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この歳になって源平合戦とか勘弁して欲しい  作者: 秋月羽音
十二 『中吉:隠し事が明るみに。でもその方が楽ですよ』
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十二 『中吉:隠し事が明るみに。でもその方が楽ですよ』

十二 『中吉:隠し事が明るみに。でもその方が楽ですよ』


 常春は雨の中、馬の背で海尊にしがみ付いていた。

「アンタ何処触ってるのよ、莫迦ツネ」

「後でたっぷり叱られるから、今は我慢してくれ」

海尊は巧みな手綱捌きで、森の中、馬を疾走させる。ぬかるんで足場の悪い熊野古道を駆け抜ける、相当な技量。しかし馬が跳ねない訳では無い。振り落とされないためには、前の少女を後ろから抱きすくめるしか方法が無かった。

 ひゅん矢が頬を掠める。既に背中には何本も矢が刺さっていた。編み込みの鎧で止まっている矢もあるが、貫通した鏃のいくらかは背中に食込んでいる。

 致命傷ではない、けど痛いものは痛い。が、今はそれどころでは無かった。

「待てっ」

数騎の武士が、矢を放ちながら追撃してくる。

「しつこいわねっ」

海尊が舌打ちした。独りであれば振り返っての騎射も考えられたが、常春がしがみ付いているのでそれもままならない。支援する味方もいない一騎駆け。追っ手を振り切る事に専念する。

「いい、しっかり掴まるのよっ」

海尊は手綱を引き絞った。林道から森に飛び込む。泥を跳ねあげて斜面を駆け下りる。まっすぐな杉の木をスラロームのポールの如く、大回転よろしく躱していく。追っ手の矢は尽きたのか森に阻まれたのか、もはや飛んでこない。それより大自然の方が脅威だった。

「このまま行く」

海尊は速度を緩めず、一気呵成に馬を走らせる。常春は目を閉じ、馬から振り落とされない事だけを考えて歯を食いしばっていた。早く終われと思いながら。


 一の谷から約半年後の夏。梶原景時かじわらかげとき土肥実平どひさねひららが何度となく中国、四国方面へと、平家を求めて出兵しているが、水軍の平家と騎馬の源氏では交戦出来ないまま、戦争は膠着状態に陥っている。

 義経、つまり浪戸は、朝廷から任官された官職、検非違使大夫尉として京都の治安を守っていた。平家の残党の動きを考えれば、うかつに京都を離れる事が出来ない。焦れながらも攻勢に出る事は許されなかった。

 しかし、守りに回っていただけでは無い。浪戸は海尊を熊野に遣いに出した。紀伊半島の南には、海賊を組織した熊野水軍がいる。今後の平家との戦いには水軍が必要と、出兵を求める遣いだった。

「熊野を統括する湛増たんぞうはねぇ、お父さんなのよぉ」

紹介状を書きながら、弁慶はさらりと言った。

「なら弁慶が行った方がいいんじゃないか」

常春が尋ねると、少し困った顔になる。

「そうも行かなくて」

弁慶は生まれた時、その父親に殺されるところだったのだと言う。

「歯が生えて生まれる子は鬼子と言って、縁起が悪いんですよぉ」

俺のまわりでは、そういう風習は聞かないな、と常春が応じると、早くそんな時代が来るといいですねぇ、と弁慶は淋しげに笑った。

「常春さんも、一緒に行ってください」

浪戸は常春にも同行を求める。

「何よっ、海尊ちゃんに任せればいいのよっ」

「任せるけどさ。ほら、俺、いろいろ世の中に疎いから。乗馬ももう少し教えて欲しいし」

「そ、そういう事なら仕方が無いわね。足手まといにはならないでよねっ」

 扱い方に慣れてきた常春のフォローに、海尊はあっけなく陥落した。義経からの同盟要請の書状と弁慶の紹介状を持って、二人は京都から和歌山に向かう。襲われたのはその道すがらだった。


 間口の広い洞穴を見つけると、海尊は常春を馬から降ろす。馬から降りれば、馬も入る事が出来る高さがあった。暗いところを嫌がる馬を、外から見えない程度に浅く押し込んで、雨と追っ手の目を避ける。

「アンタ、血がでてるじゃないのっ」

ぐったりした常春の鎧を、海尊は乱暴に脱がせた。背中に刺さっていた矢が抜けて、常春は上がりそうになる悲鳴を堪える。

「声をあげなかったのは感心ね」

「ここが見つかったら、海尊に置いて行かれるからな」

鎧の下に着る着物も引き剥がされながら、常春は息も絶え絶えに笑った。

「そんな訳ないでしょ」

骨や内臓までは刺さっていないようね。深いものもあるけど、縫う程でもないわっ、そんな事を言いながら、海尊は常春の傷をあらためた。乱暴ではあるが、適切な診断をする。

「道を急ぐから、とっておきの薬を塗ってあげる。感謝するようにねっ」

常春の背中にベトベトする薬を塗りながら、海尊は自慢げに言った。

「なんて薬だい」

「ガマの油っていうのよ」

「一枚が二枚、二枚が四枚ってやつだろ。本当に効くのか」

常春の言葉に、海尊の手が止まる。

「アンタっ」

「あ、いや茶化して悪かった」

そうじゃない、と海尊が声を上げる。

「どうしてそれを知ってるの」

どうしてって、と剣幕に押されながら常春は尋ねる。

「ガマの油の薬売りってのは、刃物の切れ味を見せるために半紙を切るだろ」

「この時代ではそんな売り方はしていないし、大体、ガマの油もないのよっ」

ああ、そうなんだ、と常春。

「アンタも、未来から、来たの」

常春が振り返ると、海尊は顔を押さえて泣いていた。

「そっか、私だけじゃ、なかったんだ」

そこから先は言葉にもならず、海尊はただただ泣きじゃくった。そうか、海尊も未来から来たんだ。それは心細かっただろう、辛かったね。常春は静かに海尊の頭を抱きかかえてやる。

 少しして泣き止んだ海尊は、シチュエーションに気づいて常春を突き飛ばした。

「痛い」

「恥ずかしいじゃないのっ」

で、アンタは何時の時代から来たのっ、と海尊が何時もの調子を取り返そうと尋ねる。

「源平合戦の時代からざっと九百から千年未来だ」

「とんでもない未来ねっ」

信じられないけど、まあいいわと海尊は肩をすくめた。海尊自身は、元亀げんき年間から来たと言う。元号を言われても見当がつかない常春が、もっとも有名な人は誰と尋ねると、幕府将軍は足利義昭、有名なのは尾張の織田との返事が返ってきた。本能寺の変はまだ起きていないのか、常春はそう言いかけて、思いとどまる。不用意に未来の歴史を教えて、それをきっかけに歴史が変わるなんて事は避けなければ。

「海尊ちゃんの本当の名前は日白残夢にちはくざんむ。常陸の国の、福泉寺にいたのよ」

ああ、その名前で平家物語を書くと言っていたな、と常春は思い出した。

「アンタが祇園精舎なんて言い出したからびっくりしちゃった。あれ、知ってたのね」

「そう、たまたま覚えていただけ」

あははと笑った後、ズルイじゃないのよと海尊は常春を勢いよく小突く。

「ところで、どうやって連れて来られたんだ」

と常春。変な声とかしなかったか。知恵と知識で、歴史を変えろ、とか。

「そんな声聞こえなかったわ。アンタは聞いたのね」

「そうなんだ。気が付いたら箱根にいて、浪戸と会った」

あの日がそうだったんだ、と海尊が息を吐く。

「それにしても、結構違う時代から来たのね」

常春の記憶にある日本史の物差しとしては、関ヶ原の合戦が千六百年。信長の時代はそれ以前だから、常春の時代とは大雑把に見積もって四百年近い差がある。

「意図があるとすれば、どういう意図なんだろう」

浪戸や弁慶に何か教えたかと尋ねると、刀や薙刀の使い方は教えたが、未来から来た事は教えていないと答えた。

「未来から来たなんて人に話しても、信じて貰えないでしょうからね」

鎌倉や室町について話すとやっかいな事になりそうだし、と、海尊が常識的な事を言う。

「義経の最期も話すのが難しい」

常春が引き取った。

「平家物語では海尊の最期は書かれていない。けど義経も弁慶も。どうしたらいいと思う」

海尊は苦しそうな顔をした。

「平家物語を変えてしまっていいのかな」

海尊も、歴史を変える怖さを感じている。

「俺は、歴史を変えて、正しい歴史にしろという声を聞いた」

変えるのは構わないって事じゃないかと思う。義経が蝦夷地や大陸に渡ったという伝説もあって、必ずしも後世に残った記録をすべてなぞる必要もないんじゃないかな、と常春。

「そもそも、義経が女性だとは知らなかった」

その秘密は、ちゃんと守られたみたいなのよねと、海尊が答える。

「海尊ちゃんや弁慶まで男にされているのはどうかと思うけど」

「ああ、海尊の時代でも、二人は男扱いなんだ」

このかわいい海尊ちゃんをブザイクな男扱いなんて、と、海尊は不機嫌になった。弁慶のイメージの方が悪いだろうと常春は思う。

「とにかく」

常春が話を続けた。

「大筋が変わらなければ、または後世の記録を誤魔化す事が出来るのなら、義経も弁慶も助けたい。協力して欲しいんだ」

誰もかれもなんて無理な話だし、大筋を変えない事が大切よ、と海尊が答える。

「元寇も南北朝も織田も、どれもこれから起こる大きな危機なんだけど、ここで大筋が変わっちゃうとその時のを失敗するかもしれないわっ」

「その通りだな。慎重にしないとな」

常春も同意した。ところで、信長も危機のひとつなのかと、同時代人の感想を聞きたいと思って尋ねる。

「戦国大名たちが、それぞれ天下統一を目指して世の中は混乱しちゃってるでしょ。源平に分かれているこの時代より悪いかも知れない。織田は台風の眼になると海尊ちゃんは睨んでいるわねっ」

