第一章 日常変異
悪夢を見てからはいつも通りの日常が始まったはずだった。けれど思遠は思っても見ないことが起きはじめる。
それは別世界と言っても良い、日常ではない世界へと思遠は導かれ行ってしまう。
「うわ!」
僕は飛び起きた。体中から嫌な汗が流れ、心臓は早鐘を打つ。
「また、あの夢か……」
最近は毎日のように見る不気味な夢、気味は悪いが見てしまうし、忘れようとしても頭の何処かにこびり付く。
「思遠にぃ、ご飯出来てるよ」
妹の由香の声が聞こえると、同時に僕は時間を確認する。信濃家から学校までは多少距離があり、この時間だとのんびりしてはいられない。本当はシャワーを浴びたいところだが、仕方ないので濡れタオルで身体を拭いて制服に着替えて、一階のリビングに降りる。
香ばしいトーストの匂いと、甘いジャムの匂いが漂うリビングで、由香は美味しそうにハムエッグ・トーストをかじっていた。
その向かいに座って僕もトーストをかじりだす。
急に由香が食べるのを辞めて、僕のほうを見ると曇った表情を浮かべた。
「また? あの夢?」
「え?」
僕は急な質問に間抜けな声を上げる。しかも、それは由香の不安を煽るには十分のもので、床の表情は更に曇ってしまう。それを見て僕は焦りだす。
「だって、顔色悪いよ」
「ま、ま〜な、でも所詮夢だから、大丈夫だよ」
大丈夫だよ、と言ったものの、由良は納得いかない様子でこっちを見ている。
それに耐えかねて僕は話を逸らす。
「父さんと母さんはもう出たの?」
「そうみたい、子供に挨拶もせずに出かけて、3ヶ月は帰ってこないみたい。はぁ〜」
由香がため息を吐くのも無理は無い。3ヶ月もの旅行に行くといったのが昨日で、行ってきますの、一言もなしに両親は行ってしまったのだから。しかも、あろうことか行き先は未定というから困ったものだ。
「そろそろ、行かないと遅刻だよ」
「急ぎますか」
陽気に返事をして、僕は残ったトーストを無理やり口の中に押し込んで家を出た。
僕と由香の通う月岡学園は面白くもなんとも無い、住宅地のど真ん中に立っていて校庭も狭く、これと言った特徴のない学校だった。
「そういえば、夏休み何か予定ある?」
唐突に由香は話し出した。それはちょっと不安そうで何処か期待に満ちた表情だった。
「いや、特には決まってないけど、由香は何かあるのか?」
学校に続く坂を同じ制服を着た、生徒たちが登っていく。
「由香ねぇ、友達と海に行く約束したんだけどね……友達の方が無理になりそう」
「ふ〜ん、そいつは残念だな」
そう言うと由香は不満そうにこっちを睨むと小さくため息を吐いた。
「ほ・ん・と、思遠にぃは鈍いよね」
「うん? そうかな?」
「そうだよ〜」
由香は頬膨らませ、そっぽ向いて速足で歩き始める。僕もそれに合わせて歩を速める。
「そう怒るなよ。行きたいなら連れってやるからさ」
一瞬こっちを見て、慌てて由香は顔そむける。
「もう、良いもん……」
「くすくす」
「笑うな!」
「あははは」
そんな由香の怒鳴り声が妙に心地よくて、僕は笑い続け、由香は少し顔を赤くして走り出してしまった。慌てて僕も走り出すが陸上部に入っている、由香に追いつけるわけも無く、見事に置いて行かれた。
「はぁ〜はぁ〜、やべぇ〜怒らせたかな? ま、まぁ〜なるようになるか」
飽きれているのが半分、反省しているのが半分の気持ちが出した答えは相変わらずの適当だった。
※
頭上に昇る太陽が容赦なく照りつける夏の昼休み。
「信濃、またあの夢見たんだって? 由香ちゃん心配してたぜ」
いかにも“スポーツ出来ます”と言っている様な、スポーツ刈りの斉藤 隼人はセリフのわりに陽気な笑顔で話す。
