する。

「木曾義仲の子に、義高っていうのがいたんだけど」

義仲を疑っていた頼朝は、その子供が人質として預かっていた。範頼、義経軍が義仲を討った後、義高を担いでの木曾勢が再興を予防するため、頼朝は人質を容赦なく殺している。

「大姫と義高は婚約させられていたのよね」

政略であったが、幼い大姫は本気で義高を慕っていた。その相手を殺され、大姫はショックで伏せってしまう。

「武士だから殺し合いは仕方がないと思うわよ」

それはあなたも覚悟してるでしょう。政子の言葉に志乃は頷いた。

「でも大人の事情、政治の都合に小さな子供が巻き込まれるなんてね」

大姫はそれ以来伏せったまま、やりきれないわと政子は続ける。

「頼朝は、自分が子供の頃見逃されたからこそ、後の憂いをなくしておきたいってのも分かるんだけど」

子供の頃の頼朝も義経も、平家の温情のお陰で殺されずに済み、その結果平家は都落ちを強いられている。政治としては恐らく頼朝は正しい。

「む、難しいですね」

志乃は正直な感想を口にした。

「私にはどうしたらいいのか。あ、でも、こういうの、大姫様、喜んでくれるかも」

思い出して持ってきた荷物を開く。政子に持って来たきらびやかな櫛やべっこう細工のカンザシをかき分け、二つ折りにした紙を取り出す。

「常春さん、じゃなくて、奥州から来た武士の方から教わったのですけど」

丁寧に紙を開いて、折り紙を取り出した。

「それ、なんなの」

政子が興味を持つ。

「折り紙っていうんだそうです」

奥州で取れる金を薄く延ばして金箔にする。常春はそれで鶴と兜を折っていた。志乃が羽を引っ張ると本体が広がって、きらきらとした鶴が出来上がる。

「紙を折って、こんなものが出来るんですよ」

やって見せてよと言われ、志乃は一緒に挟んでいた金箔でもうひとつ鶴を折った。

「器用な事が出来るのね。おもしろいじゃない」

大姫が気に入りそう。後で見せてやって欲しいんだけどと、折り紙を初めて見る政子が喜ぶ。

「はい、こんな事でいいなら喜んで」

常春に折り紙を教えて貰ってよかったと志乃は思う。自分が教えたと知ったら政子が嫌がるだろうから、誰から習ったかは内緒だよと口止めされているのが残念だった。

「私なんかが役に立てるなんて嬉しいです」

「私なんか、なんてあなたが言っちゃ駄目」

政子が駄目出しする。

「あなたは源氏の棟梁の弟の本妻、私の義理の妹。私以上に難しい立場にいるのよ。好むと好まざるとに関わらず、自信を持って、強く」

「は、はい」

背筋を伸ばして返事をする。

「ん、いい返事ね」

政子は笑みを返した。仲良くなれそうだと志乃も微笑む。義経の役に立てた事が嬉しい。


 シヅカは京都の街を歩く。白拍子として訪れた公家の屋敷も多い。有力な家を選んで裏木戸から入る。

「ひっさしぶりー」

義経の愛人として既に広まっている。

「玉の輿ねえ」

「こんなとこに来ちゃ駄目よ。正門から堂々と」

以前の知り合いから声がかかった。新しい使用人は、自分の先輩と、義経の愛人かつ有名アイドルのシヅカが気軽に言葉を交わす光景に、目を見開いている。

「義経様って素敵よねえ」

「ちょっと寂しげなのがまたいいのよね」

「男の人としてはどうなの。夜の方とか」

シヅカは適当にいなしながら会話を続けた。旧交を温めながら、雇い主の動向を収集する。

「義経様こそ京の守り神って、ゾッコンよ」

「いずれ義仲みたいに田舎ものの正体が知れるって、義経様の良さが分かんないのよね」

「平家とズブズブだったから、今は羽振りが悪いかも」

ひととおり情報を収集すると、表に回って、白拍子はいりませんかと正式に挨拶をした。元々アイドルタレントとして名の知れたシヅカを断る公家は少ない。歌に関心がなくても、義経と繋がりが出来るならと誰もがシヅカを呼び入れた。歌と踊りを披露して見せた後、さりげない会話をする。

「ただの白拍子に期待しないでね」

そう言いながら、それぞれの要望を聞いて回った。鼓判官知康ともやすに相談して、叶えられる内容であれば叶える事で、有力者を味方に付けていく。

 ひととおり、有力者とコネを作り終えると、シヅカは牢を覗いてまわる。

「なんでこんなとこにいるの」

「俺は元々、赤禿かむろだからな」

かつて平清盛は、三百人程の少年を組織して密偵団を組織している。赤い着物に禿(おかっぱ頭)で揃えた少年たちは、平家の悪口を聞けば本人を殴り家財を破壊して、京都を恐怖で支配していた。平家の都落ち後は憎まれる対象になっている。

「働かざるもの、食うべからず、だよん」

シヅカは、元赤禿の一部を再編成した。暴力は禁止、制服も廃止、市井に紛れて情報を収集させる。赤禿同士の接触も禁止した。構成員が分からない事で互いに監視させ、意図的な誤報が入り込まないようにする。構成を考えたのは常春だった。

「そんな事まで考えるんだ。兄ちゃん、結構エグいね」

嫌いな人を貶めたり、上司に気に入られようとして嘘を言ったりするものだからね。残念ながらと常春は答えている。

「情報収集は必要だけど、情報に振り回されないようにしないとね」

社会人経験から、常春は組織構成に注意を払った。シヅカはそれを忠実に形にする。


 後白河法皇は、独り戦い続けてきた。孤独ではあったが陰気ではない。朗らかに権力闘争を戦い続ける。平清盛、木曾義仲、今は源頼朝と。

「飛び出し過ぎだ」

双六板に目を落としながら、法皇が言った。そうでございましょうか。進めた駒を迷うように取り上げながら、知康ともやすがいぶかし気に答える。

「鼓判官ではない。頼朝の事だ」

法皇の渋みのあるバリトンが部屋に響いた。知康ははっとしてあたりを見回す。

「誰の耳があるかも分かりませんぞ」

構わんとも、どうせ頼朝には信用されていないからな。法皇はからからと笑い声を上げた。

「頼朝はな、国を乗っ取るつもりだ。だろう」

平安時代、天皇の権威を頂点とした、朝廷による支配が確立されている。支配の中核は人事と軍事。朝廷は地方の役人を任命し、役人はそこから利益を得る。反抗するものには、権威を背景に武力で征伐する。

「まず軍事」

朝廷の軍事力はアウトソーシング。鎌倉警備保障の社員を出向させて警官にしているようなものだった。これまでは出向中の警官のポストと給料を朝廷が決めていたから、忠誠心も朝廷に向かう。常備軍を持たずに軍事力を確保する。

「勝手に官職を受けてはいかんという、あの命令ですな」

知康は、頼朝が武士に発布した命令を諳んじた。

「東国侍の内、任官の者ども、本国に下向することを停止せしめ、各々在京し軍務や公務に勤仕すべき事」

朝廷から位を貰った者は鎌倉に帰るな、京都で貰った仕事を行えとの命令。一見、京都で任官したなら京都に尽くせと言っているように見えるが。

「京都か鎌倉か。どちらに付くか決めよという事だ」

法皇が苦々しげに言う。

「元々平家が支配していた九州、中国の土地は、頼朝が鎌倉武士に配ってしまった」

壇ノ浦に辿りつくまで範頼軍の動きがもたついていたのは、軍事的センスの欠如ではない。地元の平家勢と戦って土地を占領する毎に、いちいち頼朝の裁可を得ながら功績のあった武士に分け与えていた、その事務手続きに手を取られての事。戦闘のみを主眼とした義経軍と進軍速度が異なるのは当然だった。

「武士は鎌倉に尻尾を振るし、朝廷が配る褒賞も無い」

「平家と源氏の私闘につき、朝廷は手を出すなと鎌倉は言っております。朝廷はないがしろにされておりますな」

知康が相づちを打つ。

「独り勝ちはよろしくない」

法皇がサイコロを振り、駒を進めた。

「頼朝の事ですな」

知康が声を潜めて正解する。

「自前の武力がなければ、朝廷は発言力も失う。義経は手放すな」

知康は頭を下げた。野蛮な義仲を倒して京都を守護する義経に、知康は元々シンパシーを感じていた。頼朝の権力の増大に対抗して、益々義経に肩入れする事になる。

「伊予守と検非違使を兼職させましょう」

鎌倉からは、義経を伊予守に推薦していた。これまで自分の領地の無かった義経に、はじめて経済基盤が出来る。領地には代官を送り、自分は京都に残る事が通常だった。頼朝は、京都ではなく鎌倉に引き上げさせる事で、朝廷と義経の距離を遠ざけようと考えている。

「過去に例がないな」

法皇は首をひねった。慣例では、新しい官職を得ればこれまでの職を離任する。

「だが、義経は人気がある。民も安心するだろう」

軍事の巧みさと規律の厳しさから、義経は公家だけでなく市井の人々からも人気がある。これを理由にして、引き続き検非違使のまま、伊予守にも任命しようと法皇は納得した。


 しかし時代は変わりつつあると法皇は理解していた。知康が帰った後、独りで駒を弄びながら思い出す。これからは武士の世が来ると清盛は宣言して、福原に法皇を誘拐監禁した。頼朝は軍事力を背景に法を整備して、政権を握ろうとしている。平家と源氏が競い合っていた時はバランスが取れていたが、平家の独り勝ちの後、源氏の独り勝ちとなる。

