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この歳になって源平合戦とか勘弁して欲しい  作者: 秋月羽音
六 インターバル 木曾義仲(その二)
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六 インターバル 木曾義仲(その二)

六 インターバル 木曾義仲(その二)


 石山寺を抜け、粟津。波戸の軍勢が京都へ向かった道を、義仲は逆走していた。琵琶湖の西を回って、最終目的地は木曾。

「よく来てくれた」

トモエと二人だけで敗走して来た義仲は、ここで乳兄弟の今井兼平と合流を果たす。この、義仲の腹心の部下は、瀬田川防衛線五百騎の指揮官であったが、宇治川の戦いで義経が勝利したと聞き、瀬田川に張り付く意味無しとして、部隊をまとめてここまで撤退して来たのだった。

「合流出来て、何よりです」

半分にしてしまって申し訳ない、すでに三百騎を切った手勢を振り返りながら、それでも兼平が人懐っこい笑みを浮かべる。整然と撤退する兼平は、まだ集合途上で戦闘準備の出来ていないまま、算を乱してバラバラに追撃する三万の範頼のりより軍を何度も退けている。しかし多勢に無勢、追いつかれるたびに戦力を減らしていた。

「さて、ここまでにするか」

義仲も笑った。特に反省する事はない。あの平家を敗走させた。京都に二ヶ月程住んで、楽しい思いもした。「征東大将軍」の地位も得た。

 ここで終わっても、まあこんなものだろう

ただ、鎌倉から動かずに、権力を奪った頼朝を恨みには思う。鎌倉の源氏には父を殺され、また自分も追い込まれている。

「もう一泡、吹かせてやりたいが」

構わないかなと、義仲は尋ねる。

「勿論です」

兼平は答え、残存兵も意気高く得物を振り上げた。トモエも、無表情に頷く。よし、あれをやるか、義仲はにやりと凄味のある笑みを浮かべた。


 源範頼、通称カバ冠者の本隊は、ようやく隊列を整えて兼平軍を追跡していた。右手に琵琶湖。左手に松林。斥候を出し、様子を伺いつつ前進する。

 景時かげときの軍勢の一部が、後ろに追いつきつつあった。京都に進軍したところ、すでに御所は波戸の部隊が入っている。

「練り歩いている場合か」

手柄を立てるため、一部部隊は京都を抜け出し、義仲を追って本隊に追いつきつつあった。

「義仲と兼平が合流したか」

隊列の中程。馬上で、範頼が斥候から報告を受ける。合流しても、三万騎対三百騎。義仲勢の兵力は百分の一。

「この期に及んで作戦を考える必要もありませんな」

追いつき、押し潰すだけだと、範頼勢の軍監、土肥実平さねひらが、眼帯の位置を直しながら追撃を提言する。以前の戦いで片目を失ったが、馬の乗りこなしも闘争心も、誰にも引けはとらなかった。

「逃げられるな、追いつけ」

義仲が反撃するとは思わない。逃がさない事だけを考えていた。

 すると。

「前から牛が」

伝令が伝える。範頼が目を凝らした。見れば、百頭程の牛の群れが、こちらに迫ってくる。角に刀を、尾に燃え盛る松明を縛り付けられていて、半狂乱になった牛の群れ。

「散開。牛を通してしまえ」

パニックに襲われかけた範頼軍だったが、実平の命令で部隊は松林に広く散開した。牛の一群が走り抜ける。

「策が尽きたか」

実平は哀れに思った。二ヶ月程前、義仲が平家の大軍七万騎を破った倶利伽羅峠の戦い。深夜に松明を括り付けた牛の大軍を平家の陣に突入させて、混乱の中で、峠から谷底に転落させ、破ったと聞いている。

 しかし今回は昼間義仲勢の襲撃では無く、牛の大軍である事は、日の光の中で明白に見て取れる。寝静まり油断している訳でもない。

 更にここは、広く薄く展開可能な平地。いくらでも避ける事が出来る。牛にはねられ、斬られる不幸な武士や雑兵はいたが、大局には影響しない。

「前方から、義仲軍」

「後方からも、義仲軍」

牛の暴走の後に、新たな情報。挟まれた、と焦るが、数の上では範頼が圧倒している。

「落ち着け、部隊を前後に分けて、それぞれ交戦」

後ろの部隊の指揮を執りに、実平は片目だけで器用に馬を走らせた。

「返り討ちにしてやる、押し潰せ」

範頼が前方の部隊に命令を放つ。

「討たれるのは、範頼だ」

牛が走り抜けた後、突然範頼の周囲に義仲の軍勢が現れた。その数、約十名。

「かかれっ」

松林の中、穴を掘って隠れていた武士たちが、鬨の声をあげて一斉に範頼に迫る。

「カバ殿を守れ」

「近寄らせるな」

一旦散開させられた騎馬の軍勢は、集結に手間取る。手綱を誤りコントロールの利かない馬上の武士が、槍に突かれて落馬する。穴にはまった馬が、武士もろとも転倒する。

「範頼、覚悟」

本陣が混乱の中、突進する騎兵二騎、義仲とトモエが血道を開きながら、範頼に迫った。

「あっ」

トモエの薙刀が一閃、範頼の馬の両脚が斬り落とされる。

 どう

馬もろとも範頼が倒れた。そこへ義仲が、馬上から太刀を振り下ろす。兜が割れる。更に追い打ちを狙った義仲だったが、矢の弾幕に阻まれた。本陣を守る範頼勢も、集結しつつある。

「ここまでだな」

撤収、義仲は思い切りよく決断する。部下に法螺貝を吹かせて、撤収指示を出した。義仲勢は現れた時と同様、旋風と共に撤収する。範頼勢も一部追撃するが、総大将が気を失っているので、命令系統が混乱、動きが鈍い。

 義仲は、まんまと逃げおおせた。


 範頼軍が蹂躙されるのを、軍監景時は目前で見ていた。義仲の奇襲作戦に、景時軍は考慮されていない。軍監実平の采配も巧みだった。範頼軍のしんがりを襲った兼平を中心とする二百騎は、範頼軍の半分と景時軍にサンドイッチにされる。

「撤収」

義仲が範頼を倒す間だけ範頼軍の半分を引きつけ、足止めをする事が目的だった兼平隊であったが、統制の取れている景時軍までを相手にする余力は無かった。一瞬ですり潰される。

「逃がすな」

兼平が声を荒げる中、義仲の撤収指示を待たずに、兼平は離脱した。逃げ惑う中で軍勢は分散し、負傷者が脱落し、最後は兼平独りになる。

「義仲様を独りにはしない」

兼平には、まだする事が残っている。


 景時、実平の追撃を振り切り、やがて兼平は義仲、トモエの一群に追いついた。その時には総勢十騎を切っている。

「流石に、鎧が重たいな」

義仲は溜息をついた。

「そう思うのは、弱気な証拠です。兼平がいます。千人力ですよ」

兼平が明るく答える。

「トモエもいる。兼平が千人力なら、トモエは二千人力。大丈夫」

息も切らさず、無表情なままトモエが続けた。義仲は二人に笑顔を見せる。

「いたぞ」

「義仲の首を取れ」

ここはお任せください、と、残りの騎兵が太刀を抜いた。鎧に矢が刺さり、傷だらけではあったが、挙兵からの精鋭は忠義心も篤い。

「頼んだぞ」

兼平が二人を促し、行きがけの駄賃に追っ手を一人切り捨てると、馬を走らせる。

 馬を走らせているうちに、大津、打出浜に着く。追っ手が減らない。戻って戦えと呼ぶ声が風に乗る。

「兼平、もうひと暴れして、一緒に終わりにしよう」

「駄目です」

兼平は、即座に否定した。

「どれだけ有名な武士であっても、死に方がみっともなければ名前に傷を残します」

馬も人も疲れているのだから、雑兵に討たれでもしたら武士の名折れ、自害しましょうと、続ける。丁度、行く手には松林が広がった。邪魔をされず自害するには、よさそうに思える。

「そうだな、お前は何時も正しい、子供の頃から」

義仲は笑う。

「トモエ。最期まで女連れというのもみっともない。ここでお別れだ」

「嫌です」

「聞き分けのない」

「トモエは何時でも、聞き分けのない女です」

冷静にトモエは答えた。困ったな、義仲は感情豊かに、本当に困った顔をする。

「時間も無い。義仲様を困らせないでやってくれ」

兼平が無造作に弓を放ちながら、口を添えた。

「そういう事なら、仕方がありません」

兄にさとされ、さようなら、と無表情に呟くと、トモエは追っ手目掛けて、馬を単騎、突進させる。兼平の援護射撃を受けつつ、弓矢の集中砲火を躱しつつ、騎馬集団の中央を突破した。

 ぶん

薙刀一閃、先頭の武士の首を刎ねると、トモエは薙刀をその場に突き刺し、まっすぐに戦線を離脱する。

「義仲殿」

トモエを見送った兼平は、義仲に声を掛ける。

「余り、持ちませんからね」

弓を手にした兼平は、次の矢をつがえながら告げる。分かった、義仲は馬を林へと進め、ふと足を停めて振り返った。

「木曾殿の御乳兄弟、兼平を討てるものなら討ち取るがいい」

騎乗のまま兼平は続けざまに八人を射殺すと、敵に囲まれながら、独りで戦っている。矢が尽きた。弓を捨て太刀を抜く。馬を左右に操ると、一人一人、追っ手を冷静に切り捨てていた。劣勢を感じさせない、精密な戦い方。

「射殺せ」

追っ手は遠巻きに矢を射るが、兼平の鎧は一本も貫通しない。

「兼平」

義仲が声を張り上げる。最期まで付き合ってくれて、ありがとう、そう言いかけた時、一本の矢が顔面に命中、義仲はあっけなく落馬した。

「戦う意味が無くなってしまいました」

義仲の最期を見届けた兼平は、取り囲む追っ手を見渡して呟く。鐙の上に立ち上がった。

「よく見ろ。これが日本一の武士の、自害の手本だ」

そう宣言すると、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降りる。


 トモエは、あても無く馬を進めた。夫の義仲、兄の兼平の最期を見る事は無かったが、もう死んでいるだろうと思う。木曾に戻っても、法皇を確保している訳でもなく、義仲という旗印も失って、今更再起も無い。

「私も死にましょう」

馬を下りて、義仲から預かった太刀を抜く。後白河法皇から賜った太刀。法皇には都合よく操られただけかも知れませんね、と、太刀を見ながら思った。

「そこにいるのは誰だ」

不意に声を掛けられる。トモエは答えない。答えないうちに馬に囲まれた。薙刀が無くても、全部切り捨てられる。そう思ったが、気力も残っていなかった。

「女武者、トモエ御前か」

気力も無いのに身体が動いた。手柄をあげようと斬りかかった武士を、恩寵の太刀で一刀両断する。弓をつがえようとした別の武士も、馬上のまま切り捨てられる。

「お前たち、下がれ」

後ろから、野太い声がした。振り返ると、漆黒の鎧を身に着けた武士が近づく。片目にはアイパッチをつけていた。

「片目の。土肥実平」

頷いて実平も声を掛けた。

「トモエ御前とお見受けする。戦は終わった。一緒に来て頂きたい」

トモエは頷いた。無表情な瞳の奥は、伺い知れない。


 ここに粟津の戦は終わり、木曾義仲の戦いも終了した。


七 『凶:予想外の出来事に注意してください』


 浪戸は、常春だけを連れて、鞍馬の山に来ていた。本物の義経が、子供の頃預けられた鞍馬寺。義経はここで天狗から乗馬や武術を習ったと、浪戸に話している。

「天狗、ね」

信じられないが、タイムスリップがあるのだとすれば、天狗でも悪魔でも、何でもありの気もしてくる。浪戸自身は、奥州で、義経から乗馬と武術を習っている。であれば、浪戸の武術も天狗仕込みという事になる。

「ところで、どうして一人で来る事にこだわったんだ」

常春は首を傾げた。浪戸は、どうしても一人で行くと言い張り、護衛の部隊どころか、弁慶も連れずに、誰にも内緒でここまで来ている。先刻さっきまで一緒だったシヅカも、寺は女人禁制で、馬と一緒に入り口に残っていた。

「大勢で来ると、天狗に会えない気がして」

理由は無いのだけれど、と続ける。

 馬の練習との名目で、シヅカに近所の神社へ引っ張り出されて見ると、女性の着物を着た浪戸が待っていた。この格好なら誰も気づかないでしょう、と少しむくれながら言う。どうせ私は女らしくありませんから、と、そんな事を言われて常春は返事に困った。

「それで、俺を呼んだのは?」

「得体が知れないから」

と、さっさと着替えて、山に入る時にはすでに男装の浪戸。朱塗りの鎧を身に着けると、すっかり義経になっていた。箱根に突然現れ、奥州で新兵器を製造調達して、未来の知識を語る常春は、誰よりも得体が知れない。得体の知れない者同士、天狗も気を許すのではないか、と浪戸は説明する。

「それに、常春さんは、私と話をすると言ってくれました」

三郎は神輿としての義経を見ているし、与一も主君としての義経を見ている。浪戸として話の出来る相手が他にいない、と、続けた。

「そうだった。俺で良ければ」

常春が答える。性別まで偽って他人の生を生きるのは疲れるだろう、と素直に常春は思った。息抜きも必要だろうな。そんな話をしながら歩く。

 ガサッ

手前の枝が揺れる。

「誰だ」

何者かが飛びおりる。と同時に、二人に向かって跳んだ。咄嗟に常春は、浪戸を庇う。

 天狗?背に鋭い衝撃。次の瞬間、襲撃者が常春を投げ飛ばしていた。背中から地面に叩きつけられて息が出来ない。その間に、浪戸は太刀を抜いた。天狗の面を被った相手と向き合う。