「そう言うけど、お前夢の内容知ってんの?」
「知らん、だから教えてくれや」
「嫌だ。それに人に話して面白い内容じゃないしね。なにより言わない方が面白い」
「まぁまぁ、そう言わずに教えてや」
しつこく聞いてくる隼人を適当にあしらっていると、何時の間にか委員長の髭乃坂 梨恵が僕の横に立って楽しそうな笑みを浮かべていた。
「私さ夢占い少し出来るんだよねぇ」
夢占いという単語に反応してか、僕と隼人と理恵を取り囲むように、クラスに残っていた何割かの女生徒が集まり始め、それに釣られて男子連中も教室の後ろの窓際にある僕の机に、寄ってきた。
誰もが何かに期待した顔で、こちらの方を見てくる。
流石の僕もこうなると話すしかないと思い、僕は夢の話を語った。そして語り終われば当たり前のように、皆好き勝手に話し出す。
「何やソレ、気味悪いやん」
「確かに、良い結果にはならないね」
誰もが皆、気味悪がったり、心配する中で一人だけ違う反応をする女がいた。そいつはクラスの中でも、変わり者として有名な黒井志摩だった。
「ふ〜ん、そんな面白い夢、見てるんだ〜楽しそうだね」
志摩は昼休みの教室で本当に、羨ましそうに言った。
そして彼女は僕を見て本当に嬉しそうに、まるで無邪気な子供の様な目で、僕を見つめて微笑む。その異様さに教室はいくらか温度が下がったような気がした。その時ほど、僕は彼女を異質だと思ったことはない。
「でも〜」
そう言って志摩は首を捻りながら悩んでいる様には見えない笑顔で、不可思議なことを言い出した。
「それは、ただの夢じゃないかもしれないよ。たとえば、誰かが貴方に宛てたメッセージかもしれないから、気をつけたほうが良いよ」
教室は静まり、僕の体は得体の知れない不安から汗が流れ始めた。それほどに志摩の言った言葉は僕の不安感を煽り、クラス中の人間に不気味さを与える。普通の人だったら冗談とも取れるのかもしれない……だが志摩の言葉は本気で言ったものだと、誰もがわかるほどに強い意思を感じさせた。
「誰かって、誰だよ?」
「さ〜そんなこと私が知るわけないでしょ? それに奥井思遠君、貴方の方が知っているはずよ。ふふふ」
教室は静まり返り、僕の体は志摩の言葉に強張る。そして得体のしれない不安感だけが膨らむ。奥井思遠、確かにそれは僕の名前だが両親が死んで、信濃家に養子として引き取られてから、その名前を誰かに話したことはなかった筈だ。しかも信濃家に養子に成ったのは5歳くらいの時のことで、知っている人間がいるはずがない。
なら何故? 志摩はそれを知っている? そんな僕の思考を、遮るように淡々とした声が教室の沈黙を打ち破った。
「志摩、次、移動だよ」
そう言って藤堂炎菜は志摩を連れて、教室を出て行った。
ただ気のせいだろうか? 出て行くときに「喋り過ぎ」と炎菜が言ったような気がしたのは……
※
この日最後の授業を僕は受けていた。
むかつくほど太陽は地面を照らし、校庭は嫌気がさすほどに熱かった。そんな校庭で僕達のクラスは走っていた。
くそ熱い校庭でのマラソンは、体中の水分が無くなってしまうと思うほどに、汗が出る。横腹に針で突付かれるような痛みを感じるし、足は鉛のように重く、今にもつれそうだ。
「信濃、顔色悪いぞ、大丈夫か?」
隣を走っていた。木戸 零滋は心配そうに僕のほうを見るが、僕のほうには返事をする余裕はなかった。
「体調が悪いなら、見学に今からでもしたほうが良いぞ」
そう言って零滋はチラッと先生のほうを見ると、少し気まずそうな表情をした。
タッタッタッタッタッタ
後方から一際大きな足音が聞こえる。おそらくはトップを走っている体力馬鹿の隼人だろう。
「思遠、ちんたら走ってんなや!」
ゴツ!