アンタ、その後も知ってるんだっけ、教えなさいよと海尊は常春を指さす。

「知っているけど、言わない方がいいんじゃないのか」

それに、正史とされている事も、実際来てみたら怪しいものだしな、と常春は答えた。

「案外、信長も女性だったりしてね」

「その後どうなるか教えてくれないなら、教えないわっ」

ツンとそっぽを向く海尊に、やれやれだなと常春は苦笑いをする。

「まずは熊野水軍の協力を得るところだな」

常春は濡れた服を絞りながら答えた。こっち見ないでよね、海尊も鎧を外しながら答える。

「でも、私の知っている限りでは、この役は弁慶の役なのよね」

行儀よく常春は背を向けた。

「物語にする時に、主要人物を絞って読みやすくするために入れ替えたんじゃないかな。弁慶が顔を出しにくい理由も自然だし」

海尊は鎧の次に気持ちよく着物も脱いで、全裸のままで絞る。

「大筋が変わらなきゃ構わないって事ねっ」

絞った服を、海尊は振るって広げた。濡れた服って気持ち悪いよねと不平をこぼす。

「そう、熊野水軍を味方に出来れば、大筋は変わらない。そのためには追っ手を撒いて、熊野に行かなきゃね」

常春は、スマートフォンのライトを点けると、洞窟の奥を照らしてみた。燃やせそうなものは見つからない。外の雨に濡れた枝には、火はつかないだろうと思う。

「平家物語にも、伊勢で三日平氏の乱があったとは書いてあるけど、かち合うとは思わなかったわっ。あっ、その光る印籠も、未来の道具なのねっ」

「そう、陰陽道のたぐいじゃないよ」

常春がつい振り返ると、海尊は罵声を浴びせつつ、胸を掻き抱いて背を向けた。小振りだけれどきれいな形の白い胸に目が行く。ああ、女の子なんだなと改めて常春は思った。

「ああごめん。燃やせるものがあれば服を乾かす事が出来ると思うんだけど、何か思いつかないかな」

「弁慶の紹介状、では足りないわね。でも大丈夫。海尊ちゃんは、何時でも準備がいいのよ、感謝しなさいっ」

海尊は常春を呼びつけて、馬の鞍から小さな袋を取り出させた。

「これ何」

「乾燥した馬糞」

常春が顔をしかめると、ちゃんと燃えるし煙は虫よけにもなるのよ、アンタの陰陽術もどきで火をつけなさいよ、と機関銃のように海尊がまくしたてた。

「自分で触るの嫌なんだろ」

入口近くで袋から塊を転がり落とすと、ライターで炙る。煙が目にしみた。追っ手に見つかる危険もあるが、夏ではあっても冷えたままの服も避けたい。服を吊って乾かし、常春と海尊は火の近くで背中合わせに座ってもたれ合う。

「馬、賢いんだな」

火を嫌がるかと思ったが、傍に来て身体を乾かしていた。

「武士の馬は、火も弓も恐れないわ」

海尊が答える。会話が途絶えた。背中から海尊の素肌の温かさが伝わって、常春は少し居心地が悪く感じる。

「千年先って、どんな時代。想像もつかない」

海尊が口を開いた。

「日本では戦争は無いな。何かと忙しいけれど」

「戦がないって、いいわね」

「将来に希望は持てないけどな。閉塞感があって。この時代の人の方が、生きてるって感じがする。贅沢な感想かも知れないけど」

戦乱の時代に比べ、命の保証があるだけでも満足すべきかとも常春は思い直す。

「帰りたいと思う?」

「海尊は、この時代に来てどれくらいになるんだ」

「一年と少し、ぐらい」

「苦労しただろ」

「ぜ、ぜんぜん、海尊ちゃんはアンタと違って、何時でも何処でも大丈夫なんだから」

苦労したのだろうなと常春は思った。

「帰りたい気もするけど、乗りかかった船ってやつだからな」

「そもそも、帰れるかどうか、わかんないけどね」

海尊は沈んだ声で言う。

「俺は残夢という人の記録を知らないから何とも言えないけど、きっと元の時代に帰って、平家物語を書くんじゃないかな」

「アンタね。平家物語なんて、昔からあるのよ」

「いや、本当の合戦を見たのは、この時代から戻った海尊だけだ。平家物語の底本になるんじゃないのかな」

だからきっと、元の世界に帰ってるよ、と常春は続けた。

「平家物語の作者、か」

そうだったら、面白いわね、海尊は微笑んで、小声で呟いた。

「アンタ、優しいのね」


 少しうとうととしてしまったらしい。雨は上がって、外は暗くなっていた。身体が痛かったが、動くと海尊を起こしてしまうかも知れない、と常春は、身体を動かさずに腕時計を見た。夜の八時を少し回っている。起こさないように、何も身に着けていない海尊を、ゆっくりと横にする。

 普段は薙刀を振るう毒舌の海尊でも、眠っていれば、かわいい女の子だった。色白できめの細かい裸の肌が、消えかけた炎の弱々しい明かりに照らされて幻想的。申し訳ないとは思いながらも、見とれてしまう。

「どうしてみんな、あんなに戦ってるのに綺麗なのかな」

浪戸も弁慶も海尊も、生傷は絶えないが肌は綺麗だ。身体を鍛えているからか、若いのか。胸を触ってみたくなって、それは犯罪だろうと自制する。

 不意に。人の気配がした。追っ手か。

「海尊」

「黙って」

海尊は目を開くと、素早く足で火を消し薙刀を手にする。先刻まで起きなかったのに、危険には強いな、常春は感心しながら、スマートフォンを手にする。以前上手く行ったように、ライトで目つぶしをするつもりだった。

 声が近づいて来る。五、六人の声がした。蹄の音もする。常春は戦力外なので、海尊一人で五倍以上の敵を相手にする必要があった。狭い洞窟を利用して、弓を射掛けられなければ、一度に一人とだけ戦えばなんとかなると、海尊は腹を括る。

「アンタは下がって」

小声の指示に、常春は無言で奥に退く。

 常春、海尊。二人を呼ばわる声が、洞窟の外から届いた。名前までばれてるのか。二人は覚悟を決める。松明の炎が、洞窟の入り口に人影を伸ばし。

「あらぁ。見つけたわぁ」

洞窟を覗き込んだ最初の顔は、弁慶だった。

「もう、アンタ。もうちょっとで斬りかかるところだったじゃないっ」

引っ掴んだ服と腕で身体を隠しながら、見つけたじゃないわよっ、と海尊。顔が赤いのは、怒っているのか恥ずかしいのか常春には判断がつかなかった。

「あらあらぁ。心配して、探しに来たのよぉ」

弁慶によると、二人が出発した後、紀伊半島で平家の謀反が起き、現地が混乱しているとの報を受け、浪戸はすぐに三十騎を派遣、捜索させたのだと言う。

「ああ、その平家の残党に追われて隠れてたんだ。助かったよ」

謀反はどうなったと常春が答えた。

「伊賀では平家継が源氏の拠点を攻めて、かなりの被害を出したらしいわぁ。伊勢の方でも、平信兼たいらのぶかねの千騎以上がぁ、要塞に立てこもっているらしいのぉ」

「これって、平家物語にあったっけ」

常春の知識では、次のイベントは屋島、壇ノ浦だった。紀伊半島の反乱は知らない。

「三日平氏の段よっ。思ったより規模が大きそうだけど」

小声で常春と海尊が言葉を交わす。

「あらあらぁ。二人ともすっかり仲良くなったのねぇ」

「なっ、違うでしょっ」

服を着るから向こうへ行っててよっ、涙目の海尊は、ばたばたと洞窟の奥へと走った。

「常春さん。以前、男女の事には、もっときちんとしているって、言ってませんでしたかぁ」

誤解だって、常春は服を着ながら言い訳する。

「常春さんは、どちらかというと、小振りの方がお好きなんですねぇ」

弁慶は溜息をつく。

「おっきいのもちっちゃいのも、平等に好き、ぐあ」

何だかんだ言っても、常春さんも男の人なんですねぇ、弁慶に非難がましく傷だらけの背中を叩かれ、常春は悶絶した。


 一行が熊野の地を統括する熊野別当の館に到着したのは、深夜を回っていた。野営は危険と判断した弁慶は、捜索隊の三十騎を集合させると、夜通し移動させる。

 武装した三十騎の源氏兵が登場したとあって、館はちょっとした騒ぎになった。戦闘では無く交渉に来た事を、さっぱりした服と鎧に着替えた海尊が伝える。

「この物々しさは何か」

湛増たんぞうが鋭く尋ねた。初老だが目つきは鋭い。戦う時代の目だ、と常春は感じた。

「平家継、平信兼の謀反で道中が危険だから、護衛をつけたのよ。アンタの娘もいるわよっ」

海尊が弁慶を引っ張り出す。

「鬼若か、久しいな」

湛増が難しい顔をして、幼名を言った。弁慶は黙って頭を下げる。

「義経殿に従っていると聞く。真に鬼子」

「そうかしら」

海尊が胸を張った。

「弁慶のお蔭で、アンタは源氏とのつながりを得る事が出来たのよ。勝ち馬に乗るにはいい筋道だと思わない?」

「勝ち馬とな」

湛増はにやりと笑った。

「平家は瀬戸内に広がり、船の上に御所を置く。坂東武者も手が出せまい」

水軍が無くてはな、と湛増。

「水軍が無くても源氏が勝つわ。最終的にはね」

海尊は一歩も引かない。

「但し時間がかかるし、時間は大切だから、買えるものなら買うわ」

今、義経に力を貸せば、瀬戸内もあなたのものになるでしょうね。でも平家につけば、と意味ありげに笑顔を見せる。

「源氏と平家。戦力差は五分と見る」

「勢いが違うわ。それが分からないなんて、弁慶のお父さんも、大した事ないわね」

「あの」

常春が口を挟んだ。湛増、海尊の両方に睨まれる。

「闘鶏はお好きですか」

「はぁ、アンタ莫迦じゃないの」

「うむ、このあたりは、盛んだな」

では、と常春は湛増に向き直った。

「神意を問うては如何でしょうか」


 一行は武装解除されて広間に押し込まれた。弁慶も同じ扱いを受ける。海尊は武器を手放すなんてっと抵抗したが、熊野水軍は俺たちの味方なんだから問題ないと、常春は平気な顔をする。それより、今揉めない方がいい。