「義経か」

天狗がくぐもった声で尋ねた。黙ったまま、浪戸は太刀を構える。まっすぐに振り上げ、動かない。

「お前」

天狗が、仰向けに倒れたままの常春に目を向けた。

「知恵と知識で、歴史を変えろ」

「どういう事だ」

「歴史を変えて、正しい歴史を辿れ」

そう一方的に告げると、人間離れした跳躍力で、木の上に飛びあがった。

「敵は平家のみにあらず」

離れた木に飛び移る。

「頼朝は頼朝にあらず」

言い残すと、軽々と枝を飛び移り、天狗の姿は、森の中へと掻き消えた。

「大丈夫ですか」

浪戸が常春を助け起こす。

「いや、みっともないな」

痛みを堪えながら、常春は苦笑した。

「いいえ、私の前に出てくれたおかげで、太刀を抜く時間が出来ました」

でも、無茶はしないでくださいと、控えめな笑みを浮かべる。天狗よりも、笑顔の方が希少価値があると、常春はそちらに気を取られた。

「なんですか?」

「いや、別に」

どういう事なのでしょう、と浪戸。

「俺がここに呼んだ奴と、つながりがあるみたいだ」

頼朝は頼朝にあらず、義経と浪戸と同じ様な入れ替わりでも起きていると言うのか。

「ヒントが少な過ぎるよ」

ぼやく。

「おかげで天狗に会えました」

帰りましょう、浪戸が手を出す。常春は手にすがって、用心深く立ち上がった。


 浪戸とその配下は、平安京の南方、六条にある堀川館に駐屯する。

 今回の京都派遣軍全員が宿泊する広さは無い。兵員は近くの寺や民家に分駐している。弁慶や海尊たち、合計五百名程に増員された与一、三郎の部下、それと、常春とシヅカが、堀川館で寝泊りをしていた。

 この堀川館を義経の拠点に定めた事で、一悶着あった。堀川館は、保元の乱の時には源為義が、平治の乱の時には源義朝が居を構えた、由緒正しい源氏歴代の棟梁の館である。それを、兄、範頼のりよりに先駆けて接収する。浪戸としては、義経の父親、義朝が暮らした館に凱旋したかっただけなのだが、軍監景時は、範頼の住宅にすべきだろうと激怒した。

「まあ、義経は京都育ちだし、別にいいんじゃないか」

範頼はそう言って気にしなかったが、軍議があればこの建物で行われる。毎回義経に呼びだされる形になる景時は、不快感を露わにする。

 一方世間では、少数の騎兵でいち早く法皇を救出し、部下にも略奪を行わせず、夜には笛をたしなむ風流人の、義経の人気が高い。法皇をはじめとして京都には人気の高い義経に、益々景時は不機嫌になっていた。が、それはまた別の話。

 深夜。

「兄ちゃん、ねえ、兄ちゃんてば」

郎党と言えば家族も同然という事で、同じ部屋に寝泊りしているシヅカに揺すられ、常春は目を覚ます。腕時計を見た。深夜二時。

 寒いな

一月の京都は冷える。布団はあっても、かなり辛かった。

「どうした」

「兄ちゃん、助けてよ」

シヅカが布団に潜り込んでくる。一体どうしたんだよ、と、手が顔に触れると、指が濡れた。

「泣いているのか」

小刻みに震えている。よくわからないが、常春はしっかりと抱きしめてやった。抱きしめてから、気が付く。

 服を着ていないじゃないか

寝間着の習慣は、この時代は無い。常春はかろうじて下着を身に着けていたが、シヅカはこの時代の常識に従い、何も身に着けていなかった。

 まずいんじゃないか

子供といっても、女の子。裸で抱き合うのはちょっと、と思ったが、シヅカは正面からしっかり貼りついて離れない。

 やばい

女の子と意識すると、余計な感情が連鎖してくる。俺はロリコンじゃないぞ、とまず心の中で宣言した。

 シヅカは子供、ガキンチョなんだから

シヅカの家族について話を聞いた事が無かったと、常春は思う。親方の元で働いていた訳だし家族からは離れているのだろう。明るく振る舞ってはいるがやはり子供。心細く、淋しい日もあるはずだ。

「兄ちゃん、あったかいよ」

震えがおさまり、涙も止まった。落ち着いてきたらしい。確かに抱き合っていると温かい。

 抱き合っていると

また意識が妙な方向に向きそうになる。猫、そう、猫でも飼えば、湯たんぽ代わりになる。

 これは人語を話す猫だ。常春は考えの方向を、強引に捻じ曲げた。

「落ち着いたか」

「うん、ごめんね」

「いや、落ち着いたなら、何よりだ」

シヅカが抱きついたまま頭を上げる。暗くて良く見えないが、顔が近い。息が届く距離。思いがけなくも、女の表情。

「えっと、ど、どうしたのかな。怖い夢でも見たのか」

「怖かったよ」

思い出した様に、身体を振るわせた。

「殺したなぁ、殺したなぁって、いっぱい来るの」

取り囲んで、わあわあ叫ぶのと、涙声で訴える。

「そうか。辛い思いをさせたなぁ」

常春は、シヅカの髪を撫でてやった。

 元々盗賊だから、他人を殺す経験もあるだろう。常春は、シヅカを前線に連れ出す事を特に気にかけていなかった。しかしシヅカは、本業の盗賊ではない。本来は白拍子、歌手とかアイドルとかそういったものだ。そんな子供に、気配りなしに引き金を引かせた。

「撃てと命じたのはこの俺だ。」

「・・・」

「殺したのは、俺だ。お前じゃない」

自分自身は、奥州の帰り、野盗に襲われた時こそ人を殺す事に抵抗を感じたが、それ以降は流されるままに戦闘に参加した。直接刀で相手を殺す訳でもなく、現実感も無かった。まるでゲーム。あくまで障害物を突き崩すための射撃ではあったが、盾の向こうで弓を引く兵士も直撃もしている。弓胎弓ひごゆみという兵器の改良にも手を貸した。

 時代が違おうと、褒められようと、人殺しには違いないその責任は、俺が引き受ける事だ、と、常春は思った。

「ありがとう、兄ちゃん」

くすっと、シヅカが笑う。

「シヅカ」

「しずぽんだよ」

お、少し元気が出て来たな、と、常春は笑った。

「大人は、責任を引き受けるために、ここにいる」

「兄ちゃん、普段はだめだめなのに、時々恰好いい事言うね」

「からかうなよ」

二人して、小さく笑った。

「もう少し、こうしてていーい?」

更にシヅカが、身体を寄せる。

「いいよ」

流されてるなと思いながら、常春は答えた。シヅカは、にやっと笑った。

「んふー ところで兄ちゃん、むらむらしてる?」

「は?」

「しずぽんにはまだ早い事をしようとしてる?」

する訳ないだろ、そろそろ戻れ、常春は、にやにやしているシヅカから手を放す。

「あー、兄ちゃん。衆道だけじゃなく、子供も、なんだね。でも、そんな変態な兄ちゃんのそばにいてあげるよ。テーソーは渡さないけど」

シヅカは更に身体を寄せた。発展途上だがしっかり存在を主張する膨らみが、常春の胸に押し付けられる。

「大人をからかうな」

ふざけているのだろうが、常春にとってはかなりの挑発になっていた。

「からかってなんかないよ」

シヅカがくすくす笑う。そうやってじゃれていると。

「まだ起きていますか」

ふいに、扉の向こうから声がした。慌てて、シヅカを布団の中に押し込む。

「あ、ああ、構わないよ。どうした」

扉が開き、浪戸が入ってくる。白い襦袢姿なのが、夜目にうっすらと分かる。

「誰かの声がしたみたい」

「ああ、音楽を聴いていたから、それじゃないかな」

浪戸にはスマートフォンを聴かせた事がある。その時は、携帯から音楽が聞こえる不思議さよりも、未来の音楽に関心を持ったらしく、たまに笛で吹いていた。ロックは、浪戸以外には騒音にしか聞こえない様だったが。

「ちょっとだけ、構いませんか」

「あ、ああ」

返事を聞くと、浪戸は、常春の背中側から布団に入った。襦袢越しに、冷えた、細い身体が押し付けられる。

「え、ちょっと」

常春は慌てた。駄目、ですか? と、少し震えた声がする。

「駄目じゃないけど、どうしたの」

浪戸とシヅカの危険なサンドイッチ状態になりながら、平静を保って常春は尋ねた。嫌な夢を見ました、と答える。

「木曾義仲も討たれたと聞きました。義仲勢をたくさん斬りましたし、味方にも、戦死者が出ています」

すべての死は、私が引き受けなくてはいけません、と、浪戸は続けた。

「いけないのですが、怖いのです」

馬上から太刀を浴びせた敵の武士の、必死の形相。御所の前で初めて会った、木曾義仲。浪戸の目前で矢を浴びて倒れる味方の雑兵。十重二重に浪戸を囲んでは、よくも命を奪ったな、どうしてくれようと、浪戸を攻めたてる夢を見る。シヅカと同じく。

 浪戸も初陣、しかも少女だ当たり前の事に常春は思い至る。怖く無い訳がない。

「そんな事は、あり得ない」

常春は断言した。

「これは戦争だ。敵も味方も職業軍人だ。死ぬ覚悟は常に出来ている」

義仲の従者、今井兼平の最期も立派だったと聞く。殺す事、死ぬ事を誇りとした武士なのだから、誰も恨んだりしない、と常春は話した。

「けれど」

浪戸は、常春の背に身体を押し付けた。胸の感触。

 シヅカより、薄い、のか?

深刻な話をしている最中に、何を考えているんだと、常春は余裕のある自分に驚く。それとも欲求不満なのか。年下のシヅカの方が柔らかい。思い出してみて改めて、シヅカに意識が向かう。そういえば、押さえつけ過ぎか?

「むぐっ」

常春の手が緩むと、ぷはーっとシヅカが頭を出した。

「オンゾーシっ」

口を塞ぐ間もなく、シヅカが声をあげる。

「しずぽんも怖いよ。おんなじ夢を見るよ。でも兄ちゃんがね、責任は大人が引き受けてくれるって」

浪戸はシヅカの出現に少し驚いていたが、落ち着いて答えた。

「私は源氏の棟梁代行、私が引き受けなくて、誰が責任を取るんですか」

「そんなの鎌倉殿に責任とって貰えばいいじゃん」

常春を挟んで、言い争いが始まった。

「そんな訳にいかないでしょう」

浪戸は身体を起こした。

「一番偉い人が責任を取ればいいっしょ」

シヅカも半身を起す。

「あの、ふたり共ね」

「黙ってください」

「黙ってて」

常春は、左右から同時に叱られて、はい、と目を閉じた。上を向いて目を開けると、はだけかけた浪戸の胸元がちらちらと、そもそも何も着ていないシヅカの上半身が否応なく目に入る。

「大体、兄ちゃんはしずぽんが今甘えてるんだから、後から来て取らないで」

「こんな話、他の誰にも出来ないから。あら、そもそもあなたこそどうして」

「出来ないって、あれ?」

シヅカは首を傾げた。

「オンゾーシって、女の人、だっけ?」

「あー、シズカ」

常春が割って入った。

「誰にも話せない理由があって、義経は本当は女だけど、それは隠さなきゃいけないんだ」

「どうしてー」

「どうしても、だ」

うん、わかった、秘密だよ、兄ちゃんの言う事だから。真面目に話す常春に、シヅカはすんなり引き下がった。

「だから内緒にして、その上で仲良くしてくれ」

「兄ちゃん、分かったよ。オンゾーシ、先刻さっきはごねんねっ」

「シヅカさん、よろしくね」

シヅカと秘密を共有するのは若干リスキーだが、浪戸に気を使わない友達が出来る事はいい事だろうと、常春はニコニコと二人を見る。

「ところで、常春さんは、にやにやと何を見ているのかしら」

「うあうあ、兄ちゃんに見られたー」

シヅカは、布団に潜り込んだ。浪戸も、胸元を引き寄せる。

「常春さんは、小さいのが好きなのですか。不潔です」

「兄ちゃん、二股だよー」

いや、勘弁してくれよ、少女二人に挟まれて、常春は困惑する。

 途中から話がうやむやになり、浪戸とシヅカは義経の寝室で、怖い夢を見た者同士、抱き合って眠る事になった。幸いもう嫌な夢を見る事も無く、朝まで眠れたらしい。一方常春は独りでやれやれと思いながら寝なおした。少女二人と同じ布団で眠れる訳もない。

 触ったりしなくて、本当に良かった

我慢できずに相手を触らなくてよかった、俺はロリコンじゃないしと思いながら、常春は眠りについた。


 翌日。波戸、与一、三郎、先陣争の高綱と景季かげすえ、の総勢五人が、後白河法皇のいる西洞院に呼ばれた。宇治川の戦いでの、御所突入部隊の指揮と主な武士たち。それぞれ、正装の鎧兜で身をかためていた。

 波戸の鎧は燃える様な朱塗、

 与一は萌黄匂の鎧。

 三郎は肩白赤威の鎧。

 黒と栗色に臙脂えんじ色を組み合わせたカラフルな鎧の高綱に、

 黒尽くめの景季。

前回と同じ鎧を、前回とは異なり入念に磨き上げている。

 兜を脱ぎ、重い太刀を御所の外で部下に預けて木戸をくぐった。鼓判官平知康ともやすが先導して白州に招かれ、浪戸を先頭に並ぶ。

「よう来られた」

知康は浪戸に笑顔を見せた。目礼で答える。

 しばらく待たされてから、御簾の向こうに後白河法皇が入った。一同は平身低頭する。

「義仲追討、見事であった」

実際に義仲を討ったのは彼らではない。しかし、義仲が法皇を木曾へ連れ去ろうとしていた現場で、法皇救出を優先した義経たちは、法皇自身から、総大将よりも高く評価された。義経が速度重視で京都に入らなければ、法皇はそのまま連れ出されていたかも知れない。

 その場で、全員に官位と役職が与えられる。義経には従五位下という官位が与えられ、検非違使少尉に任命された。検非違使は、警察の仕事を行う役所。決裁権を持ち「判官」「廷尉」の別名があった。この以降、市井の人々から義経は、判官義経と呼ばれる様になる。

 そして従五位下。この官位から殿上人と呼ばれ、宮殿に上がる事が許される。

 頼朝の代官ではあるが自分の領地も無く、頼朝の弟の立場でしかなかったのが、国家公務員の管理職クラスに任命され、大出世であった。

 義経様にはめでたいけれど浪戸は出世したい訳ではない。義経の意思を継ぎ、平家を滅ぼす事こそが人生の目的だった。

「ところで、法皇。申し上げてよろしいでしょうか」

ひととおりの任命が終わった後、浪戸は尋ねる。

「申してみよ」

「平家追討令は、何時頂けるのでしょうか」

御簾の向こうで、法皇は身じろぎする。

「まだ、時が熟しておらん」

「先に木曾義仲には追討令を出されたはず」

以前は出して、今は出さないのはつじつまが合わない、と浪戸は畳みかける。追討令を欲しがっていた浪戸にその話を入れ知恵したのは、すっかり義経ファンになっていた知康だった。

「事情が変わった」

法皇は苦り切った顔で答える。京都に派遣された源氏勢は五万騎。一方、源氏同士が戦っている間に瀬戸内から徴兵して大勢を立て直した平家は、陸海軍合わせて十万人を擁する大部隊を持ち、明石から神戸にかけて展開している事が分かった。源氏の持たない水軍を持ち、数も倍する平家は、太刀打ち出来る相手ではない、と諭す。