「独り勝ちはよろしくない」

改めて口に出す。義仲も義経も、軍事的才能は優れているが無邪気なものだ。義仲は今までの朝廷の支配に割り込もうとしただけで、世の中を変えてしまおうとはしていない。義経に至っては平家を滅ぼす事で父の復習を果たしたいだけで、そもそも権力を望んでいなかった。

「欲の無い奴だ」

義経は切れ味の鋭い太刀に過ぎない。自分が振るう事で、時代の流れを押しとどめる事が出来ると法皇は思った。頼朝は義経を疎んじているらしいと聞く。二人の関係が冷えれば、義経は法皇に近づくしかないだろう。ただ戦になってはいかん。戦えば、どちらかが勝てばバランスが崩れる。

「綱渡りだな」

難しいからこそ、やりがいがあった。国を預かるものとしての責任は、この時法皇の頭には無い。

「双六など小さい、小さい」

法皇は双六に限らず、ゲームはしても賭事は行わなかった。国家を賭けた博打を打っているのに、所詮ゲームの賭事など些細な事。

「まだ負けんよ。名実共に、頂点に立ってやる」

みておれ清盛、頼朝。法皇は武者震いをすると、上機嫌で即興の鼻歌を歌った。


十七 『吉:怪異ってあると思いますか。あると思えばあります。ないと思えば・・・』


 三種神器みくさのかむだからを警護して、京都へ向かう。神器は人目に付くことを嫌うとされるので、移動は夜に行われた。昼夜を問わず、二交代で厳重に警護する。

 鏡と勾玉は箱に詰められ、浪戸と弁慶が張り付いた。三郎と景季が増援を受けたそれぞれの部下を率いて、守りを固める。草薙剣の回収は公にはしていない。常春が隠し持ち、忠信と海尊が警護した。

「移動は鎌倉殿のご指示を得てからにすべきでは」

出発前に景時が重ねて反対したが、範頼も実平も、前線では充分な警護が出来ないと同意しなかった。波戸は即座に返却を決定、朝廷に早馬を送ると同時に人選して出発する。

 深夜、松明を掲げて歩く。私語も厳禁。時折の馬のいななきと規則正しい蹄の音以外に、静けさを遮るものは無い。武具のにさえ布を巻き、金属の立てる音を殺していた。

 前から駆け寄る蹄の音が響いた。先発隊が宿を確保し、報告に戻る。馬を停めて小声で報告を聞くと、波戸は行軍を再会した。常春は馬上で腕時計を見る。午前三時過ぎ。眠くて馬から落ちそうだ。宿に着けば一眠り出来るのだからと頭を振って、背筋を伸ばした。私語も出来ないのが辛い。


 ゆっくりとした行軍は一週間続いた。時間を調節して、深夜に押し黙ったまま京都に入る。国境くにざかいまで、鼓判官平知康が迎えに来た。波戸が輸送部隊の先頭に馬を進める。知康も馬を進めた。宮廷の作法に従い口を開かずに礼を交わすと、知康は馬の向きを変えて先導する。

 神器の帰還であって、凱旋パレードでは無い。一行はそのまま静かに御所へと向かった。波戸、三郎、景季が、法皇への挨拶に向かう。神器は知康に預けられ、御所に控えていた神官たちに引き継がれる。

「ふう」

緊張がほぐれた面々から、溜息が漏れた。それぞれの副官に指揮され、警護してきた騎兵は宿舎に向かう。忠信は常春に黙礼すると、配下を率いて自分たちの宿舎に戻った。常春は海尊と目で示し合わせ、六条の堀川館に引き揚げる。

「長かったな」

二人きりになると、常春は海尊に声をかけた。

「アンタの手綱捌きも、ちょっとはましにはなったんじゃない」

「ゆっくりだったからな。馬も賢いし」

夜間の行軍ではあったが、広い道を集団で移動したお陰で、馬は常春の指示無しに、前の馬を追って歩いてくれている。適当に距離を取って、前の馬を追いかけてくれよ、常春のそんな言葉が分かったかのように、馬は夜通し歩み続けてくれた。

「アンタよりは賢いかもね」

そうかも、と常春は応じる。今も常春が何も指示をしなくても、馬は道を覚えているとばかりに堀川館へ向かっていた。馬が賢くて助かる。


「とりあえずは明日以降ね。ちゃんと片づけたら、ガキンチョと好きなだけいちゃいちゃするといいわよ変態」

海尊が憎まれ口を叩いて去ると、常春は馬を門番に預け、門の前で待っていたシヅカと一緒に部屋に戻った。

「ちょっと面倒な荷物があるから、先に片づけるよ」

厳重に布でくるんだ剣を部屋の奥にしまい込みながら、まとわりつくシヅカに笑みを見せる。

「ねーねー、お帰りっ、お帰りなさいっ」

「ただいま。少し背が伸びたか」

三ヵ月ほど留守にしていたかと常春は思う。

「んふー、そうかなー」

それより言いつけを守って、ジョージョーモーをソシキカしたよと、シヅカは常春に怪しい報告をした。ジョージョー鳴く牛が思い浮かんで、常春は吹き出しそうになる。

「ん、偉いぞ。でも危ない事はしなかったか」

常春が頭を撫でた。心配性だなー、大丈夫だよ兄ちゃん。シヅカは元気に答える。それよりねえ聞いて聞いてー、常春は眠かったが、一晩中シヅカの話に付き合わされる事になった。


 翌日。常春は仲睦まじい浪戸と志乃を見かけた。若干浪戸は困惑気味に見える。

「あ、常春さんもお帰りなさい」

志乃はにこやかに挨拶する。

「ああ、ただいま」

常春もつられて笑顔を見せた。

「義経様が戻って来られたからには、女だろうと男だろうと、もう誰にも渡しませんからね」

志乃は高らかに宣戦布告する。

「北条政子から何か吹き込まれたみたいです。何とかしてください」

鎌倉行きは、常春さんの案ですからねと浪戸がぼやいた。

「何とかって言われてもな」

常春は苦笑した。

「そういう事なら、仲良く出来たみたいだな」

「はいっ。政子様には、とてもよくして貰いました」

志乃がにこやかに答える。頼朝さんは怖い人でしたけど、とこちらはトーンが下がった。

「とにかく浮気はいけないと、政子様に教えて頂きました。だから私は、ずっと義経様について行きます」

「軍議とかあるだろ」

軍議でもですと志乃は言い張る。

「手洗いでも」

「そ、外で待ってます」

特に常春さんやシヅカさんと二人っきりは駄目駄目です、志乃は強情だった。これでは内密の話が出来ないぞと常春は困る。

「でも常春さんには感謝しているんですよ。折り紙、とっても喜んで貰えました」

北条政子って、意外とかわいいもので喜ぶんだなと感想を述べると、

「違いますよお。大姫様です」

大姫様、鶴も兜もすぐに覚えたんですよとニコニコする。教え方がよかったんだろうと褒めると、志乃の笑みが更に広がった。

「ありがとう。北条家と仲良くなってくれて」

常春は心から感謝する。この先史実通りに義経が頼朝に追われる事があったとしても、志乃やシヅカの心配をしなくて済みそうだと、常春は安心した。

「大切なお兄様、お姉様ですから」

でも正直怖かったですぅと志乃が呟く。

「政子様は厳しい家庭教師みたいだし、頼朝様は家の中でも鎧兜を脱がないし」

えっ、と常春が聞きとがめた。あ、怖く無いです何でもありませんよと志乃は打ち消す。

「いやそうじゃなくて、家の中でも鎧だって」

武士の棟梁と言うのはそういうものなのかと常春は尋ねた。浪戸が首を振る。

「はい。ツノの生えた白い鎧兜で」

「ツノ?」

そうなんですよ、珍しくて。志乃が答える。そうだね珍しいねと答えながら、常春は動悸が激しくなる。映像が夢でないとすれば、話されていた内容も夢じゃない。

「ああ用事を思い出した。海尊と打ち合わせがあるんだった」

ちょっとこれどうするんですかという浪戸の視線を浴びながら、常春はそう言い残してその場を離れた。海尊との打ち合わせが必要だった。至急。


 常春は海尊を捕まえると、人払いをする。

「何、ガキンチョの次は海尊ちゃんに目を付けたって訳」

海尊が胸元を押さえる。

「それどころじゃない」

「何だか失礼な言い方ねっ」

海尊はへそを曲げたが、話を聞くうちに真剣になる。

「頼朝が鬼なんて聞いた事が無いわよ」

むしろ源氏は鬼と仲が悪いと海尊が言う。源頼光は部下を率いて大江山に鬼退治を行っているし、その部下の渡辺綱は単身鬼と戦っている。

「浪戸の薄緑。あれは頼光が鬼や土蜘蛛を斬った、由緒正しい太刀なのよっ」

「鬼って実在するのか」

直接見た事は無いけど、昔から話には出て来るわと、多少自信なさそうに海尊が答えた。

「例えばさ、浪戸が入れ替わったみたいに、頼朝もって事は無いかな」

海尊が考え込んだ。

「挙兵した後、石橋山の戦いで敗れているわね。危ういところで逃げ切ったけど、ひょっとしたらその時に」

そう言いながら首を振る。

「でもどうするの。誰も信じないわよっ」

証明出来ない。草薙剣が手元にあるが、怪異どころか朝廷に対する反逆の証拠になる。

「海尊は信じるだろ」

正直に言えば、そんな話をされても困るとしか、と言い淀んだ。そうだよな、本人にも訳が分からないんだからと常春も苦笑する。

「証拠を集める事。頼朝に兜を脱がせるか、景時を突破口にするか」

「それと、浪戸のこれからも」

海尊が顔を曇らせた。もし本当に頼朝が義経を邪魔に思っているなら、何をしてもしなくても浪戸は追い詰められる。

「アンタ、この後の事は、ちゃんと覚えてるの」

「壇ノ浦以降はちょっと」

壇ノ浦で平家が滅びる場面が、平家物語のクライマックスだと常春は思っている。それ以降の事はよく覚えていない。義経が頼朝に憎まれ、結局奥州ごと滅ぼされるという顛末しか知らなかった。

