表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この歳になって源平合戦とか勘弁して欲しい  作者: 秋月羽音
一 『大吉:月並みですが、運命的な出逢いがあるでしょう』
1/5

一 『大吉:月並みですが、運命的な出逢いがあるでしょう』

この歳になって源平合戦とか勘弁して欲しい


一 『大吉:月並みですが、運命的な出逢いがあるでしょう』


 暑いな、背広の裾を引っ張りながら、片岡常春かたおかつねはるは呟いた。山手線は節電で、冷房は控えめ。クールビズなど異世界の話、ネクタイと上着は、八月だろうとセミが歌おうと、営業職必須のアイテムだ。

 あ、なんだかクラクラしてきた

関西から上京して独り暮らし。学生時代に付き合っていた彼女とも、仕事の忙しさにかまけ何時しか縁遠く、中堅と呼ばれる歳になったが出世街道からは遠い。同期の出世頭は課長だが、自分の名刺はまだ主任だった。

 変わらない日々

上着の胸ポケットからスマートフォンを出す。最近ダウンロードしたオミクジアプリを呼び出した。おっとりした女性キャラと一緒に、今日の占いが表示される。

『大吉:月並みですが、運命的な出逢いがあるでしょう』

社外に出るから出逢いもあるのだろうけれど、刺激は特に欲しくも無いなと思った。それよりも、ポケットにごてごてとモノの入った上着が重い。ノートパソコンが入ったカバンも重い。窓から差し込んだ強い陽の光に、思わず目を閉じる。

 ・・・変えろ・・・

眩暈がする。

 ・・・知恵と知識で、歴史を変えろ・・・

何処からか声がした。なんだそれは、と常春は思う。出世コースでもなし、正社員になれただけでも儲けもの、歴史どころか、自分の日々を変える事すら想像もしていない。

 ・・・歴史を変えて、正しい歴史に・・・

閉じたまぶた越しにわかる、強い陽光、いや、陽の光にしては強すぎる。がくんと身体が引っ張られる。何が起こってる? 事故?

 そこで意識は途切れた。


 最初に目に入ったのは、満月だった。空気が澄んでいるのか、随分と明るく、大きい。常春は、起き上がって服を払う。土や葉がばらばらと落ちた。

 昼は電車に乗っていたよな

ここは何処だろうとあたりを見渡すと、月明りが届く範囲、野原が目に入った。手にしていたはずのカバンは見当たらない。育ちかけのススキだけが延々と広がって。

 パソコンなくしたら、始末書だなあ

腕時計は、午後七時過ぎを指していた。随分長く気を失っていた様だ。とりあえず事務所に電話を入れようと、上着のポケットからスマートフォンを出す。

「あれ、圏外か」

つい口に出して呟いた。表示が「検索中」になっている。電源を入れ直したが、電波を受ける気配がない。ネットにつながらなければ、地図アプリも役に立たない。さてどうしたものか、とりあえず立ち上がる。状況が掴めないが、遭難した事は間違いない。動かずに救難を待つか、民家を探すか。

 まずは煙草を

常春は、ポケットの中でくしゃくしゃになっている煙草を一本抜いて、百円ライターで火をつけた。吸い始めたのは就職してから。会社では禁煙を推奨する一方、喫煙所での情報交換はとても重要で、ほんの付き合いのつもりが、いつの間にか必需品になっていた。大人の世界は矛盾に満ちている。

 残り五本か、自販機は見当たらないなぁ

水も欲しいが煙草も欲しい。煙を燻らせながら迷っていると、遠くからフルートの様な音が聞こえる。耳を澄まして、気のせいではない事を確認。

「助かった」

ありがたい月明かり。携帯電話のライトやライターの助けがなくても、足元は充分照らされている。常春は携帯灰皿で煙草の火を消すと、音のする方を慎重に確かめて、そちらに足を進める事にした。


 二十分程度歩いて湖畔に出た。思ったよりも歩く。静まり返ったこの地では、随分遠くまで音が伝わるらしい。幸い、崖や川といった障害らしい障害にも合わず、近づく。

 奏者は着物を着ていた。中学か高校生ぐらいのスリムな少女。フルートではなく何かの横笛だった。勿論、言葉さえ通じればフルートでも横笛でもどうでもよい。驚かせて逃げられない事が肝心だな、常春は一曲終わるまで様子を見る事にする。

 聞きなれないけれど、物悲しい旋律だな

ゆっくりとした、馴染の無い日本の音階の旋律だった。少女は湖に向かい、直立不動のまま笛を吹いている。月明りに照らされた、どうやら男物の着物を凛々しく着こなした奏者は一寸ホラーな光景。しかしここは声を掛ける他は無い。

「誰だ」

鋭い誰何。演奏をふいに中断した奏者に、常春は先手を打たれた。

「あー、失礼。あのー、道に迷ったんだけどね。ここは何処、念のためだけど、今は何時?」

常春は、少しどもりながら返事をする。月明りに照らされた相手の顔が、少々キツめではあったが、つり目の美人だったから、では無い。それより帯に差した、刀らしき鞘に注意が向く。いくら夜で人気がないとはいえ、ちょっと本格的すぎる。おもちゃだったら、何のコスプレ?

「ここは箱根大権現、今は、そうだな、戌の刻だ」

お前、変わった服装だなと言いながら、彼女は、笛を帯に差すと、柄に手を掛けて近づきながら、律儀にも答えてくれる。箱根? 都心にいたはずなのにと混乱する、間もない。

「本当に道に迷ったのか? 正直に言え」

刀を鞘から抜いた。刃先が月の光を受けて鈍く輝く。おもちゃではなさそうだ。

「いや、嘘じゃないっ、ていうか、危ないし」

突きつけられた切先を見ながらあわてて答える。常春はテレビドラマの間抜けな犯人の様に、自然に両手を上に上げた。

「平家か、源氏か」

続けざまの質問は、とても予想外の内容。リアルロールプレイングの会場に紛れ込んだか、そんな考えが頭をよぎったが、もしそうなら彼女の真剣さは、ちょっと引くレベルだった。

「出身は神戸だから」

平家かなと答えかけて、ここが箱根だと彼女が言った事を思い出す。箱根神社は確か源氏のテリトリーのはず、迂闊な返事はしない方がよさそうな剣幕だ。

「どちらでもなくて、ただの、そう、商人ですよ」

「神戸とはどこか」

ごまかされなかった。

「その前に教えて欲しいんだけど、今日は何年何月?」

「寿永二年、閏神無月。さあ、答えたぞ。お前も問いに答えよ」

寿永二年が西暦で何時の事か見当がつかなかったが、これが冗談や手の込んだいたずらで無いとすれば。

「千年ぐらい先、福原は神戸に名前が変わってる」

源氏や平家というなら鎌倉時代の前。イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府、だから西暦千年よりは前になる。

「どういう事だ?」

切っ先が鈍る。

「どうもこうも、多分俺は、未来から来た事になる」

大体、こんな展開は中学二年生の男女に訪れるものであって、この歳になってから、

 正直、無いわ

未来から来たと口に出しておきながら、そんな莫迦な事があるかと、言った本人が一番そう思った。


 常春は改めて「片岡常春」だと名乗る。胸が控えめで男物の着物が似合う少女は、「源義経」と名乗った。日本史のつたない記憶とは性別が激しく一致しないが、とりあえず、置く。

「常春は、義経と関わりがあるのか」

何故と尋ねると、名前に「ツネ」が含まれるからとの返事。

「漢字が違う」

常春が地面に文字を書くと、少しは学があるのだな、と感心された。

「千年後の日本の識字率は、ほぼ百パーセントだよ」

未来から来た、と常春が主張する。信じられるはずがないだろうとはねつけていた義経も、百円ライターの実演で、少なくとも普通の人間ではないとの認識には至ったらしかった。

「陰陽師か?」

常春も「今」が「現代」では無い事を、しぶしぶ納得せざるを得ない。少なくとも義経は演技ではなく、ライターを見るのは初めての模様だった。

 さて、どうしたものか

いくらか会話をして、常春は時代背景の見当をつけた。平清盛はすでに死んでいる。西日本は平家の勢力下、関東は源頼朝率いる源氏の支配にあり、京都には木曾義仲が上洛する、三すくみの状態。

 昔読んだ平家物語では、確か、一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦の後、頼朝に疎まれた義経が、最終的に東北で討死するはずだったな、と思い出す。

 常春が、そうやって情報収集をしていると。

「あらぁ。義経さん、その方はぁ?」

暗がりから出てきた女性が、のんびりと義経に声を掛ける。

「あ、弁慶」

義経が声を上げた。

 弁慶って、えぇ?常春が仰天する。二十歳位の比較的背の高い、着物の上からも胸のボリュームが見て取れる、色白で髪の長い、おっとり系の美人が立っていた。

「笛が変なところで止まったから、心配して見に来ちゃったわぁ」

僧服なのか巫女服なのかその折衷なのか、常春にはよくわからないがそういった服を着て、薙刀を持っているところからすれば、設定的に弁慶なのだろうと思われる。とはいえ、目尻のさがった優しい顔立ちは、イメージする僧兵「弁慶」とは合致しない。

「あの、何で義経も弁慶も女性なの」

思わず尋ねてしまった。

「あらあらぁ、こちらの方はぁ」

「片岡常春。未来から来たと称している」

「まぁ」

弁慶は自然な笑顔を見せ。

「痛いって」

次の瞬間、常春は地面に組み伏せられていた。

「義経さんが女性だと見抜くなんてぇ、平家の間諜さんですねぇ」

面倒な話になった、と、常春は自分の失言を後悔する。

「弁慶さんは女性でOKなんですか?」

常春はOKの意味を説明させられた後、女性ですともと返事を貰った。確かに、恐らく九十センチを超えているその柔らかそうなバストは、誤魔化しきれないだろう。

「いや、陰陽師らしい」

「平家に雇われた陰陽師ですねぇ」

「違うって」

「ではぁ、誰の命令で、義経さんに近づいたのですかぁ」

その質問に、常春はきっかけを思い出した。

 歴史を、変えろだっけ?

冷たい風が吹く。

 そうだ、気を失う前、誰かにそう言われた。知恵と知識で、正しい歴史に変えろと。すでにこの二人が女性なら正しい歴史とは何なのだろうと、常春は瞬間考える。しかし今はそれどころでは無さそうだ。

「歴史を変えろと言われたんだ」

押さえつけられながら、二人に訴える。

「俺は歴史は不得手だ。だけど、大体のところ、この後世の中がどうなるかは知っている。二人の運命もね」

ほう、と義経が笑みを浮かべた。

「千年先に、名前が残っていると。名誉な」

ありがとうございます。二人とも有名人ですからね、と常春も微笑み返す。少し押さえつける力が弱まった。話を聞いて貰うには、とりあえず「ありがとうございます」とニコニコしておけと、営業職の金言がこんなところで役に立つ。

「この後、義経に木曾義仲の追討令が出て義経が勝つ、そして」

「いや、それ以上は聞かない」

義経が手で制し、でたらめは駄目ですよぉと、弁慶は常春の腕をねじ上げた。

「痛い、痛いって」

いや、嘘だとは思わない、そう義経が助け船を出す。

「それ以上聞けば、その言葉に惑わされる。私は、操り人形にはならない」

強いな、オミクジソフトに頼ってしまう常春は素直に感心した。お前の未来は分かっているぞと言われて、あえて尋ねないのは、強い意志。

「ではどうしましょおねぇ」

緊張感のない弁慶のセリフに、義経は地面に組み伏された相手を見やる。

「何か役に立てるか?」

弓道部のインタハイ選手(但し補欠)を舐めるなよと常春は思うが、本物の武士に技量でかなうはずも無く、きっとそれは期待された役どころではないと思い返す。

 ・・・知恵と知識で、歴史を変えろ・・・

「なら希望通り、未来の歴史は教えない。けど、未来の知識は伝える。それは役に立つはずだ」

例えば弓の構造。この時代は初期の合成弓の時代で、まだ竹と木を複雑に組み合わせた弓胎弓ひごゆみは登場していないはずだ。飛距離が伸び威力が増せば、戦闘で優位に立てる。

「うむ」

と頷いて、放してやれ、召し抱える、と義経。

「義経さん、勝手は困りますぅ」

「清和源氏の棟梁が弟、義経に逆らうのか」

威厳を持った義経の台詞に、弁慶はほんの少し口元を歪めた。空気が張りつめる。

 ふぅ

しかし弁慶が溜息をついて、常春は解放された。やれやれと痺れた腕を振る。

 ふにゃん

振った手が何かに触れた。

「そんな」

見れば、その手が弁慶の胸に触れていた。いや沈んでいたという表現が適当な、低反発クッションよりも柔らかい胸。

「あ、ごめんなさい」

痺れていなければ、さぞ素敵な感触だったろうにと思いながら手を引っ込める。まあ、合戦では触られる事も当たり前だろうと見やると、常春の案に相違して、弁慶は真っ赤になって硬直していた。

「酷いぃ。これではもうこの人と添い遂げるかぁ、それとも殺して私も死ぬしか・・・」

とても物騒な台詞が聞こえてくる。

「いや、そこまで思いつめなくても」

「いいえ、一緒に死にましょう」

「だからごめんなさいって!」

想像の斜め上を行く「運命的な出逢い」だな。そんな思いと共に、常春のぼんやりとした古典の記憶と若干相違した「平家物語」は幕を開いた。


 ようやく落ち着いた弁慶に、常春は箱根神社から少し離れた、ぼろくてだだっ広い屋敷へと案内された。主だったメンバーを紹介すると言う。

 一同は、ゴザの上に、車座になって宴会の最中だった。常春のイメージする武士よりも山賊に近かったが、現実はこんなものかも知れない、と思い直す。何時でもこんな調子なのかと呆れて尋ねると、今日はねぇ、ちょっとだけ特別な日ですけれど、何時でもまあ似たものですよぉ、と、弁慶は笑った。

「こちら常春さん。訳あって、たった今から義経さんの郎党ですよぉ」

途端、全員から鋭い目で見据えられる。酔っていても武士という事か。震えそうになるのを我慢する。重役会議でプレゼンをした時の事を思い出し、場違いさに苦笑いがこぼれた。

「ええ度胸やな」

笑みを勘違いされて、関西弁で凄まれる。

「いやー、みなさん、よろしくお願いします」

殺伐とした空気をわざと読まず、常春は名刺を出す勢いで、にこやかに営業スマイル。

「へーえ、それはそれは」

野盗の呼び名が似合う面構えの一人が、関西アクセントで吠える様に笑う。髭面のその男は、伊勢三郎だと名乗った。名前に覚えが無い。ウィキペディアがあれば、どんな位置づけの登場人物かか分かるのに、と常春は残念に思う。

「よろしくね」

と朗らかに笑みを浮かべた中性的な顔立ちの青年が、自分を那須与一と名乗る。ああ、弓で有名な、と常春がつい口を滑らせると、僕より強い弓取はいくらでもいるよ、そう嫌味なく答えた。三郎とは正反対の、爽やか風イケメン。

「妙な服だしひょろっしてるし、アンタ何の役にも立ちそうにないわねっ」

といきなり酷い事を放つのが常陸坊海尊ひたちぼうかいそんだと紹介されたが、この海尊は、額の広い、ツインテールの小柄な女性だった。これも史実と違うと、頭が痛くなる。

「で、この兄ちゃんは、アレ、構へんのか」

立ち上がった三郎が、弁慶に向かって酒臭い息を吐く。

「あらあらぁ、酔いすぎですよぉ」

弁慶はひょいと躱すと、三郎の向こう脛を蹴り飛ばした。どう、と倒れる。

「ええ、構いませんよぉ」

息も切らせずに、弁慶は続けた。

「そうですか、では無き御曹司のために、一緒に祈ってくれるのですね」

与一が言う。

「無き御曹司?」

御曹司って、義経の事だよ、な、と、常春は恐る恐る確認した。うっかりした発言で、また組み伏せられては堪らない。

「莫迦ね、義経はね、もう死んじゃって、この世にはいないのよ」

奥州に逃れていた時、急な病気になっちゃって、と海尊。

「仇の平清盛が死んだと聞いて、自分で首を取れなかったと、それは本当に悔しそうに臥せってしまい、そのまま」

もう二年も前になりますねと与一が首を振る。

「じゃあ、あの義経は」

「代役や。顔立ちの似た娘を代役に立てたんや。誰にも言うたらあかんで」

三郎が爆弾発言をする。そんな事、俺に漏らしていいのかよ、と尋ねると、

「傍に仕えるんやったら、知っとかなあかんやろ」

東北で義経一行をかくまってくれた奥州藤原氏から、替え玉を貰ったのだと常春に教えた。知っているのは、藤原氏当主の藤原秀衡ふじわらひでひらと、ここにいる者だけ。鎌倉に本拠を置く源氏の棟梁、源頼朝すら知らない。

「知ってしもたからには、分かっとるんやろな」

三郎の目が据わっている。

「鎌倉殿も謀って、一蓮托生という事ですね」

与一がさらりと、常春を共犯者に仕立て上げた。

「それは分かったけど、何故そんな事を? みんな頼朝配下でもよかったんじゃあないの?」

常春が尋ねてみる。

「アンタホントに莫迦ね」

海尊がツインテールを揺らしながら罵倒する。

「与一はともかくとして、こんなあぶれものが、直接頼朝に会えるはずがないじゃない。せいぜい配下の下っ端になって、名前も残らずこき使われるだけよ」

三郎なんて、ただの盗賊よ、盗賊、大切な事なので、二回言いました、と海尊が余計な事を言う。なるほどなー、と常春は納得した。弁慶も海尊も元僧兵の流れ者で、三郎は元盗賊。それが義経直々の配下という立派な旗印を手に入れたのだ、失いたくはないだろう。

「与一さんはどうして?」

常春は、言い争いをする三郎と海尊を無視して、与一に向き合った。

「僕は十一男だから、余程目立つ事をしないと出世できないんだ。みんなと同じだよ」

だけどね、と与一は続ける。

「義経はね、みんなの事を家族みたいに思ってくれる、いい棟梁だったんだ。だから平家を倒すその無念を引き継ぎたいな、と思って」

「今日は義経の命日なのぉ、だからみんなでお酒を飲んでいたのよぉ」

あなたも呑んでね、と弁慶は、常春に酌をしながら継いだ。

莫迦浪戸はとがいないじゃないの」

「浪戸ちゃんは、また笛を吹いているみたいねぇ」

確かに、物悲しい笛の音が部屋の中にも届いている。

「仕方が無いわねぇ、義経らしくして貰わないと困るっての」

海尊と弁慶のやりとりから、浪戸が義経の本名らしいと、常春にも分かった。

「ああ、それなら俺が呼んでくるよ。ところで義経らしいって、どんな感じ?」

常春は、腰を下ろして杯を受け取ったものの、すぐに置いて立ち上がる。

「歌も歌えへんし、笛も吹けへん。清盛の首だけ欲しがって技磨くんが義経やなあ」

三郎は懐かしそうに回想する。皆も頷いた。

「みんなにとってはそうかも知れない。だけど京都では、笛を吹ければ風流人って人気もあがる。好かれると思うんだけどな」

不満顔の三郎にそう言い残して、常春は部屋を出た。


 大きな月の柔らかい光の下。義経を名乗る浪戸は笛を吹いていた。湖面の風が、少し寒い。

「浪戸ちゃん」

声を掛けると、びくっとする。

「聞いたの、ですね」

義経を演じる凛々しい声とは全く違う、か細い声。

「義経の代役にされたって話は聞いた」

声が大きいと叱られ、ごめん、と謝る。

「みんな待っているよ。部屋に戻ろうか」

首を横に振られる。

「どうして」

「私の知っている義経様と、皆の知っている義経様は違う方だから」

だから一緒には偲べないと言う。

 浪戸が義経に出会ったのは四年前、十二歳の時だったと、浪戸は話した。

「義経様は復讐も語らず、遊んだり文字を教えてくれた、少し年上の優しい兄様でした」

私の下手な笛を気に入って、何度も聴いて貰ったり、と懐かしそうな顔をする。他の部下とはまた違った接し方をしたのだな、と、常春は思った。

「穏やかでした」

だから、清盛と同じ熱病で死んでしまう程に、激しい復讐心を抱えていたとは思えなかった。

「怖かった。そんなに思いつめていたなんて。そして淋しかった、その事を知らなくて。だから私は義経様になって、その思いを共有したい」

重たい話だな、と常春は思う。笛を吹いたり、義経と話をしたりしているところを見ると、いいところの娘さんだろう、と当たりをつける。戦争には無縁そうな娘が、そんな理由で家を離れて武将の代役になる。しかも部下は、出世の旗印位にしか彼女を考えていない。

「分かった。無理は言わないよ」

浪戸はそっと笛を口に運ぶと、先刻さっきの続きを吹き始めた。物悲しい理由が分かる。

 ああ、これはレクイエムなんだ。

常春は、線香代わりに煙草に火をつけると、地面に置いて手を合わせた。

 俺を呼んだのは、義経なのか?