「それ程の大軍が、福原にいるのですね」

分かったか、と、法皇は優しく笑った。

「であれば、近いうち、必ず平家は京都を襲うでしょう。先手を打たなくてはなりません」

浪戸が、良く透る、かん高い声をあげた。軍を指揮するのに向いた高い声は、しかし

「静かに」

大声が禁止されている御所での発言には向いていない。そのまま白州から追い出される。流石にここで争う程、世間知らずな浪戸では無かった。そのまま御所を出る。

「確かに、こちらの方が兵力が少ない」

「神戸の地は懐が深いと聞きます。備えも充分でしょう」

高綱、景季が、法皇の説を認める。

「結局、追討令出して、ワシらが負けたら平家に睨まれて具合悪いからやろ。両天秤や」

滅多な事を、と与一に口を塞がれるが、三郎のその読みは当たっているのは一同認めた。

 源氏が負ければ、再び平家が戻ってくる。鎌倉から大戦力が送られて来ない限り、京都は再び平家に支配されるだろう。平家を追討させたという記録は、その時に都合が悪い。

「勝てば問題ないのでしょう」

浪戸は、胸を張った。みな、はっとする。半分の戦力で地の利もないところで、しかし自信を持って勝つと宣言する。そうですね、追討令は鼓判官に相談しましょうと、与一が答えて散会になる。

「義経殿」

高綱が振り返って尋ねる。

「勝てるのですね」

「勝たなければいけないのです」

浪戸はそう答えると、強く口を結んだ。


「兄ちゃん、何か食べようよ」

常春とシヅカは、昼の京都を出歩く。取り立てて用事が無ければ、宿舎に詰める必要はない。折角京都に来たのだから観光をしようと、連れだって歩いた。義経勢の駐屯地、六条堀川館から歩いて行ける範囲には、菅原道真公を祀る北野天満宮があった。この時代ですでに、百五十年以上の歴史がある。

 境内には入れなかったが、周りに屋台が軒を並べていた。こんな昔から屋台があるのかと、常春は感心した。

 何か買っておいでと財布から銅銭を出して、シヅカに与えた。常春は、光る百円玉や重い五百円玉を中国の珍しい硬貨と偽って、幾ばくかの銅銭と交換していた。元いた時間に持って帰る事が出来れば、古銭としてかなりの値がつくに違いないと思う。

「兄ちゃん、はいっ」

シヅカが、焼いたダンゴ的な何かを買って戻った。ひとつ食べる。温かくて香ばしいが、特に味もしない。

「これなに?」

「さぁ、知らない」

シヅカは嬉しそうに食べているので、気にしない事にする。

「これは梅の木か」

「咲くとねー、きれいなんだよ」

塀の向こうに梅の木の枝が見える。咲いている時に前を通りかかった時、それは綺麗だったのだとシズカは笑顔を浮かべる。

「シヅカは京都の生まれだっけ」

「生まれは違うんだけど、白拍子の仕事は京都が中心だよ」

道端で舞う時、投げ銭の実入りがいいのは京都だと話す。また、貴族に気に入られれば、家に行って舞う事もあるし、食事つきの宿にもありつける事もある。

「白拍子をやってる方が、よかったんじゃないか?」

常春は尋ねた。一座が食いつめて強盗を働いたのが、出会いのきっかけではある。必要があれば強盗もする旅芸人。だが元々シヅカの軸足は、殺伐とした世界では無くアイドルタレント業にあるのではないかと思う。

「踊るのは、何処でも踊れるよ」

立ち上がった。

「ごはんの心配もしなくていいし、親方に殴られることもないし、今の方がいいかな」

くるん、と、身を翻す。通りを歩く人が、何人か足を止めた。ちょっと歌いたくなったと、シヅカが舞う。常春の感性ではよく分からない歌に踊りだが、次第に観客が増えた。この時代の人々の心を掴むらしい。

 舞い終わった頃には、人垣が出来ていた。拍手が響く。

「今日はお金はいらないよ。その代り、義経判官を応援してね」

ああ、義経公の、と人々が噂する。ありがたい、と拝む人もいた。

「パンとサーカスになったな」

ローマの皇帝が、パンとサーカスを提供して、人々の支持を得た故事を思い出す。そのミニ版だ。

「何それ?」

何でもない。これで義経の人気が出たらいいね、ありがとうと、常春が笑いかける。

「うん、役に立てたら嬉しいな」

シヅカも明るい笑みを見せた。


 常春が久し振りに平和を満喫していた頃。頼朝に宛てた景時の書状が、リーク、鎌倉を駆け巡る。いわく、

 義経は軍監の景時の意見に全く耳を傾けず、敵を取り逃がしている。

 木曾義仲を討ち取ったのは、鎌倉から来た武士の石田為久で、義経は何もしていない。

 義経が勝手に官位をうけている。鎌倉からは禁止されているにも関わらず。

京都での義経の評判があがる一方で、鎌倉での評判は下がる一方だった。そのため、木曾義仲を討ち取った石田為久が褒美を受け取る一方で、義経一派には何の褒美も無い。後白河法皇から官位を受けた高綱、景季の二人も、鎌倉から叱責される。


「どうしてっ、海尊ちゃんの活躍がっ、誰にも評価されないのっ」

何時もの定例ミーティングで、現役復帰した海尊が地団駄を踏んだ。

「景時、そう来たか」

その光景を見やりながら、常春は思う。天狗よりも人間の心の方が怪物だと感じる。

 嫉妬か

浪戸は戦場で、戦略的に正しい行動をしたが、景時の面子を潰してしまった。景時がへそを曲げたので鎌倉に武勲が伝わらない。追討より法皇を優先したのは自分との会話の結果だから、常春は責任を感じる。

 官位にしても、法皇が勝手に呼び出して勝手に付与したもので、断れるはずもない。確か頼朝は、賞罰権を朝廷から取り上げる事で、朝廷抜きに自分の命令に従う鎌倉幕府を作ろうとしていたはずだ、とぼんやりとした日本史を思い出す。

「次は、もっと分かりやすい武勲をあげましょう」

与一が前向きな発言をした。三郎は、常春が全員に手配した特別ボーナスで機嫌がいい。誰が払っても金は金、と割り切りがあった。

「与一さんの言う通りねぇ」

弁慶も同意する。

「それより、次の戦いはどうなりそうなのっ」

また莫迦浪戸が、変な作戦考えてるんじゃないでしょうねっ、と何故か常春が攻められた。

「何で俺が」

「常春さん。浪戸ちゃんの動きを、よく見てくださいねぇ」

弁慶が追い打ちを掛けた。

「間違っているかどうかが分かるのは、あなただけなんですからぁ」

弁慶、ちょっとそれどういう意味、と海尊が詰め寄る。

「それじゃあ莫迦ツネが、まるで凄い軍師か何かみたいじゃない」

常春が未来から来た事は、浪戸と弁慶、奥州の秀衡にしか明かしていない。未来を知っているなら歴史から大きく外れた時も気が付く。しかし浪戸は、未来を教えてくれるなと言った。答えを教えずに修正するのは難しい。

 歴史を変えて、正しい歴史を辿れ天狗の言葉。変えるのに正しいというのは、矛盾しているのではないか?

「良くわからないけど、頑張ってみるよ」

常春はあいまいな笑みを浮かべた。とりあえず直近の未来なら、浪戸が鵯越の逆落としを思いついてくれる事を祈ってみるか、と思う。

「それより、記録係が必要なんじゃないか」

常春は話を戻した。結局、鎌倉への報告が不充分なために、覚えが悪くなっている。公正を欠く景時にも腹が立つが、こちらからも、正しい情報を送って訴える必要がある。

「鼓判官さんなんかはぁ、どうかしらぁ」

弁慶が知康を推した。義経のシンパで文官だから、妥当だろうと提案する。

「あいつ、口ばっかしやで。大体、ついてこられへんのとちゃうか」

三郎が口を挟んだ。法住寺殿での戦いで、変な舞を踊って義仲を怒らせたという噂は、すでに広がっていた。しかも合戦が始まると同時に逃げている。階級上、義経と同じ判官であり、現場で口を挟まれても迷惑だった。

「海尊なんか、どうだ」

常春が水を向ける。

「え、嫌よ、海尊ちゃんは、武勲をあげるんだから、そんな事してる暇なんてないわよっ」

「文才もあるし、字も綺麗だし、勿体ないな」

「なっ、褒めたって、何も出ないんだからねっ」

「まあ、次の合戦の時には、海尊に考えて貰おうよ」

与一が口添えした。

「どうしてもってなら、考えとくわ」

ツインテールをかきあげながら、海尊が答える。意外と文才のある海尊の実況に、知康のサインをつけて箔をつければ、鎌倉も無視できないんじゃないか、と常春は考えた。

「いずれにせよ次の戦いでは、義経を始め、誰もが分かりやすい武勲をあげる事が重要だな」

戦果を独占しても恨みを買うが、目立たなければ評価されない。何時の時代でも、仕事をするより政治事の方が厄介だな、常春は溜息をつく。


八 『大吉:信じる心が肝要』


「平家追討のため、西国へ発向すべき」

 浪戸と鼓判官知康ともやすの公家への根回しが成功し、後白河法皇は渋々平家追討令を出す。

「三種の神器みくさのかむだからを取り戻して欲しい」

皇位の正統性を証明する八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣を、平家から奪取せよとの命令。

 源氏勢は五万、対する平家方は、陸海軍合わせて十万が、今の神戸から明石にかけて布陣していた。通常、攻撃は防御側の三倍の兵力が必要だとされるが、源氏勢は平家の半分の戦力しかない。

 一方で神戸は山と海に挟まれ、南北の間口が狭い。激突する正面に並べる事の出来る武士の数は、どちらも同じ。平家が、数の優位で源氏を包囲する事は、地形上出来ない。平家が数の優位を生かしきれない点で、源氏にもチャンスはあった。

 六条堀川館では、作戦会議が開かれる。そもそも自分たちは頼朝の部下であり、後白河法皇の直接の配下ではないから、その指示に従う必要はない。まず頼朝に伺いを立てる必要があるし増援も必要だと、軍監景時かげときがまっとうな意見を述べた。

「では、景時殿は後から来ればよい」

浪戸が一歩も引かずに言い放つ。真っ赤になって怒鳴ろうとしたが、意外と義経案支持の声が多い。誰もが血気にはやっていた。反論のタイミングを失う。

 福原の平家を攻略する事が決まり、会議は攻め方に移った。カバ冠者範頼のりよりを総大将に五万の主力が生田川を渡り、東側すなわち正面から攻める。義経の別働隊は一万程度、平家の陣の裏側に抜け、西側一の谷方面から攻める事になった。

「攻撃開始は二月七日、日の出でよろしいな」

範頼が確認を取り、日時が決まる。

「どうやって西側に出る?」

景時が不満げに浪戸に尋ねた。

「行ってから確認する。まだ分からない」

浪戸は正直に答えた。分からないという事は、出来るかどうか分かららないという事だ。やってられるかと景時がキレた。軍監を下りると宣言する。

「わかったわかった」

迷惑そうに眺めていた範頼の軍監、土肥実平さねひらが手を挙げる。アイパッチで片目を覆う歴戦の四十代で、誰もが一目置いていた。瀬田川の戦いでも、誰も勝てなかったトモエを拘束している。

「景時殿、入れ替わろう」

それぞれ軍監が入れ替わろうとの提案だった。景時も了承して、その場は丸く収まる。

「ではそれぞれ作戦を考えよう。お互い、集合日には遅れるな」

実平が締めて、散会になる。

「景時も、頭はいいんだけど小役人なんだよなぁ」

部屋を出たところで、実平は浪戸を捕まえた。とは言っても、義経殿、ものは言い様というものがある、と実平は笑った。

「義経殿」

そこへ高綱が、是非連れて行ってくれと声を掛けた。自分も連れて行ってくれと、景時の子、景季かげすえも寄ってくる。

「おいおい、いいのか」

実平が尋ねた。本隊より、こっちの方が華がありそうだから、と高綱が答える。面白そうだから、と景季。

「頼りにしている」

浪戸は二人に礼を述べる。なんだ、ちゃんと出来るじゃないか、と、再度実平は笑った。


 浪戸は、別働隊全員を堀川館の庭に呼び集めた。与一、三郎、高綱、景季が、それぞれ百騎前後の騎兵を率いている。他にも宇治川の戦い以来の武将が編入され、騎兵と徒歩かちを合わせて一万人の軍勢になる。その中に、常春とシヅカもいた。常春はシヅカを残そうと思ったのだが、自分も行くと言ってきかない。

「誰が兄ちゃんの馬を走らせるの?」

そう言われてしまえば、返す言葉も無い。

「なんでアンタがいるのよっ」

騒ぎ声を聞いて常春が海尊の方に行ってみると、トモエがいた。

「実平がいるから」

無表情にトモエが答える。

「まあ、気にするな」

実平が笑って二人の頭に手を載せた。実平の直衛として参戦するらしい。

「気になるわよっ」

海尊が怒る。

 幕間劇をよそに、朱塗りの鎧で完全武装の浪戸が全員の前に姿を見せた。小柄ではあるが、どこから見ても武将義経だった。

「よく集まってくれた」

ついに平家を討つ、一万人の聴衆に高く通る声で宣言すると、一斉に歓声が上がる。自分たちは敵陣の裏側から攻撃を掛けるため、長距離を移動しなければならん。明日の朝は早い、今から準備をしておけ。それだけ伝えると解散した。各自、出陣の準備を行う。

 兵たちが準備を行っている間、義経隊の主だった面々は、再度堀川館の広間に集合した。

「明日の朝、寅の刻(午前四時)にはここを出る。京都から西へ向かい、丹波篠山に抜ける」

挨拶もそこそこに、浪戸が説明した。

「そこからは」

「そこから先は、現地で確認しながら、福原京の北に抜ける」

北? 西では? と実平が確認した。軍議では、西側から攻撃する事になっていたはず。

「一部は北から、一部は西から攻撃する。北からでなければ、奇襲の意味が無い」

明日に備えよ、と、浪戸は早々に軍議を打ち切ると、自分の支度に奥に戻った。

「おしまいか」

実平が呆れて、誰にともなく尋ねる。

「それで大丈夫なのか」

実平は重ねて言った。

「さあ、大丈夫やろ」

と三郎は投げやりに返す。

「信じていますよ」

与一が付け足した。

 途中、丹波篠山までの進軍ルートは、三郎が野盗のネットワークを通じて確認している。その先、一の谷へのルートは情報を収集できず、出たところ勝負。行けば道案内の出来る猟師もいるだろうと、事前に入手した情報を元に、浪戸は楽観的に判断をしていた。