鈍い音と共に僕の頭は前のほうに弾かれ、それに釣られるように体は前のめりに倒れた。
ッテェ〜、あの馬鹿……
「お、おい!」
戸惑った零磁の声が聴こえる。一度、倒れた僕の体は自分の身体じゃないかのように、重くて動かない。
「大げさだな〜思遠何やってんや〜」
「この馬鹿! そんなこと言ってないで、とっとと手を貸してあげなさい!」
相変わらずな隼人と梨恵のやりとりが聴こえるが、それが段々と遠ざかり僕の意識も消えていった。
やけに暗い部屋で僕は目を静かに覚ました。
「う、ん? 此処は?」
少しの間、冥想して自分が体育の時間に倒れたことを思い出す。
「病院? 保健室か?」
僕の独り言は少しだけ響いて、すぐに消えた。白いカーテンで包まれたベッドから出ると、此処が学校の保健室だということが解った。
保健室から見える校庭は暗く、すでに日が落ちていることを教えてくれる。だが、それは可笑しなことで、いくら倒れて寝ていたとはいえ、夜になるまで家にも病院にも連れて行かないで、保健室にほっぽっておくだろうか?
「え?」
そんな間抜けな声を上げて、僕の体は驚きで硬直とした。さっきまで誰も居なかったはずなのに、空いていたはずの椅子に誰かが座っている。
横を向いていて顔は見えないが、髪の長さや体系からしておそらく女性なのだろうと思う。
だが、この学校の保険医が女性だった覚えはないし、やはりさっきまで居たとは思えなかったが、実際に居るのだから仕方なく僕は ”見落としたんだよな” そう自分に言い聞かせた。
「あの、もう大丈夫みたいなんで帰りますね」
どうやら聴こえなかったらしく保険医の女は反応しない。
「あのぉ」
さっきよりも声を大きくして、僕は呼びかけるが反応はない。反応のない女を見ながら僕のなかで疑問が生まれていく。
最初からこの人は本当に居たのだろうか?
女の保険医は居たか?
何でこんな時間まで起こされなかったのだろう?
考えれば考えるだけ、今の現状が可笑しいということ意外の答えは出てこず、嫌な予感だけが頭に残る。
「……欲しい」
初めて女が発した言葉は、僕には意味のわからないものだった。ただ、その声には覇気がなく違和感を僕に与えた。
そして女は僕のほうに顔を向けた。
「………ぁ…あ…あぁぁ」
女の顔を見て僕は言葉を失った。その顔はあまりにも蒼白で、青く死人のようで、目は見開かれ、唇は紫で首にはくっきりと、縄の後が黒く残っていた。
女がゆっくりと椅子から立ち上がり、ふらふらと僕のほうに、揺れながら歩いてくる。
頭ではサイレンが鳴り響き、走り出したいのに身体は言うことを聞かず、ゆっくりと後ずさることしか出来ない。
女が近づいてくるたびに僕は後ろに下がる、が六歩くらい下がったところで、背中に壁があたり体は硬直した。
クソ、来るな来るな来るな、そんな言葉を僕は頭の中で連呼する。
しかし、女は少しずつ少しずつ、近づいてくる。その女の口が微かに動く、そしてそこからは何度も何度も、同じ言葉が発せられる。それは壊れてしまったレコードのように何度も何度も”欲しい”と言う言葉を繰り返す。
そして女が近くなるに連れて繰り返される速度が上がっていく。ゆっくりと、ゆっくりと、早く、早く、狂ったように……
僕の目の前まで来て、女は足を止め、手を伸ばす。女の口は動き続ける、狂ったように同じ言葉を、繰り返し続ける。
「欲しい。欲しい、欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい」
―――こ ろ さ れ る―――
女の手が触れようとした瞬間に恐怖で固まった僕の手が、口が、足が、弾けたように動き出した。
「あ、あぁぁぁぁ!!!」
叫ぶと同時に足の裏で女の身体を蹴り飛ばした。女は玩具のように、信じられないくらい吹っ飛んで転がる。その間に僕は乱暴にドアを開け放ち、廊下を走り出す。