返事は無い。「歴史を変えて、正しい歴史に」とは、浪戸を助けてやれという事だろうか? このまま浪戸が義経のふりを続ければ、「歴史を変えて、正しい歴史に」なるだろう。しかしそれでは、彼女が頼朝に討たれる運命を辿る事になる。それは、かわいそうだ。

 一体どうして欲しいんだよ

常春は、心の中でぼやいた。


 さて、どうしたものか、と、常春が思案していると、待ちくたびれた面々が揃ってやって来た。

「あらあら、待たせちゃいけませんよぉ」

「変な臭いのお香ね。アンタ、本当に変わってるわ」

常春は貴重な煙草を変な臭い呼ばわりされて、この時代でも嫌煙かとへこんだが、煙草が日本に伝わるのは、少なくとも戦国時代以降だと思い出す。

「兄ちゃん、その娘に手ぇだしたらまずい事になるで」

三郎が凄んだ。というより、酔っ払った上司に絡まれた気分だ。

「滅相もない。男同士でそんな事」

あえて建前をぶつけてみる。

「そうですよねぇ。若衆道なんて、お公家さんでもないですしぃ」

「兄ちゃん、やっぱりええ度胸やな」

さぞ腕に自信があるんやろうと、より一層絡まれる。冗談ではない、斬りあいはおろか殴り合いでも、到底勝ち目はなさそうだ。

「ところで、得物は何を?」

与一が涼しげな声でそう尋ねた。

「昔、弓を」

仕方なしに答えると、

「へえ、僕もだよ」

嬉しそうに与一は、何処かへ姿を消した。嫌な汗が出る。何が、へえ、僕もだよ、だ。屋島で高名な那須与一に、インタハイの補欠選手が太刀打ちできるとは思えない。

「与一は弓の名手、五人張の弓を引くぞ」

自分の事に様に嬉しそうに三郎が笑う。五人張とは、弓に弦を張る時に四人で弓を曲げるという意味。到底そんな強い弓は、常春には扱えない。

「あー、昔、肩を壊して」

言い訳をしている間に、与一が二張りの弓を持ってきた。ひきの軽い方を受け取る。それでも強い。辛うじて引ける程度の弓だった。

「アンタ、何を射るのよ」

「月でも射たらええやろ」

「それがいいわねっ」

海尊と三郎が無茶な会話をして、弁慶と与一は苦笑いをしている。酔っ払いに絡まれるとロクでもない。

 困った。常春は湖面に目を落とし、そして思いつく。

「矢を二本、貰っていいか。一本は、試し撃ちで」

気持ちよく与一は二本の矢を渡す。十年振りかそこらで矢をつがえる。昔、さんざんトレーニングしたおかげか、ブランクも感じず、自然に構える事が出来た。適当な距離の太い幹に狙いをつける。心を落ち着ける。風がやんだ。

 ひゅん

弦が鳴る。ほぼ狙い通りのところに矢が刺さった。流石は那須与一の用意した弓、変なねじれの無い素直なよい弓だ、と常春は感心する。

「さて、次は」

湖面に目をやる。少し遠いが、おあつらえ向きのところに、朽ちた木があった。

「何処を狙ってんねん。月は上やで」

三郎の囃す声も気にならない。

 箱根大権現なり義経なりが俺を呼んだんだったら、俺を助けてくれよ。

目を閉じ、開く。

 ひゅん

矢を放った。水面ギリギリに穂先をくいこませる。狙い通り。水紋が広がる。

「こっちへ来てよく見ろよ」

常春は、怪訝な顔の皆を呼び寄せた。浪戸と与一が最初にやって来る。

「あ」

浪戸が声を上げた。


 水紋が収まると、月が浮かんでいた。

湖に映る丸い月の中央に、常春の放った矢が刺さっている。現役時代にこれが出来ていれば補欠脱出だったろう。平気な顔をしながら、実は冷や汗ものだ。

「風流、という事ですか。しかも、とてもきれいな型をしている」

与一は満足する。

 那須与一に褒められるとは、自慢出来るな

常春は、小煩いばかりの師範に、今更感謝した。礼法もさんざん仕込まれるなんて、戦争の道具として弓を扱うこの時代の人には、思いもよらないだろう。

「ありがとう」

「きれいだけれど、実戦向けじゃないですね」

「そうでしょうとも。ところでこの弓なのだけれど」

早速、常春は与一に、借りた弓について、話しかける。

「これって竹と木をニカワで張り合わせているんだよね」

「そう」

「竹を細く割いてヒゴにして並べると、ねじりに反発して・・・」

思った通り、弓の話になると与一は熱い。熱く語っているとこれも狙い通り、

「つまらん」

と三郎が、

「眠くなってきたじゃない」

と海尊が、戦線を離脱した。酔っ払いを追い払えた。そして。

「そんなこしらえにするのか、確かに理に適っている」

「飛距離は二割増しになるね。そうだ、浪戸ちゃん」

常春は、辛抱強く話に付き合っている浪戸に声を掛ける。

「え、何ですか」

竹ヒゴと籐のつる、漆と漆職人を集められないか、と尋ねた。清和源氏の棟梁が弟義経、の力でと付け加える。

「今までより強い弓を作る。きっと必要になる」

強い弓を生産して、義経の名で配下に配れば、評価も自然と高まるだろう。そうすれば浪戸の発言力も強まって、お飾りでは無くなるかも知れない。

「竹ひごは、伊豆で刈ればいいしぃ。籐も手に入るでしょうねぇ。漆はどうかしらぁ」

弁慶がおっとりと答えた。

「お、叔父様にお願い、出来ないでしょうか」

それが役に立つのなら、と浪戸は言った。

「仕方ないですねぇ。では私が行って来ましょうかぁ。鎌倉が良い顔しないと思うしぃ、あんまり目立たない方がいいんですけどぉ」

少し考えて、弁慶が答える。

「叔父様って、誰?」

「浪戸ちゃんの叔父様はぁ、藤原秀衡様。奥州藤原氏のご当主よぉ」

まるで自分の事を自慢するみたいに、弁慶は大きな胸を張った。


 翌朝。常春はあてがわれた部屋で目を覚ました。身体が痛い。畳の上に直接寝る事になるとは思わなかった。この時代、布団はまだ存在しないらしい。

 目が覚めたら夢でした、って訳じゃないのか何で俺がこんな事に、とぼやきながら服を身に着ける。意味も無いが、習慣でネクタイも締めた。さしあたり、ポケットの中のアイテムを並べてみる。スマートフォンに百円ライター、携帯灰皿に

「煙草」

一本咥えると、残り三本になった。これはかなり切実だと思いながら火をつける。三色ボールペンが一本、本当に蓄電できるのか分からない、小さな太陽電池パネル付きの充電器。

「薬一式は、役に立つかな」

電車に乗る時、頭が痛いとカバンからポケットに移した薬ケースが、そのまま残っていた。頭痛持ちなので沢山の鎮痛剤、有効期限が何時か分からない風邪薬と眠気覚ましのカフェインの錠剤、下痢止めに、絆創膏、使いきりの抗菌目薬なんてのもある。

 電波腕時計は、電波の基地局の無いこの時代にはオーバースペック。しかし太陽電池駆動なのはありがたい。電池交換なんてしてくれる店は見つからないだろうからな。

 キーリングには、家の鍵と小さなアーミーナイフ。ティッシュペーパーにハンカチ。今やメモ用紙にしかならない名刺と名刺入れ、定期入れに定期。

「微妙なのが、財布なんだよな」

紙幣よりも小銭が多い。平安時代は銅銭を使っていたから、十円玉が役に立つかもしれない。他の小銭は珍しいアイテム、紙幣は役立たず、クレジットカードは無意味。ざっと確認して、再び身に着けた。煙草を咥えている内に目が覚めてくる。食事したいな、常春は立ち上がると、部屋を出た。

 外では、炊いたご飯の香りが漂っている。腕時計は十時をまわっていた。運よく通りがかりの弁慶を捕まえる。朝の挨拶を交わした。

「ところで食事したいんだけど、何とかならないかな」

「ここにいる間はぁ、気にしないで勝手に食べたらいいですよぉ」

ありがたい、と、列に並んで、炊き出しを受け取る。

 適当なところに腰を掛けて食べ始めると、よろしいかな、と声を掛ける人物がいた。

「どうぞ」

休日の父親然とした相手に返事をする。熊谷直実くまがいなおざねと名乗った。常春も名のり返す。少し世間話をした後に気になっていたのだろう、不思議な着物ですね、と尋ねられる。

「どちらの恰好ですか」

未来の、と言いふらすのはよくないだろう、と常春は思い直す。西に行けば宋があるよね、その更に向こうの人々の恰好が、この格好、と行ってみる。天竺よりもですか? と確認されるので、天竺より向こうのヨーロッパ、と付け加えると、養老場? と首を傾げていたが、

「不思議な御仁だ」

と曖昧な笑みを浮かべた。この時代から、日本特有と言われる曖昧な笑み(ジャパニーズスマイル)は存在するらしい。

「ナオ・・・ザネさんは何処から」

常春が尋ねると、武蔵の国は熊谷郷の出身だとの返事。

「武蔵国って、今の埼玉だな」

「サイタマ?」

「あ、いや、こちらの話」

どうぞ続きを、と常春は促す。最初は源氏、次に平家に仕えていたが、今はまた源氏に仕えていると話す。

「以前は鎌倉殿に仕えていたが、今は飛び出して、与一殿に食べさせて貰っている」

悪びれずに語った。

「不勉強で悪いんだけど、主君を変えるのは珍しくない事?」

いやいや、これ程変える事は珍しいし、本人としても望んでそうなった訳では無いと、直実は手を振る。おかげで全く出世しない、と苦笑いした。この時代でも、キャリアアップの転職は難しいらしい、と実感。聞けば子供もいるという。なんだかくたびれた会社員そのものだった。

「常春さん」

探していたらしい弁慶に声を掛けられる。陽の光の下でも色白だった。

「義経さんがぁ、教えて欲しい事があるそうでぇ」

すでに食べ終わっていた常春は、分かった、と席を立つ。

「義経殿にご面識がおありでしたか、これは失礼しました」

直実がぴょこりと立ち上がって頭を下げる。平社員だと思って話をしていたら役職付きだった(タバコ部屋ではたまにある光景)、みたいな反応。

「いやいや、いいから」

何だか俺が業者いじめをやってるみたいだぞ、常春は慌てて頭をあげさせた。

「いい話がありましたら、その時は是非」

源平合戦の時代じゃなくて、普通の営業職の会話だなと思いつつ、こちらこそその時はよろしく、と、営業トークを返す常春だった。


「何か用かな」

障子の外から声を掛けて、常春は浪戸の部屋に入る。床の間に置かれた、立派な朱塗の鎧一式と、鞘に金箔をあしらった太刀が目に入った。他には、広げられた囲碁の道具が置かれただけの、殺風景な部屋。女の子らしい何かを期待していた訳ではないが、男の部屋としても、何もなさ過ぎに思えた。

「常春様に」

と浪戸が言う。様付は気持ちが悪いからやめてくれと抗議すると、何処か遠いところから来た客人なので、ないがしろに出来ないと答える。

「常春で構わないよ。言いにくければ、ツネでもハルでも」

浪戸は少し首を傾げた。

「ツル?」

「その略し方は変だ」

「ゴンタクレ?」

「いや、カスっても無いし」

「それでは常春さん」

改めて呼ばれる。未来の戦の仕方を教えて欲しいと浪戸は尋ねた。これなら義経の将来の予言をする訳では無いから、その行動を縛る事は無い。但し教える知識が無い。

「俺は軍人じゃないから詳しくは無いけど、そうだなあ」

常春は思いついた順に話す。

「未来では刀は廃れる。弓に代わって銃が登場する。これは、火薬の力を使って弓より遠くまで小さな矢を飛ばす武器だ」

火薬? 浪戸は首を捻った。ああ、鎌倉時代の元寇の「てつはう」が、日本人の火薬デビューだったっけ、と思い出す。そもそも、これは武器の進化であって、戦いの仕方の話ではない。

「戦争の仕方としては、総力戦になる」

この時代は武士と武士が覇権を賭けて戦っている一方で、農民には関係が無い。しかし第二次世界大戦では、民間人を狙った戦略爆撃が行われる。

「相手のために武器を作っている人は、武士じゃなくても敵。だから職人も殺される」

「今より、殺伐としていますね」

「源平が戦うのは、どちらが天下を取るかって話だけど、俺のいた時代では、どちらが正義なのかを競う。だから、誰もが無関係ではいられなくなる」

「正しいかどうかを決める戦?」

仮に平家は悪魔に後押しされていて、源氏は仏様に守られているとすれば、平家に宿や食事を提供したり弓矢を売った人も、仏罰を受ける事になるよな。そうやって、誰もが巻き込まれると、常春は例をあげて説明したが、浪戸は首を傾げていた。分かりにくかったらしい。

「ところで、具体的な戦い方は、どうなのでしょうか?」

浪戸が話を変えた。どうも知りたい話は、自分に役に立つ、もっと具体的な話らしい。しかし戦略戦術など、戦争映画程度の知識しかない。

「電撃戦か」

「電撃?」

「稲妻だな。稲妻みたいに、素早く激しく攻撃する」

ひとつ思い出す。初期のドイツ軍の戦車は決して強くは無い。それがフランスを降伏させたのは、そもそもフランスの要塞を迂回したからだ。

「戦力を薄く前線に張り付けず、機動力を優先して、戦力を集中して運用する。正面から攻撃せずに、一番弱いところに叩きつける」

初期のドイツ軍の侵攻を思い出しながら、碁石を並べて説明する。総資産が少なくても、必要な時に必要なだけ、資産を集中させれば相手を上回る事が出来る、営業会議で戦争好きな上司が言っていた事をそのまま伝えた。

「ではどうして要塞を避ける事が出来たのですか?」

「このあたりは別の国なんで、こっちからは来ないと思ってたんだよ」

実際にはその国も占領しちゃったけどな。

「大勢の食事はどうしたのですか?」

「現地では調達できないから自分で運ぶ。今でも乾飯ほしいいとか、あるだろ」

浪戸は熱心に質問し、常春は知っている限り教えた。気が付くと昼を大きくまわっている。

「ところで、腹、減らないか」

浪戸は、不思議そうな顔をした。一日二食だと言う。確かに朝食の時間が遅かったと気づく。

「間食の習慣は?」

「無い事もありませんけれど」

浪戸は干し柿を出した。感謝して頂く。

「それにしても、浪戸は勉強熱心だな」

常春は干し柿をかじりながら、感心して言った。

「近づきたいのです。義経様に」

それに、少し楽しかったとも言う。奥州にいた時に、義経にいろんな物事を教わった、その時を思い出す事が出来た、と。

「いろいろ?」

「戦い方や、そうそう、馬や太刀も、教えて貰いました」

何時になく柔らかい顔をして、浪戸が思い出す。そう言えば浪戸は笑わないなと、常春は思った。何時も思いつめた、きつい顔をしている。義経の代役ともなれば、そうなってしまうのだろうけれど、笑顔の方がかわいいな。昔の恋人を思い出す。やっぱり吊り目の険しい女性だった。

「浪戸ちゃん」

「はい」

「義経の事、好きだったんだな」

「へ、ええっ? いえ」

不意を突かれて、動揺する浪戸は、年相応で自然だった。

「へ、変な事を、言わないでください」

下を向いてしまう。

「好きでいいじゃないか。そうじゃなければ、難しくて危険な事、わざわざやらないだろ」

「・・・憧れて、いました。義経様は、何時も楽しそうに私に教えてくれました」

平家への強い恨みだけは、教えてくれませんでしたけれど、と呟く。

「浪戸ちゃんとはそんな話はしたくなかったんだよ、きっと。楽しい話だけしたい、いやな話は聞かせたくない相手ってのもあるもんだ」

「常春さん」

「義経は、浪戸ちゃんにも楽しそうに笑って欲しかったんだと思うよ」

「義経、様」

浪戸は、ふいと背中を見せた。肩が震えている。

「俺は、他の連中と違って、出世とか関係ない。利害関係が無い相手と話をしたかったら、声を掛けてくれればいいよ」

肩肘張らなくていい。常春は小さな後ろ姿に伝えた。

「私は、まだ常春さんを良く知りません」

浪戸は顔を見せないまま答える。鼻声になっていた。

「でも、ありがとうございます」


二 『中吉:禁煙をはじめるにはよい日です』


 常春は、弁慶に無理を言って、単騎での奥州行きに同行した。

「尻が痛い」

「あらあら、男は泣き言を言わないものですよぉ」

常春にとっては人生初の乗馬。到底馬を御する事は出来ないので、自分より若い弁慶の後ろに乗せて貰う事になった。いい歳をしてしまらない、と常春は恥ずかしがるが、仕方が無い。

 部下の女性に車の運転をして貰ってるみたいだ。腰にしっかり掴まってぇ、と言われたが、手のやりどころに困る。そもそも胸は駄目で腰は構わないのか、常春は、弁慶のルールが想定外で困惑する。尤も旅の最中は、腹当と呼ぶ軽装の鎧を胴に巻いているので、常春が胸や腰に手を回しても、期待した柔らかい感触は得られないのだけれど。