「ま、道ぐらい、人が住んでるんなら分かるんじゃないの」

史実を知っている常春は口を挟まなかったが、意外にも海尊が楽観的に支持した。

「浪戸の奴、偉そうやな」

「義経にはぁ、そうして貰わないとぉ」

三郎が、自分の手に負えなくなりつつある浪戸を小声で愚痴るが、その方がいい、と弁慶が返す、そんなこっそりとしたやり取りが交わされた事を、実平は知らない。

「義経殿は、部下には人望があるのだな」

実平は常春に、面白そうに笑った。


 出発前、常春は浪戸に呼び出される。朱塗の鎧で身をかためたその姿は浪戸では無く、義経そのものだった。

「どうした?」

「私は、正しいのでしょうか」

暫く迷った後に、浪戸が呟く。

「自分の人生は自分で決めたいと今でも思っています。でも、私が選択を間違えると、たくさんの人を殺してしまうかも知れない」

だから、自分のやっている事が正しいかどうか知りたい、と浪戸は首を振った。

「史実通りなら死者が少ない、とは限らないよな」

常春が言う。

「仏門にでも入れば、戦とは縁が切れるかも知れないけど、別の人が戦うだけ。自分の意思もあるだろうけど、時代の流れに流される事もある」

シヅカに手伝って貰って、足軽用の軽装の鎧を身につけながら、常春は続けた。

「俺は、日本では戦争の無い時代から来た。戦いには正直抵抗があるけど」

浪戸を支えたいと思う。そう決めたんだ、常春は息をついた。

「どうして」

誰かに、知恵と知識で、歴史を変えろと言われたから、あるいは、懸命に義経をやっている浪戸を守ってあげたくなった、と言えば、結局は人のせいにしている事になる。

「さあ。やりたいから、では駄目か」

決められた現状の中で、それでも自分は選択したい。歴史通りかどうかは教えない、と常春。

「心配するな。俺が見て、間違っていると思えばそう言ってやる。仮にそれが歴史を変える事になっても」

「私は今からする事は、間違っていない?」

「背後から奇襲を掛けるのは、普通、正しんじゃないかな」

ただ、俺は軍人じゃないから、戦争の知識は乏しいぞ、と、常春は笑った。

「それじゃあ役に立ちません」

浪戸も笑顔を見せる。そして、ありがとう、すっきりした顔で、そう言った。


 払暁、午前四時。六条堀川館前に部隊が集合する。

「出陣」

浪戸は、藤原秀衡から貰った名馬ウスヅミに跨り、義経の朱塗りの鎧装束で先頭を切って前進した。武装した弁慶、海尊が続く。アイパッチをつけ、漆黒の鎧兜で武装した軍監の実平が、闇に溶け込んでその後ろにいる。景季のスルスミと高綱のイケズキも、集団の中程に見えた。シヅカが手綱を握る常春の馬も、与一の軍勢にまぎれて前進する。

 京都を出てまずは亀岡へ、険しい渓谷を約五時間かけて移動する。その後七時間。順次道案内を雇いながら、休み無しに馬を走らせ、丹波篠山に出た。

「そろそろ休めてはどうだ」

実平が浪戸に馬を寄せる。

「このあたりは、開けているな」

敵襲に弱そうだと、三郎に声を掛けた。もう少し身を隠せる地形は無いかとの問いに、後三時間程で山里に入るとの回答を得る。

「もう日が沈むが」

「続け」

浪戸は前進を続ける。三郎は実平に、肩をすくめて見せた。

 小野原と呼ばれる山里に入ったのは、暗くなってからの事。日が沈んでからは、浪戸は弁慶に大松明を掲げさせた。

「火を貸してくださいねぇ」

常春がライターで火をつける。後ろからよく見える、付いて来いとの目印だった。その大松明が、ようやく停止する。

「食事の用意を」

浪戸は馬から飛び降りると、疲れた様子も無く全軍に食事を指示した。

「泊まりの用意は?」

実平が尋ねた。食事だけでなく、野営の準備も必要になってくる。しかし浪戸は首を振った。

「斥候が戻ってから、決める」

そう答えて、三郎の手下を偵察に行かせる。

「こんなところに、平家がいるとは思えんが」

実平が不満げに漏らした。何故? と、浪戸は不思議そうに尋ね返す。義経が来たなら、義経が来るかもしれないと思ってもおかしくないでしょう。

「まあ、そうだ」

苦笑いをする。オンゾーシも、眼帯のおっちゃんもどうぞ、シヅカが、茹でて戻した乾飯ほしいいを持って来て、話が途切れる。

 もそもそと食べていると、三々五々、斥候が戻ってきた。

「驚いたな」

実平が呻く。斥候部隊は、先に集落があり、平家の部隊が駐屯しているとの話を聞きこんで来た。一部は真偽と規模を確認するために、更に前進中だと報告する。じきに、三草山という地名や、このあたりは平家の庄園である事も分かった。彼らに乾飯を、と、戻った斥候に食事を出す様シヅカに命じると、

「軍議を」

と、浪戸は、主だった武将を集める。

「実平、どう思う」

珍しく、浪戸が尋ねた。

「そうですな」

こんなところに駐屯している敵部隊は想定外だった。規模も分からない。頭をひねった。

「今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきか」

重ねて浪戸が尋ねた。

「夜討ちがよいでしょう」

本当は休んでからにしたいのですけどね、疲れた顔をして、高綱が代表する。

「そうしよう」

浪戸は立ち上がった。馬に跨る。わかりましたぁ、と、弁慶が再び大松明に火を灯した。あちらこちらで、騎乗せよと命令が飛ぶ。疲れ果てて流石に動きが鈍い。鈍いながらも出発した。

 暗い。ほぼ満月であったが、元々けもの道、うっそうとした草木に足元を隠され、馬の動きが鈍る。

「仕方ありませんねぇ、三郎さん。行きますよぉ」

「よっしゃ」

二人は馬を駆けさせた。先行し、ところどころに点在する民家に、松明を投げて火をかける。

「火事だ」

「起きてくださいねぇ」

無用な殺生は避け、二人は声を掛けながら火をつけた。無人の炭焼き小屋もあったが、慌てて人が飛び出してくる家屋もある。乱暴に灯した街灯で、道ははっきり照らされた。無茶苦茶するなあ、実平が呆れる。

「驚かれましたか、軍監殿」

与一が声を掛ける。

「何時もこんな感じです」

「正規軍はこうではない」

「何時も別働隊です」

涼しい顔で、与一は答えた。

 やがて険しい登り道が終わり、道は下り坂になった。先に出した斥候が次々と戻る。

「大体三千騎といったところやな。その辺の家に分かれて泊まっとるみたいや、見張りはおらん」

三郎が浪戸に、集約して報告した。

「はよぉ、いてまおか」

「海尊ちゃんは、眠くて機嫌が悪いのっ」

疲れがピークを過ぎ、一様にテンションが高い。浪戸は馬上で、あぶみの上に立ち上がった。太刀を抜く。

「突撃」

おーっ、全員が鬨の声を上げ、全軍が突進した。火矢を射かける。松明を投げ入れる。慌てて出て来た敵兵を狙撃する。太刀で袈裟切りにする。寝込みを襲われた平家方は、混乱して応戦が出来ない。

 それでも、いくらか反撃に出る武士もいた。弓を構え、太刀を振るう。

 すっ

敵の真っただ中に身を滑らせたトモエが、薙刀を一閃させる。四、五人がまとめて倒れた。あまりに平然と進むトモエの威圧に、直接刃向う相手がいない。矢を射られても頭も下げず、鎧に矢を突き立てたまま、薙刀を振るう。

「何なのっ、あれ。死ぬつもりっ」

海尊が声をあげた。

「アンタ莫迦なのっ、死ぬのっ」

弓を構えた相手を薙ぎ払いながら、トモエに罵声を浴びせる。

「義仲も兼平も死にました。私は、すでに死んでいます」

「まだ生きてんじゃない」

海尊が怒る。

「私に勝ち逃げなんて、許さないんだから」

トモエが首を傾げ、立ち止まった。

「アンタの首は、私が取るのよっ。軟弱平家なんかには譲らない」

トモエは首を戻し、再び前進を開始した。

「きぃーっ、無視しないでっ」

トモエと海尊が前進する。薙刀の刃が平家の一群を蹴散らす。

「危ないですよ」

「心配されたっ、屈辱っ」

「二人を死なせるな」

突出した二人に気づいた実平が叫んだ。弁慶と実平の直衛が、それぞれ仲間を救おうと前進、薙刀や弓矢で支援する。これをきっかけに、残って食い止めようとした平家の残存部隊も壊走を始めた。

「深追いするな」

浪戸が命じて全軍を集める。負傷者の手当てを命じ、一部に見張りを命じると、手空きの武士には仮眠させた。疲れ切った武士は、血を吸った床、屋根の焼け落ちた家で、気にせず泥のような眠りに落ちる。

「常春さん」

シヅカと装備を確認していた常春に、兜を脱いだ浪戸が小声で囁いた。

「これが電撃戦、ですね」

酷く憔悴しているが、誇らしげな顔。

「その通り」

よく実践したな、頭をポンポンと撫でてやる。

「えっと、常春さん。総大将に向かって、そういうのは困りますぅ」

弁慶が見咎めた。あ、悪い、と手を引っ込める。

「義経さんは、もう眠ってください。常春さんも」

見張りは引き受けたと弁慶が胸を張る。頼む、と言い残して、浪戸は適当な空き家を探した。常春も、シヅカを呼んで後に続く。浪戸は背負っていたえびらを枕に、そのままさっさと横になった。

「俺たちも横になろう」

「兄ちゃん、寒いよ」

同じく横になった常春に、当然の様にシヅカが抱きつく。常春もシヅカも、元々重い鎧を身に着けていない。防具も外して着物姿になっている。身体の熱は伝わるものの、肌の柔らかさも伝わって、常春は手の置きどころに困った。前に抱くと、手の位置がシヅカの尻の方にまわってしまう。

「んふっ、くすぐったいよ」

シヅカが妙な声を出して笑った。

「軟弱な」

浪戸は、ふい、と向こうを向く。

「シヅカ、浪戸にだっこして貰え。寒いってさ」

「結構です」

浪戸の返事に苦笑する。立ち上がって室内を見まわし、

 あった

常春は、ムシロを見つけると、浪戸にかけてやった。

「おやすみ」

せめて背中側にシヅカを置くと、常春も眠りに落ちる。


 目が覚める。腕時計を見ると六時だった。常春が起きると浪戸はもういない。代わりに弁慶が横になっていた。シヅカを寝かせたまま外に出て、軍監実平を探す。浪戸と話をしているところを見つけた。

「負傷者と不寝番はここに残す」

負傷者と、不寝番をしたメンバーを残して、ここを出発すると浪戸が決める。後衛がいると、後ろの心配をしなくてよいからな、実平も同意した。

「次に七千を分けて、西方向から一の谷を攻める。実平が指揮を取れ」

「義経殿は?」

「三千ばかり率いて、北から攻める」

考え直して欲しい、と実平が促した。そんな少数の部隊は使い道が無い。

「西と北から、特に予想外の北から攻撃すれば、平家は混乱して壊走する」

浪戸は自分の説に自信を持つ。総大将が討たれてしまえば負けると実平は訴える。

「では、攻撃する時を合わせて欲しい。そちらの方が長距離の行程になるので、苦しいとは思うが、そちらで頑張ってくれれば私が討ち取られずに済む」

浪戸は折れない。頼んだと言い残すと、食事の用意をしている一同の元へと向かう。

「部隊を分ける。主な部隊は軍監実平が率いる」

と、強引に宣言してしまった。

「私と来る者はいないか」

名誉は得られないかも知れないから志願制とする、と続けて募集する。こっちの方がおもしろそうだと、高綱、景季は義経隊に志願した。三郎は、今度は名誉が優先とばかり、手下を引き連れ実平に従う。

「僕はこっち」

与一は自分の部隊から弓の名手ばかり引き抜き、浪戸に同行する。残りは実平に預けた。大体三千人、騎兵だけあれば六百騎、浪戸の希望通りの志願兵が集まった。

「お宅の大将はなあ」

実平は常春に呆れて愚痴る。恐れ入りますと、常春が頭を下げた。

 ところで、と、人選中の浪戸を見やりながら、常春は尋ねる。

「今回の戦いで、記録係は連れて来てる?」

祐筆ゆうひつの事か?」

と実平。三人連れて来ているがと続けた。ありがたい。一人こちら側に貸してくれと頼んでみる。実平は気持ちよく了解すると、一人、名前を呼んで義経に預けた。常春が海尊を目で探すと、義経同行に立候補しているところだった。

「おはよう、海尊」

常春が声を掛ける。

「早速なんだけど、昨日の戦闘の記録って」

あ、ある訳ないでしょっ、真っ赤になって、海尊が怒る。確かに、先頭きって戦っていたのだから、記録を取っている余裕はない。

「軍監のおっさんから一人応援を貰ったんだ。二人で確認しながら書くといい」

借り出した祐筆を紹介する。

「但し文官だから、守ってやる事」

「分かったわよっ、それで、悪かったわよっ」

バツが悪いらしかった。

「だけど、トモエを援護したの、恰好よかったよ」

「ばっ、あれは、あの、あれよっ、知らないっ」

「実平からも、礼をさせて貰うぞ」

トモエはどうも死に場所を探しているみたいだと、実平は礼を述べた。

「トモエの戦は終わったのだから、寺に入って、義仲や兼平の冥福を祈ってくれるとよいのだが」

トモエも無表情に義経隊に名乗り出るのを横目で見ながら、溜息をつく。

「トモエを倒していいのは海尊ちゃんだけなんだから。勝手に死なれると困るのよっ」

怒りながら海尊はその場を離れた。いや、みなさん本当に個性的で、と笑う実平に、本当に恐れ入りますと、常春は再度頭を下げる。


 各自装備を点検して、浪戸がまず出発した。続いて、実平が出発する。実平隊は旗竿を多く立てて、義経がいる様に偽装を行った。一方浪戸たちは、目立たず静かに南下する。

 浪戸たちが進むうちに、途中で道が途絶えた。雪の積もった険しい崖に、動きが鈍る。敵と戦って死にたい、こんなところで死にたくはない、と、武士たちも口を歪めた。

「ではどうする」

先頭を行く浪戸が、振り返って尋ねる。

「この高綱に任せるとよい」

イケズキに跨った高綱が、手綱を握ったまま胸を張った。

「坂東武者の高綱が、丹波の山の案内が出来るはずがない」

スルスミの馬上から景季が言い返す。

「昔から、吉野、初瀬の花の季節は歌人が知る。敵が籠城した後方は剛の者が知ると言うでしょう」

「何言ってるんだか」

無駄口を叩きあって笑いが漏れる。険悪な表情の武士の口元も緩んだ。

「父から聞いた事があるのですが」

一人の若武者がおずおずと発言を求める。

「山越えの狩りをしたり、敵に襲われたりして、山深くに迷い込んだ時は、老馬を先に追い立てれば、必ず道に出ると教わりました」

フムン、与一が鼻を鳴らした。

「雪が降り積もっても、老いた馬なら道を見わけると聞きますね」

早速、部隊の替え馬から老馬を選び出すと、先頭に追い立てて、未踏の地に前進する。

 ところどころ、雪は途切れ、早い花が咲く谷を抜け、

 霞に視界を奪われ迷ったり、

 苔に馬の足を取られたりしながら、義経隊は前へ進んでいる内に、夕方になり日が沈んだ。足元もおぼつかず、野営せざるを得なくなる。

「ここで食事をする」

浪戸が宣言し、野営の用意を開始する。夜露を凌ぐテントは無い。木を切って敷き詰め、枯れ枝をまとめて火をつけた。湯を沸かし乾飯をふかしなおす。温かいものを胃に入れると、少し人心地ついた。