「勧進帳とか、弁慶の立往生とか」

断片的にしか知らない。

「仕方ないわねっ」

義経は平家の捕虜を鎌倉に連れて行くが、鎌倉には入れて貰えないので、許しを得るために腰越状という手紙を書く。結局許されず、刺客が送られるが返り討ちにする。

「義経は反頼朝の挙兵を行うけど兵が集まらず、奥州に逃げたんだけれど匿ってくれた藤原秀衡は病死」

秀衡の子は鎌倉の圧力に耐えかねて義経を襲い、義経は衣川館ころもがわのたちで自害する事になるわ、平家物語ではね、と海尊が粗筋を説明した。

「ところで、勧進帳って何」

反対に海尊が尋ねる。山伏か何かに偽装した一行が安宅の関所で見咎められ、山伏役の弁慶が偽物の勧進帳を読み上げて誤魔化す話だと常春が答えるが、海尊は知らないと言う。

「後世の脚色なのかな」

知識が曖昧なので、却って混乱を招くかも知れないと常春は眉をひそめた。

「何処かで頼朝と対決しないと、正体を暴けない」

「しかも公衆の場じゃないと駄目よ。返り討ちにされて濡れ衣だけ着せられるわっ」

暗殺未遂犯になる訳か、常春は身震いする。

「そう言えば、頼朝というか、鎌倉幕府って、これからどうなるんだ」

そんな事も知らないのっ、海尊が罵倒する。ここにはウィキが無いんだよと常春は肩をすくめた。鎌倉幕府と言えば、元寇ぐらいしか思いつかない。

「理由ははっきりしないけど、頼朝は死ぬわ」

アンタが暗殺するって事もあり得るわね、海尊がにやりと笑う。

「子供が継ぐけど、北条氏が中心になって、その子供も殺して他の有力武士を滅ぼしてしまうわ」

更にその弟が将軍を継ぐけど暗殺、結局朝廷も倒して、実権は執権の北条氏が握るわ。鎌倉幕府は、北条氏の幕府になるわね。

「こんなところよ、分かった、莫迦ツネ」

海尊が罵倒を交えつつ、要領よく説明する。よく分かったよ、と常春は考え込んだ。ある程度政権が安定した後は、北条氏さえ生き延びれば、頼朝は歴史から退場しても問題ない。

「仮に頼朝が鬼だっとして、都合が悪い事ってあるかな」

「悪いに決まってるじゃない」

海尊は即答した。

「どうして」

「どうしてって、当然でしょっ」

「外見が違おうと、善政を敷くなら鬼でも構わないじゃないか」

「ばっ、ここは日本よっ。乗っ取られてたまるもんですかっ」

堂々と鬼だと名乗って戦って負けたんならしょうがないわよっ。でも騙して、源氏の本流を名乗りながらこっそり奪われるなんて許さないっ、当然よと海尊が言う。

「確かに正々堂々ではないな」

常春は納得した。国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄した日本に住んでいるから、血なまぐさい戦いは苦手だけれど、二十一世紀でも外国では戦争が続いている。正々堂々とした国取りが、暗い陰謀より好まれるのはまだしも正しい気がする。

「こそこそするなんて、ろくな奴じゃないわよ」

本当に鬼だったとしたらね、海尊はそう付け加えた。常春の夢しか根拠が無いのだから、そこは保留にしようと言う。

「それより、これからの事よ。もう余り時間が無いわ」

海尊が直近の話をした。

「浪戸が捕虜を連れて鎌倉へ行く話か」

「そう、腰越状ね」

頼朝は、京都で役人に任命された者は鎌倉に来るなと通達を出している。浪戸、与一、三郎、他には佐々木高綱、梶原景季も、宇治川の戦いの功績で官職を貰っている。それ以外にも結構いたわねと、海尊が指折り数えた。

「梶原父や範頼なんかは」

「トッキーは元々貰ってないし、カバ冠者は、頼朝の命令を見て慌てて返上しちゃったわよ、弱腰ねっ」

有力者に味方がいないって事だなと常春は頭を抱える。貰うなとか返上するとかも今更言えない。

「他にも任官した人はいるけど、浪戸が最上位ね」

アンタの顔を見ても名案が浮かぶ訳でも無し、海尊はそう続ける。

「とりあえず、物語通りだね」

「そういう事」

二人は同時に溜息をついた。


 一ヶ月以上探したが、どうしても草薙剣が見つからないので、壇ノ浦から引き上げる事にする、と範頼から義経に連絡が入った。見つかる訳がないと、部屋に隠し持つ常春は申し訳なく思う。現地に留め置かれていた平家の捕虜も、京都に同行する事になった。入水せずに討ち取られたれた上級武将は殆どおらず、今回さらし首は無い。入水した大将首は殆ど見つからないか、腐敗して判別が困難になっていた。

 京都から福原まで、先に戻った浪戸の軍勢が迎えに出る。常春も同行した。埃にまみれた範頼の帰還兵と、鎧を磨き上げた正装の出迎え部隊が合流する。

「先に帰って申し訳ありませんでした」

「いや、神器は何よりも大事。剣が見つからないのが残念だ」

浪戸と範頼が馬上で言葉を交わす。浪戸はまだ草薙剣の行方を知らないから、心から心配して頷いた。

「それでは有馬に向かいましょう」

浪戸が用意した案内に先導させて、軍勢は有馬へ向かう。このまま凱旋パレードを行えば、出迎え部隊ばかりが目立ってしまう。身支度を整えるために必要と、梶原景時が強く主張していた。

「どんなつもりがあるのやら」

単に見栄えをよくしたいだけなのか、他に目的があるのか。鬼頼朝の夢を見て以来、常春は景時の動向が気になる。浪戸からも景時からも目を離さない事だと、常春は馬上で気を引き締めた。


 福原から有馬までは近い。昼に合流して、夕方には現地入りした。

 有馬温泉の歴史は古いが、戦乱が続く中客も訪れず、荒廃している。そこへ日本の新しい支配者である源氏の軍勢がやってくると聞いて、温泉街は盛り上がっていた。武将を収容する宿は大急ぎで雨漏りを塞ぎ、一般の平氏向けには間に合わせのバラックを建てる。

「一旦解散して。まずは落ち着こう」

「凱旋式の詳細は、明日でよろしいな」

主だった武将が話をつけて、まずは各々拠点を定めた。誰それは何処ここへ、とは決まっていない。集団を率いる武将と客引きの間で交渉が始まる。

「こういうところが軍隊じゃないんだよな」

常春は面白がった。神戸の言葉と会話が成立しない、東国出身の武士もいる。身振り手振りで交渉をするものもあれば、通訳で小銭を稼ぐ、目端の利いた商人もいた。

「ここでええやろ」

いち早く近辺では一番広くて立派な宿を、交渉ごとの得意な三郎が、周囲の宿や広場も含めて確保する。浪戸は、総大将らしく頷くと馬を下りた。あの義経を見ようと、人々が殺到する。

「こらこら、危ないからアカンて」

三郎が仕切る。佐藤忠信さとうただのぶ他の警護部隊に囲まれて、浪戸は宿に入った。常春は別にマークされていない。他の武士に紛れて入る。

「露天風呂と言う訳にはいかないだろうな」

どこから覗かれるか分かったものではない。常春は浪戸に、部屋での湯あみを進言した。

「総大将だから、そうだな」

浪戸はそういうと頷いた。そうやって納得させておいて、常春は露天風呂に入る。この宿には浪戸以外には、弁慶と海尊、佐藤忠信率いる警護部隊しかいない。三郎も与一も、それぞれ自分の部隊と共に別の宿に入っていた。本来義経に用意された広い露天風呂は、貸切になる。

「俺は覗かれてもどうという事もなし」

常春は身体を伸ばした。生け垣に囲まれていて、視線もシャットアウトされている。これなら、浪戸が入っても大丈夫だな、後で教えてやろうと常春は思った。

「風呂はいいなあ」

季節は初夏に向かっていた。この時代は日頃風呂に入る習慣が無いので、設備も用意されていない。温泉に入るチャンスがあれば、常春は喜んで風呂に入っていた。

「不思議な気がするな」

独り暮らしの時はユニットバスで、湯を張るよりシャワーで済ませていたし、それで構わなかった。風呂に浸かりたいとは思わなかったのだが、今はそうでは無い。

「来たのが一昨年の十月。宇治川が一月、一の谷が三月、去年の七月は三日平家で、和歌山じゃあ酷い目にあったな。それから壇ノ浦が今年の四月」

もう七月か。常春は独り呟いた。この世界に来てから二年が経とうとしていたが、もっと時間が過ぎているような気がする。

「禁煙も二年続いたと言う事だな」

もう煙草を吸わなくてもイライラしない。食べ物も肉が減り、魚と野菜ばかり食べている。馬にも乗れるようになったし健康的だ。

「みんなどうしてるだろうな」

今や、元居た世界もぼんやりとしか覚えていない。こちらの世界の方が、圧倒的にリアルだった。長いこと背広も畳んだまま、着物の方が馴染んでいる。

「失踪って事になってたら、親が悲しむよな」

「帰りたいですか」

「いや、親が気になるぐらいで、俺はこっちの方がって、あれ」

常春が振り返ると、浪戸が風呂に浸かるところだった。

「少しは羞恥心を持ってくれ」

胸も下半身も隠しもせずに、堂々と入ってくる浪戸を見て、急いで背中を向けながら常春がこぼす。控えめだが形のいい胸を見て、常春の体温が少し上昇した。深呼吸する。

「愛人でしょう」

何が困るのでしょうと浪戸は首を傾げて尋ねた。

「誰かに見られでもしたら」

「総大将の風呂に勝手に入る人なんて、常春さんぐらいです。誰も来ないから話が出来ます」

それに私が義経に、男に見えるのですかと、浪戸は続けた。

 写真がある訳では無い。この時代のプロマイドと言えばいいのか絵はたくさん描かれているが、とても似せて描かれているとは言い難い。鎧兜に身を固め、超人的な指揮能力を発揮してこその義経と言えた。