「平家の謀反人が来たら、追い返してくれるんですよね」

閉じ込められる時に、常春はそれだけを念押しした。客人は守るとも、と湛増の言質を取る。

「親子なのに扱いが悪いな」

扉のしまる音を聞きながら、常春が弁慶に声を掛けた。

「元々ここは平家寄り。源氏に加わった弁慶は、迷惑な鬼子ですからぁ」

数年前の起きた以仁王の反乱を、いち早く平家に通報した過去もある。

「まあいいわっ。ある意味弁慶は人質なんだし」

「その価値があればいいのですけどねぇ」

「なるわよっ」

海尊は意外といい奴だな、常春はうっかり口にして、意外とは何よと海尊に罵られた。

「それよりも、明日は大丈夫かしらぁ」

常春は湛増に、源平どちらに付くか闘鶏で神意を問えばよいと言い放っている。弁慶には博打に見えた。

「大丈夫よっ」

海尊は自信を持って答えた。多分ね、と常春も言う。

「闘鶏でどっちに付くって決める話、この場面だよな」

「壇ノ浦合戦の事ね。そう、七戦七勝」

馬の背に揺られながら、二人は事前に打ち合わせている。歴史上この占いで熊野水軍は源氏方に付くのだから、試してみてもよいだろうと二人の考えは一致していた。

「まあ、明日次第だな」


 しかし翌日になっても、湛増は現れない。田辺の新熊野神社で神楽を奉納して神意を尋ねていると言う。

「当分かかるわねっ」

平家物語によると、七日間引きこもって祈願したとある。三十騎の足止めをされるのは戦力的に勿体ないと常春は思った。反乱軍の動きを探らせるとして、まずここから出して貰えるかという事と、拠点が手に入るかだなと常春が頭を捻る。

「むしろ出て行って欲しいんじゃあないの」

海尊が答えた。

「情報を欲しいのはここも一緒。情報を分ければここを拠点に使えないかな」

と常春。

「アンタね。源氏の武士が出入りするところを見られたくはないでしょっ」

「源氏の武士でなければいいよね」

常春は一同を振り返った。

「ウチら、猟師のふりをする?」

話の早いのがいると思えば、鵯越から加わった鷲尾義久。小麦色に焼けた、健康的な十七歳の娘。ふりではなく、最近まで本物の猟師だった。他にも、半数ぐらいが伊勢三郎の郎党で、元盗賊など生粋の武士では無い。偽装は問題なさそうだった。

「他のみなさんには、伝令をお願いしようかしらぁ」

弁慶が決める。見るからに武士といった偽装に難がありそうな面々は、京都にいる浪戸との伝令に使う事にした。馬の扱いに巧みな選抜騎兵、悪路も反乱軍も突破するには長けている。きまったら早速、と海尊が扉を叩いた。

「湛増がいないなら代わりの人を呼んできなさいよっ」

「源氏の集団を泊めているのは具合が悪いでしょっ」

「反乱鎮圧の拠点扱いされても知らないわよっ」

次々と繰り出される言葉。上から目線の押しの強さが発揮される。主人のいないうちに留守を丸め込み、数騎だけ残して、三十騎の大半を再武装させて外に放った。

「常春さんて、本当に面白い人ですねぇ」

弁慶がおかしそうに言う。強い訳でも、戦いに長けている訳でもないのに、いろいろと気が回ると感心する。

「それより海尊ちゃんを褒めなさいよねっ」

「ああ、弁が立つよ。口から先に生まれて来たに違いない」

「あんた、それ褒めてるつもり」

勿論だよ、常春は真面目に言った。更にもうひと働き、お願いしていいかな。


 七日経って疲れ切った湛増が戻ってくると、海尊が自分の息子と双六をしているのを見つけて目を丸くした。

「神託は、白旗に付け、って出たんでしょ。じゃあ味方なんだから、閉じ込めておくのはよくないわ」

確かにそうなのだが、勝手をされては困ると湛増は苦情を言った。

「他の者たちはどうした」

「帰したわよ。ここにいる方が迷惑でしょ」

そのくらいは気が利くのよと海尊が笑う。

「常春と弁慶は義理堅くというか、莫迦みたいに部屋にいるわよ」

あの二人は夫婦なのかと湛増が尋ねた。

「夫婦じゃないけど、二人とも義経の配下で、同志ね。この海尊ちゃんも含めて」

同志ね、湛増は呟いた。


「鬼若」

湛増は自分の部屋に弁慶を呼んだ。常春は部屋に残ると辞退したが、弁慶が構わないと強引に連れて行く。今、弁慶と湛増は向かい合って座っていた。

「いや、鬼若はもうおらん。弁慶、だったな」

弁慶は、肯定するように頭を下げる。

「昔の事を許してくれとは言わん。間違っていたとも、すまなんだとも言わん。言ってどうなるものでもない」

弁慶は顔を背ける。それは無いんじゃないかと、常春が口を挟んだ。

「ただ、立派になったな」

湛増は常春を無視して弁慶に言った。弁慶の肩が震える。

「海尊とやらが言っておった。皆、義経の配下で同志だと。よい同志を持ったみたいだが」

ワシにはワシの仕事がある。湛増はそう続けた。

「神託は、白旗、すなわち源氏に味方せよとの事だった。ワシも源氏の方が時流に乗っていると思う。但し、我々水軍の後押しがあっての事」

後押しするだろ、と常春。

「平家の瀬戸内支配に不満を持った海賊。それを集めて作った熊野水軍。源氏に協力しない訳がない」

そこまで掴んでおったか、湛増は顔を歪めた。しかし熊野はこれまで平家とよい関係にある、乗り換えるには海賊だけでは無い、熊野の一同を納得させる必要がある。湛増は常春を見据えた。

「闘鶏をやれと言う。思い通りの結果が出せるのか」

俺が何もしなくても、と常春は続ける。

「神楽の神託と同じく、闘鶏の神託でも源氏が勝つだろう。それが神意だから。けれど」

そういうお膳立てをやれというなら、やれない事もない、常春は湛増の視線を捉えて言う。

「ワシは熊野別当。神職だ。神託は貴い」

だが同時に、政も行わねばならん、民を信じさせ、同じ方向に向けねばならん。湛増は絞り出すように続けた。

「神託を確実にする事が出来るというのなら、確実にしてくれ」


 常春と弁慶が部屋に戻ると、海尊が所在無げにしていた。

「弁慶、双六でもやって、気分替えたらっ」

「ありがとう。大丈夫」

すっきりしたわぁと、弁慶は息を吐いた。何か言おうとする常春を手で制する。

「湛増には立場があるのよぉ。本当は決まりを守って、鬼若を殺さなくてはいけなかったのよぉ。だからあれでいいんだわぁ。ここにいるのは弁慶なんだからねぇ」

「何だか辛気臭い話ねっ。それより闘鶏はどうなったのっ」

気まずそうに海尊が言う。こういう雰囲気は苦手のようだった。

「何が何でも、白組を勝たせてくれって事だった」

「出来るの」

「やってみる」

常春はにやりと笑う。


 更に数日後、湛増は、新熊野神社に関係者を集めた。水軍の主だったメンバーや、熊野別当を輩出する主な家系、元の別当や次期当主が顔を並べる。

「平家に付くか、源氏につくか、所詮神力に及ぶべきにあらず。宣託に任すべし」

神職の装束の湛増が宣言をすると、白い鶏、茶色い鶏がそれぞれ七羽運ばれてくる。常春のイメージするニワトリでは無く、どちらも闘鶏用の、気の荒い軍鶏しゃも

「赤きは平家、白きは源氏」

いざ、と、それぞれから一羽づつ放たれる。

 クケーどちらも相手目掛けて、突進した。互いに突き合う。がすぐに、茶色の鶏が逃げ出した。

「よっしゃ一勝」

思わず常春が声を上げる。

 続けて二羽目、三羽目の対戦が行われ、常に白い鶏が勝った。四羽目も圧倒的に源氏が平家を追い散らかす。

「アンタ、何使ったのっ」

小声で海尊が尋ねた。

「興奮剤と睡眠薬」

常春が小声で短く答える。手持ちのカフェインの錠剤と鎮痛剤をそれぞれすり潰し、湛増に渡していた。鎮痛剤の効果は分からなかったが、カフェインは見た目にも効いているようで、鶏の目が血走って怖い。

「アンタそんなもの持ってるのっ。何に使うつもりやら、キモっ、ヘンタイっ」

犯罪者を見るような目で睨まれて、常春は少しヘコむ。

 そうこうしているうちに最後の取り組みになった。ひときわ大きな二羽が向かい合う。

「いざ」

二羽が互いに突進した。白い鶏が飛びあがって上から攻撃する。あっという間に茶色い鶏は血にまみれた。逃げる平家鶏を源氏鶏は容赦なく追撃。危なくて誰も近づけないうちに、平家鶏は動かなくなる。神託はくだった。

「この上は神慮に任せ奉らん」

厳かに湛増が声をあげる。続けて弁慶に向き直った。

「義経殿にお伝えくだされ。熊野水軍は、義経殿にお味方すると」

弁慶は黙って深く頭を下げる。部外者には立ち入れない、何とも複雑な親子関係だな。常春は何も言う事が出来なかった。


 義経は朝廷と頼朝の両方の厳命で、京都を離れる事が出来ない。反乱鎮圧は、鎌倉から遠征した部隊が対処する。

 熊野で闘鶏の行われた頃には、滋賀で両軍が激突、伊賀平家の家継は討ち取られたが、源氏の総大将の佐々木秀義も戦死。伊勢平家の平信兼は逃走して行方不明となった。

「三日どころか、もう1ヶ月になる」

京都には戻らず、熊野で情報を収集しては京都に伝える中継点を続ける常春は、海尊と顔を見合わせた。

「歴史が変わったって事?」

その可能性もあるけど、と常春が首を傾げた。元々平家物語は歴史書じゃない。創作も混じっていると何かで読んだ覚えがあった。

「平家が挙兵したけど大した事がなかったよ、という脚色なんじゃないかな」

「平家物語に頼り切るのも駄目って事ね」

鵯越でもヒヤヒヤしたなと、常春は思い出す。あんなに切り立った坂だとは思わなかった。あの時は平家物語は正しかったが、今後も常に正しいとは言い切れない。

「義経の立ち位置も変わるわねっ」

海尊が分析する。義経は後白河法皇から勝手に階位を貰い、鎌倉の不興を買ったので、どの戦にも参戦させて貰えなかったという後世の評価であったが。

「京都の近くで大規模反乱が起きるようなら、何時でも対処出来るように、義経を京都から動かす事は出来ない」

「法皇の信頼が厚い義経だから、余計にそうなるわっ」

海尊が同意した。

「反乱軍の総大将の一方が捉えられていない現在、義経の出番があるんじゃないだろうか」

「うーん」

今度は首を傾げる。

「それがいい事なのかどうか」

どうして、と常春が尋ねた。

「そりゃあ浪戸、じゃなくて義経って、よくやっていると思うんだけど、これ、本当にしたい事なのか、わかんないのよ」

声を潜めながら海尊が難しい顔をする。

「しなきゃいけないからやってるけど、疲れたんじゃないかって」

アンタ、お気に入りなんだから、気遣わないと駄目じゃない、と声を荒げる。

「俺かよ。でも最近避けられてるような気もするしな」

キスの一件以来、話をする機会が少ないと常春は感じていた。気まずいのかも知れない。

「アンタ、何かしたんじゃないでしょうねっ」

「いろいろ誤解だってば」

どうだか、と海尊はジト目をしてみせた。

「無理させたくないんだけど、結婚までしてしまったしな」

行きがかり上、女なのに男として、志乃と祝言をあげてしまっている。夫婦間で性別を隠し通すのも、浪戸の負担になるだろう。

「いろいろ、気が休まる事が無いのよね。変に真面目なところがあるから」

ま、他人が考えても仕方ないか、アンタは馬の練習をするのよっ。海尊は気分を切り替えて、常春を外へ連れ出した。


 寿永二年八月三日。反乱蜂起から約一か月後、ついに鎌倉の頼朝から義経に命令が下る。

「行方不明の平信兼を追討せよ」

これにより、浪戸は自ら部隊を率いて熊野に入った。弁慶、与一、三郎といった何時もの面々が従う。

 留守は義経の妻の志乃が、率いて来た郎党と共に預かった。常春と海尊は、同行していた騎兵と共に、引き継ぎを済ませると京都へ戻る。戦いが長引けば再招集される予定だが、「三日平家」扱いなのだからすぐに片付くだろうと常春は思った。