 想定外と言えば常春にとって、馬の速度も想定外だった。競馬の様に走らない。ジョギングと大差の無い速度で、トコトコと歩く。それでも揺れは、容赦なく常春の尻に響いた。

「痛いものは痛いって」

何時戦いくさになるかもしれませんからぁ、箱根を長くは空けられないでしょう、と弁慶は答える。ではスピードアップしないのかと問えば、長丁場の旅、馬に負担がかかるから、そんなに速度は出せないと弁慶は続けた。

「大体ぃ、速度をあげると、常春さんが落ちちゃうでしょう」

そう言われると、言い返す言葉もない。

 常春は諦めて時間があるのを幸い、情報収集を行う。まずは勢力からだなと、義経配下の規模を尋ねてみた。

「直接の郎党は、那須与一、常陸坊海尊、伊勢三郎、私と常春さんで、五人よぉ。与一さんと三郎さんには、それぞれ従者が二十人程度、全部で五十人もいないんですよぉ」

「少人数だな」

常春は正直に感想を言った。しかし、全員馬に乗るから、見かけ以上の戦力になるとの答え。

「馬に乗るのは当たり前じゃないのか」

「違いますよぉ」

通常は一騎に数名の徒歩かちがつくらしく、総兵力は、通常騎兵の三から五倍に膨らむと弁慶は説明した。戦車の後ろから、歩兵が走ってついてくるイメージ。

「徒歩がいないと困るんじゃないの」

「でも、頭数が多いと食事代もかかりますからねぇ」

「頼朝から支給はない?」

「言いたくないのだけれどぉ、鎌倉はぁ、私たちの事をよく思っていないみたいでぇ」

弁慶は声を低める。

「弟なのに、何故?」

「奥州を気にしているみたいなんですよねぇ」

奥州藤原氏の当主、秀衡は平家に追われた義経を匿い、自分の子供以上にかわいがったと伝わる。その奥州には十七万の軍勢があり、平家にも源氏にも距離を置き、東北地方で独立王国の如く振る舞っていた。これが義経に従えば、頼朝が追い落とされかねない。

「浪戸は天下獲りを望んでいるのか?」

「あらあら、浪戸ちゃんにはそんな夢はありませんよぉ」

浪戸の希望は義経の遺恨を晴らす事だけ、常春が本人から聞いた通りの事を、弁慶は答えた。大体弁慶たちも、天下を狙っている訳ではない。三郎は「どうせ盗むなら天下取り」と豪語しているが、実際にはその器では無いと、弁慶は切り捨てた。

「大きすぎる後ろ盾って事だな」

「本当はぁ、この奥州行きも、気が進まないんですけどねぇ」

義経が奥州と通じていると頼朝に勘ぐられれば、益々風当たりが強くなる。単騎での奥州行きも、めだたせないためだと弁慶が説明した。

「誰かが余計な事を吹き込んでくれるからぁ」

申し訳ないと常春は謝る。しかし弓の改良は、兵力が少ないならば一層必要なはずだった。それに後々の展開も考えると下準備が必要で、常春としては、秀衡に会っておきたい。

「その代り、危険を冒した事だけの事はあったと言わせてやるから」

「そうは言ってもぉ」

弁慶は煮え切らない。

「そもそも箱根に籠っていないで、鎌倉に住んで直接頼朝に話して、誤解を解いたらいいんじゃないか?」

「義経の秘密がばれたら困るからぁ、わざと少し離れて住んでいるんですよぉ」

一方で、鎌倉に住まないのも何か裏があるのではないかとも勘ぐられ、一層頼朝から縁遠くなる悪循環だとも愚痴った。

「浪戸ちゃんが男の子だったらぁ」

「女の子だから、奥州が譲ってくれたんじゃないの?」

あらぁ、そうなんですよ、よくわかりましたねぇ、と、弁慶が褒めた。当主の血縁の男の子であれば、奥州で何らかの役割がある。女の子だからいなくなっても目立たない、と考えたのではないか、と、常春は想像した。

「でも宿が近いから、このお話はそろそろおしまいですよぉ」

弁慶が宣言して、話は終わる。確かに他人に聞かれていい話ではない。

 こんな風に話をする二人を背に、馬は関東を抜け奥州へ、トコトコと歩み続けた。


 箱根を出て一週間。秋の気配の平泉に、二人はとうとう到着する。

「これが奥州藤原氏の財力か」

紅葉の中、金色に輝く中尊寺金色堂に、常春は圧倒された。

 弁慶が来意を告げると、旅の汚れを落としてくださいと、まず風呂の歓待を受ける。すでに肌寒い東北で、温かい風呂と聞いて常春は喜んだ。

 あ、湯は張らないんだ

しかし常春の思う風呂ではない。焼け石に薬草を煎じた水を掛けるサウナが、この時代の風呂だと聞かされる。湯につかる習慣は何時頃出来たのだろうと思いながら、それでも汗を流して汚れを取れれば充分だろうと、常春は我慢する事にした。

 我慢出来ないのは煙草の方だった。残り一本となっていた。今日のオミクジアプリが禁煙を勧めていた事を思い出す。勧められるより前に、数日前から禁煙状態になっていた。風呂からあがって身体を拭きながら、考える事は煙草の事ばかり。代用品が無いか、後で尋ねてみようと思う。

「もう一回入るか」

情けない事に煙草が無いとイライラする。水でもかぶろうかと、再度風呂に入ろうとして。

「あっ、なっ」

何時すれ違ったのか先客がいた。弁慶だった。何も身に着けていない。常春は慌てて言い繕うと思って、しかし出来なかった。

「きれいだ」

間の抜けた感想が口をついて出る。うっすらとした湯気越しに浮かぶ、九十センチを超えるであろう胸のボリュームこそ、初めて会った日から知ってはいたが、服や鎧に隠されていた腰のくびれも、相当なものだった。そして胸に負けないヒップライン。わがままなオウトツから、目が離せなくなる。

「み、見ました?」

さんざん見ておいて、どころか、きれいだ とまで言っておいて、と自分でも思ったが、常春は慌てて向きを変えると、湯気でよく見えなかったと言い訳した。

「そ、そうですかぁ」

「ごめん」

そのまま常春は風呂から出る。思いの他、白い肌が、目に焼き付いて離れない。

「90、59、86 か?」

無意識のうちに、似た体形のグラビアアイドルと頭の中で比較しながら、口に出してしまっていた。いや、そんな場合でもないだろう、と、頭を振って、服を着る事にする。落ち着かない。やっぱり煙草を欲しいな、と、常春は思った。


 その後は、食事で歓待される。山盛りに盛ったもち米のご飯に閉口したり、それでも干し飯よりはましと思い食べている内に、秀衡が謁見すると遣いが来る。常春は、服の埃を払ってネクタイを締め直し、手櫛で髪を整えると、他の部屋で食事をしていた弁慶に合流して部屋を移動した。サウナの件を謝りたいが、謁見前という事で、どうもそんな雰囲気ではない。

 張りつめた雰囲気の中、至る所に絵や彫刻の施された、広くて長い廊下を歩く。観光で訪れた古い寺の様だった。かなりの贅沢に思える。相当な資産があるのだろう、と常春は思った。こんな東北で、どうやって富の蓄積をと不思議に思う。

 考えながら廊下を抜けると、広い部屋に通された。畳の数を数えきれない程、ひたすら広い。部屋の中央に御簾がある。

「ちょっと緊張するね」

「めっ」

常春が無駄口を叩くと、弁慶が叱った。常春の気持ちがほぐれる。にやりと笑みがこぼれる。

 御簾の向こうに人の気配がした。弁慶が平伏し、常春もそれにならって、額を畳につける。

「大儀であった」

御簾の向こうから、年老いた、しかしはっきりした声がした。これが当主、藤原秀衡かと、常春は気を引き締める。数えで六十歳と聞いていた。平安時代ならかなりの老人なのではないかと考えていたが、優しそうで、しかし老練な権威のある声。大手企業の、やり手の社長に多いタイプだ。さてこの人と取引をしないといけない。と、常春は軽く身構えた、が。

「堅苦しい事は抜きだ」

急に声の調子が変わり、御簾を持ち上げて向こうから人が出てくるのを感じた。おやっと頭をあげると、弁慶に頭を押さえつけられる。

「よいよい、ここは我らしかいない・・・見慣れん装束だな」

大変失礼を、と詫びる弁慶に近寄ると、秀衡は頭を上げさせた。常春も頭を上げる。

「浪のなみのとは息災か」

「はい」

弁慶が緊張して答えた。そうか、それはよかった、と、笑顔を見せる。続けて。

「それで、こちらはどちらさんかな」

秀衡は小柄な老人だったが、奥州藤原氏の棟梁としての権威が身体を大きく見せる。呑まれたら取引は負けだぞ、と、常春は気を引き締めた。売り手と買い手は対等だ。

「初めまして。片岡常春と言います。あまりにも遠くから来たので、礼儀を知らない事がありましたらごめんなさい」

話しやすいように、先に謝っておく。

「どこから来なされた?」

興味深そうに、秀衡が尋ねた。

「千年先の未来からやってきました。信じていただけますか?」

未来からとな、愉快そうに笑う。

「いきなり信じろと。それは無理だ」

そうでしょう、と、常春は同意した。

「不思議なものをお見せする事は出来ます。例えば」

煙草は無くなってもガスは充分ある。常春は例によって、ライターを灯して、関心を引いた。

「鬼火じゃな」

珍しそうに、しかし珍しいだけのもの、と秀衡は笑う。

「そうだろうな。信じて貰うには、何より、未来の知識をお伝えした方がいいんだろう」

ふむ、その通りだな、と秀衡は興味を持った。

「では、我ら奥州藤原氏がどうなるか、教えてもらおうか」

そうですねと常春は少し考えた。確か義経を匿ったために、源頼朝に攻め滅ぼされたはずだ。しかしそんな不幸な未来をいきなり言わない方がいいだろう。

「秀衡さんが生きている間、平泉は繁栄を極めます」

「我れが死んだ後はどうなる」

鋭いですね、と常春は答えた。例えば、中尊寺金色堂は千年先にも残り、日本だけでなく世界の遺産となり、多くの人が参拝にやって来ますよ、と答えたが、秀衡は首を振る。

「それ以上は、秀衡さんが気にされる事ではありません」

「失礼ですよ」

珍しく弁慶が鋭く口を挟んだ。失礼しました、と、常春は落ち着いて謝る。

「が、浪戸ちゃんは、未来を語るな、縛られたくない、と話をさせてくれませんでしたよ」

そうか、浪の戸がそんな事を、と、秀衡は目を閉じる。一分程、考えたろうか。

「よし、先の事は、先のものに任すとしよう。して、今日は何用だ」

一転して明るい声。秀衡は踏ん切りをつけた様だった。弁慶が人目にもはっきりと息をつく。悪い事をしたな、と、常春は思った。が、まずは取引。

「いろいろあるのですが、まず、弓の射程を延ばす改良方法をお伝えしたいのです。外国を含め、誰に売って頂いても構いません」

その代り、出来た弓を百張り分けて欲しい、と常春は申し出た。弓職人を手配しよう、という秀衡に、うるし職人も手配して欲しいと頼む。

「手配出来るが、どうして漆?」

「部材を張り合わせる時にニカワを使います。湿気に弱く水にぬれるとはがれてしまうので、漆を塗って保護します」

成程合理的だ、と、秀衡は手配を約束した。

「しかし、誰に売っても構わないのか」

はい、儲けてください、と常春は笑う。こちらは強い弓を欲しいけれど、無償で奥州に作らせたら、その事がこちらの負い目、負債になる。どのみち何時かはこちらの武器が誰かの手に渡り、同じものが広がってしまう。それなら、自由に販売して貰う事で、自分と奥州藤原氏で対等の取引が出来ると、常春は考えたのだった。

「我れと対等に商売するつもりか」

面白い事を言う、と秀衡。

「売り手と買い手は常に対等で、どちらもが幸せでありたいと思います。理想ですけどね」

常春は言い切った。

「おもしろい、その知識は弓百張りに相当するか、よし買った」

秀衡が豪快に笑い、取引は成立した。


「どうなる事かと思いましたよぉ」

割り当てられた部屋に戻りながら、弁慶が愚痴った。正直に話せば分かってくれると思ったんだけど、やれやれ、大きな取引は疲れるな、と常春は首を振る。

「でも、まだやる事があるんだよな」

常春は、日頃の職場では感じる事の出来ない気持ちよさに高揚していた。少し歴史に関わる事が出来るかも知れない。

 さて、次はどの知識を売ろうかと考えながら部屋に入ると、弁慶もついてくる。

「何か打ち合わせ?」

常春が尋ねる。

「別にぃ」

落ち着かなげに、弁慶が答えた。

「部屋に戻らないの?」

「戻る、って、えーっとぉ」

何だか煮え切らないな、と常春が笑う。

「同じ部屋なんですよぉ」

少し顔の赤い弁慶に、え、どうして、と常春が慌てた。

「常春さんはぁ、知らない事が多いですからねぇ。話す時間をたくさん取ろうと思ってぇ、同じ部屋にして貰いましたぁ」

気持ちはありがたいけど、男女が同じ部屋で寝るのは、この時代の道徳的にどうなの? と常春が確認する。勿論、いかがわしい事はするのも考えるのも禁止ですよぉ、と弁慶が釘を刺した。そう言い渡されると、却って意識してしまう。

「さあ、今日は疲れましたからぁ、もう寝ましょう。向こう、向いてくださいねぇ」

常春は慌てて、背を向けた。服を脱ぐ音が聞こえる。

「常春さんも早く脱いで、明かりを消してくださいねぇ」

豊かな平泉に来ても、やはり布団は無かった。ここで脱ぐのか。常春は困ったが、やむなく向こうを向いたまま下着姿になり、燈台の火を消す。真っ暗になった。上着を引き寄せて身体に掛けるが、寒い。その上、畳の上に直接寝るのは痛かった。明日は何か寝具の材料を手に入れる事にする。

「なあ、弁慶」

背中が痛くて眠れない常春は、声を掛ける。

「何ですかぁ」

「畳の上に裸で寝るの、痛くないか?」

「石の上より、うんと柔らかいじゃないですかぁ」

それはそうだな、と、常春は納得せざるを得ない。

 裸かぁ

先刻さっきのサウナを思い出す。そのわがままな身体がすぐそばにあると思うと、それはそれで眠れない。

「弁慶は、浪戸とはどんな関係なんだ」

秀衡の従姉妹の嫁ぎ先が信夫郡(現在の福島)の佐藤家、浪戸はその娘だと弁慶はまず解説した。

「浪戸ちゃんはねぇ、利発な娘でぇ、義経のところにしょっちゅう遊びに来てたわぁ」

弁慶も妹同然にかわいがった。

「それが急な熱病で義経が死んでしまって。表向き、浪戸ちゃんも同じ病気に罹って死んだ事になっているのよぉ」

「浪戸ちゃんはまだ子供だし、こんな役目も辛いと思うんだけどぉ、本人の希望もあって、今の役割をやって貰ってるのぉ」

助かるけど、かわいそうで複雑だわぁと、弁慶は締めた。

「複雑だな」

弁慶は、浪戸をかわいそうだとも思っている。部下の誰もが浪戸を道具と思っている訳でもないなら浪戸はまだ救われるな、と常春は思った。浪戸の張りつめた表情を思い出す。

 どうにも放っておけないなこの日、いろいろと眠れない常春は、寝不足のまま夜を明かすことになった。


「ところで、爺さんは鎌倉を奪う気はある?」

広い部屋には、秀衡と常春の二人だけだった。弓職人に指示を出す以外の時間、常春はここで過ごす事が多い。すっかり秀衡に気に入られた常春は、双六をしながら未来について話すのが日課になっていた。最初は、常春の話す未来の事柄にのみ関心があった秀衡だが、話している内にすっかり慣れ親しんでいる。

「独り言だが、平家は源氏に討たれる。最終的には、頼朝が天下を統一する」

秀衡は奥州にいて、政局を掴んでいる。しかし元々、京の政治に奥州藤原氏は関与せず、中立を維持してきた。誰が天下を取ろうが関係ない。

「しかし、頼朝は本当の天下統一を狙っているだろう。我れが死んでから奥州を滅ぼすのは、頼朝なのではないかな。未来の歴史としては」

秀衡が分析する。常春は黙ってサイコロを振った。

「だが、今は動かんよ」

「そこまで読めていて、何故?」

浪の戸が困る事など、しない。と秀衡は断言する。

「浪の戸は従姪いとこめいぞ。かわいい」

奥州と頼朝が戦うと、義経としての浪戸は当然頼朝側につく事になる。親兄弟に弓を引かせる訳にはいかないと、苦渋の秀衡。

「そうか、爺さんの血縁だもんな」

心配だろうと聞くと、それは当然だと秀衡は頷いた。

「しかしこんな時代だ。源氏にもあたりをつけておきたい」

浪の戸はな、と秀衡は話を続けた。小さい頃から弓も射るし馬にも乗る、武士としても充分通る、がそれだけではないと言う。双六でも碁でも、秀衡に勝つと嬉しそうに笑う。

「優しい娘だが、戦の直観を持っている。支えてやってくれんか」

分かりました、と常春は答えた。確証は持てないが、浪戸を支援して歴史を再現する事が、この時代に呼び出された理由に思える。誰の差し金かは分からないが、元の世界に戻る方法も分からない。ならばミッションをクリアするしかないだろう。

「そのかわいい従姪に関わる事なんだけど」

常春は話を戻した。

「頼朝を攻める気が無い件、内密に」

鎌倉に陣取る頼朝が、京都に軍勢を動かさないのは、十七万の兵を持つ奥州藤原氏に背中を見せる事が出来ないから。瀬戸内に撤退した平家も、京都を支配する源義仲も秀衡を味方にしようと、同盟の誘いを行っていた。その奥州がどちらとも組まない事が確実になって、安心した頼朝自身が兵を率いてしまうと、義経の見せ場が無くなってしまう。何をするかわからない不気味な奥州でいてくれる方が、義経には望ましい。

 勿論頼朝が、奥州に縁のある義経に秀衡の懐柔を頼み込めば話は別だが、その気配は無い。ひたすら無視を決め込んでいる様子だった。鎌倉が奥州と組むという選択肢は無視して、それより義経を目立たせないのが、頼朝の考えらしい。

「分かった」

その代りと常春は続ける。今我慢してくれれば、いざという時に出来る限り藤原氏を助ける、と約束する。

「そのために、もう少し、取引をしたい」

常春は、別の依頼を行っている。

「強欲な商人だ」

秀衡は笑った。


 平泉に着いてから更に一週間。煙草を切らした事を除けば、秀衡の客として、常春は快適に過ごした。その間に布と藁を調達して、布団らしきものも手に入れる。秀衡からは、着物を貰った。背広一式は畳んで、即席のナップサックに仕舞う。他にも、馬皮でウエストポーチを縫って貰った。未来から持ち込んだアイテムや、ここで手に入れた竹の水筒を仕舞い込む。最後に、秀衡から貰った脇差を腰に挟んだ。