「みんなが知ってるのは、義経と言う記号か」

「私は義経ではない誰かです」

熱いですねと言いながら、浪戸は湯に浸かった。

「それにしたって俺は男だ。襲い掛からないとも言えないぞ」

「私に勝てると思うのですか」

確かにそうだなあ。でも欲情すると、何をするか分からないぞと常春が笑う。

「私に、そんな事を感じるのですか」

心底驚いた声。そりゃ当然だろ、と常春は肩越しに振り返って答えた。

「浪戸はきれいだよ」

急にそんな事、困ります。浪戸は顔を赤らめて顎まで浸かった。

「こんなに胸が小さいのに」

「大切なのは形だよ。とてもきれいな曲線だと思う」

拗ねたような口調にムキになって反論してから、何を言ってるんだと常春は苦笑いする。

「何を言っているんですか。恥ずかしい」

案の定の返答。

「とにかく、ずっと見ていたいと思うよ」

「見るだけですか」

困った質問だなと常春ははぐらかした。

「それより、どうしたんだ」

常春が話を促す。それよりって、どういう事かしらと浪戸が呟いたが、常春は聞こえていないふりをした。

「志乃がいると話が出来なくて」

そうだなと常春も溜息を吐く。一夫一婦制普及委員長の北条政子に、そうとう吹き込まれてきたらしい。悪い娘じゃないんですけど、と浪戸も声のトーンが低くなった。

「私、平家を滅ぼしたんですね」

少しして、ぽつりと浪戸が言った。

「義経様の夢を叶えたくて。清盛が熱病で死んで、同じ熱病に罹って死んでしまうぐらい憎かった平家を滅ぼして」

浪戸が鼻声になる。

「これから、どうしたら」

もう義経様は教えてくれないんです。こんな時どうしたらいいって尋ねると何時も教えてくれた義経様が、もう何も言ってくれないんですと浪戸が涙ながらに訴えた。

「義経は、満足したんだろう」

どうすれば義経らしいか、浪戸は今まで独り自問自答していたのだろうと常春は思う。独断専行で神出鬼没。義経のイメージ通り。平家を滅ぼした今、義経が何をしたいのだろうか浪戸には分からない。

「もう、義経として生きなくてもいいんじゃないかな」

そんな事をしたら、今消えたら、義経様が悪く思われます。郎党への責任もあります。そんな事出来る訳ないでしょう。と浪戸はしゃくりあげた。そうだな、悪かった。常春は浪戸の隣に移動すると、肩を抱く。浪戸がびくっと震えた。

「まだ義経を演じ続けるつもりなんだね」

「教えてください。義経様はこの後どうされるのですか」

常春が支えているのは苛烈な軍事的天才では無かった。どうしたらいいか分からなくて、泣きじゃくる少女。

「それは約束だから教えないよ」

だけどね、と常春は続ける。そばにいて支える事は出来る。こんな風にと肩を力強く抱いた。

「嘘。帰ってからずっと話したかったのに」

「ああ。あれは志乃ちゃんがいたから」

「関係ないです」

助けてくれますか、浪戸が尋ねた。勿論だよと常春が答える。

「未来に帰ったりしないでください」

「分かった」

「そばにいてくれますか」

「そばにいるよ」

浪戸が常春の方に顔を捻った。常春も向き合う。

「欲情していますか」

「当然だ」

肩の手を胸の方に滑らせた。浪戸の手がその上に重なって。

「いたたたた」

手首をねじりあげられる。強く捻られて、悲鳴がこぼれた。

「ここまでです」

浪戸が悪戯っぽく笑う。

「ありがとうございます。聞いて貰ってすっきりしました」

浪戸は勢いよく立ち上がった。水しぶきを上げながら、浪戸の尻が常春の目の前に飛び出す。小振りだけども、これも柔らかい曲線。

「でも、私はそんなに安くはないですよ」

浪戸はそう言い残すと、常春を残して風呂を出る。

「俺のこのもやもやはどうしてくれるんだ」

手に残った、細い肩の柔らかな感触を思い出しつつ、常春は困惑した。


 京都を熱狂させて凱旋パレードが終わる。浪戸は前回と同じく全身が朱塗の鎧。兜に取りつけた純金製の鍬形を陽光に反射させ、前回と同じく視線を集める。前回と異なり、天狗が現れなかったのが常春にとっては幸いだった。お仕着せの鎧を装備して、馬から降りれば走れそうにない。浪戸の警備も厳重になり、四方を警固の兵が囲ったが、あの天狗ならばどこからでも現れそうだなと常春は思った。

「義経様っ」

「判官殿っ」

声がかかる。声の主に手こそ振らないが、浪戸は以前よりも優しい視線を送った。

「何をしたんですかぁ」

常春の馬に、弁慶が自分の乗馬を寄せてくる。今日の弁慶は、半袖のワークシャツと半ズボンでは無く、袴のような正装に磨き上げた鎧を身に着けていた。何時ものふわっとした印象では無く、凛々しい。

「この前より、険が無くなってますよぉ」

貯め込んでいた事を話したお蔭ですっきりしたのだろうと常春は思う。志乃がストレスになってるんだろうな、対策が必要だと常春は思った。

「流石男娼。変態ねっ」

反対側から馬を寄せた海尊が、遠慮なく罵倒する。弁慶と同じく正装。海尊より身長が低いので、黙っていればかわいらしく感じるが、口を開けば罵り言葉。確かにもう少しで一線を越えそうになっていた。俺ってあんなに細いのが好きだったんだっけ。苦笑しながら弁慶のボリュームのある身体をつい凝視してしまうと、今度は海尊から小突かれる。馬に乗ったまま小突かれても行進出来るようになるなんて、慣れたもんだなと常春は思った。実際は馬が賢いだけなのかも知れない。

 パレードが終わると、主だった武将は法皇に謁見、下級武士はお開きになる。行儀作法が分からない常春もお開き組に紛れ込んで抜け出すと、夕方には六条堀川館に戻った。

「兄ちゃん、お帰りだよ」

シヅカが迎えてくれる。ただいまを言う相手がいるのは幸せだと常春は思った。こちらの暮らしに馴染んでいる。

「今日はどうだった」

「凱旋式、よかったよ。兄ちゃんも」

「歩くの大変だよ」

シヅカに手伝って貰って鎧を脱ぐ。武将だけでなく、小柄な女性たちも同じ重たい鎧兜を装備している事に感心した。フル装備の鎧を着て太刀を振り回すのはとても無理だと常春は思う。

「ところで兄ちゃん。志乃ちんが話をしたいって」

シヅカは妙な敬称をつけて志乃ちんと呼ぶ。構わないのかと尋ねたら志乃っちと言い換えたので、それ以上は突っ込まない事にしている。志乃もそれで構わないらしかった。

「何だろね、面倒な事じゃなかったらいいんだけど」

「兄ちゃん、敵認定されちゃってるもんねー」

常春が肩を竦めると

「め、面倒な事なんかじゃありません」

と声がして障子が開いた。

「ご、ごめんなさいっ。通りかかったら、声がしたものですから」

障子を開いてから志乃が顔を赤くする。

「あ、いや、どうぞ」

常春は志乃を部屋に入れた。お水とお菓子、持ってくるねーとシヅカが部屋を出る。お茶はまだ貴重品で、気軽に飲めない事が残念だった。

「えっと、本妻として、お願いがあります」

志乃は改まって常春に向き合う。

「教えてください。どうしたら義経様を助ける事が出来るんでしょうか」

真剣なのは分かったが、話が見えないと常春は思った。

「やっぱり、夜伽なんでしょうか」

真っ赤になって言ってから、志乃は激しくむせる。

「まあ落ち着いて」

水を待ちましょうかと常春は困惑した。気詰まりな沈黙が続く。

「ただいまー、あれ、どうしたの」

いや、いいタイミングだと常春はシヅカを褒めた。志乃は水を一気に飲んで、はあと溜息を吐く。

「今日の凱旋式。私も沿道から見させて頂きました。義経様立派で、えへへ。幸せです」

幸せな顔で志乃が言った。

「でも気づいたんです。何時も難しい顔をしている事が多いのに、今日は目が柔らかくって。それでどうしてかなって考えたら、私じゃなくて、常春さんと一緒に温泉旅行に行ったのが原因じゃないかって」