 六条堀川館の、自分にあてがわれている部屋に戻ると、シヅカが待っていた。

「兄ちゃん、お帰りーっ」

抱きついてくる。

「ただいま」

常春は一か月ぶりのシヅカを抱きしめた。短い期間であっても一緒に生活したり戦場に出たりしている内に、すっかり歳の離れた妹のように思えてくる。独り暮らしの長い常春にとって、シヅカは家族になっていた。

「名産のナレズシを買って来たぞ、出張のお土産だ」

「わーい」

サンマのナレズシを手渡すと、水とお皿を取って来るねと元気に部屋を出る。

 入れ替わりに、志乃が入ってきた。何か思いつめた顔をしている。

「えっと、どうしたのかな」

常春さん、ひとつお願いがあります。あいさつもそこそこに、志乃が少し震えながら言った。俺、刺されるのかなと常春は思うが、志乃の両手には何もない。武器らしきものは見当たらない。

「失礼します。本当に失礼します」

なかば悲鳴を上げるように声を掛けると、意外と機敏に、志乃は常春の後ろに回った。そのまま抱きつく。

「何これ、俺モテ期なの?」

志乃は常春より少し背が低い。背中と腰の間で、志乃の柔らかい胸が潰れるのを感じる。両手が前に回った。右手が胸をしっかりホールドして、左手が下に移動する。

「えっと」

志乃の左手が、常春の大切なものを掴んだ。握る。まさぐる。首筋に熱い息が掛かかる。

「ちょっと何やって」

ひゃうっ、志乃は充分に確かめると、悲鳴を上げて手を離した。逃げ出そうとしたところへ、ちょうとシヅカが戻ってくる。きゃあ衝突する前に、志乃はぺたんと腰を落とした。

「兄ちゃん、上司の奥さんに手を出すなんて、あり得ないよー」

「違うって」

モテ期というより、女難の期間だなと常春は顔をしかめる。

「ご、ごめんなさい」

志乃の声は裏返っていた。まあ水でも飲んで、と、シヅカに渡されたコップをゴクゴクと傾ける。

「落ち着いたかい」

常春が尋ねた。は、はいっ、あわわっ。乱れた裾を直し、白い脚を隠す。まだ落ち着いていないようだった。

「まあよかったら、つまらないものですがどうぞ」

シヅカが仕切って、志乃は退出するタイミングを逸す。差し出されたナレズシを受け取ると、並んで皮を剥いて。

「美味しいね」

「臭いが、独特ですね」

シヅカと志乃が和気あいあいと土産を食べた。

「さて」

先刻のは、何?。頃合いを見計らって、常春が尋ねる。

「お、お二人とも、義経様の愛人ですよね」

「うん、愛人一号、二号だよっ」

シヅカは元気に言い放った。俺が二号かよ、常春は妙なところが気になる。

「義経様の秘密は、絶対に守れますよね」

「それは当然だな」

「兄ちゃん、なんだか嘘っぽいよ。もっと重々しく」

常春が顔をしかめた。

「兄ちゃんも、しずぽんも、オンゾーシの愛人なんだから、そりゃあイロンナコトを知ってるけど、全部墓場まで持ってくよ」

イロンナコト、志乃が絶句する。いや、気にしなくていいから、常春は話を促した。

「はい、あの、こんな事を言うのはとても恥ずかしいのですけど、でも、あの」

もじもじする志乃を、常春は辛抱強く待った。

「思い切って言います。義経様には、アレがないのですっ」

志乃が叫ぶ。秘密なんだから、小さい声で言おうな、既に涙目の志乃に、常春が呆れて注意した。

「ご、ごめんなさい」

夫婦なのだから、抱き合うのは当然。箱入りの志乃は、実家を出る時に母親に諭されている。しかし一向にそんな気配は無く、意を決して後ろから抱き着いたのだと真っ赤になりながら話した。

「て、手がその時あそこに当たったのですけど、何にも無くって」

で、俺で場所を確かめたって事か。常春は嘆息した。

「初めて握ってしまいました」

志乃は顔を押さえて下を向いている。連れて来た弟で試せばいいものを、常春がこぼす。

「はうっ、そうでした、弟も男の人でした」

「で、兄ちゃんにはあるものが、オンゾーシには無いって事なんだよねぇ」

シヅカが話を戻す。

「そりゃあそうでしょ」

常春は慌ててシヅカの口を塞ぎながら、秘密は守れるんだよねと真顔で志乃に言う。

「愛人に出来る事が、本妻に出来ない訳はありません」

こだわるなぁ、と常春は思った。が、今はそれどころでは無い。

「義経が、平泉で酷い熱病にかかった話は知っているか」

志乃は頷く。

「実はその時、高い熱のために、アレが抜け落ちたのだそうだ」

そ、そんな事が。志乃は蒼くなる。

「これを知っているのはここの三人だけ、弁慶も知らない。義経だって、男として誰にも知られたくないし耳にもしたくない屈辱だ」

もはや男として立小便すら出来ない身。敵味方の誰に知られても、辱めを受けるのは間違いない。知ってしまった以上、この秘密は命にかけても守らなくてはいけない秘中の秘。と常春が真面目な顔で続ける。

「知らぬふりをしてやるのも、妻の務め」

カクカクと志乃は首を縦に振った。決して誰にも、本人にも言ってはいけないよ、常春は念押しし、そんなお辛い事が、と志乃は涙を流して頷いた。

「では愛人というのも」

「義経は必要以上に、男を誇示されているのだ」

わかりました、決して口外しません。そのぐらいなら死んでしまいます。志乃は涙を拭うと、入って来た時と同様に思いつめた顔をして、部屋を辞した。

 時の人の本妻が愛人宅を訪れた後、涙の後もそのままに怖い顔をして帰るスポーツ新聞があれば一面記事だろうなと常春は肩を落とす。しかし下世話な話題を提供している内は、義経の本当の秘密は守られるだろうとも思った。

「こんな話でどうかな」

口から手をどけながら、シヅカに尋ねる。

「兄ちゃん、よくそんな事思いつくね」

しずぽんも兄ちゃんに騙されてないか、よーく気をつけよおっと。シヅカは悪戯っぽく笑った。


十三 『大吉:ルビコンを渡りましょう』


 浪戸の軍事センスは優れている、と常春は感心する。三郎の諜報網を駆使して反乱の首謀者の一人、平信兼たいらのぶかねの所在を探し当てると、一気に倒して既に帰京していた。

「義経は合戦せえへん」

三郎がぼやいていた。投降勧告にも応じず立てこもる信兼勢約百人を、砦ごと焼いてしまっている。

「手柄もなんもあらへんわ」

浪戸に言わせれば、これは戦争では無く治安維持であって、味方の損耗を防ぐ上でも正しいやり方なのだが、誰の首を取ったかで手柄を上げる武士の考えにはそぐわない。

「個人の見せ場を作る余裕なんてありません」

少しは部下の手柄も考えてやれと常春が話すと、浪戸はへそを曲げた。宇治川で二万、一の谷で一万の兵を率いた浪戸だが殆どが鎌倉からの借り物、手勢の郎党は少ない。減らすリスクは避けたい。

「それに、誰も失いたくありません」

浪戸の本来の心根は細やかで、一度関わった武将たちには気を掛けている。正体がばれる事を恐れて必要以上の交流は避けているが、例えば出家した熊谷直実くまがいなおざねにも、幾ばくかの寄進を行っていた。

 細やか過ぎる、と海尊は懸念するが、そういう人となりだから、強引なやりかたでも兵がついてくるのだろうと常春は思う。

 その手勢の少ない浪戸に、嬉しい増援が到着した。

「久し振りだね」

「来てくれたんだ。ありがとう」

常春は、佐藤忠信さとうただのぶの手を握る。奥州から京都に戻る時に護衛を勤めてくれた、奥州藤原氏の武将。百騎を率いて参戦してくれる事になる。

「またどうして」

「いや、秀衡爺さんの命令でね。義経殿を助けろって」

それから、常春殿に渡せってと、荷馬車を示す。金や鎧、弓胎弓など、軍資金や武具が溢れていた。半可搬式の大きな弩の追加もある。

「ありがたい、が、これは義経に渡すもの、俺が貰う訳にはいかないよ」

「正当な代金だってさ。秀衡爺さんが言ってた」

「爺さん、元気か。そりゃよかった」

旧交を温める。話をしながら、常春は決心した。そのまま忠信を自分の部屋に呼ぶ。

「まだ義経には会っていないだろう」

「忙しい方だと聞いている。それに我々は鎌倉の源氏とは違う。あまり目立つのも、ね」

忠信は気を使って見せた。

「ちょっと待ってて」

常春は、シヅカに用を伝えると、人払いをする。

「義経なのだけど」

「浪の戸の事だな」

どう話そうかと常春が言い淀んでいる内に、忠信が小声で答えた。

「秀衡爺さんから聞いた時は、ほんと、腰を抜かしたよ」

軽い調子で忠信が続けるが、真剣な表情が重大さを伝える。

「浪の戸の事を秀衡爺さんから知らされたのはこの忠信だけ、他の兄弟や親族も知らない事なんだけど」

これから浪の戸は今まで以上に名を挙げ、今まで以上に困難に会うだろう、その時、血のつながったものが守ってやらなきゃいかん、秀衡爺さんからそう告げられたんだと、忠信は真顔に戻って言った。