 さまになりませんねぇ

脇差が重くてバランスが悪い。弁慶が位置を直してくれると、落ちにくくなった。着物にウエストポーチに脇差と、さんざんな恰好だったが、何にせよ支度が整う。このウエストポーチも小分けができて便利、何だかわからないが変わった格好、と、平泉で流行り始めている。売れるならどうぞ、これの製造権も常春は秀衡に売った。売れるものならなんだって売る。


 そして。

「取引の成果がここにある」

常春が、弁慶に馬車を示した。新式の弓胎弓ひごゆみ、胴丸と呼ばれる、従卒用の軽量な鎧、大型の弩を三基。そして軍資金としての黄金。馬車自体もそれを引く大馬も、予備も含めてすべて秀衡から買い取ったものだ。

「代価は」

「代価は、知識さ」

物乞い旅になるとばかり思っていたが、と驚く弁慶に、常春が笑う。

「うむ、常春には多くの物事を教わった。正当な取引だ」

この知識で、我れは奥州をもっと豊かにする事が出来ると、秀衡が保証した。

「いや、爺さん。こちらこそ変なものも含め、いろいろと頼みを聞いてくれて、ありがとう」

「何に使うか分からんが、特別な肥料の件も確かに引き受けた」

何の事ですかぁと尋ねる弁慶に、将来役に立つかもね、と常春ははぐらかした。

「何かとお世話になりました」

「爺さん、元気でね」

「また何時でも来い」

常春は、大きく手を振った。戸惑いながら、秀衡も手を振りかえす。その秀衡が振り返れば、弓職人も手を振っていた。新しい風習を生んだかも知れないな、常春は、急におかしくなって笑いながら、平泉を後にした。


 行きは単騎、帰りは三十騎を超える集団での帰路になる。実質、弁慶一人では手が足りないので、人手を秀衡から借りた。戦いをしない下男も多いが、佐藤忠信さとうただのぶをリーダーとする戦闘要員も含まれている。彼らは早速、新式弓を装備していた。

「義経殿が助かり、浪の戸が代わりに死んだ。忠義な妹である」

忠信は浪戸の実の兄だが、入れ替わりを知らされていない。常春は教えてあげたいと思ったが、秀衡に止められている。心苦しかった。

「遅くないかしらぁ」

別の事が弁慶は心配そうだ。頼朝に目をつけられないうちにこっそり箱根に戻りたいが、大所帯で移動速度も落ち、何処かで呼び止められないかとひやひやしている。念のため、奥州商人の偽装を用意しているが、出来れば面倒な事は避けたかった。

「確かに、黄金を持っているのは申し開きにくいな」

奥州藤原氏と義経が内通している様に見える。いっそ分散するかとも思ったが、警備の数が足りない。このまま進んで頼朝の手勢と接触すれば、商人であると言い切るほかは無いとの結論を、常春、弁慶、忠信と相談して決めた。

 しかし、頼朝よりもっと実際的な脅威が待っていた。


 これだけの規模になると、野宿も出来ず宿に泊まる。馬をつないで荷物を運び込む。忠信他警護の数名は、荷物と同じ部屋に入った。相変わらず常春と弁慶は同室になる。

「世馴れない常春さんを放置できませんからぁ、仕方なくですよぉ」

弁慶の説明は尤もだが、どうにも落ち着かないと、奥州で作らせた布団を広げながら、常春はぼやいた。常春が敷き布団、弁慶が掛け布団を畳の上に広げる。

「これは身体が楽ですねぇ」

「未来の知識も、役に立つだろ」

他の同行者は、この時代のスタンダードで床にそのまま寝ている事を思うと、気が引けないでも無かった。が、何かクッションが無ければ、現代人の常春は眠る事も出来ない。

「それじゃあ寝ましょうか」

常春は燭台の明かりを消して、弁慶に背を向けながら服を脱いだ。背中で衣擦れの音がする。覗き見したい気持ちを抑えて横になった。

「常春さん、未来の事を、教えてくれませんかぁ」

今日は、弁慶からそんな話をする。

「千年先では、男女は、そのぉ、一緒に夜を過ごしても、何もないのですかぁ」

今後の戦況の話を聞かれるのかと身構えた常春は、意外な質問に肩透かしを受ける。

「多分、千年間、何も変わらないと思うぞ、あ、いや、そうでもないか」

常春は源氏物語を思い出して訂正する。平家物語でも、側室とか妾という言葉が出て来た記憶があった。この時代は、もっと大らかなのかも知れないと思い直す。

「念のために確認するけど、男女の貞操についての事を尋ねているのかな」

返事が無いのを、常春は了承だと取った。

「まず、俺のいた時代の日本は、制度としては一夫一婦制になっている」

「北条政子が、そんな事を言っていたわぁ」

頼朝を尻に敷いているらしい。賛同するのかと思いきや、イケスカナイ奴、と弁慶は斬って捨てた。

「勿論、そうで無い人もいるけれど、建前としてはこの時代よりは縛りがきついんじゃあ無いかと思うよ」

そういう事ですか、と、弁慶は溜息をついた。

「言い寄られても困りますけどぉ、夜一緒なのに、あんまり何も無いから衆道の人なのか、とかぁ」

前にも聞いた事のある単語だった。確かホモの事だと常春は記憶している。

「違うって。違うから、結構今だって、気になってんだよ」

「常春さん、おもしろい人ですねぇ」

弁慶が話を変えた。

「初めて会った時、簡単に組み伏せられてぇ、なんて弱くて頼りないんだろうと思いましたけどぉ」

水面みなもに映った月を射る機転、藤原秀衡との堂々とした取引、意外と強い人ではないかと見直した、と弁慶は正直に続けた。

「いや、俺は大した事ないよ」

常春は心からそう思う。少なくとも千年後の自分はリア充では無い。独り暮らしの、交換可能な営業の一人だ。行方不明が半月続いている訳だが、誰か探してくれているだろうか? むしろ、無断欠勤で馘になっているかも。

「はぁ」

思わず溜息をつく。

「どうしましたぁ」

「いや、残して来たものを思い出して」

それは辛いでしょう、と弁慶の声は気の毒そうな響きになった。

「大切な人を、置いてきたのですねぇ」

勘違いをしている。否定しようと常春は思わず向きを変えた。夜目に慣れた視界に、裸に着物だけを掛けた弁慶の肢体が入る。飛び出した白い脚から、目を離せない。

「もし、ずっとこちらにいるのならぁ」

続けて、何かを言おうとした弁慶の口を、

「おむあ」

黙って、と常春は手で押さえた。弁慶の顔が艶っぽく染まる、が。

「何か物音がした」

常春は聞き耳を立てた。板に何かをぶつける様な音。続けて、めきめきと木戸が折れる音がした。枕元に手を伸ばすと、スマートフォンに手が触れる。明かりが欲しいと、電源を入れた。

 勢いよく障子が開くのと、ライトが灯くのは同時。

「ひやぁ」

LEDライトを障子に向けると、人の転がる音がした。

「そこですねぇ」

裸のまま飛び起きた弁慶が、薙刀を槍の様に突き立てる。障子の向こうで断末魔が響く。

「賊だ」

途端、あちらこちらから声が叫び声があがった。常春は勢いよく障子を開ける。障子の向こうは板間の廊下。その向こうの格子戸は、一部開いていた。中庭を覗くと、人影が見える。

「使えるか」

LEDの白い光を人影に向けた。予想していなかった眩しさに、悲鳴を上げてしゃがみ込む。

 ひゅん

矢が飛んだ。忠信たち警護メンバーが廊下に出て、近距離で矢を射る。常春は弓を誘導するために、侵入者の一人一人に明かりを向ける。この時代に無い光に照らされて、襲撃部隊は動揺した。目を閉じ棒立ちになり、弓の絶好の的になる。

 ひゅん

一本の矢で二人が射抜かれる。強力な弓胎弓の威力が発揮されていた。

「逃げろ」

浮足立った賊は逃げ始める。容赦なくその背に矢が降り注いだ。常春はスイッチを、オフ。

「どうしてやめるんですかぁ?」

着物を羽織った弁慶が、薙刀を片手に脇に立った。

「長時間使えないんだ」

嘘をつく。本当は追撃する気が起きなかった。ライトを消したので、急に暗くなる。目が慣れるまで視界が奪われた。矢も止まる。

 中庭に、七〜八人が倒れていた。廊下でも数人。

「危ないところでしたねぇ」

夜に目が慣れた警護メンバーが太刀を引っ掴み、中庭に出る。息のある賊も、太刀で首を切り落とされた。

「な、待ってくれ。殺さないで」

慌てて常春が叫ぶ。何を言い出すかと視線が戻った。合戦ではない。負けた方に名誉も命乞いも無い。野犬に襲われれば斬って捨てる程度の意識しか、武士たちには無かった。

 どうすれば斬らずにすむ?

弁慶も怪訝な顔をする。

「命まで取らなくても」

「逃がせば、また押し込みをしますよぉ。それに、助かる見込みの無い時は、むしろ慈悲かなあってぇ」

小声で二人は声を交わした。

「分かった。だけど、そうだな、情報が欲しい」

常春が言い訳を思いつく。

「軽傷の者は、止血して縛り上げて。何処から来たのか知りたい」

忠信は、それで納得がいった顔をした。

 羅生門の時代だったな

芥川龍之介のその短編は、平安末期の話だったと常春は思い出した。粗筋も覚えていないが、殺伐とした話だったはず。ここは皆のする事が正しいのだろう。しかし、と常春は思った。

 やっぱり、時代が違う・・・寒い身震いする。裸の上に、弁慶が着物を掛けてくれた。しかし冷える。切り殺され、或いは縛り上げられる盗賊から目を離さず、常春は怖さと淋しさを覚えた。


 翌朝、常春の前に、縄で両手両足を縛られた少女が一人、引きずり出された。他は結局死ぬか切られるかしたと、説明を受ける。

「時間もないからぁ、早く答えてくださいねぇ」

弁慶が告げた。

「名前は」

「シヅカ。みんな、しずぽんって呼ぶよ」

「シヅカ、いくつだ」

「十三歳だけど、おっちゃん、硬いよー」

「こういう時は硬苦しくていいんだよっ」

片側をポニーテールにした丸顔の少女は、気負わずに答えた。悪びれない笑顔に、常春は苦笑いする。

「それと、おっちゃんと言われると傷付くなあ」

「じゃあ、兄ちゃん?」

どうでもいいでしょぉ、と弁慶に叱られた。気を取り直す。

「それで、誰の指示だ」

「親方の名前って事?」

裕福な商人の小さな集団がいるらしい、と聞きつけた盗賊たちが集まって、自然発生的な集団が出来たと話す。だからリーダーははっきりしない。シヅカは元々白拍子だったのだが、興行主が盗賊を兼務したため、身の軽い自分が、先に館に入ったと説明した。

「薙刀で刺された時は、死ぬかと思ったよー」

「ああ、あの時の」

弁慶に突かれた時、運よく当たらなかったものの、庭に転がり落ちて気を失っていたらしい。

「あの、眩しいのは何? 兄ちゃんは陰陽師?」

「質問しているのはぁ、こっちですよぉ」

弁慶が薙刀を一閃させた。

「うあうあ、ごめんなさーい」

緊張感が無いなと常春は思う。

「何で子供が盗賊なんかやってんだ」

子供扱いしないでよねーと、シヅカが頬を膨らませた。芸は一座随一だと、小さな胸を張る。しかし、源平の内戦や飢饉でパトロンも減り、食い詰めたのが盗賊に身を落とした理由との事だった。

「鎌倉殿ではないみたいですねぇ」

弁慶がほっと溜息をつく。襲撃が頼朝の命令も考えられた。それにしては装備が悪い。ただの盗賊だと忠信も判断した。

「子供でも切るのか」

常春は弁慶に小声で尋ねる。戦っている最中でもないのに子供を処刑するのは、確かに気が進まないと弁慶も答えた。

「何処にでも行けばいいよ」

常春はシヅカに話しかける。

「俺は陰陽師だ。その気になれば、他にもいろんな事が出来る。だから俺たちに手を出そうとしている連中がいたら、無駄死にになると教えてやれ」

「はーん、そうなんだ」

分かったよ、と、シヅカは屈託なく笑った。しずぽんが触れて回れば、邪魔されずに旅が出来るって事だね、としたり顔だ。

「そうだ。邪魔されたくないし、不要な人殺しもしたくない。けれど、仕方が無ければ戦わざるを得ない。戦えば、勝つ」

常春が、噛んで含んで言い聞かせた。戦わざるを得ない、とは、自分に向けて、だったのかも知れない。

「それと、盗賊なんかやめて、まっとうな仕事に就け。無残な死に方をするのは勿体ない」

「兄ちゃん、ありがとう。みんなにそう伝えるよ」

縄を解かれ、腕をさすりながら、友達の兄とでも話す気安さでシヅカは元気に答えると、他の武士に睨みつけられながら、さっさとその場を離れた。

「やれやれ、何か疲れたな」

常春は、弁慶に笑いかける。が、そうですねぇ、と弁慶は浮かない顔。

「逃がした事が、悪い事にならなければいいんですけどぉ」

「まあ、済んだ事は考えても仕方が無いだろう。俺たちも移動するか」

もう関わる事もないだろう、と常春は会話を終え、弁慶を促した。


 その日は、もう何も起こらず、翌日。何時もの様に、弁慶が手綱を握る馬の背で、常春が揺られていると。

 ガサリ

茂みが動いて、人が姿を現した。

「シヅカじゃないか」

常春が声を掛ける。

「んふー、兄ちゃん、覚えてくれてたんだね。嬉しいよ」

でも、しずぽんって呼んで欲しいなと言いながら、シヅカは、馬の引き綱を取った。警護の武士も、あっけにとられて手を出せないままに、当然の顔をして馬を引き始める。

「あらぁ。何をしているのかしらぁ」

「高貴な人には、馬引きが必要でしょ。でも何で、後ろに乗ってるの?」

もしかして、馬に乗れないとか、とシヅカはジト目で笑う。高貴な陰陽師は、普段は牛車なんだよ、常春は適当な言い訳をした。

「ふーん、そうなんだ」

大して気にせずに、シヅカが答えた。

「それより、どうしたんだ」

「みんなには、ちゃんと話をして来たよ」

「それで?」

「やだなあ。まっとうな仕事をしろって言ったのは、兄ちゃんだよ」

シヅカは、常春に就職しに来たと主張した。日頃一座が移動に使っていたので、馬の扱いには慣れている、馬子にどうかと売り込みを行う。

「ねえ、使ってよー」

元盗賊。夜襲の手引きをするかも知れない。とてもそうはいかないと、弁慶が首を振った。

「兄ちゃん、お願いだよー」

シヅカが重ねて頼むが、常春も弁慶の懸念は尤もだと思う。常春は馬を停めて地面に降りた。

「残念だけど」

「兄ちゃん、何でもするから雇ってよ。本気なんだよー」

一瞬の出来事。シヅカが常春の腰から脇差を引き抜く。

「なっ」

常春を人質に取られた、と誰もが動けないうちに。

「このぐらい、本気だよ」

シヅカはしゃがみ込むと、脇差を左手に持ち替えて、地面に置いた右手を。

「あっ」

鋭い刃が、シヅカの右手の甲を貫いた。

「やめるんだ」

常春が咄嗟に、脇差が刺さったままの手を持ち上げた。刃先が少し地面に食込んでいた。

 このまま引き抜いたら、傷に雑菌が入る

この時代の医療レベルに期待はできない。ベルトから水筒を抜き、刃先を水洗いしてから、えい、と引き抜く。

 ぐぇ

常春は、シヅカの変な悲鳴を無視し、傷口を水で洗った。

「消毒は」

ウエストポーチの薬入れの中に、使いきりの抗菌目薬が入っている事を思い出す。一回分の封を切って、傷口に振りかける。

「痛い、沁みるよ」

「我慢しろ」

更にハンカチに染み込ませてシヅカの手に巻きつけると、強く押した。縫えればよいのだろうけれど経験が無い。幸いにも、血は吹き出す訳ではない。滲み出す様に流れ出た。多分動脈を傷つけてはいない。ひたすら圧迫する。

「ちょっと自分で押さえてろ」

常春は、ナップサックからネクタイを出すと、包帯代わりに巻きつける。

「その様な事を」

武士の一人が止めに入るのを、常春は黙ってろ、と引き下がらせる。

「ここまで頼ってきた奴を、放っておくなんて出来ない」

「仕方ないですねぇ」

弁慶は呆れながらも、武士たちを下がらせた。

「兄ちゃん」

「お前もお前だ。なんて事するんだ」

常春は、同じ勢いでシヅカも怒鳴りつける。

「切りどころが悪ければ、手が動かなくなったり、出血多量で死ぬ事もあるんだぞ」

もっと命を大切にしろと、常春は真剣に叱った。うう、ごめんよぉ、兄ちゃん、シヅカの目に涙が浮かぶ。怒鳴られる事は日常だったが、自分の事を心配して叱られる事はこれまで無かった。

「痛い、痛いよぉ」

「当たり前だ、莫迦」

俺はこれ以上の事は出来ない、早く、血が止まってくれ、そう思いながら、常春は手を握り続けた。

 そして、止血に成功。

「どうするのぉ」

弁慶が問う。

「兄ちゃん。何でもするよ。連れてって」

シヅカが右手を押さえながら、懸命に訴える。

「連れて行くしか仕方が無いと思うが、どうかな?」

常春は、先刻さっき怒鳴りつけた相手に尋ねた。

「先日は陰陽道のお力を、今日は子供一人を大切にするお心を見せて頂き感動致しました!」

「どうかお連れください!」

武士たちの琴線に触れたらしい。忠信も頷く。

「ありがとう」

常春は全員に深く頭を下げた。誰もが笑顔になる。

 時代が違えば常識も異なる。でも、話せば分かってくれるかも知れない。常春の気持ちは、久し振りに晴れやかになった。


三 インターバル 木曾義仲(その一)


 常春がこの時代にやって来る前。

 治承四年、源頼朝が挙兵して富士川の戦いで平維盛を破った後、しかし翌年京都に入ったのは、木曾義仲の軍勢になる。頼朝が後背の奥州藤原氏を気にして、動けない間を突いての進軍だった。

「親父は義平に殺された。頼朝は義平の弟だ」

義仲は公然と吠える。義仲は頼朝と従兄弟同士ではあるのだが、義仲からすれば、頼朝の血筋は親の仇、出し抜く事に躊躇は無い。

 そして義仲が木曾から連れて来た軍勢は精鋭だった。

 平家は、平清盛が病死する不運もあったが、倶利伽羅峠の戦いで兵力の少ない義仲軍に大敗し、京都を捨て瀬戸内海へと都落ちする。

 十万の大軍を三分の一の兵力で倒した義仲の名声が広がると、各地から兵士が集まり、軍勢の規模は雪だるま式に膨らんだ。

 京都の後白河法皇は、栄華を独占する平家を追い出した義仲を喜んで迎え入れたものの、すぐに対立する事になる。義仲の配下が、京都でありとあらゆる狼藉を働いたからだった。元々、挙兵から付き従ったメンバー以外は野盗をかき集めの義仲軍は、京都でイナゴの大群の本性をむき出しにする。住民の家は略奪され、通行人が身ぐるみ剥がれた。