ドン!っと音を立て何かにぶつかった。そして、その何かは倒れ僕は足を止めた。それを見た瞬間に僕の頭の中が真っ白に成った。
それは男の死体だった。死体のはずだった……解りやすいくらいに左胸にはナイフが突き立てられていた。そいつは倒れた状態から立ち上がろうとする。血の気のない凄惨な表情をしながら。
「う、うぁぁぁ!!!」
2度目の悲鳴を上げ、走り出そうとして僕は固まった。
僕が走り出そうとした廊下の奥から、何人もの人間、いや死体が僕のほうに歩いてきている。
ふらふらと、ふらふらと、おぼつかない足取りでゆっくりとゆっくりと歩いてくる。わずかに口を動かしながら……
「あぁぁ!!!」
向いていた方向と逆方向に全力で走り出す。ありったけの力で、廊下を蹴りつけて全力で僕は走った。
廊下の端にある階段を下りさえすれば、外に出られるはずだった。しかし階段の下からは、ゆっくりと死体が上ってくる。
もう僕には何がなんだか解らなかった。ただ無我夢中で死体から離れることだけ考えて階段を上っていく。逃げ場のない屋上へと、躊躇することなく、階段を全力で駆け上がる。
あっという間に屋上に出るためのドアの前に着き、即座にそのドアを開け、屋上に飛び出す。
何かが風を切る音がした瞬間、目の前に銀色に光る刃が突きつけられていた。
「しなの?」
声が耳に届くのと同じくらいに、僕に突きつけられた銀色の刃はゆっくりと退けられる。
そして声の主を見て僕は喜び、そして驚き、意味のわからない現状を再確認させられた。屋上に居たのは藤堂炎菜で、突きつけれていたものは小柄な彼女の身長よりも少し大きな鎌だった。
それを炎菜は軽々と持ち、訝しげにこっちを見る。
「なんで……炎菜が?」
「ふ〜ん、本当に信濃思遠みたいね。はぁ」
炎菜はため息を吐いて、詰まらなそうに視線を逸らす。炎菜は月も星も、雲すらも無い、ただ真っ暗な空を見上げた。
ガタガタガタと何かの気配が自分の後ろから近づいてくる。その感覚で炎菜が現れたことで、忘れていた者のことを恐怖と焦りと共に思い出す。
「逃げよう、えん、な?」
そう言った僕の声は震えていた。頭はもうパニックになっていて、逃げ出すことしか考えられない。逃げ場など無いというのに……
「さがってなさい」
炎菜の雰囲気と威圧感だけで僕は完全に蹴落とされ、階段と炎菜を結ぶ直線上から移動する。
普段から人を寄せ付けない炎菜の雰囲気が、今は近づいただけで、細切れにされるような威圧感に成っている。クラスでも浮いている存在だった彼女を今は圧迫感のおかげで、完全に自分とは違うものという認識できる。
嫌な汗が、全身から流れ出す。少しずつ階段と炎菜から離れる。
今は見ていることすら炎菜が怖いのに、目を離すことが出来ない。目を離せば殺される、という感覚が直感的にある。
それとは別に異様な興奮と歓喜が自分の中で、暴れているのが解る。何よりも僕は炎菜に魅入っていた、
それは子供のとき初めて包丁を持たされたときと、似たような狂気的な感覚だった。
そして、ゆっくりと階段から奴らは出てきた。ボロボロの身体を引きずって、ゆっくりと一人ずつ、ぞろぞろと、ぞろぞろと絶え間なく、階段を上ってくる。
立って歩いてくる者、這いつくばりながら前進してくる者、それらが5匹ほど屋上に出て来た辺りだった。
―――炎菜が視界から消えた―――
さっきまで居た場所に、炎菜の長く黒い髪が影のように刹那の時間、視界に映ったが次の瞬間には完全に消えていた。そして階段のほうから出てきた死体の群れは下半身と上半身がバラバラに切り飛ばされ、一瞬にして火達磨になった。
その死体の群れの中心に炎菜は居た。
おそらくは横に凪いだであろう鎌の刃を、反対になるように持ち替え、ぞろぞろと階段から出てくる死体に向けて、炎菜が鎌を凪ぐ。4匹ほどが、切り飛ばされ、そして死体の身体が一瞬遅れて炎に包まれる。
暗かった屋上が、炎の明かりで明るくなると同時に、生き物の焼ける匂いが充満する。