「万が一にもこの事が公になれば、浪の戸本人だけじゃなく、奥州藤原氏も終わりだ。だから秘密は必ず守るし、秘密を守るための行動も取る」

浪の戸にも、この話を知っている事自体明かさないよ、と続ける。

「いや、それは話した方が、浪戸も喜ぶんじゃないのかな」

「浪の戸は、熱病に罹って極楽浄土に行った。呼び戻す事はしない」

覚悟を語った。奥州藤原氏が、万が一にも義経の「特別」になってはいけない、なれば義経の立場を危うくすると、秀衡から強く言い聞かされている。

「連れて来たよーん」

シヅカが何時もの調子で戻ってきた。襖を開く。浪戸が息を呑んだ。

「義経殿、奥州より参上した、佐藤忠信でございます」

平伏する。呆然と見ていた浪戸だったが、深呼吸するとそこに座った。

「遠路、よく来てくれました」

絞り出すような言葉。

「義経殿、久しいな」

忠信が優しく声を掛けた。

「本当に」

浪戸はもう言葉が続かない。

「わが主、藤原秀衡より、命に代えて義経殿をお守りせよと命じられています。必ずその任を果たしますので、よろしくお願いします」

常春殿のご厚意で義経殿に拝謁させて頂いたが、お時間を取らせては申し訳ない、忠信はここで失礼させて頂こう。話を切り上げた。シヅカが案内する。

「あっ」

浪戸が声を上げる。足が止まった。

「いや、よろしく頼みます」

「お任せあれ、我が姫君」

忠信は笑顔を見せると、シヅカに続いて部屋を出る。

「常春さん、ひどい」

襖が閉まると、浪戸が、か細い声でなじった。

「なんか、済まんかった」

だけどこのままでいいのかと常春が続ける。

「正体に関わる事、このままにするしかない。けど。もう会えないと思っていたから」

ありがとう、浪戸が涙をながしたまま笑顔を見せた。

「よかれと思ったんだけど、却って辛かったな」

浪戸の細い方が揺れる。浪戸は義経の名前を、忠信は奥州藤原氏という家をそれぞれに背負っているから、妹とも兄とも、互いに分かっていながら名乗り出る事は出来ない。立場って辛いなあ、常春はかわいそうに思う。

「でも大丈夫だよ」

忠信も、俺だって傍にいるから。常春は細い肩を見ている内に愛おしくなって、思わず肩を抱いた。浪戸は一瞬びくっとしたが、身体の力を抜く。

「大丈夫だからね」

「兄ちゃん、何やってんのー」

ガラッと襖が開くと、シヅカがにやにやしながら戻ってきた。

「んふー、愛人らしいですなー」

「や、そんなんじゃなくて」

「ないの、ですか」

「いや、浪戸が困るだろ」

困りませんよ、と浪戸は笑う。

「本妻にまで、常春もシヅカも愛人ですと宣言しちゃいましたからね」

少し元気が戻ったな、常春は、よかったと思った。兄の参戦が、少しでも浪戸の気苦労の解消になればよいと思う。


 文治元年の年が明ける。浪戸が平信兼を倒して半年経った。一の谷から数えると一年近くが過ぎていた。

 この間、平家継、平信兼ら、三日平氏の乱に参加した武将の京都の所有地は、義経の配下に置くよう頼朝から書状が出されている。

「平家物語では、頼朝にはいいようには思われていなかったって話だよな」

海尊の部屋に呼ばれた常春が、餅をほおばりながら尋ねた。

「必ずしも、そればっかりじゃあないのよねっ」

実際に来てみると、いろいろわかるわと、常春にすっかり気を許した海尊が言う。

「頼朝が怒ったために、義経に平家討伐令が出なかったと言うけれど、実際引き止めてるのは公家なのよね」

一の谷の合戦で、すべての平家が逃げ去った訳では無い。三日平氏の乱のような大規模反乱も起きるし、近畿に隠れ潜んでいる残党もいる。源氏や現政権に恨みを持ったまま野盗になった者も多い。戦いのプロで常勝、後白河法皇をはじめ公家に絶大な人気の義経を、京都の守護から外す事は出来ない情勢だった。

「でも、代わりがぱっとしない」

平家討伐の命を受け、鎌倉から出発した源範頼の軍勢は、食料も尽き、船も手配出来ず、山口で足踏みをしている状態だった。

「範頼、戦向きじゃないし」

海尊が寝転がる。二人ともこの時代の歴史書を読んでいる、そんな共犯者感覚が、素の海尊を常春に見せていた。足が見えてるよ、と常春は思うが、指摘すると罵られるので言わない。

「俺は、範頼が先に出陣してた事も知らなかったよ」

細くてきれいな脚だなと眺めながら常春が言った。何処見てるのよ、きもっ。気づいた海尊が罵倒する。

「三万騎を連れて行ったと十巻あたりにも書いてるわよっ。勉強が足りないんだから」

よくご存じで、と常春が応じた。兵力も現実通り。

「で、結局義経を出陣させるしかなくなるんだろ」

「そういう事、三種神器みくさのかむだからも平家から取り返さなきゃねっ」

「兄ちゃん、どこー」

話し込んでいると、廊下からシヅカの声が聞こえた。ここだよ、と襖を開けて顔を出す。

「おやー、海尊と一緒。兄ちゃんも隅におけませんなあ」

「な、勘違いしないでよねっ」

海尊も顔を出す。

「二人の仲は熊野の森の中で。んふー、オンゾーシに言いつけちゃおっと」

何でそうなるのよっ、海尊が顔を赤らめて怒る。手近にいた常春が引っ叩かれた。

「ところで、何の用なんだい」

もう慣れた常春は海尊に叩かれながら尋ねる。

「そうそう、オンゾーシがね、大事な話があるって」

シヅカの発言に、二人はニヤリとした。

「来たな」

「屋島ねっ」

んふー、通じ合っちゃって、とシヅカがニヤニヤするが、もうそれどころでは無かった。次の合戦が始まる。


 浪戸に呼ばれた常春は、部屋に入った。既に志乃とシヅカがいる。変わった組み合わせだなと思った。

「今日、御所に行って来ました」

常春が入るなり、浪戸は上気した顔で言う。

「平家は神にも法皇にも見捨てられ、波の上に漂う落人おちうどなのに、攻め落とされずにいる間に、占領地も確保して悔しい限り。義経は、雲の上海の底までも追い詰め、平家を滅ぼさない限りは京都には戻らない、と伝えたところ、ついに平家追討の院宣いんぜんを賜わりました」

おめでとうございます、と志乃が頭を下げる。いや、志乃が考えてくれた奏聞そうもん文のお蔭です、と浪戸は笑顔を見せた。

「鎌倉殿には」

常春が尋ねた。勝手に兵を動かしたとあれば、頼朝との関係が悪化する。

「院宣は鎌倉殿に届けられるそうです。兄も院宣が出れば、留め置く事は出来ないでしょう」

今晩、主だった郎党を集めて通達するが、三人には先に伝えたかったので。と浪戸が言う。

「問題の多い義経を、よく支えてくれました」

いきなり志乃の細い腰に手を回すと、唇を押し付ける。

「んんーっ」

志乃は目を見開いて、やがて目を閉じた。浪戸は胸にまで手を運ぶ。志乃の身体がピクンと跳ねる。まさぐった後で手を離すと、志乃は崩れるように座り込んだ。

「んふー、人前でだいた、むー」

何か言いかけたシヅカの口も、浪戸は自分の唇で塞ぐ。

「ぷはっ」

解放されたシヅカは放心状態で、何時もの軽口も出ない。

「常春さん、行きますよ」

何故か浪戸は宣言すると、常春にしがみ付いて唇を合わせた。歯がぶつかる。背骨を折る勢いで、常春に回した細い腕を締め付ける。ロマンティックさは無く、格闘技のようだった。

「さ、三人を平等に扱う事にしました」

唇と手を離すと、浪戸が宣言する。

「三人とも無欲に接してくれます。大切な人です。本妻、愛人として、これからもよろしくお願いします」

それだけ言うと、顔を真っ赤にして部屋の外へ走り出す。

「おい、そんな顔見られるなよ」

常春が声を掛けたが、聞こえなかったらしい。

「オンゾーシ、インゼーがよっぽど、嬉しかったんだね」

「お優しい方なのです」

志乃は、うつろな目をしたまま、はだけた服を直す。胸の谷間がセクシー。

「大丈夫、なのかな」

シヅカに志乃を任せると、常春は浪戸を追う事にした。

 廊下に出て浪戸を探す。六条堀川館には小さな庭がいくつかある。どの庭も灯篭が用意されたり、木や鹿威ししおどしが並べられ、気持ちよく手入れされている。浪戸のお気に入りの庭にあたりをつけて向かってみると、浪戸は、楓に手を当てて立っていた。

「義経」

常春が声を掛けると、驚いたように振り返る。

「冷えるぞ」

「ほてりを、冷ましていました」

浪戸が答えた。

「志乃は本当によくしてくれます」

騙し続けるのが辛くて、せめて喜ばそうと、と、常春の耳元で囁く。

「でも、二人の噂を本当にしておく必要もあるでしょう、だから」

「分かってるよ」

常春が答える。

「本当に、分かってるんですか」

浪戸が疑わしげに尋ねた。

「偽装を念入りにって事だろ、分かってるって」

耳元に口を寄せた常春を、浪戸は両腕で押しやった。

「やっぱり分かってません」

戻ります、常春さんも、自分の部屋に戻ってください、浪戸はそう言い残して、大股に部屋へと向かう。

「え、分かってないの、俺」

何それと、常春は首を傾げた。


 二月十四日。京都に戻った範頼は軍を再編し、七百隻の船をかき集めて、再度西へと進軍する。

 浪戸は二百隻の船を熊野水軍から調達し、大阪湾の神崎川河口に集結した。

 午前六時。

「バレンタインか。関係ないな」

常春は寒さに震えながら、独り呟いた。バレンタインデーの習慣どころか、チョコレートすら日本には存在しない。手に入らないとなると、急にチェコレートが食べたくなった。ホットココアがあれば、寒さにも対応出来るのにと、無いものが無性に欲しくなる。