「平家より悪い」

悪評が立つが、義仲も褒賞を餌に連れてきたので略奪を止める事が出来ない。飢饉もあり、京都は荒廃した。

 朝廷からしても、義仲は厄介者だった。田舎者で朝廷の作法も知らないだけなら笑いもので済んだのだが、身分不相応にも新天皇を推挙して、後白河法皇の反発を買った。

 そして法皇は、今度は頼朝の力を使って、義仲を追い出そうと画策する。平家を追い出すに義仲を利用し、義仲を追い出すのに頼朝を使おうとする、調子のよい法皇だった。


 京都。六条西洞院の義仲邸。みんなでワイワイやりながら食事を取るのが義仲流だった。日常の食事は恥ずかしい事なので独りでこっそりと、そんな当時の貴族の常識は持た無い。

「猫殿のアレ、おかしかったなぁ」

誰かが言った。公家の、猫間中納言光高の訪問の件を笑う。

「猫間なんて名前だから、京都では猫が服を着て、人に会いに来るのかと思った」

義仲が笑う。

「しかもボロボロこぼして、猫そのまんまだったな」

法皇の遣いでやって来たところ、公家のルールとしては無作法な事に、一緒に食事をしようと勧められ、しかも義仲の普段使いの椀で食べろと無理強いされた光高には、迷惑な話であったろう。しかも、仕方なく食べるふりをして、脇にこぼしていたのを猫みたいだと笑われて、這う這うのほうほうのていで話もせずに逃げ帰っている。

「結局、猫殿は、何をしに来たのだろうな」

一同でひとしきり笑う。悪気は無いが、「郷に入っては郷に従え」が分からない義仲だった。田舎育ちの義仲に、朝廷のしきたりや作法などには縁が無い。

「なあトモエ」

義仲の陰に控えていたトモエは、笑いもせずにコクリと頷いた。人形と見間違う美人との噂が高いトモエは、また人形の様に無表情で無口。

「鼓判官なんてのもいたな」

「鼓とか呼ばれているから、さぞ叩かれているのかと尋ねたら」

「あの時の顔、鳩が豆を食らったみたいな」

「実は鼓の名手だったらしいぞ」

「いや、きっと叩かれる方の名手でしょう」

鼓の名手とされる平知康たいらともやすも、同じく笑いものにされた。判官と言えば、と別の武士が声をあげる。

「征東大将軍への任官、おめでとうございます」

義仲は後白河法皇から、征東大将軍に任官されていた。同時に、旭将軍の名を貰う。脅した訳では無い。法皇側からの任官だった。

「肩書きしか寄越すものはないからな」

官位を発行する事で懐柔しようというつもりなのだろうが、と、義仲は肩を竦めた。貰えるものは貰っておくが、勲章で腹が膨れる訳で無しと、大してありがたがりもしない。

「いやいや、日本の武士の総司令官の肩書き、ご立派です」

追従される。

「これで言う事を聞かない平家も鎌倉も、まとめて賊軍だな」

そんな話をして笑っていると、部下の一人が血相を変えて駆け込んでくる。

「義仲殿、一大事です」

「どうした、また猫殿が来たか」

しかしその報告は、義仲の気分を一変させるものだった。


 「寿永二年十月の宣旨せんじ」発令。主な内容は以下の二点、

・源氏の本筋は頼朝であり、唯一の武家棟梁である。義仲は傍流であり頼朝の部下である。

・東海、東山、北陸の徴税権は頼朝にある。要は頼朝の持ち物である。

であった。義仲が軍を動かし、平家と戦っている間何もしなかった頼朝が、義仲より格上だと法皇が宣言する。征東大将軍への任命とも辻褄が合わない。

「後白河め、誰が京都から平家を追い出してやったというのだ」

義仲の頭に血が上る。

「しかも御所は武装したり、堀や塀を用意して戦の準備をしています」

「戦とな」

法住寺に居を構える後白河法皇は僧兵を集め、寺を要塞化しつつあるとの報告だった。

「戦の上手い者は誰か、教えてやらねばな」

法皇に弓を向ければ朝敵、反逆者になってしまいます、流石に乳母兄弟の副将、今井兼平が止めた。

「後白河法皇に背くのではありません」

気の利いた独りが答える。

「君側の奸を討ち、法皇をお守り申す」

君側の奸って何だと義仲が尋ねた。法皇を操り人形にして、悪政を行わせる奸臣の事ですとの答えが返る。誰が奸臣か? と、更に義仲は尋ねた。事情に明るい者が答える。

「平知康、鼓判官です」

知康は、義仲に笑われた事を根に持ち、反義仲の急先鋒となっていた。

「鼓め、それほどまでに打たれたいか」

義仲が吠えた。元々戦好きの部下たちである。理由も出来た。もう止められない。


 同年十一月。京都に上洛して二ヶ月が過ぎていた。義仲の手元には六、七千騎、法住寺に立てこもる後白河法皇の手勢は、僧兵や門徒も含め二万を超えている。義仲はもっと多くの兵を手元に置きたかったのだが、源頼朝の先兵、義経の部隊の動きが掴めない。西の平家も、瀬戸内を挟んで屋島と福原に展開し、結局各地に守備隊を置かざるを得ず、兵が分散してしまっている。その上、京都の略奪を終えた盗賊たちは、貰うものは貰ったと離脱してしまっていた。

 少数の兵力で攻めるならば夜襲だろうと徹夜で警備していた守備隊も、昼になり今日も無事だったかと仮眠を取り始めた頃。

 義仲は更に裏をかいた。白昼堂々と法住寺を襲う。

「義仲め、朝敵になるとは血迷ったか」

法皇から御所防衛の司令官に命令された鼓判官知康は、御所の塀の上に登って嘲笑した。赤い鎧に顔まで赤く塗り、鉾と鈴を持って踊りを舞う。

「法皇のご命令があれば、枯れ木も花を咲かせ、飛ぶ鳥も落ち、悪鬼悪神も跪くもの。よくまあ弓を引けるものだ。放った矢も抜いた太刀も、自分を斬る事になるぞ」

風情がない、知康は気が触れたに違いない、と、味方からも失笑される事も気にせず、口から泡を吹きながら、知康はわめき続ける。

「また鼓か」

義仲はむしろうんざりした。

「撃て」

義仲の命令一下、次々に火矢が射かけられる。あっという間に火は法住寺に燃え広がった。塀の上に、知康の姿は無い。

「突撃っ」

簡単に門が破られ、騎馬がなだれ込む。浮足立った守備隊は、あちらこちらで蹴散らされ撤退した。数こそ勝ったが、寄せ集めの守備隊は戦のプロの精鋭義仲軍に太刀打ちできない。

 弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず

 或いは薙刀逆さまに突いて、我が足突き貫く者もあり

平家物語にそう書き記される混乱。

「法皇と鼓を探せ」

「法皇は捕まえろ、鼓は斬れ」

怒号が飛び交う。貴族、貴種であろうと、僧のトップだろうと、混乱の中でいとも簡単に斬られた。後白河法皇の皇子円恵法親王も、比叡山延暦寺の司令官明雲も、雑兵の手にかかって、次々と命を落とす。

「後白河法皇ですな」

出会ったのが雑兵であれば、法皇の首も斬り飛ばされていたに違いない。幸いにも今井兼平が見つけ、身柄を確保した。守る部下もおらず呆然と立っていたところを、拘束される。その後わずか四歳の後鳥羽天皇も拉致、法皇天皇共に幽閉された。

 法皇側に六百名以上の戦死者を出し、義仲のクーデターは成功する。同日四十九人の官職を剥奪し、義仲の配下や関係者が取って代わった。

「京都は俺のものだ」

法住寺の廃墟を前に、義仲が吠える。今や朝廷は義仲の思いのままだった。

 但し、どう上手く逃げおおせたのか、鼓判官の姿は無かった。


四 『凶:嫉妬と湯冷めに注意しましょう』


 近江、琵琶湖西岸の湯治場。

 京都での法住寺殿の戦いと前後して、浪戸一行は滋賀県の雄琴に移動している。後の時代には歓楽地として賑わう温泉街も、この時代は静かな湯治場。

 忠信ただのぶは、箱根で引き返したため、先行した浪戸には会えなかった。

「その方がいいですよぉ、かわいそうですけどぉ」

兄弟である以上、顔を見れば誰だかわかるだろう。秘密を知る人の数は少ない方がいい、と弁慶は言う。その通りだが、浪戸のためにも会わせてやりたかったと常春は思った。

 それとも、余計に辛いかな

迷った常春は、雄琴で追いついてからも、浪戸には忠信の話をしないでおく。

 宿営地の広場では、那須与一が、二十名程の部下を引き連れ、トレーニングを行っていた。常春が教えた腕立て伏せやスクワットをやっている。

 一方、伊勢三郎とその手下は、めいめい勝手にやっていた。湖岸を走って足腰を鍛えるものもいるが、昼間から酒を飲んでいる者もいる。元来の武士団と、元盗賊の違いだった。このふたつの集団、当然の事ながら交流は少ない。

 弁慶は、シヅカに薙刀の稽古をつけている。最初は乗り気で無かった弁慶だが、今は、筋がよい、とご機嫌で教えていた。元々懐っこいのだろう、シヅカも、お姉ちゃん、と慕って稽古している。たまにみんなの前で白拍子を舞って喝采を浴びている。ともかく元気だ。ただ右手の腱を切ったらしく、握力は殆ど無い。

「無茶な事をしたな」

もうこんな事はするなよと常春が注意すると、バツの悪そうにシヅカは笑った。

 浪戸は独りでいる事が多い。事情を知らない者に女である事がばれないために、あまり姿を見せない。常春が教えたトレーニングを、独りで黙々とこなしている。

「何考え事してるの、よそ見しないっ」

ツインテールの海尊にキンキン声でキレられながら、乗馬の手ほどきを受けているのは常春だった。

「大体何で私がアンタなんか」

「馬を教えるのが上手なのは海尊だって、みんなが勧めるから」

「押し付けたいからに決まってるでしょ」

「でも上手だよね」

「なっ、とーぜんでしょ」

左から馬にまたがったと叱られ、あぶみの踵が上がっていると叱られしている内に、乗馬経験の無い常春も、歩かせるぐらいなら何とか可能になっていた。奥州の行き帰りで馬の背に揺られた経験もあるが、確かに海尊は、教え上手だと思う。

「俺みたいな下手にも、教えるの上手だね」

「自分の事を下手って言わない、言うと本当になるでしょっ」

アンタ陰陽師でしょ、言霊には気をつけなさい、と、ここでも海尊は鬼教官だが、それもそうだな、と常春は納得した。自分の事を下手だと言うのはそれを言い訳にしている、と弓を習っていた時に叱られた覚えがある。

「ありがとう、そうだな」

「それにアンタ。経験が無いだけで、下手じゃないわ」

ま、先生が優秀なんだから当然よね、と、最後は何時もと同じく偉そうな海尊だった。


 史実上は伊勢に駐屯していたはずの一行が雄琴にいるのは、頼朝の命令による。京都と木曾の間で、義仲撤退時に備えていたが、手勢五十騎では足止めも出来ない。むしろ情報収集を期待されていた。京都の情報を収集し、鎌倉に報告をしている。

 三郎の手下の一部は、情報収集のため京都に先行して展開していた。京都近辺で盗賊を行っていた者もいる。彼らは緩やかなネットワークを保持していた。

 盗賊といえば厳しい乗馬訓練を終え、馬の汗を拭きながら常春は思う。シヅカの情報網も頼りになる。毎日なにかしらの情報を常春に伝えに来る。旅芸人の人脈があるらしい。

「猫マンマか」

猫殿や鼓判官の噂話を始め、後白河法皇が立てこもる法住寺の要塞化の話も伝わっている。三郎の情報網とクロスチェックする事で、情報の確度が増した。

 常春はシヅカのネットワークに、こちらから情報を流した。伊勢に万の大軍がいる、いや、雄琴に五十名程度しかいない。虚実取り混ぜて噂話を流す事で、義仲の混乱を狙う。三郎の手下は考えなしに事実を話しているので、シヅカからは主に虚報を流してやった。


 ところで、と、何の気なしに、常春は、となりで馬の毛を梳いている海尊に尋ねた。

「この後、何をするんだ?」

「これからの時間は残夢ざんむよ、残夢とよびなさーい」

海尊のペンネームだと答える。今後、海尊とその引き立て役は、それはそれは武勲をあげるんだから、毎日の事を記録しなきゃね、と不敵に笑った。戦闘のプロかと思っていたが、文字も達者に読み書きできるのか。常春の中で、悪戯心が動いた。

「海尊とその引き立て役もいいけどさ、もっと大きい視点で書いてみてはどうだい」

「大きい視点って?」

「例えば、平家の栄華から滅亡までを描くとか」

「滅亡? アンタ何でそれを知ってるの?」

口が滑った、と常春は慌てる。

「まあいいわ。きっと海尊ちゃんが決定的な働きをするのに決まってるんだから」

その物語、壮大でいいわね、と海尊は乗り気になる。

「その話は、どんな言葉で始まると思う?」

いい案をださなきゃ、ヒドイ目に合わせるわよ、と海尊。そうだなあ、常春は、錆びついた古典の知識を総動員してみる。

「祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらはす

驕れる者久しからず

たゞ春の世の夢の如し

猛き人もつひには滅びぬ

ひとへに風の前の塵に同じ」

なんてのは、どうだ? やれやれよく覚えていたなと思いながら、常春は平家物語の冒頭をそらんじて見せた。

「ふーん、アンタ、なかなか出来るじゃない。ちょっと見直しちゃったわ」

海尊が、意外そうに褒める。

「ところで、祇園精舎って何処?」

「インドのお寺じゃないか?」

「インド?」

いつか食事時に古い呼び方を聞いたな、と思い出す。

「えーっと天竺の事だよ」

「ふーん」

「何だかありがたいお寺なんだよ」

「何だかうさんくさいわねっ」

海尊が眉をひそめた。が。

「うん、その物語の始まりは、それしかないわね」

少し考えてから笑顔を見せる。常春は気恥ずかしく感じて、肩をすくめた。


 馬の世話を終えて、常春は、三郎のところに顔を出した。いかにもお山の大将然とした三郎は正直苦手だが、無視するのもよくなさそうだと考え直す。

弓胎弓ひごゆみっていうんか、ええもんやな、あれ」

奥州から持ち帰った新型弓は、三郎のところでも評判がいい。肩をばんばん叩いて、褒める。

「いや、あれは、義経の口添えあっての事で」

「そんなん言わんでええって。それとも、義経と、ええ仲なんか?」

人の耳のあるところでそれはまずいだろうと思ったが、以前、弁慶が、衆道がどうとか話していた事を思い出す。男色もありなら、そんなきわどい言い方もありなのだろう。

「まあ義経は、見目麗しいからね」

話を合わせておく。

「なあ、常春は、そっちもいけるんか?」

「何事にせよ、人並みには」

ねちっこい視線に閉口しながら、あたりさわりの無い返事をする。このタイプは、はねつけると、お高くとまりやがって、と機嫌を悪くするから始末に悪い。初日から、何だか絡まれるなあ、と常春は這う這うのほうほうのていで逃げ出した。


 「常春クン」

今度は与一に引き止められる。三郎と同じく弓胎弓を褒め、常春は同様に、奥州への義経の影響力をさりげなく口にする。

「勿論そうだけど、常春クンの知識あっての事だよ」

返し方は人それぞれだな、と常春は思った。

「ところで、伊勢三郎の事だけど」

与一は声を潜めた。

「盗賊上がりという事もあるだろうけど、上昇志向が強い」

生粋の武士である与一につっかかる事も多いと苦笑いする。

「俺も武士じゃない。商人だよ」

だけどね、と与一は続けた。互いのテリトリーが重ならなければ問題ない。利用できるかどうかだけが三郎の関心になる。しかし自分の地位を脅かすと思われれば、潰しにかかるのは目に見えている、と解説した。

「俺は競争相手じゃない、要は、目立たなければいいんだろ」

弁慶と海尊はどうなるんだと尋ねたら、僧上がりだし、女性だからという理由で軽く見ているらしい。

 ああいるね、何処にでもそんなのが、と常春はげんなりした。会社でも、こっちは出世などはなから諦めているのに、勝手に敵認定して目の仇にする者がいる。

「気を付ける方がいいよ。伊勢三郎は、嫉妬深い」

「迷惑だよね」

そんな人って何処にでもいるよね、常春は肩を竦めた。あはは、と笑いあう。与一は話していて気持ちがよい、と常春は思う。しかし、単に三郎より上手なだけかも知れない。安心してよいかどうかはまだ判断できないと気を引き締める。心配性かもしれないが命が掛かっている。誰を何処まで信じるか、判断が難しい。

「職場なんか、メじゃないな」

常春は、そうひとりごちた。


 本物の温泉がある。常春は、毎日大喜びで湯に浸かった。この時代は湯を張る風呂が無い。しかし温泉は今も昔も変わらないスタイルだった。

「疲れが取れるなぁ」

熱い露天風呂に浸かりながら、常春が独り言を呟く。温泉は湯治、治療の一環と考えられていて、与一も三郎もやって来なかった。むしろ、温泉をありがたがる常春がおかしいという扱いになっている。たまに、トレーニングで酷い打ち身をした怪我人が、治療にやって来るぐらいだった。

 ばしゃ

湯が跳ねる。ああ、また誰か足でも捻ったのか、と常春が振り返ると、浪戸と目があった。

「え、どうして」

浪戸は細い手拭いで前を隠し、足を湯につけて立っている。慌てて後ろを向く常春の視野の隅に、その残像が残った。胸は小さい。ヒップも小さい。しかし更に細い腰がしっかりとくびれていて、スレンダーながらも、きれいな曲線を描いていた。