その異様な匂いで僕の身体がむせ返るような感覚に、吐き気を起こす。
ベチャ、濡れた何かが僕の目の前に落ちた。それは人だった者の一部だった。
赤黒く色取られた、それがビクビクと、ビクビクと動く。
それを見て僕はもう吐き気を抑えることが出来ず、うずくまった。
「う、うごぉ、えぇぇぇ」
胃の中が引っ繰り返るような嘔吐感が体中を走り回り、みぞおちの奥の辺りに締め付けられる様な、痛みを感じる。それをきっかけに体中に脱力感が広がり、全身の感覚が自分自身に集中していく。
そんな感覚を引き戻すように、周りの大気の温度は急速に上がっていく。そして、その熱い大気の流れは、炎菜から流れてくるように感じる。
ッボ、そんな音と共に、炎菜に近づいていく死体達が発火しだす。炎菜に触れることもなく、ただある程度の距離に近づいただけで、燃えていく。
そして炎菜は何の感情も見せない表情で、氷の様な冷たい目で燃えていく死体を見詰める。その冷たい目が、ゆっくりと動き僕のほうを見て、炎菜の口がゆっくりと動き出した。
「遅かったわね」
真っ暗な屋上に、淡々とした炎菜の声が響く。そして、誰も居ないはずの僕の後ろから、炎菜の方から来る熱気とは全く正反対の冷気が、何処からともなく湧き上がり僕の背筋を凍らせる。
吐き気のせいで熱かったはずの身体が急速に冷え、悪感を覚える。
「そんなことより、早速こっちに来るなんて、奥井君はやっぱり誰かに呼ばれてるみたいね」
僕の後ろから聞こえてきた声は、あまりにも間の抜けた明るい声で、異様さを持っている。それは志摩の声だった。
「とりあえず、ようこそ、世界の裏側へ」
そう言って志摩は制服のスカートの端を持って、人形のようにお辞儀をして無邪気に微笑む。
どう考えても場違いな行動が、僕に何かの演劇を見せているような錯覚をもたらす。
「世界の、裏側?」
「そう、普通の人には見ることすら出来ない。世界の裏側、死者たちの世界、ふふふ」
死者の世界? 僕は……死んだのか?
自分の身体から、血の気が失せていくのを感じる。身体から力が抜け僕は膝を付いた。
「そして、さようなら」
「え?」
ドス、そんな鈍い音と共に、僕の体の中心に冷たさを感じ、そしてだんだんと熱くなっていく。その暑さが流れる水のように身体に伝っていく。
志摩はにっこりと無邪気に微笑む、と僕の体から腕を引き抜いた。
「あ、ぐぅ」
「これで悪夢も終わり、もう起きないとね」
意識が遠のいていく、炎菜の顔が、志摩の顔がぼやけ、ゆっくりとゆっくりと僕の意識は闇に落ちていった。
だが闇に落ちていく中で、懐かしいような声が聞こえたような気がした。
※
「いい加減、起きろ!」
そんな一言で僕は目を覚ました。起きた場所は夢と同じ保健室のベッドの上だった。
目の前で白衣を着た男性が立っている。保険の先生だ。
「やっと起きたか。廊下で彼女が待っているよ。早く行ったほうがいい」
「え、あぁ〜はい」
寝起きのせいなのか、頭が上手く回らなくて保険医が何を言っているのか分からないまま僕は適当な返事をした。
「女の子は待たせるものじゃない。全く羨ましい限りだ」
そんな勝手なことを言って、保険医はベッドのカーテンを開けると廊下の方を指差した。
その指しているほうを見ようとして、僕は起き上がろうとする。
「っつ!」
頭に妙な激痛が走り、僕は頭を抑える。起き上がったと思った身体はベッドに横になったままで、保険医が慌てた様子で僕を見下ろす。
「大丈夫か?」
だが、すぐに痛みは消えたので、また少し身体を動かしてみる。頭には何の痛みも無く、思ったとおりに体は動いた。ただ妙に身体の反応が遅い気がする。
「大丈夫か?」
「あぁ、大丈夫ですよ」
心配そうに見る保険医に対して、起き上がって見せて僕は廊下の方を見た。
そこには誰もいなかった……
アレは夢だったのか? 夢だったんだよな?