「莫迦ツネ、中に入ったらどうよ」

海尊が震えながら声を掛けた。

「そうだな」

平家物語の通り、嵐が来ている。波は高く、折れた大木が流され、船は互いにぶつかり修理が必要になっていた。まず船を修理しなければ、出航は無理。

 その冷たい風雨の中、常春の視線の先で、浪戸が仁王立ちしている。

「義経、修理は熊野の専門家に任せて、俺たちは俺たちに出来る事をしよう」

大声で呼びかけた。

「今出来る事なんて、あるのですか」

「ある」

義経が戻ってくる。立派な朱塗の鎧も、ぐっしょりと濡れていた。宇治川を思い出すね、と常春。

「身体を乾かし、戦に備える事だ」

「風邪ひいてもつまんないでしょっ」

海尊が言い添える。

「そうですね」

浪戸の目からけんが取れた。戻りましょう、三人は仮の宿舎に戻る。


 大将の浪戸のために用意された宿舎の中で、義経は装備を解いた。身体を拭き、乾いた服を身に着ける。着替えは海尊が手伝った。流石に常春は手伝わない。自分の宿舎に戻って独りで着替える。鎧を身に着けるのは独りでは難しいが、外すのは可能だった。水を含んんで重い鎧を干す。

「鎧も、イメージと違うんだよな」

西洋のプレートアーマーと異なり、日本の鎧は小札こざねと呼ぶ小さな鉄板や皮を紐で組み合わせて作られていて、水を含むと更に重くなる。宇治川を渡河した面々は、どれだけ脚力があるのだろうと常春は感心した。自分には出来ない。

「我が姫君は戻られたかな」

忠信ただのぶから声を掛けられ、部屋に戻ったと答えた。

「この嵐じゃあとても動けない」

「普通なら難しいだろうね」

常春が答える。とはいえ、修理を進めておく事は必要じゃないかな。

「晴れればすぐに動けるように、だな」

忠信が応じた。あなたの姫君は、もっとせっかちだと思いますよ、常春は心の中でそう思う。


 夕方、主要な武将が集まり軍議が始まる。範頼の部隊について行ったかと思っていたのに、梶原景時かじわらかげときが軍監として、義経勢に参加していた。

「物語通りなんだけど、トッキーは面倒だわっ」

海尊がぼやく。そうかと常春は気づいた。海尊は平家物語を既に読んでいるから、景時に悪い印象を持っているのだろう。物語では、何かと義経に反発し讒言ざんげんまでする悪役に設定されている。

「実際のところ、扱いにくいんだよな」

権力はあるのに時代の変化についてこれず、上手に若手の力を引き出せない上司のイメージだな、と常春は分析した。分析出来たところで扱いにくさに変化はないが、対処方法を考える事は出来る。

「では、軍議を始める」

浪戸が上座につき、一同を見渡した。配置が、浪戸とその他大勢になっている。まず席をひな壇に引き上げてやらないと、景時は不満なんだろうなと常春は思った。

 軍議が始まると、やがて、景時が口を開いた。

「船に逆櫓を据え付けたい」

来た、と常春が身構える。

「逆櫓とは」

浪戸が尋ねる。

「前にも櫓をつける事で、前後に自由に動けるようにするものよねっ。船を馬みたいに自在に動かせるって訳」

海尊が口を挟んだ。景時が露骨に嫌そうな顔をしながら、その通りと頷く。

「一歩も退かないと申し合わせても、形成が悪くなれば敵に後ろを見せるもの。戦う前から逃げ支度をするなど、どうしようもない。景時の船には逆櫓も造れ」

義経の船にはそんなものは要らないと、浪戸は言い切った。

「駆けるべきところ、退くべきところを知らない大将を猪武者と言うのだ」

「猪で結構」

「えーっと」

常春が口を挟む。

「逆櫓もよい考えなんですよ。取り付けの時間があれば採用してもよいかと思うのですけど」

「この嵐、時間などいくらでも」

いや、時間が惜しい。浪戸は景時を遮った。

「修理が出来れば直ちに出発する」

景時は仰天した。

「こんな嵐の最中に」

「だからこそ平家は油断しているだろう」

浪戸は冷たい笑みを見せる。奇襲こそ浪戸の本領だった。

「反対だ、許さん」

「まあまあ」

常春が再び口を挟む。

「大体お前は誰だ、男娼のくせに軍議の場に潜り込むとは」

「いや申し訳ない。申し訳ないけれど、嵐なんだけど追い風だし、ひょっとしたらひょっとするかも」

「黙れ」

景時は太刀を握ると、鞘ごと常春を打ち据えた。頭に受けたらよくて脳震盪、当たり所が悪ければ叩き割られる。常春は、反射的に背を丸めてショックを逃した、けれど。

 ぐえ背中に重い金属棒を叩きつけられて、潰れたカエルのように床に這いつくばる。

 ガチャ浪戸が柄に手を掛ける音が部屋に響く。

「ごめんなさいねっ」

それより早く、海尊が声を上げた。

「ウチの礼儀知らずが本当にごめんなさい。ほら、天気もこんなだし、明日も軍議出来るし、今日はこのあたりで休憩というか、解散すればいいんじゃないかしらっ」

常春を引っ張り上げて、退出する。

「家畜の世話が、なってないぞ」

景時はそう言い捨てて引き上げた。武将たちも、三々五々部屋に戻る。

「義経さん」

弁慶が、拳を握りしめ、蒼い顔をして立っていた浪戸に声を掛けた。

「弁慶」

浪戸が頭を上げる。

「今夜、船頭と決死隊を集めよ」

「仰せのままに」

微笑んだ弁慶をそこに残し、浪戸は常春の元へ向かった。

 常春が意識を取り戻したのは、浪戸に盛大に引っ叩かれての事だった。

「痛い」

「痛いじゃないでしょう」

浪戸が怒る。

「どうしてあんな。今まで軍議では何も言わなかったのに」

いや、失敗失敗、常春は起き上がると、背中をねじった。痛むけれど、骨に異常は感じない。

「ごめん。ついいらない事を」

「いらない事じゃないでしょっ」

海尊が口を挟む。

「アンタがトッキーと揉めそうだったから、莫迦ツネが、いかにも莫迦なやりかたで逸らしたんじゃない」

「で、でも」

「逆櫓でも何でも好きにさせてやりゃあいいのよ。そりゃトッキーは気に入らないけど。アンタは総大将なんだから、好きにすればいいの」

海尊の好戦的な口調に、浪戸は下を向いた。

「ごめんなさい」

常春に謝る。

「いや、失敗したのは俺だ。景時にしこりが残らなきゃいいんだが」

「莫迦ツネが何やったって残るわよっ」

海尊が言う。

「どうせ今夜、出航するんだから」

「どうしてそれを」

「アンタの性格からすれば、当然でしょっ」

そしてトッキーは、義経は言う事をまるで聞かないと鎌倉に手紙を書く。海尊が意地悪く言った。

「でも今やらなきゃ」

分かってるわよっと、海尊は手で制する。

「構わないんじゃない。アンタはやりたいようにやる。迷うのは義経らしくないわっ」

迷うときっと、もっと悪くなる、海尊はそう言うと部屋を出た。常春と浪戸が部屋に残される。シヅカも、もちろん志乃も京都に残してきている。

「ごめんなさい、あんな侮辱」

「男娼、いいね。公認だ」

常春はにやりと笑った。

「莫迦」

俯く。シヅカがいた方が間が持つな、と常春は思った。

「常春さん」

今夜出航します。正しいか正しくないか分からないけど、急いだ方がいいと思うから。浪戸は宣言した。

「今夜がその日なのかどうかは分からないけど、浪戸は海を渡って屋島を倒すよ。あ、言わない約束破っちゃったな」

「構いません、そのつもりですから」

不思議ですね。浪戸は遠い目をした。義経や弁慶や、みんなのした事が物語になって、千年先に伝わっている。常春さんはみんなの未来を知っている。

「未来って、決まっているものなのかしら」

「分からないな」

と常春。

「平家物語には異本も多いし、脚色もある。書かれていない事もあるだろう」

そもそも俺は、全部を覚えている訳でもない。暗記していればよかったんだけど、今更言ってもねと天を仰ぐ。

「本の通りではないかも知れません。でも、常春さんが未来から来たと言う事は、未来は既に決まっているという事でしょう」

それも分からないなと常春は言った。

「似たような世界がたくさんあって、そのひとつから俺が来たとすれば、俺の知っている歴史と違っても辻褄が合う。歴史は似通っているけれど違うものになるし、そう考えた方がいいんじゃないかな」

「似通ってても違う」

「俺たちは自由だ。決められた通りなんてごめんだな」

分かりました、と浪戸は頭を上げて、力強く宣言する。

「運命なんて信じません。やりたいようにやります」


 夜。弁慶は酒盛りをすると称して百五十騎を呼び出し、武具と馬を五隻の船に分乗させた。既に船頭は決死の表情で待機している。

「五隻か」

「これ以上はぁ、船頭さんが集まりませんでしたぁ」

「船を出さなきゃ射殺すわよって言えば、もう少し集まるんじゃないっ」

海尊が笑うが、賛同は得られなかった。

「熊野水軍の命知らずはこの程度ですか」

浪戸が湛増たんぞうに声を掛ける。

「命知らずはそっちさね。船頭に命預けるってんだから」

水軍の棟梁は顔をしかめて返事をした。

「各船はかがり火を焚くな、五隻しかいない事がばれる」

「義経の船を中心にして、そのかがり火を目印にせよ」

浪戸は指示を次々と下した。

「では行くぞ」

浪戸が湛増に命じる。

「お前ら、熊野水軍の腕を見せてやれ」

「応」

帆を張る。途端に船は、滑るように走り出した。三、四十人乗りの小舟は、戦闘機のように上下し、ジェットコースターのように回転する。

「俺は浪戸ほど強くは無いな」

時折波に乗って宙を舞う船の中で、常春はスマートフォンを取り出した。オミクジアプリを開く。『大吉:ルビコンを渡りましょう』OKだ浪戸。常春はウエストポーチに戻しながら思った。

「ルビコンじゃないけど水を渡れば大吉だってさ」

馬って船酔いしないのかな、既に気分の悪くなっていた常春は、そんな事を考えながらひたすら耐えた。


 午前六時過ぎ。夜が白々と明けて来ると、陸が見えた。

「四時間くらいか」

高松から徳島へかけての何処か、とりあえず目的通り、四国に辿りついた事になる。

「船を直接岸につけるな」

「船端を傾けて馬を海に落とせ」

「馬の足が届くようなら、馬に乗って一気に走れ」

浪戸が立ち上がり、よく通る声で指示を出している。あれだけの揺れでも、酔わなかったらしい。

「どうした」

既に帆は畳まれ、波で大きく上下する船を手すりにつかまりながら舳先に進むと、完全装備の浪戸が仁王立ちしていた。

「あれを見てください、敵です」

薄闇の中に、赤い旗が見えた。平家勢らしい。平家の武将もただものではないなと常春は感心する。言えば一の谷でも、到底こんなところから攻めないだろうと思った浪戸の進路上に、平家の伏兵が隠されていた。嵐の日でも上陸に備えて、海岸の監視を行っている。慎重な相手。