「熱い。よく入れますね」

相変わらず、立ったままの気配。

「せめて身体を隠せよ。他人に見られたらまずいだろう」

「誰も来ませんよ。三郎が、そうしたから」

三郎の嫌がらせらしい。常春と浪戸を一緒に風呂に入れ、二人が男色だと噂を流す。一方で浪戸は少女、常春はノーマル。単純に常春を困るのが楽しいのだろう。

「常春さん、衆道の人でしょう? 何とも思わないのですよね」

汚らわしい、浪戸は吐き捨てる様に言った。いやいや、この時代は衆道も許されるんじゃないの、と、心の中で常春は抗議した。

「三郎が何を言ったか知らないけど、俺は男色趣味なんかないぞ」

「じゃあ、今私を見て・・・もっと汚らわしい」

熱い湯をかけられ、常春は悶絶する。

「大体、何で来たんだよ」

「常春が呼んでいると、三郎から聞いたから」

「呼んでないって!」

そう、じゃあ、私、帰ります、水が跳ねる音がした。

「あ、いや、ちょっと待って」

「なんでしょうか。汚らわしい話ですか」

何かと声にトゲがある。

「違うってば」

それより寒いだろうから、ゆっくり湯に浸かれと常春は勧めた。熱い熱いと言いながら、浪戸も腰を下ろす。背中合わせになった。

「義経の事を知りたいから、義経になりたい、だったな」

「そうです」

「三郎とか、お前を義経としては見ていないぞ」

今回も、常春に嫌がらせをして浪戸をからかうだけの意思が見て取れる。浪戸を大切に思う気持ちなど無い。

「当然です。私は義経様ではありません。顔が似ているだけのお神輿です」

以前の話を繰り返した。

「だけど私、義経様の役を最後までやりたいんです」

実家で浪戸が生きている事を知っているのは、藤原秀衡のみ。父親も兄弟たちも、浪戸は熱病で死んだものと思っている。

「浪戸は死にました。義経様が亡くなった時一緒に。私に出来る事は、これしか」

「分かった。俺がどうこう言う事じゃないしな」

常春が明るい声で告げる。

「お神輿にされて、ちょっと辛いんじゃないかと思ってたんだけど、それが進む道なら構わないんじゃないか」

もうすぐ、鎌倉から出陣の指示が出る。歴史云々より、状況を考えれば出るはずだった。

「強い気持ちを持ち続けていれば、きっと戦功を挙げられるよ」

戦功をあげている内に義経の夢、平家打倒も近づいてくるだろう、そう常春は励ましの言葉を掛けた。

「どうして、あったばかりの私に、そんな話をするのですか」

「そんな話?」

「優しく・・・してくれるのですか?」

浪戸は少し口ごもりながら訂正した。

「どうしてって。まだ若いのに何時も難しい顔をしてさ。なんだかかわいそうで」

「難しい顔は生まれつきです・・・憐みですか」

「うーん、そうじゃないな」

強いて言えば、初めて出逢った日の笛の音が悲し過ぎて、運命って言うのかなって、俺何言ってんだろね、と常春は苦笑した。返事が無い。あれ、怒った? と振り返ると、浪戸が目を閉じて崩れ落ちていた。

 のぼせたのか慌てて風呂から引っ張り上げると、失礼、と浪戸の身体を拭い、畳んであった着物を被せた。

「子供、まだ子供なんだから変な考えしない」

赤くのぼせた浪戸の肢体を脳裏から振り払いつつ、自分は濡れたまま、急いで着物をまとう。

 意識を失ってると、こんなに細いのに重たいんだな常春は、苦労しながら浪戸をおぶった。上半身が揺れて危ないので、帯で縛り付ける。着物越しに、小さいけれど女性の柔らかい胸が、背中に密着した。

 意識しない

ともすれば必要以上に背中に意識が行ってしまう。なるだけ考えない様に、常春は浪戸の部屋に向かった。


 部屋に戻る頃には、浪戸は意識を取り戻していた。

「気持ち悪い、ですね」

と言う。

「湯あたりだろ、横になって、首を冷やすとじきに落ち着くよ」

常春は、浪戸を横にすると、濡れた手拭いを首に当ててやった。ハンカチはシヅカに渡したままだと思い出す。

「どうしてそんな事がわかるんですか」

「未来人だからじゃないかな」

弁慶でも呼んでこようか、と尋ねたところ、浪戸は小さく頷いた。

「だけど、もう少し、見ていて、ください」

心細いんだな、と常春は思った。風呂に入る習慣が無ければ、湯あたりも経験が無い。くらくらして恐ろしいだろう。

「安心しろ。ここにいるよ」

浪戸が目を閉じる。常春はそこにあった団扇で、しばらく静かにあおいでやる事にした。弁慶を呼ぶのは、後でもいいかなと思いながら。


 少しすると、弁慶が慌てて入ってきた。

「常春さん、以前、身持ちの硬い方だと自慢していませんでしたかぁ」

「ちょ、誤解だって」

「何かしたらぁ、分かってますよねぇ」

「一緒に温泉に浸かっていたら、湯あたりをして」

「一緒にぃ、温泉!」

「三郎にかつがれたんだよ。問題なし、何もしてないから」

大声を出すなよ目を覚ますだろ、と常春が言うと、あ、と弁慶が口を押えた。その隙に、一連の事情をかいつまんで話す。

「そうだったのねぇ」

邪な視線でいろいろ見たんでしょう、充分問題があると思いますけどぉ、と弁慶は微笑んだ。

「湯気で見えなかったって」

常春さんは何時もその言い訳ですねぇ、と、弁慶が更に微笑む。弁慶の裸を見た時も同じ逃げ方をしたな、常春は苦笑した。

「弁慶は、ちゃんと心配してくれるんだな」

「そんなの、当たり前でしょう。だってこの子、一所懸命なんですよぉ」

優しく笑う。

「義経じゃないのは分かっているんですぅ。でも、同じぐらい一途で、いじらしい」

常春さんは、どうなんですか? と弁慶が尋ねた。

 何かの意図が働いたかどうかは別として、常春は、偶然出会っただけの、本来なら知り合う事の無かった他人と思う。

「でも、ここまで知ってしまうともう他人事じゃない。助けになれたらいいなと思うよ」

何時も張りつめた表情。ひたむきで真面目。暫くの会社勤めの内に忘れていた、長らく縁の無かった感情に惹かれている。

「好み?」

弁慶が悪戯っぽく尋ねた。

「好みかどうかってより、守ってやりたいな」

清和源氏の棟梁が弟を守りたいとは大胆ですねぇ、弁慶に笑われる。それもそうだな、常春も笑い返した。


 翌日。

 浪戸は復活した。一方、濡れたまま着物を着てうろうろした常春は、しっかり風邪をひく。オミクジアプリは、嫉妬と湯冷めに注意と出ていたっけ。なんたる的中率、と常春はくらくらする頭で、アプリの占いに感心する。

「全然ダメ。なってないっ」

海尊から煎じ薬を貰った。海尊ちゃんはっ医療にも通じているのよっと自慢される。

「大体、義経に夜這いをかけたとか、その上衆道癖があるとか、キモっ」

罵りの言葉も貰う。

「冤罪だし。頭に響くから怒鳴らないで欲しいし」

常春は弱々しく抗議したが、それで気を使う海尊では無い。

「ちょっとはマシかと思ったけれど、やっぱり間違いだったわっ」

あー、もう何でもいいよ。頼むから静かにしてくれ、と常春。

「今日の馬の練習はどうするのよ」

「ごめん、今日は許して」

「もう教えてやんないんだからねっ」

台風の勢いで海尊は出て行った。入れ替わりに、シヅカが入ってくる。

「そうそう、アンタは子供もイケる口よね、いい歳して兄ちゃんとか呼ばせて。キモっ、変態っ、変態おっさんっ」

廊下からも罵り声が聞こえる。常春はぐったりした。

「ねー、兄ちゃん、女の人より男の人の方が好きなの? それ、おかしいよ」

「入って来るなり、なんだそりゃ」

「しずぽんが一肌脱ぐね。恥ずかしいけど、胸、触っていいよ」

「子供の胸触って喜ぶのも問題だろうが」

着物の肩を片方落としながら、子供じゃないしと膨れるシヅカ。それより誰から聞いたと尋ねると、三郎の手下の間では噂になっていると話す。ねちねちと嫌がらせをされる程、三郎の地位を脅かしたかなと首を捻った。三郎的には、たわいのない暇つぶしなのかも知れない。それはそれでタチが悪いと、常春は迷惑に思う。

「いいか、俺は義経とそんな関係じゃない。義経もそんな噂を立てられたら迷惑だろう」

「じゃあ兄ちゃんは、女の人が好きなの?」

「その言い方は語弊があるけど、端折れば、そうだな」

「うあうあ、しずぽん、貞操の危機」

いや、触っていいって言ったの自分だよな。バタバタと出ていくシヅカの足音を聞きながら、常春は更に疲れた。が、思い出して戻ってきたシヅカの次の一言で、寝込んでいる場合では無くなる。

「そうそう。木曾義仲が法住寺を丸焼きにして、後白河法皇と後鳥羽天皇を誘拐したって噂だよ、兄ちゃん」


「お助けくだされ」

 一段高い中央のひな壇に浪戸。左右には、与一と三郎、弁慶と海尊、末席には常春が正装をして並ぶ。

 朱塗りに金糸の刺繍の胴鎧に、脇に置いた兜も赤い、派手ないでたちの義経然とした浪戸。

 それぞれ萌黄匂の鎧と肩白赤威の鎧の、フル装備の与一と三郎。

 弁慶と海尊は、二人とも白い着物に赤いはかま

 常春は久し振りの背広で臨んだ。ネクタイはシヅカに渡したままなので、手元にない。

「お助けくだされ」

相対する、緋色の公家装束の男は、常春の衣装に不審を抱く暇も無く、重ねて助けを求めた。

 鼓判官、平知康たいらともやすが雄琴に現れたのは、焼き討ちのあった三日後。法皇を置いてさっさと逃げ出した知康は、法皇と少年天皇が幽閉されるのを確認して、比叡山経由で険しい山道を抜けてきたと口から泡を吹きながら物語る。要所要所には義仲の兵が展開し検問を行っているので、ここまで逃げてくるのは命からがらであったと、ひきつった顔で一同に訴えた。

「まずは伊勢三郎、大儀であった」

浪戸は、涼しい顔をして、傍に控える三郎に声を掛ける。比叡山からは三郎の手下が、知康をここまで送り届けている、その労をまずねぎらった。静かに平伏する姿は、いっぱしの武士に見える。元盗賊仲間に見せるものとは、また別の顔。

「そして知康殿。ご苦労な事であった。難儀であったろう」

浪戸が鷹揚に頷く。義経は無冠、知康は判官職にあったが、知康は思わず頭を下げた。状況にも呑まれているが、正装した義経らしい落ち着いた振る舞いは、それだけで権威がある。

「さて、法皇と天皇の救出、当然の務めではあるが」

鎌倉の兄の命令がない限り、兵を動かせない、至急判断を仰ぐので、しばし待たれよ、と義経は続けた。

「ところで知康殿は、鼓判官として名高いのではないか?」

「まろの事をご存じで」

「何時か私の笛と手合せ頂きたいものだ」

知康は平伏した。木曾義仲には笑いものにされたのに、義経は自分を知っていた上に評価してくれた、嬉しや、と、簡単に陥落する。常春の入れ知恵だった。ファンを増やしておいて損は無い。

「お疲れでございましょう。こちらへどうぞ」

何時もの不敵さを何処かに隠した海尊が、知康を控えの間に誘導した。芝居は以上、役者は引き上げとなる。

「あれでよかったのですか?」

浪戸は、一同を見渡して尋ねた。

「勿論ですよ」

「上出来だぜ」

与一と常春が、それぞれにOKを出した。

「何が難儀やねん。検問、ザルやったで」

三郎が嘲笑う。義仲の手元に兵は少ない。盗賊あがりの三郎には、隙間だらけの非常線に見えた。

「お公家さんには、命がけですよぉ」

弁慶が微笑む。

「それにしても、小憎らしい物言いが板についてきたな」

三郎の毒が浪戸に向かった。

「総大将らしい物言い、だよな」

言い淀んだ浪戸の代わりに、常春が訂正する。

「あ、ホンマにエエ仲かいな」

「鼓判官が納得してくれて、よかったですねぇ」

弁慶がおっとりと口を挟んだ。

「後は義仲追討令を、鎌倉から受けるだけだよね」

与一が朗らかに断言、話はそれまでになる。頼朝が、義経を京都に突入させなければ意味が無い。が、それは図らずも、知康が自らお膳立てをしてくれる事になる。


 翌朝。常春は奥州から持ち帰った、大型の弩の整備を行っていた。肩撃ち式の、小型のボウガンでは無い。半可搬式セミポータブルの、弓を引くためにクランクを回す攻城兵器。使う矢も直径約一寸(三センチ)、通常より遥かに太い鉄製の蟇目鏑矢ひきめかぶらや

「よし、引くぞ」

シヅカと二人でクランクを回す。きりきりと弦が下がる。先端を、盛土の壁に立てかけた標的に向け、慎重に矢を取り付ける。安全な方向に向ける前に暴発でもしようものなら大事故だ。

「狙って」

「ラジャーだよ」

シヅカが、サイトを覗く。スコープは用意出来なかったが、オープンサイトを取り付ける事が出来た。台座毎左右に振って、上下左右の角度の微調整を行う。

「兄ちゃん、準備オッケーだよ」

シヅカは常春から聞き覚えた、この時代にない外来語を好んで使う。

「撃て」

 バシッ

弦が激しく震えると、先端に穴の開いた鏑矢は、笛の原理で低いサイレンの音を響かせながら二百メートル先の標的を叩き割り、盛り土に深くめり込んだ。

「成功!」

「やったね、兄ちゃん」

常春譲りのハイタッチを交わす。弓を使うには訓練と腕力が必要だが、弩であれば準備に時間がかかるものの、子供にも操作可能である。補助兵器としては使い道があるだろう。圧倒的な威力は、相手の戦意を奪う事が出来るかも知れない。出来れば死者を増やさずに戦闘を終結させたいな、常春がそんな事を考えていると。

「凄い音でおじゃるな」

知康が興味深そうにやってきた。

「このような武器があれば、木曾猿めも勝ち目がなかろうて」

嬉しそうに笑う。私怨も存分に含まれていた。

「そうそう、まろは、誰か書状を届けて欲しいのじゃ」

忘れるところだった、と、知康は紙束を振り回す。どちらにと問えば、源頼朝と後白河法皇宛だと答える。

「頼朝殿には、木曾猿の悪行と義経殿のお心遣いを、直接お伝えしたいのじゃ」

そして法皇には、義経は義仲と違って京都生まれであり、風流も解す文化人である事を伝えたいと話す。

「昨日の夜の笛の音、まろは感じ入りましたぞ」

「恐れ入ります。御曹司に代わりまして、深くお礼をさせて頂きます」

これも作戦通り、と、常春は内心ほくそ笑む。前日の晩、浪戸に一曲演奏を頼んでおいたのだった。本陣から聴こえる笛の音に、知康はすっかりファンになったらしい。二通の書状を受け取り、この手紙、幽閉中の法皇にどうやって届けるか、と常春は悩む。

「んふー、そういう事だったら、しずぽんにお任せだよ」

白拍子は、呼ばれれば何処ででも舞を舞う。ありがたい事に、後白河法皇は風流人を通り越して歌謡曲マニアという噂、前で踊る事も可能だと、シヅカは請け負った。

「しかし外部との接触は禁じられているだろう。危険じゃないか」

常春は反対する。独りで危険な任務に行かせる気は無かった。

「他に方法あるの?」

確かに妙案だと思う。

「よし、俺が一緒に」

「それは駄目だよ。どう考えても役立たずだよ」

子供にはっきり言われてヘコむが、確かに却って足手まといである事を、認めざるを得ない。

「それじゃあ、せめて弁慶を」

一人の方が動きやすいよ、とシヅカは笑う。大丈夫、ちゃんとホーホーに手紙を渡して、明日の朝には帰るからね

「善は急げ。じゃあ、馬、借りるね」

シヅカは軽く手を振ると、心配そうな常春に何も言わせず、厩舎に走って行った。


 弁慶、海尊、与一、三郎、浪戸の五人は、日々の定例ミーティングを遅い朝食後に行う。常春が来てからは、腕時計を持っているという理由で召集役を命ぜられていた。そのままなし崩し的に、ミーティングにも参加する。

「って事があってね」

常春は与一に、鎌倉便に知康の書状を運んで貰う様に預けた後、シヅカの御所行きを話した。

「勝手な事やって、大丈夫なんかい?」

三郎が顔をしかめた。大事な問題だから先にみなに相談するべきだったのだが、状況に流されてしまったのは確かだ、と常春は反省する。

「まあ、シヅカの言う事も一理あって」

「ちゃうわ。野盗を信用出来るんか、ちう事や」

無表情な浪戸と、苦々しい顔をした三郎以外が、苦笑いして下を向く。

「なんや」

「私は、信用していますよぉ。シヅカさんも、三郎さんもぉ」

含み笑いしながらの弁慶の答えに、けっ、と三郎は横を向いた。

「与一、鎌倉は何か言って来てるのっ。海尊ちゃんが腕を尽くした書いたお手紙に、返事が来ないじゃないのっ」

海尊が話を変える。

「軍議、だそうです。返事が来たらみなさんに声を掛けますよ」

与一がさらりと答えた。と。

「与一殿、与一殿」

遠くから、呼ばわる声がする。失礼、与一はふすまを開けた。人払いしての軍議なので、見張りも少し遠ざけている。

「どうした」

「鎌倉殿からの書状をお持ちしました」

鎌倉に出した遣いが、帰った様子だった。

「ありがとう」

与一が書状を広げる。宛名書きは源義経、末尾に源頼朝の印を確認すると、頭からざっと目を通す。

「他になにかありましたか」

「申し上げます」

使いがかしこまる。

「この書状は、源頼朝様より、兄、頼朝から弟、義経に伝える、と、自分が直接頂きました。その時、武勲を挙げよ、とのお言葉を頂いております。また、増援は自分とほぼ同じ時に鎌倉を出ましたので、数日中には到着する見込み」

「いよいよ京都行きねっ」

勝手についてきて、書状を横から覗き込んだ海尊が笑う。

「急ぎ長旅、疲れたでしょう。着替えて、少し休んでください」

与一は、内容は自分から伝えるから公言しない様に、と、埃だらけの遣いに言い含め、ミーティングの席に戻りながら、

「駄目ですよ、軽々しく口にしては」

「いい事なんだから、構わないじゃない」

ご機嫌な海尊に肩をすくめながら、浪戸に書状を渡す。

「どんな内容なのぉ」

「木曾義仲にぶちかましたれって手紙やろ」

弁慶と三郎が、与一に声を掛けた。

「要点は四つ」

与一が簡潔に整理する。

「ひとつめ、木曾義仲は法皇、天皇を拉致して朝敵になった。義仲を討つ」

おっしゃ、派手にやんでぇ、と三郎。

「ふたつめ、本隊を範頼のりより、カバ冠者ですね、に任せ、正面から攻める。その数、三万」

カバ冠者? 常春は小声で弁慶に尋ねた。

「義経のお兄さんで頼朝の弟よぉ。遠江国、蒲御厨で生まれ育ったから、かば殿って呼ばれるのぉ」

どうしても、動物園のカバが思い浮かんで仕方が無い、義仲の「猫殿」を笑えないな、と常春は独り苦笑いをした。常春以外は、そもそも動物のカバを知らないので、何がおかしいかは分からない。