と自己完結させようとして、考え込んでいると保険医は気分が悪いのかと、思ったらしく。不安げな目でこっちを見るので、僕は慌てて靴を履く。
病院にでも行かされては、やってられない。
「ありがとうございました」
「あ、お大事に」
呆気に取られた。保険医の声を背にして僕は保健室を出た。
「たく、あやうく帰るのが遅くなるとこだった」
「思遠にぃ、独り言は辞めたほうが良いよ……」
「へ?」
あまりに突然のことで僕は一瞬、このショートカットの小さな女の子が誰か解らなかった。
「由香? なんで?」
「心配だったからに、決まってるでしょ。一緒に帰ろうと思ったら、体育で倒れたって聞いてビックリしたんだから……」
そう言って、何故か由香は俯いてしまった。
夕方の陽光は赤く、綺麗に廊下を染めている。ふわっとした温かみが気持ち良い。
……あれ?
「由香……お前何時間、待ったんだ?」
「……馬鹿」
そう呟くと由香はきびすを返して、早足で歩き出した。
「お、おい、由香」
「先帰る。思遠にぃ、なんか知らない」
更に由香は速度を上げて遠ざかっていく。
オイオイオイ!!! 僕なんか不味いこと言いましたか?
などと不毛なことを考えているうちに、由香の姿は消え、完全に置き去りにされてしまった。仕方なく、僕は一人廊下を歩きだし、校庭に出る。
一人で見る。夕焼けの赤は綺麗で、不気味だった。
※
美味しそうな、シチューの匂いがする。由香と僕は向かい合わせに座り、夕食のシチューを食べていた。
「それにしても、何で夏なのにシチューなんだ?」
食べようとしていた。パンを口に運ぶのを辞め、由香は首を傾げた。
「え? 美味しくない?」
「い、や、美味いんだけどさ、夏なのにわざわざ暖かいもの食べなくても……」
由香の得意料理がシチューで、好物であることも知っている。でも、だからって夏に食べるのはどうかと思う。
「変、かな?」
「変じゃないけど……」
本当に悩んでるっぽく言いながら、由香は上目使いをしている。
その辺りが、確信犯だと思うのだが、結局僕が折れる。
「まぁ、美味いから良いんだけどさ」
「なら、良かった」
満面の笑みで由香が笑う。
可愛いんだけどさ、騙されてる気がする……。
他愛も無い話をしながら、ゆっくりと夕食を食べる。
いつもどおりの光景、少し違うのは親が居ないせいか、少し寂しく感じる。由香もそうみたいで、笑顔に少し陰りが見える。
「食器、洗っとくよ」
そう言うと由香がキョトンした顔をする。
「……珍しいね、そんなこと言うなんて明日は雪かな?」
「人の親切心を傷つけるようなことを言うのはどうかと……」
由香が苦笑して、僕は拗ねたような顔をする。そして由香が笑い出して、僕も笑う。それが心地よくて、僕は嬉しい。
「嬉しいけど、明日お願いするね。今日はもう休んで良いよ、倒れてるんだしね」
「でも……分かったよ。もう寝るよ」
「うん、今日は早く寝てよ」
「はいはい、分かりましたよ」
ちょっとだけ罪悪感を感じるものの、由香の嬉しそうな顔を見ていると、それもどうでも良くなってきた。
そうして僕は食べ終えた食器を流し台に置くと、自分の部屋のベッドに横になった。
僕は天井を見上げる、無機質な部屋に下の台所から、由香が食器を洗う音が聞こえてくる。目は閉じるものの、いつもよりも2時間近く早く入った布団の中で、すぐに眠れるわけも無い。
だから僕は今日の保健室で、見ていた夢を考えていた。妙にリアル過ぎた夢、起きた後の一瞬在った尋常じゃない頭の痛み、そんな訳の分からないことを考える。
ただ、考えても分からないことだらけで、答えが出ない思考は僕をまどろみの中へと連れて行く。
そうして意識が途絶えようとしていたとき、誰かに呼ばれたような気がして、僕は飛び起きた。しかし、僕の部屋には誰かが居るはずも無く、目を瞑る前の光景と何も、変わらない。
そう思った……そして、それは起きた。
世界から色が無くなるような、感覚に一瞬囚われたかと思うと世界は赤く染められていた。白い部屋が、あの夢のような血のような、異様なほどの赤に染められていく。
僕は目を擦るが、狂った赤は消えない。それどころか濃さが増していく。視界が真っ赤に染まり、物の輪郭が赤で消されていく。
赤で世界は輪郭を失い、世界は赤で埋め尽くされた。
不安と恐怖が身体を包む。赤に僕の体が溶けてしまったかのように、立っているのすら、僕にはもう解らない。
地に着く足の感覚は無く、大気を感じる手の感覚も無い。既に叫びを上げているはずの口も、あるのかどうかも解らない。何もかもが解らない、息をしているのかも、生きているのかも解らない。ただ不安が身体を支配するのが解る。
だが、その不安の理由すら僕には分からなくなっていく。
恐怖は何故か無くなり、むしろ妙な安心感すら赤が与える。そして不安すら、少しずつ、削られていく。
自分というものの全てが貪られていく。
「自分を思い出しなさい、自分の形をイメージしなさい! 貴方の存在を自覚しなさい!」
誰かの声が響く。
自分? 自分のイメージ? 存在の自覚? なんだ、それ?