一転して顔が曇った。

「温泉旅行って」

きっと温泉で、二人っきりで、志乃の声が途中で途切れる。

「あんな事やこんな事をしちゃったんですなー、兄ちゃん」

シヅカが引き取った。してないって、と常春が否定する。

「衆道は深く険しいと言いますからなあ」

「そうなんですか」

「勘弁してくれ」

浪戸が男装しているから、どうしても倒錯的な話になる。

「志乃さん、そういうんじゃないんだ」

夜伽ってそういう意味の単語なのかとようやく気づきながら、常春は答えた。

「俺は男娼とされているけど、義経とそういう関係じゃない。ただ、たまたま義経の秘密を知ってしまった。軍事的な事柄や誰にも言えない秘密、知ってしまうと不幸になる秘密もある」

「夫婦だからこそ、すべてを知って癒して差し上げなければ」

志乃は頑張った。勿論そうだと常春は答える。

「だけど、義経が志乃さんを大切にするからこそ言えない事だってあるんだよ。それは分かってあげて欲しい」

頭ごなしに否定しても納得しない。説得はイエス&バットで、の営業話法で、常春は志乃を説得した。

「でも」

「義経は人一倍強いが人一倍弱い。みんなで助けないと独りじゃ無理だ」

常春は説得を続けた。

「志乃さんみたいないい人に来て貰って、俺はほっとしているんだけどな」

「あう、ズルイです、常春さん」

「オンゾーシは独り占め出来ないよ。みんなのモノっしょ」

行きがかり上話を聞いていたシヅカがそう言ってほほ笑んだ。

「そう、そういうスゴイ人のところに、私は嫁いだのですね」

志乃はしんみり言う。納得して貰えたかな、と常春が思った時。

 ガタガタガタ建具が激しく揺れた。

「地震だ」

常春は二人を押し倒すと覆い被さった。頭を抱く。ドタン。レールから外れた障子が常春の上に倒れかけた。ぐえ、幸い、変なうめき声をあげただけで怪我はない。続けて酔いそうな横揺れが続く。箪笥から引き出しが飛び出した。常春は神器が気になったが、動けない。

「火事になるかも知れない。座布団を被って外へ逃げろ」

二人に指示する。

「はい」

「分かったよ、兄ちゃん」

揺れが治まる常春は装備一式を詰めたウエストポーチを肩に掛け、飛び出した箪笥の引き出しから布でくるんだ草薙の剣を持ち出した。

「シヅカ、急いで」

「ちょっとだけ」

シヅカも引き出しをひっくり返して何かを取り出すと、震えている志乃の手を掴んで外に走り出す。

「足元にも注意しろ」

外に飛び出すと落ちた瓦が散乱していた。屋根自体が滑り落ちている民家もあった。

「義経は大丈夫か」

後白河法皇の御所から帰ってきていない。忠信ただのぶの警護があるから大丈夫だと思うが、大きな地震なので心配になる。

「余震が続くぞ。壊れかけの家に近づくな」

「火事が起きているはずだ。周りの家を壊して防火帯を作れ」

「家を壊す時は、怪我人がいないか確認を怠るな」

常春は次々と思い浮かぶ事を指示した。家の使用人が触れて回る。

「重房、志乃さんを」

直属の警護で弟の重房しげふさが駆け付けたので、志乃を引き渡した。

「急いで周りの様子を報告して」

シヅカが、駆け参じた元赤禿に指示を出す。

「義経殿は無事、もうすぐ戻られる」

忠信の部下が駆け込んできて触れて回った。

「義経様が」

志乃は目に涙を浮かべて安堵する。まずは一安心だと常春も思った。


「ここの被害が少ないな。ここを拠点として災害対策を取る」

六条堀川館は、立地なのか建て方なのか、瓦が落ちた程度で殆ど被害が無い。少し経って戻った浪戸が、開口一番に宣言した。遅れて範頼や景時、実平も到着する。

「志乃も無事か」

浪戸は重房に支えられてようやく立っている志乃を見つけると、抱きしめてやった。大丈夫です、大丈夫です、志乃が繰り返す。

「重房、志乃を守ってくれてありがとう。礼を言う」

重房は一礼した。

「続けて、もっと多くの民を救って欲しい」

帰る途中に見つけた火事の位置を知らせ、消火するように指示する。志乃の弟は集団を率いて外へ飛び出した。非常時の義経。目的を失って心細げな浪戸が、義経の強い眼差しを見せて復活する。

「常春さんに、助けられました」

志乃が息も絶え絶えに話す。

「そうか」

常春に笑顔を見せた。大したことはしていないと常春が小さく笑う。

「シヅカが情報を収集している。余震に気を付けながら、救助と消火だ」

分かったと浪戸は頷いた。景時、実平、非常の時だ、手伝ってくれと呼びかける。二人とも当然だと応じる。

「何をしたらいい」

範頼が尋ねた。分かっている人物に任せる判断が出来るのも、将の器。

「御所と御所の周辺の警備を」

うむ、と立ち上がる。状況を常に知らせてください。こちらからもお伝えしますと常春が呼びかけた。それも分かった、と答える。男娼如きにと範頼が言わないから、不満があっても景時も何も言えない。

 収集した情報を元に、浪戸は兵を派遣した。救助、火事、こんな時に発生する喧嘩暴動に、断固として対処する。シヅカが現況をアップデートし続け、三郎の手下も市内全域に散らばり情報を収集した。常春は必要な助言を与え続ける。津波が気になったが、出来る事は無い。

「大阪湾、神戸、琵琶湖、日本海側だな。数分から数時間後に高波が来る事もあるから、海岸からは離れさせて」

早馬を数頭仕立てて警告に送る。

「常春殿、どうして」

直接経験している訳では無いが、阪神・淡路大震災も東日本大震災も知っている。

「地震の経験がある」

実平に手短に答えると、情報提供に回った。

「夏だな」

常春が呟く。死者が多ければ、遺体が疫病の発生源になるな。これからが大変だと常春は思った。

「恐ろしや」

景時も呟いた。

「本当に恐ろしい事です」

偵察から戻った息子の景季が馬から降りながら同意する。

「そうでは無い」

小声で景時は答えた。

「あれを見ろ」

大きな紙に、筆で簡易な京都の見取り図が描かれている。被災情報と派遣された部隊が書き込まれていた。

「これは戦だ」

情報を制する者が戦に勝つ事を、景時は初めて理解した。普段の戦いでは浪戸の頭の中に仕舞われている地図が、今日は情報を共有するために紙に広げられている。必要なところに必要なだけ素早く兵を展開する電撃戦。景時は今頃になってそれを目の当たりにした。

「義経は戦をしておる」

「義経殿は戦上手。きっと勝利を収めてくれるでしょう」

景季が無邪気に答える。義経はこんな組織を作っていたのか。景時は暗い顔で呟いた。それにしてもと景時は気になる事がある。義経の男娼が腰に差している布包、あれは一体なんだ。


 後に文治地震と呼ばれるこの震災は、平家物語にも書き記されている。


「台地おびただしう動いてやや久し。畿内、白河のほとり、六勝寺みな破れ崩る。九重ねの塔も上六重を振り落とし、三十三間堂の御堂も十七間まで揺り倒す」

「上がる塵は煙の如し天暗うして、日の光も見えず」


 この地震では御所や寺社の多数が倒壊し、死者も多数発生した。余震が続き、人々はこの世の終わりと怯え、平家の怨念と噂したが、浪戸の断固とした大規模の武士の投入により、二次被害、混乱や略奪は、小規模に抑えられた。

「怨霊など、無い」

浪戸は言い切る。これからは殺し殺される武士の時代、そんなものは気にしていられない。

「怖いのは、生きている人間だ」

しかし公家はそうは思わなかった。まず元号を変える。寺社を再建し祈祷する。公家は、平家の捕虜を早々に手放したいと思った。


十八 『末吉:デートは程々にしましょう。修羅場注意報です』


 平家の捕虜を鎌倉に送るようにとの指示が、頼朝、後白河法皇の両方から範頼のりよりに対して発令された。義経は地震復興に尽力せよとの指示が、頼朝からはわざわざ別に発令されている。