「えっと、みっつめ、義経軍は別働隊として、宇治に進出。先鋒として京都に入る。梶原景時かじわらかげときを軍監とする。増援も含め、約二万」

「トッキー? 頼朝の腰巾着? 何であんなのが来んのよっ」

海尊が嫌な奴、と思い切り顔をしかめた。

「誰?」

「昔、頼朝を助けて以来の郎党よぉ。それをちょっと、鼻にかけるところもあるけど、至って真面目な常識人よぉ」

「ちょっとじゃないでしょっ、何かと言えば、頼朝ガー、頼朝ガーって、偉そうに」

何か私怨も含まれるのかも知れない。それよりも、頼朝の信任厚い景時が、義経つまりは浪戸の傍にいて、正体がばれる危険の方が気になるところだと、常春は小声で発言した。

「私は義経です」

浪戸が静かに答える。

「うん、むしろ問題は、義経以外の俺たちだな」

「そうねぇ、ボロを出しそうだものねぇ」

弁慶が三郎を見る。ワシを莫迦にしとるんかい、と三郎。

「よっつめ」

与一が話を切った。

「略奪は駄目、絶対」

全員の視線が三郎に集まる。

「何でワシばっかりやねん。給料ちゃんと貰ったら、そんなんさせへんわ」

三郎がキレる。が、内容は以上だよ と与一が素知らぬ顔で締めくくった。

「数日中に、増援が来るんでしょお。それまでは気を張らずに、待機ですねぇ」

弁慶が応じる。

「うん、いつも通りにする事。張りつめたままにすると、弓も人も痛むからね」

与一らしい表現。

「それぞれの部下には、各々(おのおの)伝える事。では解散」

浪戸が締めた。鼓判官には、私から伝えておきますねぇ、と弁慶が引き継ぐ。浪戸から伝えるべきなのだろうが、正体がばれない様に接触を減らすのが方針だった。


「常春さん、ちょっと」

部屋を出ようとした時、浪戸が呼び止める。

「俺? 何?」

三郎が、嫌な笑いを見せて、常春の肩をポンと叩くと席を立った。下品だなぁ、ポン引きかお前は、と怒りそうになるのを堪える。

「教えて欲しんです。未来の知恵を」

誰もいなくなると、義経は浪戸に戻った。急に小さくなったかにさえ、見える。

「未来では何かをする時、どうやって方法を組み立てますか?」

「方法?」

うまく言えない、と浪戸は困った顔をした。

「失敗しないための手順?」

そんな感じです、と、浪戸が答える。

「そうだな」

常春は、ちょっといいか? と、そこにあった半紙に 目的 と書いた。

「俺も受け売りなんだけど、目的を間違ったり、ぶれたりすると、結局達成できずに失敗するんだよな」

デートに行く時、いや、そもそも行かないか、この話は忘れて。そう、猪狩りに行く時、弓の腕を競うなら、沢山狩ればいい。腹が減っているなら、さっさと狩って、料理する方がいい。だろ。常春はどんな例えが分かりやすいかなぁと、話を続けた。

「お腹が空いているのに狩りに夢中になって、食べ損ねるなという事?」

「そう、その通り」

浪戸の回答に頷いて見せる。呑み込みが早い。

「さて、今回の目的は何だい」

「木曾義仲の首を挙げます」

他には? 常春が尋ねる。

「他にあるんですか?」

「さあ? 他にないと思える時こそ、視野を広げて考えた方がいいってね」

浪戸は首を傾げた。二人で考える。

「義仲を殺すのは、手段なんだよな」

少しして、常春は半紙に 手段 と書き加えた。

「義経の最終目的は、平家を倒す事だけど、頼朝の最終目的は、平家に代わって天下を取る事だ」

「そうですね。天下を取るためには、法皇と天皇を取り戻す事が、目的になります」

「他は?」

「天下を取るには、京都の人に嫌われたらいけない」

「義仲は、そこを失敗したよな」

だから略奪は禁止、三郎に強く言って聞かせなければね、と常春が付け足した。

「戦が終わったら、手っ取り早く特別ボーナスでも出す事を宣言しておくか?」

「棒? 茄子?」

あ、いや、報奨金の事。そのために奥州で金を確保したんだよなと、常春は独り言。

「木曾義仲やその軍勢を討つよりも、早く京都に入って法皇と天皇を取り戻します。略奪は禁止」

浪戸がまとめる。

「そう、義仲の首は、本隊に譲ればいい。俺たちは法皇と天皇を奪還する」

方針は決まったな、と、常春は笑った。

「どう実現するかは、俺には分からない。みんなで相談するといいよ」

「ありがとう。それは、歴史の知識?」

「義経がこれから何をやったかについては、話さない。約束だから」

そもそもこのあたりの話は、俺、覚えてないんだよな、と、常春は頭を掻く。でも常春さんは、いろんな事を知っている、と浪戸が言った。

「目的と手段をしっかり分けろってのは、研修で習った、誰でも知ってる仕事の仕方の知識。って、知っていても、なかなか出来ないもんだけどな」

「そう。私も行ってみたい、そこへ」

浪戸がうらやましそうに言った。そんないいところじゃないぜ、と常春。

「便利にはなったし、知識も増えたけど、千年経っても、千年分成長する訳でもない。面倒くささは、いつの時代も変わらないなあ。人間のする事だからね」

「それでも、常春さんがいた国を、見てみたい」

浪戸が重ねて呟く。

「そうだな」

ところで俺は、いつ帰れるんだろう、と常春は思った。こちらの時代でもやりかけの事柄がある。急に消えると迷惑を掛けるだろう。

 一方で、千年先で、自分がどう扱われているのかも気になる。少なくとも、もう若くない両親は探しているだろう。こちらの用事を全部片づけた後、いなくなった日に帰れたらベストなんだけどな。と都合のよい事を考えてみる。何故自分が選ばれたのか、偶然なのか、原因が分からないから後の事も想像もつかない。「帰れない」から「浦島太郎」まで、可能性はよりどりみどり。

 ・・・知恵と知識で、歴史を変えろ・・・

 ・・・歴史を変えて、正しい歴史に・・・あの時の声。それ以降、声の接触は無い。俺のやっている事は正しいかどうかはともかく、少なくとも誰かの希望に沿っているのか? 目的が見えないから、手段が適切かどうか評価できない。

「あ、ごめんなさい」

沈黙の後、浪戸が謝った。

「帰りたい、ですよね」

ああ、こっちこそ、ごめん、と思いにふけっていた事を、常春も謝る。

「気になる事もあるけど、まあ、考えても仕方が無い事は考えない」

それより、与一が言う通り、今日は平常業務と行きましょう、常春はそう答えると、手を振って部屋を出た。


五 『大吉:目標を誤らず進みましょう』


 元暦元年(寿永二年の翌月が、元暦元年)一月。義経軍二万五千は雄琴を出発し、宇治へ向かう。源範頼みなもとのりより、カバ冠者の本隊三万は瀬田に向かう。

 浪戸は直接京都へ向かう事を主張したが、宇治に駐屯した木曽軍に後ろを取られる事を嫌った梶原景時かじわらかげときが、強引に宇治を攻める事を主張した。

「私は兄の代官だ」

われは鎌倉殿から使わされた軍監、鎌倉ノ本体ノ武士である。そもそも宇治を攻めるのは、鎌倉殿のご命令」

軍議の場が膠着する。

「宇治を一気に叩いて、そのまま京都に入ったらいいんじゃないかな」

どちらも引かないので、与一がとりなして景時案が通る。代わりに、義経軍はあくまでも先鋒を賜ったとして、戦いの口火は本隊より先に切る事に決まった。

「ややこしいがな、どこでもええがな、譲ったれや」

三郎は浪戸の強引さを嫌い、

「鎌倉鎌倉って、トッキーは偉そうなのよ。浪戸、じゃなくて義経はよく頑張ったわ」

海尊は景時を嫌う。後で両方の愚痴につきあわさせられた常春は、誰かの耳に入らなければよいがとひやひやした。


「御曹司、みなを少し休ませてはどうか」

琵琶湖に沿って大津まで南下。そのまま山の中の道なき道を縦走、休み無しに大軍は宇治へと向かう。寒い最中にも関わらず、馬は湯気を上げていた。空気がゆらゆらと揺らぐ。浪戸の朱塗の鎧も、馬蹄の上げる埃でくすんでいる。

「義経は先鋒。瀬田の開戦に遅れる訳にはいきません」

浪戸は、高い声で宣言すると、先頭を走る。左右には、僧服とも巫女服ともつかない着物の上に、胴回りだけを覆う動きやすい胴丸鎧の弁慶と海尊の馬が守り、与一と三郎と、それぞれの配下が続いた。集団に紛れる様に、常春も馬上にいる。が独りでは行軍について行けず、

「兄ちゃん、ダメダメじゃん」

と、シヅカの後ろに乗る事になる。シズカは無事、六条西洞院の後白河法皇に書状を手渡し、翌朝には陣地へ戻っていた。無聊を慰めるために呼んだ、と法皇が口を合わせ、木曾兵も、まあ白拍子だし子供だし、と、詮索もせずに部屋に招き入れている。芸事好きで通る法皇の日頃の評判も、カモフラージュになっていた。

「さんざん踊らされちゃったよ」

と愚痴るから、退屈していたのも確からしい。

 法皇から義経に宛てた返書には、「義仲を倒して早く助けに来い」と書かれていた。印もある。急ぎ京都に向かう口実になった。


徒歩かちがまいっておりまするぞ」

分かった、と浪戸が答える。一旦馬を停め、景時はほっと息をつく。

「徒歩は後から追いつけ」

騎兵には、二、三人から五人程度の歩兵が付く。騎兵が切り込み、落馬した敵にとどめを刺すのが歩兵の仕事だ。浪戸は、その歩兵を切り離して、騎兵だけで前進する事を命じた。出来れば戦わずに京都まで走り込めればいいと考えている。機動力を重視するなら歩兵はいらない。どうしても歩兵が必要なら、騎兵を馬から下ろせばいいと考えている。

「騎兵だけで充分だ」

言い切った。瀬田で待ち受ける木曾勢は三百騎程度だと、景時の知らない情報も握っている。法皇への御遣いの帰りに仕入れた、シヅカの最新情報だった。

「徒歩の守りが薄くなりもうす」

取り残される歩兵が危険に晒されると、景時が主張する。何処から攻撃を受けるのか、と浪戸はうんざりした。

「それでは、梶原勢を護衛につけよう。後から遅れて来るとよい」

「そんな事が許されるとでも思っているのか」

景時は浪戸の言葉に、真っ赤になって怒った。先陣こそ武士の名誉、自分たちだけ後に残されるなど恥以外の何物でもない。

「騎兵の三分の一を割いて、与一に任せよ。与一、徒歩を守りながら、後から追いつけ」

「わかった。出番は後に取っておくよ」

与一は馬上で答えた。二万五千の兵力から歩兵を切り離せば、約五千騎、ここから更に三分の一を差し引くと、三千騎強になる。全体の一割程度の戦力で先行すると、浪戸は断言した。

「では、前進」

さっさと乗ったままの馬を前に進める。景時は部隊を慌てて再編成すると、浪戸を追う。相当頭にきているのが、誰の目にも明らかだった。


「義経殿の魂胆が分からないな」

鎌倉からの増援部隊の武将のひとり、佐々木高綱が常春に話しかけた。栗毛の馬に跨り、黒と栗色に臙脂えんじ色を組み合わせた鎧でトータルコーディネイトしたイケメン武士。今回鎌倉から増派されたものの、義経隊に知己は無い。

 一方軽装で、特に戦いそうでもない、それどころか子供が手綱を握る馬の背に揺られている常春は、気安く声を掛けやすい相手に見えるのだろう。

「ともかく純真なんだ」

常春は答える。

「頼朝様から先鋒を賜って、いっぱいいっぱいなんだよ。後白河法皇からも、早く来いと催促されてるしね」

今は急ぐしかないよな、と、答えて、真面目で純真な若者だと伝えた。

「それはそうか、しかし危うい」

「それはつなっちが、助けてくれっしょ」

初対面の相手に「つなっち」呼ばわりされて、高綱は何とも言えない顔をする。

「まあ、そうだな。安心しろ、我ら坂東武者は、強い」

「んふー、兄ちゃんより、頼りになるね」

「勿論だ」

シヅカにおだてられて、高綱は胸を張った。単純でいい奴だと常春も笑みを浮かべる。


 そんなやり取りのうちに、歩兵を残して騎兵だけになった集団は、やがて宇治に到着した。宇治川の西側対岸には、木曾勢が布陣する。川幅約二百メートル。流れは強い。川の中にも、杭を埋めたり縄を張ったりと、馬除けの障害物が見て取れる。

 簡単には渡れそうにない。そこにかかる大橋の橋板はすでに外され、骨格だけになっていた。

「そこを守るのは誰か」

先頭に立つ浪戸が、凛とした声で問いかけた。

根井行親ねのいゆきちか、息子の親忠ちかただ

返事が響く。

「行親、親忠。私に従え」

「あり得ん」

浪戸は頷いて振り返ると、主だった武将たちに目をやる。

「せいぜい三百騎程度、一気にひねりつぶせ」

「川をどう渡る」

景時が尋ねた。過去に、と声を上げる武士がいる。

「治承の合戦に、この川を渡っている武士がいると聞きます。渡れない事はないでしょう」

強い馬を一列に並べ、川を堰き止めましょう、と提案する。

「よし用意せよ」

波戸は具申を柔軟に受け入れた。泳げるものが浅瀬を探す。波戸配下の馬は、常春が奥州から連れ帰った大柄で精強な馬が多い。綱で繋げられ、馬から降りた武士に手綱を引かれ、静かに渡り始めた。

「渡らせるな」

西岸から、一斉に矢が射かけられる。

「撃たれても撃ち返すな、気を散らすな、盾で守って前へ進め」

渡河上陸に慣れた武士が、兜を傾けろ、足元に気をつけろと声を掛けた。射返す余裕はない。馬から降りて首まで冷たい冬の宇治川につかりながら、馬を盾で守りつつ、ひたすら矢を浴びて前進する。

「誰か援護しろ」

景時が指示を出した。

「任せろ」

防御陣地を、弩から放たれた大きな鉄の矢が吹き飛ばす。既に常春は分解して運んだ弩を組み立てていた。組み立てに漏れが無い事を点検すると、クランクを回して弓を引き絞る。

「やらせるかって」

渡河が始まると同時に、常春とシヅカは砲撃を開始した。鏑矢が低いサイレンを唸らせながら、並べている木製の盾を叩き割り、吹き飛ばす。はじめて見る武器に、防御側は狼狽した。

「勇気あるものは、橋の上から援護せよ。頭を上げさせるな」

浪戸の叱咤が飛び、橋げたの上に、三郎の手勢が飛び出す。弓胎弓ひごゆみの優位性が如実に現れた。

 ひゅん

射程の長い弓胎弓は、防御側の攻撃をアウトレンジする。木曾側は、近づかなければ有効打を与えられない。力の落ちた矢は、簡易な鎧や木の盾で、簡単に防ぐ事が出来た。

 ひゅん、ひゅん

鎌倉からの増援は、弓の飛距離を勇気で補う。骨組みだけの橋を前進し、至近距離から弓を射かけた。

「一番乗りは貰った」

一人の騎兵が叫ぶ。馬の堤防のお蔭で川の流れの弱くなったところを見計らい、景時の息子の景季かげすえが、名馬スルスミを水面に乗りいれようとした。真っ黒な馬に真っ黒な鎧、背負ったえびら(矢を運ぶ箱)も黒で揃えた伊達男。

「いいや、一番乗りは佐々木高綱だ」

高綱も馬ごとざんぶ、と飛び込んだ。

「その馬、イケズキでは?」

頼朝殿にねだったのに貰えなかったイケズキを、と、高綱の馬に気が付いた景季が血相を変える。

「お前を殺して俺も死ぬ。ふたり共死ねば、頼朝殿は大損だ」

景季の妙なキレ方に、一瞬、何を言い合っている? と、双方の矢が止まって注目を浴びた。

「いや、実はね、勝手に持ち出したんだよ。くれる訳ないし」

景季が欲しいとねだった時は、頼朝は、これはいざという時のイケズキだから、と手放さなかった名馬であった。それを、後日何を思ったのか、頼朝は高綱に与えている。貰ったものなのだが、機転を利かせた高綱は、この場を丸く収めるために上手く誤魔化した。

「なんだ、そうなら、俺も盗めばよかった」

と景季は笑う。敵も味方も、何故かほっとして、矢の射掛けあいを再開した。

「それはそうと、スルスミの腹帯が伸びてる。宇治川の流れは速いから、直しておかないと落馬するぞ」

高綱が親切そうに呼びかける。おう、気が利くな、景季は馬から降り、腹帯を締め直して、はっと気づく。矢の集中砲火を浴びながら、川の半分程を高綱は渡り終えていた。

「謀られた」

またも血相を変えて、スルスミを川へと飛び込ませる。

「一番乗りは俺だーっ」


 景季、高綱に続いて、鎌倉から増派された畠山重忠はたけやましげただも、部下を引き連れ渡河を開始する。

「前進」

早々に馬を射られ、重忠は川に飛び降りた。上流では馬が堤防になっているが、それでも急流である事には変わらない。冷たくて息が出来ない。吠えた。首まで水に浸かりながらも太刀を振り上げ、味方を鼓舞しながら前へ進む。

 もうすぐ対岸というところで、誰かに肩を抑えられた。

「誰だ」

重親しげちかです」

「おう」

流れが速くて馬をながされてしまったので、泳いできました、と、へとへとの部下に、重忠は凄味のある笑みを浮かべる。

「いつだって、お前らはこの畠山重忠に助けられる事になってるんだぞ」

水を含んでなお一層重い鎧をものともせず、重親を掴むと、えいっと対岸へと放り投げた。投げられた重親は、くるりと身体を転がすと、太刀を抜いて、振り上げる。

「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の歩立かちだちの先陣」

歩兵としては一番乗りと強がる。これを聞いて、敵も味方も大きく笑った。


 何やってんだ、と常春は、クランクを巻き上げながら笑った。殺し合いをやっている最中にも笑えるのか、そんな自分を意外に思う。射撃準備をしている弩は、この時代のアンチマテリアルライフル。木製の盾を砕き、鉄製の盾を弾き飛ばすために使っているものの、人に当たれば鎧兜の有無に関わらず手足を千切る、弓より危険な殺人兵器だった。しかも射程が長く、相手の矢は届かない一方的な兵器。心に抵抗はあったが、早く終われば死傷者も少ないだろうと撃ち続ける。