 ちょっとあたりを見てきますねぇ、と、弁慶が出かける。

「足元に気をつけるんだぞ」

常春がライターで火をつけて、松明を渡した。

「ありがとうございますぅ」

常春も、シヅカと一緒にあたりを少し偵察する。足元に気をつけろと言った常春が、何度かつまずいてシヅカに笑われる。そうこうしている内に急に視界が開けた。明石の海が見える。

「あれは」

大輪田の泊から明石にかけて、かがり火が海一面に広がっていた。平家の船が、瀬戸内を埋め尽くす。

「きれいだな」

常春は思わず呟いた。

「兄ちゃん、それどころじゃないっしょ」

シヅカが呆る。確かにそれは全て平家の海上兵力、のんきな事を言っている場合では無い。あれだけの敵がいる証明だった。

 さて戻ろうか、

常春は、誰にも話しちゃ駄目だよ、とシヅカに口止めするとキャンプに戻る。あれだけの兵力を、これから波戸は少数の奇襲で敗走させるのだ。なんとも凄いじゃないかと常春は身震いした。

 しばらく経って、弁慶は小さな老人をおぶって戻ってる。このあたりの猟師だと、もごもご自己紹介した。

「一の谷まで出たい。道はあるか?」

浪戸が尋ねる。

「とても無理ですなあ。三十丈(90メートル)の谷や十五丈の岩先が続きまして、簡単に人の通る道はありませんで。まして馬は」

聞き取りにくい口調で答える。

「鹿は通る?」

ああ、鹿ならば、と猟師は笑った。通りますとも、温かくなれば飾磨から丹波へ抜けますし、寒くなれば丹波から戻りますなあ、と、自信を持って答える。

「鹿が通るなら馬も通れるとも。道案内せよ」

「わしゃ歳老いての、とても無理ですなあ」

爺さん子供いるだろ、常春が尋ねた。おりますよと返事が返る。明日の朝連れて来ましょう。弁慶は、軽々と老人を背負うと、山の中に消えた。

「アンタ、なんで子供がいると思ったのよ」

海尊が尋ねる。

「なんでって」

平家物語のそのくだりを、たまたま覚えていた事は話せない。爺さんが山の中で独りだけってのは、無理があるだろう、と答える。

「ふーん、まあいいわ。ともかく、今日は寝ましょう」

海尊が納得し、その場はお開きになった。誰もが軍装を解かないまま、横になる。

「兄ちゃん、何だかどんどん道が酷くなるけど、大丈夫かなぁ」

シヅカがべそをかいた。確かに体力的にきつい。手綱を握ってくれて、ありがとな、と常春は言った。

「そんなのはどうでもいいんだよ。でも、どんどん山奥に入ってるみたいで」

常春の知識では、道案内が義経一行を鵯越に連れて行き、その後平家物語の見せ場、逆落としになるはずだった。その案内人が見つかった。

「大丈夫、明日には一の谷に出るはずだ」

そっか、起き上がって、常春は浪戸のところに行く。

「何だ」

人目を避けて耳打ちする。分かった、と返事があった。浪戸が立ち上がる。

「みんな、よく着いて来てくれた。強行軍だったが、明日の夜には一の谷に出る。攻撃開始日にも間に合った。すべてみんなのお蔭だ」

誰もが耳を傾ける。

「次は行軍ではない、戦闘だ。存分に腕を振るってくれ」

疲れ切ってはいたが、静かに意気があがる。人間は想像する生き物だ。昨日も今日も神経をすり減らす行軍だと、明日も明後日もそれが続くと想像してウンザリしてしまう。明日、いよいよ戦闘だと思うと、それまでの行軍も苦にならなくなる。目途がつけば気分は変わるものだ。

「兄ちゃん、凄いね」

空気が明るくなったのを感じて、シヅカが耳元で小さく囁いた。徹夜仕事が続いた時に、上司から教わったんだよな、常春は、まるで何十年も昔の事みたいに、会社勤めを思い出した。


 翌朝日の出前に、約束通りに弁慶が一人の若者を連れて来た。常春の予想に反して、十七歳の健康的に日焼けした女性だった。

「鷲尾」

ぶっきらぼうに名前を継げたショートカットの目つきの鋭いその女性は、義経の馬の轡を取ると、こちらへと引き始める。全軍が続いた。

 しばらく進むと、神社の前に抜ける。

「ここは?」

「多井畑厄神」

「ここがそうか」

常春は子供の頃、ここに来た事があった。昔の事でもあり、バスでぐるぐる回ったのでどのあたりか予想はつかないが、須磨の北の方だとは、うっすら覚えている。

「参ろう」

浪戸は、松に馬をつなぐと、鳥居をくぐった。社殿へ登る階段をさっさと進む。慌てて常春が追うと、弁慶も続いた。残された部隊は、小休止になる。

「弁慶は厄年か?」

「あらぁ、何だか失礼ですよぉ」

にこやかに肩を掴まれたが、強い握力に顔をしかめる。

「常春さんも、厄年を気にするのですね」

浪戸が珍しくおかしそうに口を挟む。。

「千年経っても、日本人は日本人だ。気にしない人もいるけどな」

「日本人。そう、そうですね」

階段を登り終えて、社殿の前に立つ。

 はっきりした色だな

常春の印象では、もっと色が落ち、歴史を感じさせる建物だった。目の前の社殿は、当たり前だがまだ真新しい。

「義経判官、お迎えしたよ」

鷲尾の娘が関西アクセントで呼ばわる。

「これはこれは」

慌てて神主が出て来た。

「時間が無いので、申し訳ないがご挨拶だけさせて頂く」

「これから戦に行くのよぉ。だから武運を祈ってねぇ」

浪戸と弁慶が話す。

「古くは源為義殿が、京都は六条西洞院の自邸に祀られていた、石清水八幡宮の分霊である左女牛八幡宮を勧請しお祀りしたこの神社、必ずや義経殿にお味方する事でしょう」

元々神功皇后の行宮が所在した霊地であり、神功皇后は三韓征伐の皇后、と神主が続ける。

「よろしく頼む」

息の継ぎ目で口を挟んで話の腰を折ると、浪戸は社殿に向かって手を打った。手を合わせて動かない。弁慶と常春も手を合わせる。一分程して、ようやく浪戸は手を離すと、深くお辞儀をした。

「祈祷はお任せください」

神主は、力強く頷いた。


 ヒヨヒヨ

行軍中、のどかに鳥の鳴き声が響く。

「ヒヨドリか?」

浪戸が尋ねた。

「この辺り、鵯越って名前やねん」

関西弁でぶっきらぼうに、鷲尾の娘は答えた。

「一の谷は南の方か」

「うん」

罠を仕掛けに、一の谷まで行った事もあるという。案内役には最適だった。

 案内は良かったが、道は険しい。断崖絶壁を覗きながら進む。時折馬が足を滑らせた。谷に何騎か転がり落ちる。馬や人の救助を行う度に、時間が遅れる。それでも部隊は前進した。三十騎以上が脱落した。それぞれの配下が救援に手を取られる。連れて来た一割程度を失った。

 まる一昼夜、夜通し行軍して、ついに七日の夜が明けた。まだ着かない。開戦に間に合わなかったか、そんな落胆ムードが広がる。間に合わないのか、何かすべき事を見落としたか、と常春の表情も浮かない。

「こうなったら、義経殿を信じるのみ」

断崖絶壁にイケズキを扱いきれず、馬から降りてくつわを引いていた高綱が、大声で鼓舞する。

「そうだな」

賛同の声があがる。浪戸は、それらに答えず、黙々と進んだ。

 風に乗って、やまびこに乗って、合戦の声が聞こえてくる。

「慌てないで、主役は遅れて登場するものだよ」

与一が声を掛ける。後は着実に進むのみであった。

「信じる心が肝要」

今朝のオミクジアプリを、常春は思い出す。時として、恐ろしい程にそのアプリは適切なメッセージを伝える。浪戸を信じよう。そうだよね、と手綱を握ったシヅカが元気に答えた。

「んふー、前進だよ、兄ちゃん」


九 インターバル 一二の駆け、二度の駆け


 義経一行が夜通しで一の谷を目指していた頃。

 熊谷直実なおざねは、負傷者と一緒に三草山に残されている。平家と源氏の間で主君を変え続けて下がった評価を逆転しようと勇んでいたが、結局居残り組に配属されて少々腐っていた。

「まあ仕方が無いか」

同期の平山季重すえしげに愚痴でもこぼそうと立ち上がる。

「おや」

季重は、寝床の用意をするどころか、装備を身に着け馬の横で立っていた。様子を伺う。

「何時までこの馬はメシを」

下男が飼葉かいばを食べる馬を叩こうとしたのを、

「そんな事をするな。スエは明日死ぬかも知れない。馬の名残も今夜だけだろう」

季重がやめさせる。メカスゲと名のついた駿馬であった。

 抜け駆けする気か

何もこんなところで負傷者の世話などする必要はない。直実は慌てて取って返すと、五名しかいない部下に声を掛け、愛馬ゴンダクリゲに鞍を置いた。

「そっと出るぞ」

道の険しい方に進んだ義経を追うのは難しいが、軍監実平さねひらの進んだ方向なら夜でも進める。直実はこっそりと、季重より先に出発した。


 翌二月七日。日の昇る前に直実は、僅か六人の軍勢で一の谷の西門に立った。

「静かだな」

直実は呟いた。午前五時。真っ暗だった。総攻撃開始時間は、日の出の予定だった。味方の陣地も敵陣も静まり返っている。

「武蔵国の熊谷直実、一ノ谷の先陣である」

木戸の傍まで近寄って、大声で名乗る。それでも、敵陣からの応答は無い。

 手持ち無沙汰で、少々バツも悪くなってきた頃。

 後ろから、一騎、近づいて来る。

「誰だ」

「スエだ」

季重が追いついてきた。

「季重殿か。直実だ」

ああ直実殿かと、季重が馬を寄せた。

「何時からいる?」

先刻せんこくから」

そうかぁ、と季重が溜息をつく。自分ももっと早くに来ればよかったのだけど、別の同僚に騙されたと不機嫌だ。

「一番乗りを焦ってはいかん。味方が一騎もいないのに敵陣に駆け入って討たれたのでは意味がない、と言われたものだから、そうだなあと思って味方の軍勢を待っていたら、こっそり追い越して行くものだから、こっちも馬を走らせて、追い抜いてきたんだ」

見れば、駿馬メカスゲは身体から湯気を上げていた。

「追い抜いてきたのか」

「そろそろ追いつかれるだろう」

それは難儀な事だったな、と、直実は含み笑いをした。


 黎明。直実はもう一度木戸に向かった。

「武蔵国の熊谷直実、一ノ谷の先陣である。平家の侍の中に、我をという者はいないのか」

「夜通し喚いている熊谷ってのはお前か」

木戸が開いた。二十騎ばかり、飛び出してくる。

「保元、平治の合戦に名を挙げた武蔵国住人、平山季重」

遅れて季重も名乗ると参戦した。乱戦になるが、二人とも年季が入っている。若さは無いが技は巧みだった。

「そんなへなちょこな矢が通るか」

射掛けられた矢を躱し、鎧で受け、直実が突進する。至近距離で弓を射る。

 どう

喉を射抜かれた一人が、音をたてて馬から落ちた。詰め寄る別の馬の腹を蹴り飛ばす。棹立ちになった馬から武士が振り落とされた。徒歩かちの配下が喉を掻ききる。

 ひゅん

季重の弓が、今度はその歩兵を狙って太刀を振り上げた、別の平家方の顔を射た。

「スエ、助かったぞ」

直実が季重を狙っていた弓の前に馬を押し込むと、太刀で叩き斬る。

「ナオもやるねえ」

いい歳なんだから無理をするなよ、お互い様だ、と言い合いながらの連係プレーで、あっという間に平家の戦力は数騎になり、門の向こうに逃げ帰った。

「おいおい、こんなのを倒しても名誉にならん。組み合え。名のある武士はいないのか」

鎧に矢を突き立てたまま、直実が馬を下りてののしる。

「うるさい奴だ」

再び木戸が開くと、別の武士が静かに出て来た。

「お前が相手か」

直実は太刀を構えた。暫く睨み合う。が、その武士は踵を返すと、木戸に向かった。

「どういう事だよ」

黙ったまま、去ってしまう。

「何あれ?」

「さあね」

閉まる前の木戸に、季重が馬のまま突入した。直実の配下が素早く走って木戸を確保する。直実は馬に飛び乗ると後に続いた。

 城の中では馬に乗る者は少ない。平家の歩兵は季重のメカスゲ、直実のゴンダクリゲに蹂躙される。

「撃て、射殺せ」

掛け声は威勢がいいが、走り回る騎兵に矢が当たらない。季重と直実は、刃こぼれした太刀を仕舞い、相手の太刀や槍を奪って駆け抜ける。しかし。

「増援、増援」

平家方は、少数の突入部隊に対し予備戦力を投入した。矢の飽和攻撃を受ける。防備の無い馬が矢を浴びて動きを止めた。

「潮時だな」

直実と季重は馬を捨てて木戸に移動した。扉を守る直実の郎党と合流する。矢はとうに尽き、何度目かに奪った槍も折れた。日が昇る。


 日の出より少し前。先に突入した二人を死なせまいと、軍監実平さねひらは、一の谷の西門から総攻撃を開始した。木戸を事前に確保していたお蔭で、全軍馬ごと城内に乱入する。