「鎌倉に戻るなという事ですね」

捕虜を連れての帰還は凱旋式。栄誉を範頼が独占する事になる。

「兄に認められていないのですね」

常春、シヅカ、志乃、二人愛人と本妻を前にして、浪戸は諦め顔でこぼした。

「そんな事ないよー。オンゾーシは、今、京都に必要ってホーホーも言ってたよ」

シヅカが慰める。法皇は、浪戸の地震直後の素早い対応に感服していた。適切な指示で、災害を抑え込んでいる。

「恐らく頼朝は、義経を最も認めているだろう」

だから評価出来ないんだと常春が続けた。

「最も恐ろしい対抗馬になる。北条家にとっても」

「政子様、ですか」

志乃が首を傾げた。

「頼朝を棟梁として、それに次ぐ権力を持っているのは、政子の実家の北条家だよな」

「だから私も挨拶にお伺いしたのですよね」

「圧倒的な人気のある義経が鎌倉に常にいれば、その地位を義経に奪われかねない」

頼朝は自分と後ろ盾の地位も脅しかねない義経を手元に置く事は難しいだろう。常春はそう結論付けた。

「そんなあ」

政子様は悪い人では無いですよと、志乃が困った顔をする。

「個人の問題じゃなくて、家の問題だから」

常春がフォローした。

「ええっと、そう言えば、難しい立場と、政子様にも言われました」

志乃がしょげる。残念な話ですねと浪戸が言った。

「私は、誰かと取って代わるつもりは無いのですけど」

それは本人が決める事じゃない。相手がどう思うか、義経を担ぐ者がどう動くかなんだよ、常春が答える。

「担ぐ。え、ウチの実家には、そんな事させませんよ」

志乃が抗議した。北条家と争う力も野望も、河越家には無いと主張する。

「後白河法皇だよ」

常春は声を潜めた。法皇は鎌倉に対抗するために、義経を手元に置いておきたい。

「鎌倉に呼びたくない頼朝。手元に置きたい法皇。両方の思惑が偶然一致して、義経は鎌倉に呼ばれなかったんだろう」

「えて」

浪戸が呟いた。え、とシヅカが聞き返す。

「消えてしまいたい」

私がいる事で平和が来ないと、浪戸が下を向き、涙をこぼす。

「そんな事はありません」

志乃が大声をあげ、自分でも驚いた。

「義経様は平家を倒し、京都をやっと平和に」

浪戸を抱きしめる。

「いや、志乃にも迷惑を」

迷惑なんてありません、志乃は大声で断言した。常春さん、何で義経様をいじめるんですかと睨みつける。

「兄ちゃんがオンゾーシ泣ーかせた」

「うん、そうだね、悪かった」

常春は素直に謝る。

「頼朝や法皇の動きを見ると、これから辛い事が起きるんじゃないかと思う。でも、最後は必ず丸く収まるようにするから、家臣団一同で助けるから」

だから悲観しなくていい、と常春は声を掛けた。

「それは予言ですか」

「いいや。決意だよ」

浪戸の問いに、常春が笑顔を返す。

「くぅー、普段は駄目駄目だけど、恰好いいなあ、兄ちゃん」

「よ、義経様。私だって、義経様をお守りします。どんな事をしたって」

ごめんなさい。もう大丈夫、です。浪戸が志乃の手を取った。

「わ、私は本妻です。義経様を助けるために生まれて来ました、から」

志乃が顔を赤らめながら、しかしはっきり言う。

「政子様にお伝えする事があれば、また鎌倉に行ってお願いしてきます」

「ああ、その事なんだけど」

「え、今度こそしずぽんの番なの」

シヅカがわくわくしながら口を挟む。どうしても鎌倉観光に行きたいらしい。

「申し訳ないけど、俺の番なんだ」

常春はにやりとした。

「えー、ずーるーいー」

「そうです。常春さんはズルイです」

シヅカだけでは無く、浪戸までそう言う。

「え、そうなの」

「何か、そう、何か置いて行ってください」

オンゾーシがデレた、シヅカが声を上げる。義経様、何という事をと志乃が怒りの視線を常春に向けた。

「何でそうなるんだよ」

わかったよ、常春はスマートフォンを浪戸に渡す。

「はい、これでいいです。どうぞお元気で」

何だか態度がころころ変わるな。常春は困惑した。


 常春は、範頼の軍に組み込まれて鎌倉へと旅をした。朝廷から官職を受けていないから、頼朝の命令には反しない。

「功績が無い」

鎌倉に行く理由が景時かげときが反対したが、勾玉を拾い上げた事を根拠に景季かげすえが口添えをしてくれる。

「常春殿は、何かと活躍しておられるのだがな」

景季は見送りに来た時に苦笑した。壇ノ浦では弩を使って、平家勢を弓兵の前に押し出している、そちらの方が功績だと景季は思うのだけれど、誰かの首を挙げた訳でもないので、その活躍が目立たないと続けた。

「後、立ち位置がちょっと」

義経の男娼であり、常春は衆道を使って義経に取り入ったとされているから、質実剛健な鎌倉武士には評判は低い。

「気を遣わせて申し訳ないね」

常春も苦笑いする。それより景季の方が活躍しているのに残念だと返した。景季は義経と同じく朝廷から官職を得てしまったために、鎌倉に入る事が出来ない。今回は留守番だった。

「義経殿も許されないのに。景季が許されると、父の立場が無い」

他にも官職を得てしまったために、鎌倉入りを禁止されている武士は多くいる。義経や景季が血縁である事を理由に依怙贔屓されると、頼朝への不満が広がるだろう。

「まあ、鳩サブレーでも買ってくるよ」

鳩三郎? 首を傾げる景時を残し、常春は鎌倉に向かった。


「え、大仏って無いの」

鎌倉出身の武士に笑われて、常春は首を傾げた。鎌倉大仏が無いと言う。まだ出来ていないのか、自分の知っている世界と違う世界なのか。鎌倉大仏、という名前で認識していたから、高徳院という寺の名前も分からず、足を運ぶ方法も無い。

「鳩サブレーも無いのか」

これは無くても当然かと思い直す。バターを使っているから明治以降なのだろう。少なくとも平安期には無い。鎌倉と言えば鳩サブレーなんだけどなと常春は残念に思った。そのかわり、鶴岡八幡宮の参道を下りきったところに、せんべい屋を見つける。鳩の形のせんべいを焼いていた。小銭を用意する。

「ひとつください」

店主は、愛想よく焼きたてを一枚渡した。現代のものとは異なるが、しっとりして食感は似ている。これはこれでおいしかった。

「常春さん、私にも買ってください」

不意に声を掛けられる。振り返ると、町娘に女装した浪戸が立っていた。

「あ、あの、来ちゃった」

浪戸らしくない物言いに怪訝な顔をする。

「し、シヅカにそう言えって言われたから」

顔を真っ赤にして俯いた。

「え、や、どうやって」

「身代わりを置いてきました」

ここにいるのは、義経ではない誰かです、そのフレーズが気に入ったらしく、浪戸は得意げに言う。

「身代わりって」

「常春さんの印籠が」

疲れが溜まって風邪をひいたらしい。移してはいけないから人払いをする。そんなメッセージをスマートフォンに録音し、シヅカに再生を頼んで来たと言う。以前浪戸の笛を録音して見せたが、居留守に使える事をちゃっかり理解したようだった。

「志乃さんは知ってるの」

「知らせていません。ついて来るに決まってますから」

シヅカで誤魔化しきれるかなと常春は懸念した。

「でもどうやってついて来たんだい」

紛れて来たと事も無げに答えた。範頼の軍勢は帰還兵や郎党、平家の捕虜や軍属、それぞれの世話人も含めて収集がつかない規模になっている。独りぐらい顔の知らない女性が増えていても、義経とは気づかれないだろう。

「危ないよ」

義経と気づかれず、ただの娘と思われれば別の危険もあると常春は怒った。

「常春さんと話をしたいのだけなのに。ではどうしたらいいのですか」

浪戸がふくれる。常春の随行員に追加する事にした。常春もいっぱしの武士という事で、身の回りやら馬やらの世話をする、少数の世話係を連れて来ている。

「浪戸だと明かす事は出来ないから、鎌倉で見初めた女性という事にするか」

ゴシップ記者がはかどるなと、常春は溜息を吐いた。

「義経の愛人が鎌倉で手を付けた女性、ふふ、おもしろい」

浪戸が笑う。

「笑い事じゃないよ」

「では愛人と鎌倉の街を楽しみましょう」

浪戸は気にせず、常春の手を取った。

 観光と言っても、大仏も無かったし、八景島シーパラダイス(あれは横浜か)も無い。寺社と門前町巡りになる。渋い展開だなと思ったが、浪戸は充分楽しんでいるようだった。

「あれ見たい」

「これ食べたい」

年相応に見せる笑顔。ああかわいいなと常春は素直に思った。普段は思いつめた仏頂面ばかりだから、余計にそう感じる。シヅカと違って、買い食いの経験も無いだろう。

「髪留め欲しい」

「羊羹食べたい」

いいよいいよと買い与えていたが、傍から見ると援交中のおっさんに見えるかもと常春は反省した。キモっという海尊の声が聞こえたような気がするが、それは気のせいだろう。

「おいしいですよ」

浪戸がかじりかけの栗羊羹を、常春に口に押し付けて来た。

「ありがとう」

甘い。常春の知っている栗羊羹とそんなに変わらなかった。和菓子と言うのは昔からあるんだなと感心する。

「これは千年先にも残っているのですか」

「栗羊羹は食べた事があるよ」

そうですか、と浪戸は顔を輝かせた。

「食べ物が全然違うと言っていましたけど、同じものもあるんですね」

「日本は日本という事なんだな」

そう言えばシヅカと焼いたダンゴ的な何かも食べったっけと思い出す。パンもカレーも無いけれど、焼き魚であったり、まれに猪を煮てみたり、過去と未来、少しはつながっているんだなと常春は思い返した。

「大体ご飯の食べ方は変わらないしな。それはありがたいと思うよ」

「手に入りにくい食べ物で、食べたいものってあるんですか」

「そうだなぁ、中華料理とか、カレーとかかな」

「カレー?」

「インド、天竺の料理だ」

そうですか。浪戸は常春の顔を見た。

「大陸と、天竺ですね」

「大陸とは秀衡の爺さんも貿易してるんだよな」

平清盛の病没によって、日宋貿易は一時的に停滞しているが、私貿易は続いているはずだと常春は日本史の知識を掘り返した。インドとの直接の貿易は知らなかったが、中国を経由しての交流はあったはずだ。カレーの香辛料って、何時頃日本に入って来たんだろう。漠然と常春は思う。

「それじゃあ、大陸と天竺に行きましょう」

浪戸が嬉しそうに言った。

「常春さんの食べたいもの、私も食べたいんです」

独りだけおいしいもの食べるなんて、ズルイですよと浪戸が笑う。

「全部終わったら、連れてってください」

約束ですよとご機嫌に浪戸が続けた。

「そうだな」

楽しい事も必要だと常春は思う。

「約束だ」


 翌日、沢山の武士と共に、常春も頼朝謁見が許された。浪戸を連れて行きたかったが、流石に関係者以外は立ち入り禁止、常春だけが鶴岡天満宮に上がる事を許される。着物に烏帽子、鎧兜は身につけないが、打刀を帯に差す。常春は併せて、頼朝の反応も見たいと草薙剣も持ち込んだ。特別にあつらえた鞘に仕舞って、帯に挟む。