「んふー」

景季と高綱の一番争いを見てなのか、シヅカも笑っていた。

「よし、撃て」

「ラジャー」

着弾地点で砂煙があがる。弩で陣形を崩され、弓胎弓で射すくめられた守備隊からの矢は少なくなっていた。

「景季、高綱に遅れるな」

浪戸が叫ぶ。他の騎馬も、続々と川に脚を踏み入れた。川を渡ってしまえば、攻撃側三千騎に対して防御側三百騎。十倍の戦力に、あっという間に守備隊は蹴散らされてしまう。

 乱戦の中、木曾勢の大将、根井行親も切り殺された。首を取ったと名乗りが上がる。

「義経、勝負せよ」

息子の親忠が、大声を上げた。

「親忠ごとき、ワシで充分や」

三郎が馬から飛び降りると太刀で切り付ける。

「雑兵め、お前では釣り合わんわ」

壮絶な太刀の打ち合いとなった。親忠の太刀筋は、武家らしくきれいで、重い三郎の刃をいなしては、返す刀で切りつける。三郎は自己流だが、がむしゃらに斬りつける。予測不可能さが有利に働き、三郎が押していた。

「諦めぇ、勝ち目あらへんで」

にやりと笑った三郎の太刀が折れた。

「では道連れに致そうか」

親忠が太刀を振りかぶり、そしてそのまま目を剥く。次いで、どう、と倒れた。

「ひいっ」

まっすぐな矢が、首を貫いていた。見まわしたが、誰も名乗りを上げないところをみると、流れ矢が当たったらしい。そう見て取った三郎は脇差を抜くと、親忠の首を切り落とす。

「根井親忠の首、討ち取ったり」

あらん限りの声で宣言する。その頃には木曾勢の主だった武将は次々と戦死、守備隊は四散した。

「やはり盗賊ですね」

離れたところから三郎を捉えつつ、与一が薄く笑う。戦闘の終了間近、徒歩部隊と共にようやく追いつき参戦したところ、三郎の太刀が折れたタイミングで矢を放ったのだった。五人張の強弓。与一にしか使いこなせない、二百メートル先の対岸から優に射抜けるスナイパーライフル。

「命を助けて貰った上に、首を盗むとは、ね」

フムン、と鼻を鳴らした。特に追求する気も無い。ただ、次は見殺しにするかと思う。


「追撃しつつ、京都ですな」

川を渡った浪戸の馬に自分の馬を寄せながら、景時が声を掛けた。息子が一番乗りを逃したのは残念だが、このまま敗残兵を追って京都に入れば、活躍の場もあるだろうと思う。しかし。

「まず、瀬田川のカバ冠者に伝令を。義経軍の完全勝利と」

景時に答えず、騎兵の一人に声を掛けた。おもむろに向き直る。

「ここで軍を再編成して四つに分ける」

またもや、景時の頭に無い戦法だった。

「それでは、兵力が分散されまする」

景時は止めた。

「第一隊は、北から京都に入れ。第二隊は、南から。第三隊は、西へ回り込め。第四隊は、このまままっすぐ京都に入る。義経もここから入る」

第一から第三の指揮の人選は景時に任せる。急げよ、と言うが早いか、浪戸は自分の配下を呼び寄せた。無傷の与一の騎兵隊に、傷だらけだが意気上がる三郎の元盗賊集団。それに加え、渡河の先陣争いをした佐々木高綱、梶原景季が志願して、それぞれの部下を引き連れて参加した。

「行くぞ」

再び、浪戸が先陣を切る。弁慶と海尊が脇を固めた。

「こんどこそ一番乗りを」

景季が追う。

「おっしゃ、負けへんで」

三郎が叫んだ。高綱も与一も、それぞれの配下を鼓舞して走り始める。

「目標を誤らず進め、か。とりあえず、追っかけるか」

子供にしがみつくって、みっともない姿だな、と思いながら、常春は例によってシヅカが操る馬で後を追った。

「何故言う事を聞かん」

自分の息子までついて行ってしまっては、間違っているとも非難するのも難しい。景時は憮然とした顔をしながら、残りの武士の再編成に着手した。


 戦乱になる。京都の街は混乱に陥った。

「燃やしてしまうんやあらへんやろか」

元々、木曾軍の主力は野盗。京都から奪えるだけ奪うと、ここが潮時と次々脱落していた。法皇から義仲の討伐令が出ているとなれば、朝敵になる前に、と兵力は激減している。

 宇治川、瀬田側の防衛線に兵力を送った義仲自身の手元には、もう百余騎しかない。破れかぶれの義仲が京都を焼き尽くすのではないかと、住民は息をひそめていた。

 そこへ、義経勢が、迫る。

「こんなに早く来るとはな」

義仲は、武具を身につけながら、その速度に舌を巻いた。長期的には、平家との和平交渉も行っていたし、短期的には、法皇と天皇を人質にしての木曾への撤退も考えていた。

 しかし早すぎる

瀬田に集結しつつある範頼の本隊の動きが鈍いとの報告にも、気を緩めてしまっていた。宇治川の戦いが開戦しても、瀬田川を挟んでは、まだにらみ合いが続いている。瀬田川の木曾軍が撤退したのは、宇治川の結果が届いたからであり、まともに刃を交わした訳では無い。

捲土重来けんどちょうらい、人質を連れて、木曾に戻るか」

そこへ報告が入る。

「義経と思われる騎兵、約百騎、六条西洞院に向かっているとの事」

「出る。御所には近づけるな」

狙いはこの首では無く法皇か。

「何が重要かよくわかっているな」

義仲は弓を片手に、残りの配下を率いて馬で飛び出した。


「急げ、法皇をお守りする」

浪戸は御所に向けて走る。宇治川の敗残兵も無視し、脱落した騎兵も徒歩も無視し、ひたすら馬を走らせる。法皇を生きて確保できれば勝利だと正しく理解をして、六条西洞院へ向かう。

「ここは通さん」

木曾兵の一群が遮った。

「薙ぎ払え」

与一を始め、腕に自信を持つ弓兵が、馬を走らせながら一斉に矢を放つ。特に波戸配下の弓胎弓は、兜さえ貫通して相手を倒した。続けて弁慶と海尊の薙刀が血路を開く。接近戦になれば、ひずめに掛けられる木曾勢も続出。奥州の馬は大きいばかりではなく、戦を恐れないのも特徴だった。少数の歩兵では足止めにもならず、一瞬で殲滅させられる。

「後ろから来た」

常春が振り向いて声を上げた。今度は後ろから騎兵の一群が急迫する。

「逃げるな卑怯者」

この呼びかけで、黒尽くめの騎馬が向きを変えた。

「卑怯者とは聞き捨てならん」

向かってくる一群に、景季とその部下が突進する。弓の距離ではない。太刀での切りあいが始まる。

「死ぬなよ」

「任せろ」

浪戸の一言で、景季を残し主力はそのまま御所に向かった。


「着いた」

そんな小競り合いを繰り返している内に、六条西洞院、燃えてしまった法住寺の代わりの仮の御所が見えるところまで来る。大通りは盾と逆茂木さかもぎ(先を尖らせた杭)のバリケードで封鎖されていた。弓の交戦距離外、二百メートル程手前で、浪戸は馬を停める。

「門を開けてください」

馬にまたがったまま門を叩いて叫ぶ、大将鎧の武士がいた。

「征東大将軍、旭将軍、木曾義仲ですぞ。門を開けてください」

「従兄弟殿」

浪戸が呼びかける。

「雌雄は決した。同じ源氏でなお戦うか」

「ああ、義経。義仲をまだ従兄弟と呼んでくれるか」

義仲が溜息をついた。

「しかし今や敵同士。義経が許しても、頼朝は許さないだろう。これから法皇をお連れして木曾へ帰る」

「それは困る」

「では、戦おう」

義仲は兜をかぶり直した。御所の前に陣取っていた武士たちが弓をつがえる。浪戸も右手を振り上げた。下馬し、横に広がった与一とその部下が、盾の陰で弓を構える。

「撃て」

義仲が鋭く命じるのと同時に、浪戸が手を振りおろした。義経勢の矢はことごとく盾を倒し、防衛側の戦闘力を奪う。対する木曾勢の矢の大半は、盾と鎧に防がれた。

「何と」

「突進」

浪戸自身が先頭切って馬を走らせる。高綱のイケズキ、景季のスルスミが互いに譲らず、味方の盾を飛び越えて突進する。他の騎兵も続いた。後方から支援の鏑矢が、音をたてて飛ぶ。

「おのれ」

盾を蹄にかけ、馬上からの太刀を雑兵に浴びせながら、高綱、景季は歯ぎしりする義仲に肉薄した。左右から太刀を振りかざす。が。

 カチン

二振りの太刀は、一本の薙刀に、同時に受け止められた。

「させない」

次の瞬間、薙刀が一閃し、二人は同時に落馬する。義仲の前に馬を寄せ、二人の屈強な武士を落馬させたのは、小柄な女性。無表情のまま、身長より長い薙刀を無造作に構えていた。

「あらあらぁ、ひょっとして、トモエ御前さんかしらぁ」

弁慶が柔らかい笑みを浮かべる。

「薙刀で有名な、あのトモエ御前って事? 相手に取って不足はないわよっ」

海尊は不敵な笑みを浮かべた。しかし、トモエは相手を見ようともしない。

「義仲。行こう。ここは不利」

義仲に声を掛ける。

「アンタ、まる無視って訳っ」

海尊が、ツインテールを翻しながら薙刀を閃かせる。

 キン

しかしトモエは、振り向きもせずに、自らの得物で防ぐ、と。

 ブン

回した反対側の穂先で、海尊の胴を打った。

 ぐはっ

小さな身体で、どんな技術を使ったのだろう、胴を覆う鎧を叩き割られ、海尊は馬から叩き落された。その隙に、義仲とトモエは馬を並べて走らせる。

「逃がさへんで」

しかし、残った残存兵が、三郎の前に列を作った。道を塞ぐ。

「どかんかい」

「捨て置け」

浪戸が戦いを止める。

「放っておいても、いずれ誰かに討たれるだろう、それより」

残存兵に目を向けた。

「後白河法皇はこちらか」

「だったら、どうする」

独りの武士が、立ちはだかる。軽量な胴丸のみを身に着け、兜も無く、代わりに鉄の入った鉢巻のみ締めた、徒歩の武士。

「邪魔をしなければ、何処へなりと行くがいい。邪魔立てするなら、それまでの事」

至近距離から、弓に囲まれ、唇を噛んでいたが。

「分かった。全員引かせる。但し」

但し、俺と一騎打ちをせよ、その武士は静かに太刀を抜いた。

「つまらん、が、受けて立とう」

浪戸は、味方の弓を下げさせると、他の木曾勢の武士や雑兵を去らせる。それからゆっくりと馬を下り、太刀を抜いた。源氏に伝わる名刀、薄緑。

「いいのかよ」

同じく下馬した常春が、弁慶に小声で尋ねた。浪戸がそこまで強いとは思わない。勝ったとしても、もし女である事がばれる危険を考えるとリスキーだ。

「私もねぇ、一度見ておきたいのぉ。義経の強さを」

場の空気に呑まれている、と常春は思う。余計な事、渡らなくていい危険な橋。しかし弁慶に強く呟き返されて、後は見守るしか出来ない。

鬼頭次きとうじ、参る」

「源義経」

二人は名乗り合い、次の瞬間には太刀をぶつけ合った。すぐに離れる。にらみ合い。

 はっ

鬼頭次の太刀が、浪戸の細い首へと伸びる。

 ひらり、ひらりと浪戸は刃先を躱し、いなした。くるりと刃を回転させると、相手の胸元へ突き出す。身体の小さい浪戸が攻め込まれている風であって、しかしより危険な攻撃は、浪戸から繰り出されていた。

 朱塗の鎧が、舞う。義仲の兵は他におらず、義経勢は誰も動かなかった。総大将が戦っている。自らのリーダーに相応しいかを見極めようとしている。これからついて行くに値するか、占おうとしている。

 やっ

早馬と連戦で疲れているだろう浪戸だが、重い大鎧をものともせず、太刀を振るう。

 ガシャン

籠手が決まった。堪らず、鬼頭次が太刀を落とす。

「あ」

「もう、よいか。後白河法皇にお目通り頂きたい」

浪戸は、とどめを刺さずに言い放った。

「情けは受けない」

鬼頭次は短剣を取り出す。切先を上に向けると喉にあて、止める間も無く突いて果てた。先刻さっきまで生きて死闘を行っていた武士の、あっけない最期。

「無残な」

浪戸は蒼い顔をして見下ろす。良く見ると、涙を流していた。が、ふいに頭を上げて、叫ぶ。

「源義経。後白河法皇をお助けに参りました。開門願います」

 途端。歓声が爆発する。門の外側でも、内側でも。

「御曹司っ、御曹司っ」

取り囲んだ武士たちから声援が飛ぶ。

「勝ったのねぇ」

弁慶が溜息をつく。あれは私の知っている、私の戦った義経そのものよぉ、弁慶は常春に、小声で囁いた。

「どうぞみなさん、お入りください」

木曾義仲には閉じられていた門が開く。松の木に登り、様子を伺っていた法皇の配下が、義経殿が勝ったと叫ぶ声を上げる。

「行こう」

浪戸は背筋を伸ばして、御所の門をくぐる。続いて、他の主だった武士たちが、足を踏み入れた。

 勝った

常春は義経の鎧に身をかためた浪戸の後ろ姿を、誇らしく見送る。法皇を奪還した。大将に値すると実力も示した。

 浪戸は自分の力で立場を勝ち取った

本物の義経も、この日まで実戦経験は無い。単なる頼朝の弟でしかなかった。この戦いで華々しく歴史にデビューする。加えて、浪戸自身の強さも示した。上気した顔で木戸をくぐる三郎を見て思う。浪戸自身の立場も確立出来た。

 さて

常春は、余韻に浸る武士たちを振り返る。自分は御所には入らない。他にする事があった。

「整列」

声を掛けると、与一の部下が整列する。

「規律正しいところを、京都の人たちに見せてやれ」

元々整列する習慣は無い。部隊を集団で運用する方法として、常春が与一に教えたのだった。

「出遅れるな」

格好良いところを奪われるな。三郎の手下のうち、まとめ役が声を掛けた。本職の武士への対抗心で、きれいではないものの整列する。

あるじに恥をかかせるな」

何だか分からないが、ここでは並ばないと格好がつかないらしい。高綱、景季が御所に入り、主人不在の他の部隊も、要は、行軍の隊列を組めばよいのだと、見よう見まねで整列した。

「佐々木高綱さんと、梶原景季さんの部下のみんな」

ところで、こいつ誰だ? と視線を受けていた常春は、声を掛けた。

「京都の人たちは、俺たちを、新しい乱暴者じゃないかと心配そうだ」

坂東武者は、木曾の田舎者か? 常春が煽ると、違う、と返事が返る。

「俺たちは、木曾の田舎者じゃない。必要無ければ戦わないし、まして、民間人から略奪なんてしないよな」

「当然だ」

「木曾猿と一緒にするな」

という訳で、と常春は呼びかけた。

「ここは最小限の警備でいいから、みんなは、このまま京都の街をぐるっとまわって、京都の人たちを安心させてやってくれ」

隊列を組んだまま、街を一巡りする。残りの部隊を見つけたら、隊列に吸収する。木曾の残存兵を見つけたら取り押さえる。常春は、その三点を提案した。

「忠義に篤い坂東武者、主人に恥をかかせたりしないよな」

「おうよ、当然の事」

高綱、景季の郎党たちは、意気揚々と、二手に分かれて行軍を開始した。遅れてくる残りの部隊が、京都を混乱させる前に吸収出来る。同時に、すぐに略奪に走った木曾義仲の配下と異なる事を、住民に印象付ける事も出来る。そして何しろ、三郎の手下をここに張り付ける事で、万が一にも元盗賊の習性、つまりは略奪を抑える事が出来る。

「常春、ワシら、何時までこうしてるんや」

「とりあえず、出てくるまで、かなぁ」

顔見知りの、三郎の手下に声を掛けられた常春はそう返事をした。義仲が戻って来るとは思えないので、特に防御陣地を構築する必要もないだろう。整列してるだけでいい。

「俺たち、目立ってるぜ」

家々から、おっかなびっくりに覗く顔を示して、小声で付け加えた。

「目立ってるか」

「晴れ舞台だな、いいとこ、見せようぜ」

機嫌を良くして笑みを浮かべる。暫くの間、規律ある義経軍でいてくれよ、と常春は思った。


 一方、御所の中。門をくぐると庭を抜け、白州を敷き詰めた中庭にでる。正面の本殿には縁側、御簾。一同は、その中庭に誘導された。

「後白河法皇の、おなーりー」

触れの者が呼ばわる。全員、作法通りに片膝をついて頭を下げた。御簾の向こうに人の気配がする。

「名前を」

法皇が、渋みのあるバリトン声で告げた。

「源義経です」

「おお、お前が義経か」

平知康から聞いておるぞ、と満足そうに言う。鼓判官からの手紙が、よい先行イメージを作っていた。

「頼りにしている。次は」

「佐々木高綱」

この場での先陣争いも、二歳年上の高綱が制する。

「梶原景季」

「そうか、景時の子か」

親の七光りではあったが、知名度では高綱に勝った景季。

「那須与一」

次いで、

伊勢三郎義盛いせさぶろうよしもり

三郎は、少しでも立派に見える様にとフルネームで名乗ったが、上皇は特に感銘を受けた様子は無かった。弁慶と海尊が続いて名乗りを上げる。

「みなのもの、大儀であった」

全員が名乗り終わると、法皇は御簾の中で、大きく息をついた。

「義経」

「はいっ」

「頭を上げよ」

「はっ」

兜のまま失礼します、と浪戸が頭を上げた。まだ戦闘中なので、武装は解かない。

 !

目が合った、と、浪戸は思った。御簾越しに、法皇の視線がしっかりと浪戸を見据える。気後れしてはいけない。強い目で見つめ返した。

「生まれは坂東か」

「そうではありません」

浪戸は、源頼朝と常盤御前の子で京都生まれ、頼朝の死後に鞍馬寺に預けられた後、奥州に脱走した経緯を、義経から聞いた通りに手短に答えた。

「京都の生まれか」

法皇は、ほっとした様に呟く。少しは京都慣れしている、田舎者ではない事をアピール。

「合戦の様子を言え」

続けて法皇は命じた。

「私は本隊では無く、遊軍ですので」

その本隊は兄、源範頼が率いて瀬田で戦闘中である事を、浪戸はまず伝えた。

「間もなく兄も到着するでしょう」

続けて、戦いの様子を手短に伝える。法皇は満足して頷いた。

「木曾義仲をはじめ、敵の武将を撃ち漏らしたな」

「私の第一の任務は、法皇と天皇をお助けする事。武勲は他の者に譲りましょう」

御簾の向こうから、息を呑む声が伝わる。

「忠義な事、立派である」

浪戸は黙って深く頭を下げた。法皇を木曾に連れ去られては戦いが長引く。忠義は関係なく戦闘の目的を果たしただけなのだが、折角感じ入ってくれているのに余計な事は教える必要は無かった。褒美に何が欲しい、法皇がそう尋ねる。

「父の仇討ちが義経の望み。平家を追討するせよと一言」

「ほう、金銀や官職ではないのか」

「ご命令を」

わかった検討する、法皇は答えた。浪戸は更に深く平伏する。

 一歩近づきましたよ、浪戸は心の中で、義経に声を掛けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