―――自覚しなさい、貴方がこの世界に存在することを―――
白い、真っ白な部屋、目の前の母さんが僕に言い聞かせるように言う。
「自覚しなさい、貴方がこの世界に存在することを」
「……良く分からないよ、母さん」
母さんが笑う、何故分かるんだろう。母さんの顔は歪んで分からないのに……
「今は分からなくて良いの、だから変わりに求めなさい。自分の形を」
「自分の形?」
優しく母さんが微笑む。
「そう、そうなりたい自分を求めなさい。こうなりたい自分を求めなさい。感情のまま欲しなさい、貴方の望む自分の形を、それが自分の存在を自覚することに繋がるのだから」
「僕の望む自分の形? じ、自分の形?」
……消えて行く? 誰が? 僕が……
ドックン、ドックン、ドックン
消えるのは嫌だ! 嫌だ! 嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!
「あ、あぁ、あああぁぁぁ!!!」
ピシ、ピシピシと赤い世界に、ヒビが入っていく。身体の感覚が、急速に戻っていく。
大気を感じる。地を感じる。自分の存在を感じることが出来る。
全身の、隅々まで神経が通っているのが分かる。全身を、血がめぐるのが分かる。
ひび割れた赤い世界の外で、誰かがこの殻を壊そうとしているのが分かる。
そして、今すぐにでも、暴れたいような衝動が、全身を駆け巡る。
その衝動を、迷わず僕は赤い世界に叩きつける!!!
「あ、あ、ぐぐ、がぁぁ!」
踏み込んだ左足が地に刺さる。叩き降ろした右手が、世界を引き裂く、同時に右手の肉も引き裂かれ、血と肉が飛び散る。
気持ちいい、この暴力も、痛みも、音も、世界が壊れていくのも、自分が此処にいることが、全てが気持ち良い。
赤い世界が壊れ、白黒の学校の世界が広がる。
「最悪の、覚醒の仕方をしてくれるのね」
覚めた目で炎菜が僕を見る。
大きな銀の光を放つ鎌を、ゆっくりと炎菜が構える。僕と炎菜の周りを、紅蓮の炎が円を描くように、満たされていく。
その炎の暑さが、気持ち良い。焦げる肌の痛みが、気持ち良い。自分の中で膨れ上がる、破壊衝動が、気持ち良い。
「来なさい、楽にしてあげる。精神も、肉体も」
「アァァ、あぁぁ」
どうでも良い、気持ち良いんだ。
―――壊してやる、それで十分だ!―――
ゾク!
炎菜から、一瞬で細切れされるような殺気に、全身の毛が総毛立つような感覚を覚え、一瞬だけ、僕は躊躇する。
「相手をしてあげる。それで十分でしょ?」
「ガァァァ!」
僕は砲口を上げ、炎菜に一直線に加速する。
そしてさっきと同じように、全身の力を込めて右腕を振り下ろす、踏み込んだ足が地面を、砕くまでは一緒だった。
ガァン! グシャ!