 大広間に通された。実平や景季、範頼の姿もあるが、見知った顔は殆どいない。常春の方は悪名高く、声を掛けてくる武士はいなかった。少々居心地が悪かったが、何か不用意な発言をしてボロが出さないで済むのはありがたいと思う。

「鎌倉殿、ご入場」

触れがあり、一同は低く頭を下げた。常春もまわりに倣って頭を下げる。重い足音が畳をこすり、やがて止まった。

「頭を上げよ」

しわがれた声。この声には聞き覚えがある。頭を上げた。白い鎧に白い兜。額には特徴的な、白いツノ。兜の奥に沈んで顔はよく見えないが、間違い無い。夢で見た鬼そのものだった。

 集められた武士は、刀こそ差してはいるが鎧は来ていない。独りだけ、これから合戦に向かうかのようなフル装備の頼朝は、お前たちを信じてはいないと宣言するかのようだった。

「よく戻られた」

そう言って、上座から睨みつけるように見渡す。よく戻られた、というより、今から殺すと言う視線だった。常春は慌てて目を落とす。肌で、視線に嘗めまわされるのを感じた。まとわりつく。

「褒賞する」

主だった者、特に功績のあった者の名前を呼び、いちいち褒美を言い渡した。既に範頼から九州、中国地方の土地を封じされている武士も、改めて頼朝から授けられる。範頼は頼朝の代官でしかない事を印象付けた。

「片岡常春」

一時間ぐらいして、意識が遠ざかってきた頃に、常春の名前が呼ばれる。呼ばれただけで、身体を握られたような圧迫感を感じた。眠気も吹き飛ぶ。

「はっ」

他の武士を見よう見まねで頭を深々と下げた。

「特段の武勲は無いが、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまを取り戻したと聞く」

更に平伏。

「既に後白河に返したのであったな」

景季に尋ねる。

「短慮があり、その通りでございます」

朝廷との交渉材料にするためという名目で、入手した神器を京都では無く鎌倉に持って来いとの命令を持った早馬が出されていたのだが、その指示が届いたのは既に京都入りした後だった事が後に分かる。景季は、急いで神器を京都に変換した行為を短慮と表現して、義経を悪く言ったのだった。

「夢の通りなら、短慮どころか大正解だ」

常春は内心呟く。

「一度見てみたかったものだ」

頼朝は空を仰いで呟いた。

「本来であれば朝廷から褒美を取らせればよいだろうが、義経と違って公家の下には立たなかったと聞く」

欲しいものを述べよと言う。

「恐れながら」

常春は頭を上げた。目があう。兜の奥に隠れていながら強い視線が常春に向けられた。

「恐れながら、申し上げます」

気力を奪われそうな視線に、常春は目を伏せた。

「我が主、義経殿は、鎌倉殿のご命令にのみ従い、一の谷、壇ノ浦と転戦を重ねました」

今、検非違使の任務に就き京都を守護するのも、京都では法皇のお役に立てという鎌倉殿のご命令に従っての事。遠く京都から、ひたすら鎌倉殿を、お兄様を慕っております。常春は目を伏せながらも大きな声で続ける。

「今一度義経殿をお呼び頂き、よくやったと声を掛けて頂ければ、望外の幸せ」

黄瀬川で初めて会った時のように、義経殿を迎え入れて頂けないでしょうか。それが常春の望む褒美です。常春は頭を下げたまま最後まで言った。

「黄瀬川、そんな事が。そうであったかな」

頼朝は、一瞬奇妙な表情をする。

「夜にも関わらず、眩しくて鎌倉殿の御顔を見る事が出来なかったとの事。次にお会いする時は、お顔を拝ませて頂きたいと伝え聞いております」

余計かなと思いつつ、腰越状の代わりとばかり、常春は付け加えた。今回の歴史では、義経は腰越に足止めされるどころか呼ばれてもいないので、切々と許しを請う手紙も存在しない。海尊によるとかなり抒情的な内容で、武士の心を打ったが頼朝の心は動かさなかったと言う。

 大勢の心を動かすのは難しいここに居並ぶ武士が少しでも哀れと思ってくれればと常春は語ってみたが、聴衆の反応は鈍かった。

「覚えておらん。昔の事は、霧がかかったように」

頼朝は顔をしかめ小声で呟く。忠義な事とも言えるし、余計な事とも言えるな、と思い返したように言った。

「そんな望みなど希望しなくとも、必ず否応なしに近い内に会う事になろう」

頼朝は予言した。それよりも、その剣はなんだと興味を示す。

「代々伝わる剣にて、正装時には佩けと」

「まるで草薙剣」

柄を見ただけで分かるのか、それ程関心があるのだなと常春は確信した。

「まさか勾玉だけでなく、剣も拾いあてていた訳では無かろうな」

強い威圧。

「そのような大それたものではありません。草薙剣は八岐大蛇ヤマタノオロチが取り戻したと伝え聞いております」

そんな莫迦な事があるかと、頼朝が一笑する。

「抜いてみよ」

このような場で剣を抜くなどとと常春は断って見せたが、頼朝は興味も露わに、構わないから抜けと言う。しぶしぶ常春は抜くと、刃を握って持ち上げた。刃が鋭く研がれている訳でもない。古代風の両刃の厚みのある剣。ここに居並ぶ武士たちは、誰も実用とは思わないだろう。頼朝を除けば。

「それは草薙剣ではないのだな」

食い入るように剣を見つめる頼朝が重ねて尋ねた。

「勿論です」

珍しいものを見せて貰った。家宝を大切にするが良い、頼朝は話を打ち切ると、何事も無かったかのように残りの武士の顕彰を再開する。男娼め、点数稼ぎをしおって。武士団から舌打ちが聞こえてきたが、常春は無視。剣を鞘に戻した。

「食いついた」

頼朝は草薙剣だと疑っている。夢の通りであれば、頼朝を倒す事が出来るのはこの剣だけ。それを浪戸が知っているのかどうかを知りたいだろうから、まずは情報収集を行うに違いない。それに危険な剣が浪戸の元にあるなら、強引な浪戸潰しは出来ないだろうと常春は安心した。


 しかし、頼朝は急速に事を運ぶ。

「申し訳ありませんが、お暇を頂きます」

常春が京都に戻ろうとすると、世話人が一斉に退職した。鎌倉で知己に出会った、思いもかけず仕事を見つけた、それぞれの理由で鎌倉に残ると言う。

「京都に帰るって話だったじゃないか」

「心苦しいのですが」

京都出身者にまで断られた。理由を聞いても要領を得ない返事しか戻らない。

 景時は何時京都に戻るのかと人を介して尋ねたが、帰らないと言う。

「義経の軍監だろう、そばにいなきゃ駄目じゃないか」

重ねて尋ねたが、義経は軍監など必要としていないと返事が返る。帰りの部隊に合流させて貰う方法も無くなった。

「思った以上に、頼朝は強引な手を使ったな」

「やはり今の頼朝は、義経の兄の頼朝とは違うと言うのですね」

浪戸が顔を歪めた。頼朝の顔を見る機会が無いかと伺っていたが、人前に出る事も少なく、外を歩く事もしない相手と遭遇する機会も無い。

「黄瀬川を覚えていないと言ったよ」

義経との感動の出逢いのシーンを覚えていないと頼朝は言った。

「その時は、義経ではないと言われるかと心が張り裂けそうでした」

浪戸は義経として、確かに頼朝に会っている。するとその時以降、何処かで頼朝も入れ替わったと考えられる。しかも、鬼と。

「それにしても、剥ぎ取られましたね」

分かりました、頼朝は敵だと考えましょう。浪戸が武将の顔に戻って言う。京都までの帰り道で襲われるのは確実だった。奥州を経由して秀衡に応援を求める事も考えたが、その道中が同じく危険だと思われる。

「京都に手紙を出して迎えに来て貰うのはどうだ」

「手紙が奪われるでしょうね」

情けないと笑いものになるのは慣れっこだと常春が提案したが、それも期待出来ないと浪戸に却下された。

「ふたりきりといういう事は、移動も早く出来ます」

電撃戦です、と浪戸が言う。

「分かった」

常春が同意した。手紙を二通作成して、秀衡とシヅカに送る。どちら宛の手紙も、挨拶文だけのダミー。

「これを送って、と」

鎌倉で雇った使者にそれぞれ手紙を持たせる。深夜まで待って、二人は一頭の馬に跨り、こっそりと人目を避けて鎌倉を出発した。


 馬を変えつつ、昼も夜も走る。浪戸がコースを把握しているから、案内も無しに移動を続ける。翌日の夕方には、恐らくはシヅカ宛の手紙よりも先に、静岡の富士川に到着した。さすがに疲労する。

「今日はここで泊まりましょう」

地元の裕福な家に宿を借りるのが一般的だったが、人目につかないように野宿をする。手頃な洞穴を見つけて枯れ枝を集める。常春は、乾燥した馬の糞を焚きつけにして、入り口付近に焚火を用意した。