「突撃」

数では劣るが突破力のある源氏の騎兵は、平家の雑兵を蹴散らしながら前進した。すでに一番乗りは直実と季重に決定した。後は、名のある武士の首級をあげる名誉しか残っていない。敵を求める叫び声が交差する。そんな中、直実と季重は開け放した木戸の脇にしゃがみ込んだ。鎧に刺さった矢を引き抜く。何本かは身体まで貫通していた。

「いや、お互い若くないね」

顔をしかめつつ笑う。

「その通り、後は他の連中に任せよう」

へっと直実。

「まだ誰の首もあげていない。もうひと働きだな」

そう言いながら立ち上がった。

「訂正、ナオは若いよ」

季重が笑う。


 遠く須磨の方向、西門のあるあたりから、馬の蹄の音や怒号が響いてくる。

「気の短い事だ」

戦場の東側。生田川を挟み、生田の森を見やりつつ、本隊の軍監梶原景時かげときが嘲笑った。簡易な物見櫓やぐらを立てて、総大将の源範頼のりより、幕僚たちと居並ぶ。

「義経はまだ子供だ。我慢できずに漏らしおった」

全軍に広まる事を期待して、部下の前で揶揄する。そこに義経がいない事は知らない。

「では我々は」

幕僚に一人が確認する。

「暗いところでは乱戦になる。日の出を待つ」

よろしいですな、と範頼に声を掛けた。範頼は鷹揚に首を縦に振る。義経とは反対の、任せるタイプの大将だった。景時としてはやりやすい。

「こちらは統制の取れた、王道の戦をご覧にいれよう」

義経の奇襲好きに対抗心を燃やしつつ、景時は誰にともなくそう言うと、にやりと笑った。


 この時代、武士であれば一番乗りは名誉な事、それを気が短いと評すなら、誰しもが気が短かった。

 本隊の武士に、河原太郎がいる。特に目立った家系でも無い。戦果でも風貌でも取り立てて目立ったところの無い武士だった。力は強い。那須与一と同じ五人張の弓を引く。この太郎が弟の次郎を呼び寄せた。

「大将は手を下さなくても、郎党の活躍で名誉になるが、武士は自分で手を下さなくては名誉にならない。待たされるのには焦れた。これから独りで暴れて来る。生きて帰れるとは思わない。お前はここに残って、俺の一番弓の証人になってくれ」

それを聞くと、次郎は涙を流す。

「別々のところで戦死するより、一緒に死にましょう」

そう答えると下男を呼び寄せて遺言を書き、馬にも乗らず、こっそりと部隊を抜け出した。

 浅い川を静かに渡ると、馬を防ぐ逆茂木というバリケードが広がる。先を尖らせた杭をテトラポッド風に束ね、馬の障害物としている。それを登り越えた。

「生田の森の先陣は、武蔵の国の河原太郎、次郎」

二人で大声で叫ぶ。平家側からは笑い声がした。たった二人で何が出来るか、と。

「笑われました」

「なんと屈辱」

二人は力いっぱい弓を射た。常春の用意した弓胎弓ひごゆみ程ではないが、与一と同じ五人張、恐るべき威力を発揮する。次々と平家方が討たれた。矢の応戦になる。そのうちに、平家方の矢が太郎の胸を貫き、次郎が駆け寄った。兄を肩にバリケードを越えて自陣に戻ろうとするところを、弟も右膝を射抜かれる。平家の雑兵が太刀を抜いて集まった。

「立派に死にましょう」

こと切れた兄をそこに置くと、次郎も太刀を抜く。

「覚悟」

「覚悟するのはそっちだ」

次郎は道連れを一人でも増やそうと、絶望的な戦いを始めた。


 すぐに二人の下人が、先駆けて名誉の戦死を遂げた兄弟の名前を触れて走る。

「これは不覚。動くなと命じたのに」

景時はそれを聞くと、逆茂木の除去を急がせる。させまいとする平家方と弓を射掛けあいながらも、障害物の堤に切れ目が出来た。

「先行する」

景時の下の子、平次が部下に声を掛け、先頭切って馬を走らせる。その数五百騎、太郎次郎の仇討とばかり、生田の森の陣地を蹂躙した。

「平次殿、お戻りください。後詰も無しに先行しても、褒賞は出ないとの命令です」

誰かが声を掛ける。平次が馬を停め、振り返った。

「もののふの

取り伝えたる梓弓

引いては返すものならばこそ。

一度放った矢は戻りません、と、父にお伝えください」

と言い捨て、部下を連れて再び突進する。

 その景時は、櫓の上から戦場を見下ろしている。障害物を取り除けと命じたが、開戦は日の出からのつもり。誰が先行したのかと、景時は顔をしかめた。

「梶原五百騎、交戦中です」

伝令が櫓の下から叫んだ。平次殿から、と、先刻さっきの歌が復唱される。

「息子を討たせるな」

このままでは見殺しになる、景時は職務を放棄して櫓を下りると、自分の馬に飛び乗った。逆茂木を馬ごと飛び越えて、戦闘の渦中に参戦する。梶原五百騎に指示を与えながら、自分も弓と太刀で血路を開いた。

「一旦引け」

部隊を統率して引き上げると、下の息子の姿が無い。

「余りに先行して討たれたのでは? 姿が見えません」

と誰かが答えた。

「子が討たれて親が生き残っても意味が無い」

景時は歯噛みする。手綱を握りしめると、再度戦場へと取って返した。

「我々も」

五百騎の生き残りも、負傷も顧みず後を追う。この時の景時は、少々陰気で策を弄す普段とは異なり、子を思う父親そのものだった。

「何時もこんな感じならよいのだが」

そんな陰口も叩かれたが、景時としてはそれどころでは無い。鐙の上に立ち上がる。

「東国に聞こえた一騎当千の梶原景時。我と思うものはかかって来い」

そう叫ぶと、薄明りの射した戦場を、縦横無尽に走り回って息子の姿を探した。

「討ち取れ」

平家方が景時に注意を向ける。雨あられと吹き付ける矢を、兜と鎧で躱す。近寄る馬の尻を蹴り飛ばし、突き出される槍を太刀で切り落としながら、馬を奥へと走らせた。

 やがて、平次を見つける。すでに馬は失っていた。兜も無い。百メートルばかりの崖を後ろにして、五人の敵に囲まれていた。

「生きていた」

景時は叫びながら馬から飛び降りると、いきなり一人を袈裟がけに斬り倒す。

「いいか平次、景時が来たぞ」

もう一人と太刀で打ち合いながら、景時は平次に話しかけた。

「死ぬ時も、敵に背を見せるな」

正面から打ち合った相手を蹴り飛ばすと、横から斬りかかった別の武士の太刀から身を躱しつつ反撃。たちまちのうちに、二人目を切り捨てる。

「はい」

そう答えながら、平次も一人、岸に突き落とした。二対一。形成が逆転する。

 はっ

景時が重い太刀を振り切り両断、動く者はいなくなった。

「進むも引くも時によるぞ。さあ来い平次」

二人して馬に跨り、戦場を離脱する。


 軍監がいきなり戦場に乗り込んでしまったので、櫓の上で、源範頼は困った。

「さてどうしたものか」

残された幕僚に尋ねる。

「夜が明けます」

確かに、白々と夜が明けつつあった。それでは手筈通り攻撃を行うか。範頼は立ち上がって太刀を抜く。前へと大きく振り下ろした。

「進軍」

鬨の声があたりを揺るがす。源氏勢五万、平家勢の東門に詰めた同数の戦力が、生田の森で激突する。

 この時代の戦いの基本は混戦だった。ある程度の指揮は総大将が命令するが、現場判断でただ斬り合う。双方合わせて十万の軍勢が、生田の森にひしめき合う。雨の如く矢が降った。

「義経は役に立たん」

櫓に戻った景時が吐き捨てる。西門からの実平軍の攻撃も果敢ではあったが、平家の予備兵力を引きつける程ではない。西門を堪えつつ、東側で一旦広い懐に引き込んでから源氏をすり潰す、平家側の戦略は徐々に成功に近づいていた。景時としては、少ない戦力同士がぶつかりあう前線を作るつもりだったのだが、平家は意図的に漏斗状に布陣。源氏は全軍を深い縦深陣地に飲み込まれてしまい、予備戦力を確保出来ないでいる。

「囲まれたな」

生田の森に、源氏の白旗がひしめき合い、平家の赤旗が三方からそれを取り囲む。個々の戦いには強くても、囲まれると不利だった。更に平家勢には予備部隊も存在する。

「矢は足りているか」

平家側の弾幕は薄れないのに、源氏側からの撃ち返しが減ってきたのを危惧した景時が確認した。もうありません、との返事が戻る。負傷者でかまわないから、巻き藁を盾にして前進させろと命じる。相手の射た矢を回収する。華々しく戦いたい武士にそんな作業をさせては嫌がるだろうが、背に腹は代えられない。

「姑息な。また評判がさがるな」

景時は溜息をついた。


 そうしているうちに昼が近づいてくる。籠城側の平家には矢の備蓄が充分にあった。予備戦力があれば、負傷兵や疲れた馬を後退させ、新手の元気な部隊を前線に送り込む事も出来る。軽傷者を下げて手当てすれば、再度戦闘要員として活用できる。一方攻め手の源氏は、全力を投入しているため長期戦になれば疲弊する。奇策で相手方から矢を補給しているものの、弾幕も薄い。

「馬を」

景時は、総大将範頼と自分の馬を用意させた。中央突破を行い、敵将を倒す以外に、形勢を逆転する方策が無かった。そのためには、総大将に馬に乗せ、味方の指揮を高める必要がある。

「梶原勢と、そうだな、三浦と足利を引かせて、体制を整えさせろ」

突破時の穂先とするため、屈強な部隊を一旦後退させて、再編する事を考えた。抜けた穴から崩れる心配もあったが、このままではじり貧になる。

「カバ殿」

景時は範頼に声を掛けた。

「押されております」

だから増援を待てばよかったのに、とは、景時は言わない。現状でベストを尽くすしかない。冷静に判断した結果、奇策を選択する。

「そうだな」

「中央突破して知盛とももりを討ちます」

若くして知将と名の通った敵将の名をあげた。

「分かった」

味方の士気を高めるため戦場に出て頂きますと、景時が要請する。

「それも分かった」

兜を用意させる。範頼も臆病では無い。動かないのは総大将の責任と心得、むしろこの時を待っていた。太刀の腕には自信がある。

「総大将が出陣される。一層の奮起を促せ」

景時は先に櫓を下りると触れを出し、馬に跨った。今日二回目の騎乗になる。梶原勢は数を減らしながらも戻ってきたが、三浦勢は半分、足利勢は戦場から戻っていなかった。これら寡兵で、敵本陣を目指す事になる。

 後は勢いだ。何かきっかけが出来ればよいのだが。景時は手綱を握りしめた。


十 『吉凶:禍福はあざなえる縄の如しと申します』


 昼をまわった。

「この山の向こう」

案内人に教えられ、最後の山を越える。

 途端。激しい叫び声。馬の蹄の立てる音。刀の交差する金属音。

「着いた」

常春が言葉を漏らす。

「着いたって、何よこれっ」

海尊が大声を上げた。

 目の前には要塞化した旧福原京の内裏。港にまっすぐ続く道。完成した、あるいは途中で放棄された建物の数々と、要所要所に急造したやぐら。浪戸の狙い通りに本陣の裏に辿りついた。しかしそこは切り立った断崖。

「こんなに、あるのか」

想像以上の実物を見て、常春は息を呑む。スキーで滑る程度の坂では無い。ロッククライミングで登る傾斜だった。それが見たところ二百メートル以上、続く。

「他に、道は無いか」

「下には降りた事あらへん」

何処かで間違えたか、それともここが鵯越そこなのか、常春は迷った。

「押されているわねっ」

海尊が冷静に生田の森を見やる。赤い平家の旗が、白い源氏の旗を取り囲んでいた。目を凝らせば、飛び交う矢の数も源氏側の劣勢。

「軍監のおっさんも苦戦しているな」

実平さねひらに率いられた部隊も、西門付近に貼りついたまま。数の少なさからすれば奮戦しているが、それ以上は攻めあぐねていた。

「あれを見よ」

戦況には目もくれず、崖下ばかりを睨んでいた浪戸が声を上げる。軍勢に驚いた鹿が、二頭、谷底へと走り抜けて行った。無事崖下に辿りつく。と、射られて倒れた。下に平家方が待ち構えているらしい。

「鹿も四足、馬も四足」

そう呟きながら、予備の馬の尻を叩く。続けてもう一頭。バラバラと石を落としながら、二頭は下へと進んだ。やがて一頭は転落するが、もう一頭は無事に崖をおりきった。

「行けるぞ」

どうだとばかり、浪戸は配下を見まわした。

「自信がなければ道を探せ、義経は行く」

そう言い捨てるとウスヅミに跨り、常春に目を向ける。

「これこそが電撃戦、そうだな」

自信に満ちた声。しかし瞳には迷いがあった。

「おう、正しいとも。鵯越の逆落とし、これで義経は歴史に名を残す」

常春の返事に凄味のある笑みを浮かべると、名こそ惜しめ、と浪戸は断崖へ身を躍らせた。

「例え義経殿であっても、一番乗りは譲らん」

景季かげすえがスルスミを追わせると、高綱も負けるものかとイケズキを進めた。連れて来た半分程の騎兵が、雪崩を打って前進する。後ろから駆け下りる者の鞍が先に駆ける者の鎧や兜に触るかのように密集し、声を潜め馬を励まし進んだ。