「義経さん、行けますよぉ」

弁慶が声を掛けた。波間に馬の背が見える。波も落ち着いてきた。

「騎乗」

義経は一声かけて、自分も海面の馬に跨る。

「前進」

常春ら一部を残して約百騎が海を走った。ノルマンディー上陸の小型版。馬も人も、時には首まで海水に浸かりながら前進する。

「逃げてるわっ、やる気のない。だいたい五十騎ってとこかしらねっ」

何時の間にか常春の横に来ていた海尊が、赤い旗の動きを監視する。

「海尊は行かないのか」

「寒いのに水に浸かる趣味はないわっ」

そう言いながら、筆を走らせた。背景も含めつつ、略図を描く。憎まれ口を叩きながら、記録係の任務を全うするらしい。

 海岸に上陸した源氏約百騎は、平家方と距離を取って布陣する。義経が何か指示を出したらしく、一騎だけ、平家方に向かう。

「あれは三郎ね」

海尊は絵に三郎の姿を書き加えた。そうこうしている内に船は海岸に着く。常春は降りると、水浸しの強襲チームのためにたき火を用意した。水に浸かっていない、残りの元気な騎兵も上陸、全軍での行動が可能になる。

 少しすると、どう話をつけたのか、三郎が一人の武士を連れて帰ってきた。口先三寸ねと、海尊が笑う。

「お前の名前は」

浪戸は馬上から尋ねた。

「当国の住人、坂西の近藤親家こんどうちかいえと申す者」

馬から降りた親家は義経を見上げながらも堂々と答える。

「ここは何というところだ」

「勝浦、と申す」

みんな聞いたか、と浪戸は声を上げた。戦に来た義経がまず勝浦に着くめでたさよ、とゲンを担ぐ。

「ところで、屋島にはどれだけの軍勢が居る」

「千騎ばかりでしょうか」

「少ないではないか」

そうですな、親家は頷いた。

「河野を攻めに三千騎が伊予の国に渡っております。それに軍勢を差し向けない浦々はありません。それぞれ五十騎、百騎と差し向けております」

我々もそのひとつですと続ける。

「お前はこれからどうする」

浪戸は酷薄な笑みを浮かべた。

「父は西光、鹿ケ谷謀議で、清盛に口を裂かれて処刑されております。平家に一矢報いるのであれば、道案内致しましょう」

動じずに親家が答える。

「ふむん。では、このあたりに平家に味方する者が居るか」

「桜庭の能遠よしとおが居ます」

案内しましょう、 親家は馬に跨った。号令一下、赤旗はその場に捨てられ蹄に掛けられる。五十騎がそのまま先導し、一行は能遠の砦に向かった。


 能遠の砦に着いてみると、三方を沼、正面を堀に囲まれている。

「押し渡るぞ」

浪戸は様子を見ると、さっさと馬を、ひとり堀の前へと進ませた。慌てて他の武士が続く。

「桜庭の能遠、源義経が来たぞ。降参せよ」

よく通る高い声で、宣戦布告をした。

 ひゅん返事の代わりに、矢が射掛けられる。

「そんなへなちょこ、当たるものか、進め」

まず親家勢が前に出た。堀を越え、兜を傾けて矢を躱しながら前進する。負けじと、遠征軍も続いた。与一他、腕に覚えのある者は、強弓を引いて援護射撃をする。叫び声をあげ、たちまちの内に、砦の中に乱入して白兵戦が始まった。

 すぐに戦闘は終了する。終わってみれば、能遠は逃げた後だった。浪戸は深追いするつもりは無い。後背の安全を確保し、親家の振る舞いを確認出来ればそれでよかった。

「親家、ここから屋島までどのくらいだ」

「二日路です」

よし、行くぞ。電撃戦だ。浪戸は馬に跨り号令を駆ける。

「電撃戦ですね」

与一が応じた。

「電撃戦やで、たまらんなあ」

三郎も馬に跨る。常春の教えたこの言葉が、浪戸軍のキャッチフレーズになっていた。稲妻のようにひたすら駆ける。何処にでもあらわれて、一撃する。この部隊のあり方にぴったりで、みな気に入って使っている。集団を集中運用するには必要なイメージの共有が出来ていた。いい傾向だと常春は思う。

「ふふ」

常春は、海尊の背で馬に揺られながら、笑みをこぼした。自分の持ち込んだ言葉が象徴的に使われて、ちょっと誇らしい。

「何笑ってるの、気持ち悪いわねっ」

それより馬の練習をしなさい、練習っ。海尊に叱られる。

「みんなが上手すぎるんだっての」

通常の範囲内なら独りで馬を操る事が出来るようになった常春だが、徹夜で精鋭チームに並んで駆ける腕では無い。浪戸が本気で行軍するなら、常春にはまだ無理だった。

「文句ばっかり、ん」

海尊が目を前にやりながら、首を傾げる。

「何処かで会ったような」

浪戸のウスヅミから付かず離れずする騎馬を気にした。

「ああ、あれは奥州の佐藤忠信だ」

常春が鎧の柄で判断する。

「忠信って。莫迦ツネ、それ分かってんのっ」

常春はいきなり罵倒された。

「何だよ」

「忠信は屋島の戦いで、義経の身代わりに戦死するのよっ」

海尊の小声に、常春は身震いした。忠信は義経の矢面に立って死ぬと言う。

「と言って、身代わりがいなかったら義経が討ち取られちゃうかも知れないし」

「身代わりになったりすれば、義経の気持ちは」

「しかも、アンタはそれを知ってるはずなのよっ」

あれは屈指の名場面なのよ、気づかないなんてありえないっ。記憶に無い常春は罵倒されてしょげる。

「誰に討たれる」

平教経たいらのりつね、弓の名手よ」

そいつを倒せばいいんだな、常春が確認する。

「そう、そうなんだけど」

海尊が言い淀む。

「これは平家物語の中でも有名な場面なのよ」

忠信が戦死し、義経は僧を探すと名馬を贈って供養させる。それを見た他の武士は、義経の為に命を失う事は、露塵ほども惜しくないと感動する名場面。

「これを、無かった事にして、いいのかどうか」

教経を倒せば忠信は死なず、僧も馬を貰えない。玉突きで歴史が変わる。歴史を変えてしまっていいのかどうか、それは常春も気にしていた事ではあった。

「構わない」

常春は言った。

「物語だから創作も混じるだろう。俺がいる事自体、既に歴史は変わってる」

浪戸を悲しませたくはない、常春は小声で決心した。

「アンタ」

海尊が息を呑む。

「そういう事なら、出来るだけの事をやるしかないわねっ」

歴史が変わって、いきなり二人とも消えちゃうかもしれないわよと、海尊は首を振って溜息を吐いた。


十四 『凶:高いところから落ちないよう、手元足元には気をつけてください』


 翌朝。夜通し馬を走らせた浪戸二百騎は、屋島の対岸に辿りつく。兵には野戦食の乾飯ほしいいが配られる中、浪戸は三郎率いる偵察隊を放ち、続いて案内役の親家ちかいえを呼んだ。

「どうやって渡る」

島に架かる橋は無い。遠くには平家の御所らしき建物があり、大量の船が繋がれていた。上陸に船が必要なら、どこかで徴発する必要がある。

「干潮時は、陸と島の間は、馬の腹も水には浸かりません」

親家が、馬でも海を渡れると教えた。

「渡れるか」

「大丈夫です」

太鼓判を押す。

「あっちは、首実験してる最中やったわ」

三郎が偵察の結果をまとめて報告した。先に平家が伊予の国に送った部隊が戦勝して、連れ帰った捕虜を殺したり、持ち帰った首の検分を行っているらしい。

「本隊は現地やな。見張りだけや」

今やったら千騎程度、戦の準備も出来てへんで、三郎が好条件と告げた。

「よし、気づかれる前に攻め込もう」

浪戸が立ち上がる。親家五十騎と連れてきた百騎を率い、残り五十騎には市中に火を放つように指示。統率のとれた部隊は、たちどころに行動に移り、高松の町並みは火に覆われた。

「突撃」

采配を振るう。一斉に源氏の白旗を掲げ、騎兵集団は走り出した。躊躇せずに海に飛び込み、馬を走らせる。広範囲の火災と激しい水しぶきが、騎兵隊を大軍に見せかけた。

「源氏の大軍だっ」

元々陸側から攻められるとは思っていない平家は、背後から襲われて浮足立つ。その隙をついて、捕虜も反撃に出た。

「逃げろっ」

平家は総崩れで、我も我もと渚の船へと向かった。海へと漕ぎ出す。その後ろを、源氏の白旗が追った。

「五、六騎、十騎程度でまとまれ、大勢いるように、広がって進め」

浪戸が細かく指示を出す。それぞれ白旗を何本も掲げ、規模を水増しした。そうやって追撃しながら、平家の宿舎に火を掛けて行く。

「帰る家を無くしてしまえ」

内裏で叫び声と同時に炎があがった。黒煙が激しく昇る。

「義経殿、下がって」

声がした方に常春が目をやると、浪戸が突出して海岸へと向かっていた。忠信が後を追う。

「与一」

常春は同僚に声を掛けると、盾以外は何も持たずに浪戸へと走る。

 ひゅん高さ一メートル、幅四、五十センチ程度の木製の盾。これに矢が当たって弾き返される。しっかり持っていないと、着弾のショックで落としそうになった。

「重いなあ」

五、六キロはあった。両手でしっかり持ち上げて、常春は急ぐ。浪戸も忠信も討たせない。

「海上遥かに隔たって誰が誰だか分からない。今日の源氏の大将軍はどなたか」

船の舳先で平家の誰か武将が叫んだ。

「口にするのも恐れ多いが、清和天皇十代の後胤、鎌倉殿の御弟、判官義経殿や、あほたれがっ」

三郎が叫び返す。

「ああ、鞍馬の御稚児さんで、金商人の小僧の事か」

嘲笑が返った。言い合いが始まって、矢の雨がやむ。チャンス。常春は足を速め、浪戸の元に辿りついた。

「罵り合ってもきりがなかろう」

源氏方から声があがり、同時に放った矢が、船上で嘲っていた武士の鎧の胸板を貫通した。そのまま海に落ちる。それを合図に、再び矢の応酬が再開された。

「義経、忠信、出過ぎるな」

常春が馬上の二人に声を張り上げる。別の船の舳先に、ひときわ目立つ武士が仁王立ちになるのが目に入った。身長二メートル程の巨体。兜は被らず、長い白髪を後ろに縛りあげている。素肌の上に鎧を身に着け、長く太い太刀を佩き、滋籐の強弓を引き絞る平家の武将。