「いろんな事を知っているんですね」

洞窟の奥に引き入れた馬をブラッシングしながら、浪戸が感心した。いや、教えてくれたのは海尊だよと、川の水を沸かしながら答える。湯があれば乾飯を戻して夕飯にする。

「そう言えば、浪戸と二人きりで寝るのは初めてだな」

「ね、ね、ね、寝るって、どういう意味ですか」

何気ない常春の一言に、浪戸が激しく反応した。ブラシが強かったのか、馬がブルルと鼻息を鳴らす。

「あ、いや。そうじゃなくて」

弁慶とは奥州の行き帰りで、海尊とは熊野の行き帰りで一緒に移動している。六条堀川館ではシヅカが同室。浪戸とは一緒にいる事が多いけれど、二人っきりという事は初めてだよねと常春は釈明した。

「大体何時もシヅカがいるよね」

鵯越でもそうだったなと常春が笑う。

「そう、ですね」

浪戸が答えた。炎に照らされた顔が赤い。

「弁慶や海尊とは、その、したのですか」

「え」

「わ、忘れてください」

浪戸が顔を背ける。

「常春さんは、そんな事なさそうで結構アレですものね。弁慶や海尊や、きっとシヅカともアレな事を」

「何かとんでもない勘違いをしてるんじゃないか」

常春は苦笑した。

「アレって言うのが何の事か分からないけど、俺はこっちの世界に来てからは男女を問わず、ん、この時代ではなんて言うんだっけ。男女の交わりって言うのか。していないぞ」

「さ、さぞかし以前はしていたのですね」

「経験が無い訳じゃないけど。って、なんで俺がこんな話をさせられるんだよ」

罰ゲームかよと常春が文句を言う。

「み、未来では、アレの事を何と言うのですか」

浪戸が尋ねた。

「よ、夜伽の事を」

浪戸は首まで真っ赤にしている。

「いろんな言い方があるけど。セックスかな」

「せ、くす」

変な言葉と浪戸は首を傾げた。

「外国の言葉だからな。大陸より天竺より、もっと西の果ての遠い国の言葉」

未来はその国が強い力を握っているから、その国の言葉が流行るんだ。俺はちゃんと話せないけどな、と常春が苦笑する。

「せくす?」

浪戸が首を傾げた。なんだかドキドキするなと常春は落ち着かない。

「私は、何とも思いませんけど」

「そりゃそうだ」

俺は夜伽と聞いても何とも感じない。赤くなった浪戸を見て笑う。何だか変な話になっちゃったな。取り敢えず、明日に備えて寝よう、と常春は話を変えた。

「そ、そうね」

浪戸も同意する。明かりを消した。土の上に横になる。久し振りの布団無しで背中が痛い。

 すう、すう浪戸の寝息が聞こえた。少し前の会話が思い出されて、常春は寝付かれなくなる。

 富士川か挙兵した頼朝を討つべく平家が遠征。東西の岸に対峙していたところ、水鳥の音を襲撃と間違えて平家が逃げてしまうのが富士川の戦いだったなと、常春は記憶をひっくり返す。

 ここから平家は負け戦が続く。個々の戦闘では勝つ事もあっただろうけれど、坂道を転がり落ちるように平家は滅んだ。滅ぼしたメインプレーヤーは、義経の意思を継いだ浪戸。

 俺は今、歴史の転換点にいるんだなしかも、頼朝が鬼だったなんて、聞いた事も無かった。どうやって浪戸を助けつつ、歴史も大筋で変えずに頼朝を排除するか。常春は頭を悩ませながら、気づかないうちに眠りについた。


 翌日には浜名湖に到着する。農家の世話になり、馬小屋で夜を明かした。追っ手の姿は見当たらない。逃げ切ったかと思ったが、そうでは無かった。

 翌日、白昼堂々と矢を射掛けられる。例によって常春は後部座席、鎧で矢を受けた。

「逃げます」

相手の数も分からない。浪戸は、連れて来た替えの馬の紐を切って、自由に走らせる。キャンプ道具を失うのは痛いが、速度を上げるには已むを得ない。

「任せた」

常春は浪戸にしがみ付いた。速度がぐんぐん上がる。しかし追っ手もよく着いてきた。比較的開けた街道。森の中と違い、撒くのは難しい。

「追っ手は四騎」

ちらりと振り返った常春が報告する。

「ちょっと多いですね」

浪戸が答えた。常に一対一で戦うようにすれば勝機はあるが、常春を後ろに乗せたまま戦うには、敵が多い。

「一体どこから、待ち伏せか」

追っ手に対しては充分先行していたはず、常春たち以上に馬を飛ばすのは、人間、馬の体力共に困難と思えた。待ち伏せしか考えられない。

「逃げきれない」

こちらは二人乗りで重たい。相手は単座で、鎌倉から追って来たとは思えない疲れを知らない走りだった。戦うしかないと浪戸が覚悟を決めた時。

「見つけましたよぉ」

前から走ってきた馬が浪戸とすれ違う。

「弁慶っ」

「まっすぐ」

薙刀を振るう。そのまま後続の一騎を倒した。残りの追っ手を引き連れたまま、浪戸はそのまま走り続ける。弁慶は馬を回頭させると、後を追った。後ろからどんどん迫る。

「そのままっ」

前方では、鷲尾義久が弓をつがえていた。

 ひょん常春を掠めて矢が飛ぶ。追っ手の一人が転がり落ちた。続いてもう一人。迷いを見せない速射で、合計二人を撃ち落とす。

「止まれ」

浪戸は手綱を引くと馬を止め、向きを変えた。前に浪戸と義久、後ろに弁慶に挟まれた最後の追っ手は、馬を止める。

「名を名乗れ」

浪戸が凛とした声で命じる。

「名乗るような名前など無い、只の盗賊」

「只の盗賊はそんな強い馬に乗りませんよぉ」

後ろから弁慶がやんわりと否定した。

「では、只の鬼と名乗ろうか」

鉢巻を引きはがすと、短いツノが現れる。太刀を抜くと、まっすぐ浪戸に襲い掛かった。義久が弓を放つ。鬼は首を曲げてぎりぎりで躱した。その間に、常春は邪魔にならないように馬から飛び降りる。

「邪魔だ」

盗賊は浪戸の脇を駆け抜け、常春を蹄に掛けようとする。

「させない」

狙いは常春。浪戸は身体を捻ると太刀を振るった。一刀両断。鬼の首が宙を舞う。どう、と残った身体が馬から落ちた。しかし、首は常春目掛けて落ちてくる。

「わあっ」

夢中で草薙剣を抜くと振り回した。生首をヒットする。

 カチン生首は刃に噛みついた。離れない。常春はそのまま地面に打ち付ける。

 ガア頭を地面に打ち付けられて口が開いた。顔に突き立てる。目がかっと開き、歯をむき出しにして、しかし生首はそこまでだった。目から生気を失い、事切れる。二本の短いツノが、ころりと抜けた。

「これは、どういう」

馬から降りた弁慶が、怪異を見て手を口にあてる。

「他の追っ手を確認しよう」

常春は剣を片手に声を掛けた。弁慶を傍らに、浪戸と義久を騎馬のまま従えて、他の死体を確認する。射抜かれたり斬られたりした他の死体は、通常の死体だった。

「念のためにね」

常春は、それぞれの死体の顔に草薙剣を打ち込む。血が飛び散った。既に死んでいるとは分かっていても、気分が悪くなる。すべき事をした後、常春は傍らで吐いた。当分夢に出そうだと思う。

「大丈夫ですかぁ」

弁慶が背中をさすってくれた。

「いや、みっともない。覚悟が足りないよ」

常春が弱々しく笑みを浮かべる。

「それより、よくここが分かったな。助かったよ」

「御前様がえらいことや」

義久が言う。浪戸の身代わり作戦はすぐにばれて志乃は怒り心頭、動員可能な限りの武士を鎌倉への街道に送ったと言う。スマートフォンの録音は、御所からの遣い相手にしか役に立たなかったらしい。

「送ったって、そんな事をしたら鎌倉と戦争になるじゃないか」

「そんな事はしませんよぉ」

動員と言っても京都の復興にも手を取られ、義経が留守という事を秘密にして捜索に出せるのは、口を堅い身内の武士や、志乃の弟の重房勢から抽出して集めて三十人程度。二、三人を一組として、帰り道の進路に偵察を出す程度しか行っていないと弁慶が言う。

「なんもせえへんかったら、御前様の機嫌が悪い」

「それは悪い事をしましたね」

義久に浪戸が謝る。

「それにしても常春さん、愛人とは言え、大胆な事をしましたねぇ」

弁慶が呆れたように笑った。

「充分楽しんだのでしょうから、戻ったらお二人とも、たっぷり志乃様に叱られてくださいねぇ」

「いや、楽しんでないって」

常春が慌てて否定した。

「楽しく、ありませんでしたか」

浪戸がつなまらなそうに尋ねる。

「そういう意味じゃなくってさ」

常春が慌てて訂正した。志乃にどう言い訳したものかと、常春は頭を悩ませる。

「ところで、どうして襲われていたんですかぁ」

弁慶が尋ねた。

「本物の鬼ごっこ」

そのつもりは無いのだろうけれど、義久がボケる。いや、ごっこ、じゃないしと常春は心の中でツッコんだ。

「うーん、話は複雑なんだけど、とりあえず危険な状態なのは確かなんだ」

五十キロ程先の桑名に、捜索隊の拠点を置いていると弁慶が告げた。そこに重房をはじめ十騎近くが常駐しているし、他の捜索隊も集合すると言う。桑名は平安時代から交易都市として開けていて、人口も多い。

「そこまで行けばぁ、ある程度、安全は確保出来るでしょう」

まず桑名に行きましょう、話はそれからですと浪戸が決めた。


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