 これが逆落とし

常春は見下ろしながら震える。子供の頃に読んだ歴史物語が、目の前に再現されていく。

「兄ちゃん、どうするの」

シヅカが不安そうに尋ねた。我に返る。

「ああ、俺たちはいいんだ。する事がある」

あたりを見渡す。どうしたものかと逡巡する武士が残っていた。

「俺たちは俺たちに出来る事をしよう。手伝ってくれ」


 逆落とし組は、小石混じりの崖を二百メートル程度降りて、踊り場で一旦停止する。下を見れば苔のむす岸壁が、更に四十メートル程度、切り立っていた。

「これ以上は降りも登りも無理だ」

「ここまでか」

武士たちが顔を見合わせる。浪戸は崖下を睨みつけている。そのうちに奇襲に気づいた防御側から、散発的に矢が上がってきた。

「見苦しいぞ」

景季が声を張り上げた。

「国ではこんな道、ウサギ狩りで朝夕駆けている。この程度、田舎なら恰好の馬場」

一番乗りは貰ったと言い放って真っ先に駆けおりて行く。

「イケズキ、任せた」

高綱は馬にしがみつくと目を閉じた。馬に任せておりる事にする。浪戸もウスヅミに進めと命じた。残りの武士も勇気を奮い、或いは諦めて馬を走らせる。

「何時も世話になっているからな」

馬の前脚を肩に担ぎ上げて前進する力自慢もいる。

「進め、進め、転ぶ前に進め」

足を取られ転がる馬。馬に押しつぶされる武士。その間を、無謀にも真下に向かって本当の逆落としを行う騎兵もあった。運よく下まで走り抜け、そのまま敵陣の中に躍り込む。

 おおーっ

全騎、雄たけびをあげながら突進した。山に木霊して、何千何万もの鬨の声に増幅される。

 そして浪戸たちが逆落としを掛けている最中。

やぐらを狙え」

崖の上では、常春たちが組み立てた大型の弩が稼働した。巨大な鏑矢の先端には、通常の火矢の油紙だけでなく、鷲尾の猟師から調達した獣脂が押し込まれている。常春はやじりをライターであぶった。

「撃てっ」

居残り組の武士がトリガーを引く。

 バシッ

防盾を吹き飛ばして矢が櫓の床に刺さる。火が回る。矢をつがえていた守備兵は、櫓から転がり落ちた。

「次、寝殿を狙え」

再び矢に火をつける。油が滴って、じゅうじゅうと音を立てた。

「撃てっ」

板の戸を突き破って、床に刺さった。油がはぜて、火の回りが早い。

「撃てっ」

三本目の矢は別の屋根を突き破った。建物から煙が上がる。

「各個射撃開始っ」

弓胎弓ひごゆみであろうと、高度差のある射撃であろうと、遠射では弓にそれ程の威力は無い。代わりに常春は、すべて火矢とした。敵陣を次々焼いていく。

「やるじゃん」

海尊が傍らに立って、常春の頭に腕を巻きつけると、空いた握り拳でグリグリとやった。

「ちゃんと名前を記録しといてやるわよっ」

だから海尊ちゃんにも撃たせなさいよ、と上機嫌だ。

「兄ちゃん、次の準備オッケーだよ」

シヅカがクランクを巻き上げた。鷲尾の娘が、油紙と獣脂を矢先に押し込む。

「海尊、任せた」

ヘッドロックから抜け出すと、穂先をライターであぶった。火がつく。

「行っけーっ」

射手を変わると、弓兵の一群に目掛けて重い矢を放つ。はじけ飛んだ炎が、何人かに燃え移った。

「焼き払いなさいっ」

戦局は逆転しつつある。


 黒煙があたりを暗くする。獣脂を詰めた火矢は、踏んでも叩いても簡単には消せない。太平洋戦争中の焼夷弾に、油脂が詰められていたと聞いた事がある常春の発案だった。狙い通り燃え広がる。平家の将兵は燻されて、明石の海へと撤退を開始した。

 本陣の動揺は前線にも伝わる。平家優勢であった生田の森の戦いも、突然壊走が始まった。

「義経かっ」

突撃準備をしていた景時かげときにも物見櫓の幕僚から、城塞に火の手が上がったと報告がある。スタンドプレーは癪に障るが、待っていたチャンスでもあった。

「カバ殿」

範頼のりよりが鷹揚に頷く。

「雑兵に目をくれるな、中央を突破して、平知盛とももりの首をあげよ」

再編成された三千騎の兵が叫んだ。楔形の陣形で森に入る。集団を槍とすれば、穂先には軍監景時、柄には総大将の範頼が位置した。そのままの隊形で、騎兵集団が突進する。

「続け」

源氏の武士を吸収しながら、勢いよく走り抜ける。踏みとどまって迎え撃つ平家の部隊と散発的な戦闘も起こるが、本陣が海へと撤退しつつある平家方の大半は、士気が下がっていた。突入部隊の先頭は、壊走する平家軍と並走する。

 勝負あった馬を駆りながら、景時は思った。


 京都。

 正装した武士の一団が整列する。磨き上げた鎧兜が陽光に輝いた。騎馬、徒歩かち、それぞれに集団をつくり、五万を超える大軍が大通りを整然と行進する。

 先導するのは、佐々木高綱のイケズキと、梶原景季かげすえのスルスミ。黒と栗色、盾を兼ねた袖は臙脂えんじ色と、洒落っ気のある鎧の高綱と、鎧も馬も黒づくめの景季の対比が目を引く。

 本隊の中央には、総大将の源範頼のりより。騎兵、徒歩に十重二重と囲まれ、軍監景時かげときが脇に並んだ。直後に馬車。荷台では、捕虜になった平重衡しげひらが、肌着だけの姿で縛られ、さらし者になっている。震えているのは、二月の京都の寒さと恥辱の両方のためだった。討たれた平家の主だった人物は、最後尾の馬車でさらし首を並べている。

 常春の視点で見れば、生首を並べるのは相当に気色の悪いものであるが、当時としては特に珍しくも無い。観客からは、居並ぶさらし首に罵声と嘲笑が浴びせられた。驕れる平家久しからず、を実感させる。

 再び先頭へ目を戻すと、先頭集団の中央に、ウスヅミに跨る浪戸がいた。全身が朱塗の鎧。兜に取りつけたV字型の鍬形は純金製で、総大将よりきらびやかな装備を身にまとう。

 浪戸は、小柄な事、女性である事を隠すため、目立つ衣装でまわりに誰もおかず、自分の配下を後ろに並べた。一層引き立ったが、孤独にも見える。漆黒の鎧に眼帯の実平さねひらも、軍監でありながら浪戸には並べず、トモエを脇に従えて後ろの集団の中心にいた。

 俺はそんな柄じゃないからと、常春はパレードに参加しない。京都の住民に交じって歓声を上げる方に回った。鎧兜を身に着けている訳でもない。

「完全武装の大軍の前で、俺みたいな小物を狙う奴なんていないよ」

「常春さんはぁ、鵯越の重要人物なんですからねぇ、平家の残党に狙われますよぉ」

弁慶に無理やり押しつけられた簡易な胴巻き鎧を着物の下に身に着けているだけで、どうせ使えないからと短刀すら身に着けていなかった。

「シャッターチャンスがなぁ」

前後に走って、他の観客に怪訝な顔をされながら、スマートフォンに録画する。誰に見せる訳でもないけれど、現代人の常、撮らずにはいられない。

「険しい表情だな」

浪戸を撮りながら、改めてよく観察した。女性特有の身体のラインは余り目立たず、中性的に見える。目は険しく強い。思い詰めた心が示した強く結んだ口が、意思の強さを表現しているかに見える。

 歓声があがった。

 義経を演じる少女の精一杯の表情。事情を知らない人々には、少々孤独癖のある、凛々しく理知的な少年に見えた。義経の奇策がきっかけで劣勢の源氏が逆転した事は、すでに京都中に広まっている。若い英雄を一目見たいという人々で、沿道は埋められていた。

 目立ちすぎたかな

常春が危惧する。景時が機嫌を損ねるだろう。鎌倉対策をどうするか。そんな事を考えた時。

 わあっ

歓声では無い。観客から悲鳴が上がった。集団から距離を置いた浪戸の前に、何者かが立ちふさがる。

「天狗か」

浪戸が鋭く声を掛けた。天狗の面を被ったその人物は無言のまま、持っていた六尺棒で、馬の前脚を横に薙ぐ。

「何をする」

浪戸は鋭く手綱を引いて攻撃を避けた。馬が態勢を崩して棹立ちになる。飛び降りた。

「覚悟」

更に薙ぐ。

 ガン

重い棒を受け止めたのは、飛び込んだ常春だった。反射的に手を振り上げ、脇で受ける。

 ぐっ

弾き飛ばされた。鎧をつけていても、息が出来なくなる。しかし常春の乱入のお蔭で、浪戸は太刀を抜く余裕が出来た。ためらい無しに斬りつける。天狗は後ろに大きく飛んだ。

「死んじゃえっ」

馬に乗ったままの海尊が左から、弁慶が右から同時に薙刀を突き出した。更に天狗は後ろに飛びのく。飛んだ先へ、引き返してきた先導の高綱が太刀を振り下ろした。後ろからの一撃を、振り返りもせずに紙一重で躱す。

「その本気、見届けた」

天狗はそう言い残すと、観客の中に飛び込んだ。馬での追跡は市民を蹄に掛けてしまう。実平が指揮を執り、徒歩組が後を追った。弁慶、海尊が浪戸を守り、後続の騎馬隊が取り囲む。

「しっかりして」

浪戸が常春を抱き起す。気を失っているとみるや否や、平手で往復ビンタを食らわせた。

「痛っ」

常春の意識が戻る。

「莫迦」

浪戸は泣きながら常春に抱き着いた。イタタ、肋骨にヒビが入るかどうかしたらしく、常春は悲鳴をあげる。

「どうして無茶な事を」

さあ、と常春は答えた。

「考えてみりゃ、義経の方が遥かに強いんだし、俺の出る幕なんて無いんだよな」

と反省する。

「車の前に子供が飛び出した時みたいな? 誰だって反射的に身体が動くって感じ?」

そう答えた常春は、ボトリと落とされた。

「痛っ」

「そう、そうですよね。私は子供ですからね」

浪戸は立ち上がると、弁慶、海尊に常春の面倒を押し付ける。

「手間取らせて悪かった。続ける」

何事もなかったかの様に馬に跨った。全員散開する。わあーっと歓声があがった。


 天狗の行方は分からない。

「どういう事だろう」

 その本気、見届けた

身を挺して浪戸を守れって事かと首を傾げる。もっと穏当な確かめ方があるだろうにと、身体を布でぐるぐる巻きにした常春は思った。骨折の経験は無いから、折れているかどうかは分からない。肋骨にヒビぐらいは入っているのだろうと思う。身体を動かすと、添え木が当たって痛かった。

「兄ちゃん、無茶しちゃ駄目だよ」

シヅカが絞った手拭いを額に乗せる。熱が出ていた。

「いや全く」

内臓に酷い障害が無さそうでよかったと思う。試したと言うなら手心を加えたのかも知れないが、内臓破裂もあり得た一撃だった。

「兄ちゃん、話題になってるよ。ニクイねえ」

突然の天狗の襲撃と義経を守った人物は、ちょっとした話題になっていた。常春は、任務を果たした忍者扱いになってる。義経が常春を抱きかかえて涙を流した事も、意外にも好評価された。冷たい印象のある義経だったが、意外と人情に篤い人物として好まれたらしい。

「但しイケメンに限る、だろ」

ブサが泣いても誰も喜ばんだろう、と常春は思う。その後常春を取り落としたところは囲んだ警護兵によって人目に触れなかったお蔭で、義経の好印象が維持された。

「後ね、兄ちゃんも、シヅカもね、んふー」

宮中では、シヅカは義経の小さな愛人として、常春は同性愛の相手として挙げられているらしい。そして宮中の噂話は、下働きを通じてすぐに市中に広がる。

「二人とも、有名人だしょ」

「ロリコンでBLかよ」

義経には、かなりエキセントリックな設定がつけられている様だった。それが悪評で無くおもしろがられるあたり、京都の人間はかなりマニアックだと常春は思う。

「ロリコンてなぁに?」

「ちっちゃい子供が好きって事だよ」

「うあうあ、しずぽん、ちっちゃい子供じゃないよぉ」

子供じゃないと言えば、と、常春は思い出す。

 車の前に子供が飛び出した時みたいな?

別に浪戸を子ども扱いしたんじゃないんだけどな。常春は苦笑する。浪戸は何時もいっぱいいっぱいだから、言葉には敏感なのかもな。身体を起こしてみた。息が苦しいが、動けない事もない。

「兄ちゃん、無理しちゃ駄目だって」

「浪戸・・・義経の様子を見に行かないとね。疲れが溜まってたみたいだし」

ちょっと待ってて、代わりに様子を見てくるよ、シヅカは常春を押し留めると、部屋を出て行った。義経の部屋に自由に出入りできる二人は、世間的には愛妾なのかも知れない。そうであれば、二人の愛人が同じ部屋なのも、かなりのドロドロした状態と思えた。世間では夜も三人でどうとかこうとか想像しているのだろうか。頭に浮かびかけた映像を追い払う。


 しばらくすると、シヅカは浪戸を連れて戻ってきた。いや、こちらから出向かないと格好がつかないでしょうと常春が抗議すると、

「通うのは男の方から、ですから」

浪戸はそんな言い回しをする。

「兄ちゃんとしずぽんは、愛人だもんね」

常春は肩を竦めた。その扱いだからこそ人払いにも理由が出来て、浪戸が素に戻れる利点もある。

「それより、あの、大丈夫、ですか」

浪戸は常春の身体を気遣う。多分手加減したんだろうと、常春は答えた。天狗にまで気を使わせるなんて、兄ちゃんは凄いんだねーとシヅカが感心する。

「頭を打ったかな」

「子供扱いするからです」

浪戸はむくれてそっぽを向いた。

「オンゾーシは子供じゃないよねー」

シヅカが加勢する。

「ええ、結婚するぐらい大人です」

そう言うところが二人とも子供っぽいと言いかけて、ええっと聞き返した。

「結婚します」

重ねて答える。今日、武蔵国から志乃という十六歳の娘が、郎党を従えて嫁入りに出発したと鎌倉から連絡があり、祝言の準備中だと付け加えた。十日もすれば、京都に到着するだろう。

「なにそれ、急な話」

頼朝直々の急な手配。志乃の父親の妻が頼朝の乳母の娘で、義経の嫁に、と特に強く推薦している。頼朝に目を掛けられていると言えるし、血のつながりも深くなる。よい話だった。義経が男であれば。

「どうする?」

常春が眉をひそめた。身体が痛いのも、熱があるのもすっかり吹き飛ぶ。

「知恵を借してください」

堂々と結婚宣言をした割には、浪戸はノーアイディアだった。弁慶も海尊からも、よい案が出ていない。三郎は、いっそワシが頂いてと発言し、総スカンを食ったと言う。

「義経の目標はなんだ?」

常春が尋ねる。

「平家を倒す事です。変わりません」

間髪を入れずに、浪戸が答えた。

「それを言い訳にしよう」

常春が答えた。


 弟の河越重房しげふさが隊長を務める警護隊三十騎に守られて、志乃が京都に入った。

 義経の父親代わりをカバ冠者範頼が、志乃の父親代わりを軍監実平が行い、仲人は後白河法皇といったそうとうたる顔ぶれの結婚式となる。

 式は神式だった。厳かな式があげられる。正装した神主が祝詞をあげ、公家の正装をした義経と志乃が、神妙に頭を下げた。階位を貰っている義経と異なり、武士たちの正装は鎧兜になる。勇ましい出席者に神主は若干青ざめるが、無事に式を進行した。