教経のりつねか」

「おうよ、どけよ、雑兵」

教経が船上で吠える。野太い声で空気を震わせる。

「忠信、代われ」

常春は不意を衝いて忠信を馬から引きずりおろすと、馬上で両手で盾を構えた。浪戸と教経の線上に割り込む。

 ばちん教経の矢が盾を突き破り、穂先が常春の手を掠めた。盾を取り落とす。手綱を掴んでいなかった常春は、着弾の激しさに自分自身も頭から落馬した。

「常春っ」

浪戸が悲鳴を上げる。しかし常春の突進で時間は稼げた。与一が矢を放つ。こちらも五人張の強弓。鏃が教経のむき出しの肩に突き刺さる。

「ふん」

命に別状はないが、教経は戦を切り上げて船内に退いた。忠信の戦死につながる一方の要素が退場する。

「常春、どうした」

浪戸が馬から降りて、ぐったりとした常春を抱きかかえる。息をしていない。すぐに他の武士が盾を持って二人を囲み、そのまま後退する。

「どうしてあんな無茶を。常春、常春っ」

浪戸は常春の頬を張ったが、返事が無い。

「頭を打ってる。無茶しないで」

海尊が引き継いだ。脈はある。兜を脱がすと、傷も瘤も無い。兜自体が割れて、衝撃を吸収したらしい。

「首も、大丈夫ね」

海尊は手早く確認して、胸を押した。ぐえ、変な音が喉から漏れて、呼吸が戻る。

「気を失ってるだけっ。休ませたら大丈夫」

「後を頼む。手当てをしてくれる僧がいれば探して。代金にはウスヅミを」

そう言い残すと、浪戸は涙を拭って立ち上がり、指揮を執りに前線へと戻る。

「出過ぎないでねっ。莫迦ツネは動けないんだから」

海尊の声に浪戸は振り向かずに頷いた。


 浪戸は、隠しておいた騎兵を小出しに登場させ、援軍が続々と到着しているように見せかけた。義経が来たという事で、源氏側に着いた土地の豪族も増え、それらを合わせると三百騎を越えている。

 平家方は、逆上陸しようと試みるたびに源氏の増援を目にして取りやめるなど、中途半端な戦に終始した。

 やがて、西の空に陽が沈もうとする。夕日に照らされた海の上、何処からか、飾り立てた小舟が一隻、漕ぎ出してきた。

「なんやねん。何がしたいねんな」

三郎が悪態をつく。小舟では着飾った若い女性が、赤地に金色の日の丸が描かれた扇を広げ、船のせがいに挟んで手招きした。

「あらあ、どういう事かしらぁ」

弁慶も、三郎と同じレベルに首を傾げる。

「撃ち落としてみろって事でしょっ。くだらないわねっ」

浪戸の隣に並んだ海尊が答えた。常春は近所の寺で寝かしているわよっ、世話のかかる、と言い添える。

「ごめんなさい」

「アンタが謝る事じゃないわ」

海尊が不機嫌な顔で言った。

「でも、のこのこ出て行ったら駄目よ。アンタが狙いって事かも知れないから」

よし、と浪戸が頷く。与一にさせよう、そう言うと、与一を呼び出した。

「那須与一、あれを射よ」

「し損じれば源氏の恥」

「だから、与一にお願いするの」

他にはいないと浪戸が言い切った。これ以上は断れませんねと苦笑いして、与一は一礼すると自分の馬に戻る。馬に跨ると、足を波間に乗り入れさせた。波に揺られて、小さな的は上下する。

「頭よりは、大きいか」

更に馬の足を進めた。馬の腹まで水に浸かるが、距離はまだ遠い。約七十メートル。風に持っていかれないように、少しでも鏃の重い鏑矢を選ぶ。

 小舟の向こうには平家の船が並んだ。振り返れば源氏勢が轡を並べて息を呑む。

「南無八万大菩薩」

与一は目を閉じた。

「願わくば、あの扇の真ん中射させて給え。これを射損じるなら、弓切り海に沈み、龍の眷属となって武士の仇となろう。今一度、本国へ帰さんと思し召されば、この矢外させ給うな」

目を開くと、風も少し吹き弱る。

 ひょん弓を引き絞り、静かに放つ。鏑矢は海に響き渡る唸り声をあげて、標的に吸い込まれた。

 ぱん乾いた音が鳴る。矢は海に沈み、扇は宙に舞った。

 !両軍から歓声が上がる。陸では源氏勢が箙を叩いて歓声をあげ、海では平家方が船べりを叩いて感嘆した。感に絶えず、平家の武将一人が、扇を立ててあったところで踊り出す。歳の頃五十ぐらい、黒皮縅の鎧を着て、白柄の薙刀を杖にして、源氏を挑発しつつ、舞った。

「いてまえ」

「放っときなさいよ」

三郎と海尊が同時に言った。

「今日はここまでにしましょう」

浪戸は海尊に同意すると、背を向けて引き返す。立場の無い相手は、引き返す船の上で、哀れにも独りで舞い踊る事になった。


 屋島の建造物には、改めて火が放たれる。御所や宿舎から昇る炎が、一晩中夜を焦がした。

 義経隊は、島の対岸に野営地を確保すると泥のように眠る。徹夜続きであった。

「もう大丈夫、なのですか」

誰もが寝静まった夜。炎を見やりながら、浪戸は常春に尋ねる。浪戸だけが、平家の逆上陸を気にして不寝番をしていた。常春は見張りの相手を買って出ると、カフェインの錠剤を分け合う。

「大丈夫」

格好悪いな、と常春は苦笑いした。思えば弓道部にいた時も、矢を受けた事は無い。強弓がどれだけ強いのか、常春ははじめて思い知った。どうしてあんな無茶を、と浪戸はまなじりを決して常春を攻める。

「未来を知っているから、ですか」

いやいや、常春は手をひらひらさせて、痛みに顔をしかめた。

「今回は未来の記録関係なし。何だか、嫌な予感がしたんだ。それで、ね」

予感、ですか、と浪戸は常春の嘘に、納得のいかない顔をする。予言はしない。これから起こる事の話はしない。そう約束したから、常春は嘘を吐く事になる。

「ともかく義経も兄も命を救われました。ありがとうございます」

浪戸は素直に頭を下げた。

「俺、突き落としちゃったけど、忠信は怪我とかしてない」

常春はそちらが気になる。夢中の余り大怪我をさせていたら、何のために歴史に介入したのか分からない。

「常春さんよりは、戦に慣れてますよ」

兄も感謝していました、と浪戸は続けた。

「本当に、死んだかと思いました」

「ごめん」

浪戸の目に涙が浮かんでいる。常春はハンカチで拭いてやった。

「な、何を」

浪戸が狼狽する。

「心配かけて、ごめんな」

「わ、私は。それよりそんな事したら、益々っ」

「俺は愛人だろ、男妾」

常春は柔らかい笑みを浮かべた。目が合う。

「命を守ってくれたんですね」

浪戸は顔を赤らめた。

「褒美を。何が欲しい、ですか」

「いらないよ」

こういう時には、欲しいって言うんでしょ。浪戸は口を尖らせた。初めてのカフェインでハイになってるじゃないかと常春は疑う。

「いや、本当に。浪戸を守る事が出来ればそれで」

「じゃあそう言ってください」

浪戸が俯く。

「うん。いいのかな」

「褒美だから」

二人は唇を合わせた。


 平家は反撃の好機をみすみす逃した。夜が明けて平家は、船を連ねて海岸線を移動する。浪戸も、ついて来れるものだけついて来いと、八十騎ばかりを率いて馬で追った。たかだか八十騎、そう侮った平家は船を岸に寄せ、千人余りを上陸させる。十倍の兵力。

徒歩かちなど物の数ではない」

そう言い切って、浪戸は先頭を切って馬を走らせた。慌てて大半の武士が後を追う。

「おりゃあ」

叫び声をあげて、三郎が兜ごと相手の頭を叩き斬った。確かに平家は馬を積んでいない。一騎当千。高いところから振り下ろされる太刀や薙刀は歩兵を蹂躙する。馬の蹄に掛けられる武士も多い。

「来たぞ」

常春が声を上げた。素肌の上に鎧と白髪がトレードマーク、平教経が海岸線に姿を現す。与一は黙って馬上から弓を引くと、教経目掛けて遠矢を放った。距離は三百メートル。有効射程距離を越えている。

 ひょん教経の鎧に矢が突き立つ。突き抜けてはいない。矢を立てたまま、教経は与一に向き直った。

「おもしろいじゃねえか」

そう唇が動いた。

 ひょん肩の傷は既に癒えている。与一の馬の足元に矢が刺さった。常春は片手で盾を構えて与一をガードする。

「いらないよ。大丈夫」

与一は次の矢を放つと、馬を走らせる。不規則に蛇行しながら相手に近づいた。

 ひょん、ひょん射撃を行いながら、馬の足を止める事も無い。とても常春には真似出来なかった。却って足手まといになるだろうと、足を止めて見守るだけしか出来ない。

「おもしろい、おもしろいな、扇の」

教経は笑いながら弓を放つ。教経の矢は与一にすべて躱され、与一の矢は教経の鎧にすべて止められる。そうしながら二人は徐々に距離を縮めた。距離が近づけば、強弓の破壊力も増す。スナイパー対スナイパーの戦いが、接近戦になりつつあった。

 不意に、雄たけびが上がる。残して来た源氏の二百騎が追いついた。叫び声を上げながら戦場に突進する。

「引き揚げろ」

船から声があがり、平家の武士はわらわらと撤退する。

「おめぇ、命拾いしたな」

教経は与一に唇を歪めて笑いかけると、矢を避けつつ撤退した。引き分けで構わないと常春は思う。モンスター教経を釘付けに出来ればそれでいい。

「逃がさへんでぇ」

増援の先頭は三郎だった。一計を講じ、馬に藁俵を縛り付けている。引き摺った荷物が砂埃を巻き上げ、大軍に見せかけていた。逃がさんと呼ばわりつつ、三郎は冷静に、平家を追い払う事を考えている。徒歩とは言え、三倍以上の敵と正面切って戦うつもりは無かった。

「逃げられちゃったね」

与一が沖をみやりながら言う。

「これでいい。これで平家は陸地を失った」

常春が答えた。

「次の洋上決戦で、決まる」


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