「法皇って、出家してたよな」

列席する常春が小声で弁慶に尋ね、あたりまえでしょぉ、と返事を貰う。神道も仏教もごっちゃなところは、昔も変わらないんだなと、心の中で呟いた。

 式典が終わると披露宴になる。ひな壇に浪戸と志乃が並んだ。

「真にめでたい」

家庭を持ち、義経殿も少し落ち着くとよい、と、あたりを震わす渋い声で後白河法皇が挨拶をして、乾杯となる。

 めでたいと思っているのかどうか

常春は思った。義経を取り込むなら、自分の縁者から嫁を取らせたいところ。恐らく頼朝はそれを阻止するために、先に自分の縁者を娶らせたのだろう、そんな説を高校の頃に聞いた事があった。とは言え一夫多妻も珍しくない時代、後からもっと美人を送り込めばよいと、法皇は鷹揚に考えているのかも知れない。

 ひな壇で初々しくも緊張している二人を他所に、式は粛々と続く。範頼や実平の武士らしい短い挨拶の後、鼓判官知康ともやすの公家らしい長々とした挨拶が終わり、シヅカが結婚を祝う舞を踊って、ようやく食事が始まる。

「人前の食事って、無作法扱いなんじゃないのか」

「宴会はぁ、特別ですよぉ」

だから食べますよぉ、と常春の質問に弁慶が答えた。

「まあ、こんなものかしらね」

海尊が、言葉とは裏腹に次々と箸を進める。美味いらしい。三郎は銘酒がうまいと杯を重ねている。みっともない事にならなければよいと、三郎の配下の者に目を離すなと伝えた。

「さて、どうなんでしょうね」

会場の隅で、与一と常春がこそこそと話をする。

「話しも出来ないし、さっぱり分からない」

花嫁衣装に包まれた新婦は人形の様で、見た目からは何も分からなかった。性格は勿論の事、鎌倉から何を言い含められて来たのか、腹の中はもっと分からない。

「義経クンに負担を掛けなければいいんだけど」

「こら、そこの男二人っ」

人様の嫁の品定めをしてどうするの、と海尊に呼びつけられ、お互い苦笑して食事に戻った。

「常春殿」

声を掛けられて、一瞬誰だったかと思う。

熊谷直実なおざねです。本日は私どもまで招待頂きまして」

くたびれた口調に、ああ、何時か朝食時に話をしたなと思い出す。

平敦盛あつもりを討ち取って有名な人ね。ちゃんと報告書に書いてあげたわよっ」

記録を取っている内に事情通になった海尊がにやりとした。ははは、と直実は力なく笑う。

「実はその事で出家する事になりまして」

直実が意外な事を言う。

「敦盛殿を組み伏してみれば十六、七。息子と同い年、見逃そうとしたところ、他の源氏方も集まってきてそうも出来ず」

これまでもたくさん斬ってきたのですけど、今回は何だか辛くなりましてね。涙ぐみながら説明した。ああ、折角のお祝いの席に、辛気臭い話をして申し訳ありません。御武運と、戦乱の世が早く終わる事をお祈りしています、海尊に睨まれて、頭を下げながら直実は慌てて撤退した。

「湿っぽくなっちゃったわっ。臆病風に吹かれたってのよっ」

海尊の反応は、この時代の武士であれば普通だろうと思う。しかし常春の心には刺さった。敢えて考えない事にしているが、人を殺しているのは事実。

「まあ、そう言ってやるな。図太い者ばかりでもない」

漆黒の鎧で正装した軍監の実平が、海尊に声を掛けた。

「それにそちらのは、分からないでもないという顔をしているぞ」

アイパッチで隠されていない方の目を常春に向ける。

「まるで海尊ちゃんが図太いみたいじゃないのっ。アンタも出家しようって思う訳っ」

いやまあ、と勢いに気圧されながら、常春が苦笑いをした。

「戦とは、そういうものなんだろうな」

「そう、それが戦というものだ」

何男二人で分かり合ってるの、気持ち悪いっ、海尊の遠慮ない罵声を、実平は聞き流す。

「ウチのトモエも、ようやく仏門に入ってくれるんだよ」

なあ、と隠れる様に立っているトモエに声を掛けた。

「木曾義仲、今井兼平を弔う事にした」

抑揚のない独特な話し方で、トモエもぼそぼそと答える。

「はぁ? 勝ち逃げって訳? そんなの許される訳ないでしょっ。アンタは海尊ちゃんに倒されないと終わらないのよっ」

「良くわかりませんが、それなら私は何時までも終わらないという事」

「何、この場でやるってのっ」

「海尊やめろって」

常春が止めた。どちらが勝っても負けても義経に迷惑がかかると続ける。確かにそうね、海尊ちゃんともあろうものが、と海尊は思いとどまってくれた様だった。

「何時か決着をつけるから」

「承知」

肩をそびやかして、海尊が離れる。その勢いに人垣が割れた。

「トモエさんは、義仲、兼平とはどういう関係だったっけ」

やれやれと見送ってから、常春は改めて尋ねる。

「義仲は乳兄弟、兼平は実の兄」

そうか、悪い事したな。そういう常春に、トモエは首を振った。

「これが戦。人の一生は人には決められない。決められるのは生きざまだけ」

確かにそうかも知れないな、常春は同意した。確かに、自分がここにいるのは全く自分の意志とは関わりが無い。

「決められるのは生き様、か」


 その日は宴会で夜が更け、そのまま翌日の夕方まで続く。

 ようやくお開きになって浪戸が堀川館に戻ると、すでに部屋では志乃が待っていた。都会の貴族とは違って田舎の武家の娘、夫を他人任せにはしない。しかしそれでは浪戸は着替えも出来ない。弁慶を呼ぼうとして、着替えに妻を追い出して別の女性に手伝わせてるのはどうかと思い、結局、常春を呼ぶ。

「き、着替えますから、手伝ってください」

「あ、ああ、分かった」

「あ、あまり見ないで貰えると、嬉しいです」

「そ、そうだな」

なるだけ見ずに、着替えを手伝った。服を脱がせると、簡単に裸になってしまう。

「細いんだな」

近くで改めて見る浪戸の、胸にさらしを巻いただけの、何も身に着けていない後ろ姿。到底太刀で打ち合うとは思えない線の細さ。前後にはそれ程のボリュームは無いが、腰は更に細く、横のカーブが形作る柔らかいラインに目を奪われる。ついうっかり、口に出してしまった。

「えっ」

「あ、ごめん」

慌てて部屋着を肩に掛ける。浪戸も急いで帯を締めた。

「食事の後」

と浪戸は話を変える。シヅカと二人で、隣の部屋に控えるのを忘れない様に、と小声で念を押した。三人で考えた保険。

「分かった」

常春は廊下に出る。志乃が待っていた。

「私では、駄目でしょうか」

伏し目がちに尋ねる。

「公家は、奥さんに着替えとか用事をさせたりしないから」

「わ、私、お茶を入れるのは得意です。誰にも負けません」

「うん、喜ぶと思う」

宣戦布告みたいな志乃の宣言に常春はそう返して、その場を離れた。

 官位を貰った波戸が公家らしく食事も独りでとると、いよいよ志乃がお茶を持って部屋に入ってきた。二人だけで向かい合う。黙ったまま、二人でお茶を飲む。

「志乃」

はい、とつつましやかに答えた。

「何が欲しい」

浪戸は表情を動かさずに尋ねる。

「え」

不意を突かれた志乃は、頬を染めると俯いた。

「それを、ここで言うのですか。うう、恥ずかしいです」

そ、そういう事ではない。そうではなくて、と浪戸は珍しく慌てた。

「義経は兄頼朝にはよく思われていない。許可無しに官位を貰ったりしたからだ。その兄が、急に嫁を取れと紹介してくれる。不自然ではないか」

志乃は何かをしたり調べたりするために、望みもしないのに無理やりここに連れて来られたのではないか、と正直に尋ねた。

「そんな事ありません」

私は命令を受けてこなせる程器用ではありません。むしろ駄目駄目で、いらないから帰れと言われるんじゃないかと心配していました、そう話す志乃は、既に目に涙を浮かべている。

「二度も大きな戦に勝った義経様って、どんなに恐ろしい人だろうとびくびくしていましたけど、あってみると怖くなくって、えっと、怖くないってのは別に悪い意味じゃなくって、あああ、ごめんなさい」

「落ち着いて」

浪戸が苦笑する。

「分かった。志乃はただ単に、義経の妻になるために京へ来たのだな」

「・・・はい」

「分かった。ありがとう」

浪戸は、志乃の頭をほんぽんと叩いた。

「ひゃうっ」

「あ、痛かったか?」

「あ、あの、ちょっとびっくりしただけで。えへ、嬉しかったです」

満面の笑みを浮かべる。つられて、浪戸も笑みを浮かべた。

「あ、あの、ひとつだけ」

頼朝にではなく、父に命じられた事があると言う。

「早く孫を見たい、と」

真っ赤になって、志乃は下を向いた。そうか、と、浪戸は困り顔になる。

「志乃」

浪戸は彼女の両肩を掴んだ。ひゃい、と、裏返った声の返事。

「父義朝は、平治の乱の時平家に殺された」

「はい」

「義経は神仏に誓いを立てた。平家を滅ぼすまで、女性は抱かないと」

「・・・嘘」

そんな即答は常春と検討した想定問題集に無い。浪戸は狼狽する。

「平家を滅ぼしたい気持ちは本物。でも、他に理由があります」

目を見れば分かります、おとなしいかと思えば、意外にも頑固な反応。

「ならば仕方が無い」

浪戸はがらりとふすまを開いた。シヅカと常春が所在無げに立っている。

「嫌な思いをさせたくなくて、言いたくなかったのだけれど」

と続ける。

「実は、子供でなければその気になれない」

「それも嘘」

「更に本当は衆道の契りが」

「それも嘘。目を見れば分かるのです」

「嘘ではないのだ」

準備していた言い訳を、嘘の一言で片づけられた浪戸は涙目になっていた。

「それでは嘘ではない証拠を見せる」

浪戸は、常春の手を引っ張ると、いきなり強く抱きしめた。頭に手を回すと歯がぶつかる勢いで、唇を寄せる。

 んっ

たっぷり十秒間、浪戸はそのままの姿勢を続けると、十一秒後に呆然とする常春を勢いよく突き飛ばした。痛っ、常春は尻もちをつく。

「ど、どうだ、これでも嘘か」

「はい、嘘つきです」

志乃は震えながら宣言した。

「何を隠しているのかそれは分からないですけど、何かを隠すために嘘をついているのは分かります」

何時か私を信じてくれたら、教えてくださいね、と、笑顔を見せながら涙を流す。

「信じない訳がない」

浪戸は、優しい顔で答えた。

「でも今は言えない。何時か必ず話す。義経を信じてくれるか」

「はい、お待ちしております」

志乃は笑顔で答えた。

「兄ちゃん、恰好つかないよ」

腰をついたままの常春に、シヅカが手を差しのばした。

「常春さん」

そんな常春に、志乃が向き直る。

「私、負けませんから」

あ、ああ、うん、頑張れ、常春は、どうにもしまらない生返事を返した。思ったより柔らかい唇だったな、そんな感触を思い出しながら。


十一 インターバル 鎌倉


 鎌倉。鶴岡八幡宮。建物の奥深く、人払いされた部屋で、頼朝は独り香を焚く。陽の入らない暗い部屋。香の僅かな明かりだけが、梵字で埋められた鉢巻の青白い顔を照らす。

 ゆらゆらと上がる煙の中、やがて、人の影が浮かんだ。

景時かげとき

はい、と、影の人物が答える。

「あれは義経か」

「はい」

「奥州で殺したのではなかったか」

「・・・はい」

影が平伏した。頼朝は溜息をつく。

「清盛と同じ薬を飲ませました」

「しかし義経は死んではいなかった」

それで、と続きを促した。

「宇治川の合戦、一の谷の合戦で素早い動きを見せ、勝利を呼び込んでおります。軍事的才能に優れていると」

「京都でも人気か」

「後白河法皇の贔屓ひいきにて」

頼朝が顔をしかめる。

「軍師がついています」

「誰だ」

「片岡常春。強くは無いのですが、何かしらかの入れ知恵を行っているらしく」

片岡常春、頼朝は首を傾げた。反頼朝勢力の武士で、昔捕まえてさらし首にしたはずだが。同姓同名か? 他にその名前に覚えは無い。

「二人とも殺しましょうか」

「今はやめておけ、目立つ」

それより義経を利用せよ、と頼朝が指示した。増長させ、平家を攻めさせよ。

「いずれ義経は平家を滅ぼす」

あの生意気なガキめが、と、揺らぐ煙の中でも景時が鼻白らむのが分かる。頼朝は笑った。

範頼のりよりでも、お前の戦い方でも無理だ。京都の守りを範頼に任せ、平家追討は義経に命じる。平家を滅亡させるのは義経の仕事だ」

「それでは、益々義経の人気が上がります」

「それで構わない。不満かな」

おかしそうに頼朝が尋ね、いえ、と景時が答えた。

「煙越しでも、お前の仏頂面が分かる」

「あ、なんと申しますか、それにしてもこの鬼道きどう、薄気味の悪いものです」

景時は話をそらす。

「そうか? 義経なら、便利だと喜ぶだろうな」

香炉に蓋をすると、景時との通信も途絶えた。

「義経、英雄になるか」

頼朝が呟いた。計画の邪魔になる。早々に殺すつもりでいたが、ここまで有名になってしまえば、むしろ利用しようと思う。

 血縁もやっかいなものだな義経は頼朝の異母兄弟。この時代では、血縁を積極的に登用する事が自然だった。奥州で殺しそびれた。人目の少ない箱根で殺しておけばよかったのだが、今更。

 がらり後ろのふすまが僅かに開き、向こうから奇妙に平らな目が覗く。

「計画は上手く進んでいるのか」

大筋では、と頼朝は振り返らずに答えた。

「やがて平家も滅び、その後源氏も滅びましょう。その後もひたすら戦乱が続きます」

この国の人間が力を持たない事こそ我々の望み。ふすまの向こうから、もそもそと呟く声。

「お任せあれ」

頼朝は振り返って目を見据えた。鉢巻を取る。額の左右の小さな角が、青白く揺らいだ。


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