冷たく固い感触が、拳から伝わる。傷ついた拳が、更に変形する。
そうなりながらも、僕の拳が炎菜を吹き飛ばす。そして炎菜が背後のコンクリートに激突して、めり込む。
それなのに、僕の方から視線を逸らすことなく、炎菜が殺気を向け続ける。
「たいした潜在能力ね。少し本気で行くよ」
言いながら、炎菜はめり込んだ身体をコンクリートから引き剥がす。
そして僕の視界から、消えた。
視覚で知覚できなかったものを、肌の触覚が、大気の熱と風の変化で感じ取る。だが知覚できても、迎撃は間に合わない。
僕は咄嗟に、右腕を盾にする。
バキッメキ! と気持ちの悪い音をあげて、腕が圧し折れる。
そのまま後頭部に、鎌の刃が来るはずだった。だが僕は、棒のようなもので吹き飛ばさる。炎菜の、鎌を振りぬいた姿が見える。
それは、何処かおかしい形だった。振りぬかれたはずの釜の刃先が、反対に向いていた。
そして僕は、さっきまで、炎菜がめり込んでいたコンクリートに激突する。
「ぐがぁ」
全身が激しい痛みで、言うことを効かない。全身から血が出ているのが分かる。それと同時に傷が塞がっていくのも分かる。
だが変わりに、余りあった力が無くなっていく。
そして冷たい物が、僕の首に置かれた。
「終わりね」
炎菜の冷めた赤い目が、僕を見下す。
メキメキメキ
「うぁぁ、っくぅ」
変形した右腕が、元の形に戻っていく。全身の激痛に僕は、手を握り締めて耐える。
炎菜が僕の首に置いた、鎌を退ける。そして、ゆっくりと僕の方に顔を近づける。視界いっぱいに、炎菜の整った顔が近づく。
僕の唇に、やわらかい物が触れる。それが炎菜の唇だということに、気づくのに数秒掛かった。
な、なんで? そんな疑問が浮かぶが、それを考えるまもなく、痛みが全身を締め付ける。
「う、ご」
そうして口の中に、異常な熱さの空気が入ってくる。喉が焼けるように痛むが、全身の痛みで、僕は身体を動かすことは出来ない。
……体の痛みが引いていく。焼けるような喉の痛みは、慣れたのか、いつの間にか消えていた。熱かった空気が、今は心地いい。唇に触れるやわらかい感触が、気持ちいい。
それが不意に離れる。
「立てる?」
無表情で炎菜は、僕に、そう尋ねる。
痛みのなくなった身体で僕は立ち上がる。
「なんで?」
「必要だから、それとも死にたかった?」
淡々と炎菜がさらりと、とんでもないことを言う。
白黒の学校の世界が、色を帯びていく。黒い空が、紺に色付き、星が、輝きだす。地は茶色に染められ、学校は灰色に染められる。壊れたはずのコンクリートの壁も、元通りになっていた。
夏の虫の声が、聞こえる。
「……凄い」
僕は感嘆の声を漏らした。それほど、僕は色付いた世界に感動した。
目の前に立つ、炎菜は変わらない無表情で、空を見上げる。長い髪が、夜風に吹かれて揺れる。
いつのまにか、構えていた鎌は何処かに消え、代わりに炎菜は、高校の鞄を握っていた。
「死にたくなったら言いなさい。殺してあげる」
静かな学校の校庭で、淡々とした炎菜の声は響き、その言葉の圧迫感すらも、ハッキリと伝わる。
「言うわけ、無いだろ」
さっきまでの、異様な暴力衝動の無い、僕は怖気づいて、それだけしか返せなかった。
「そうである事を祈っているわ」
そう言って炎菜は、ゆっくりと歩き出し、僕の横を抜けていく。
僕はどうすることも出来ずに、立ち尽くす。炎菜はゆっくりと離れていく。それにつれて、僕の中で何も分からないと言う不安が、大きくなっていく。
「ま、待ってくれ」
何を聞いて良いのかも分からないまま、僕は炎菜に声を掛けるが先がつながらない。
炎菜が振り向く。炎菜の赤い目が、射抜くように僕を見る。
「貴方たちが信じている現実は、儚くて壊れやすい。私達の現実は、知らない方が良い現実。後は貴方が決めなさい、現実か、幻想か、好きな方を選びなさい」
夢が現実か、分からなくなってしまった。僕は確かに、現実も夢と言う、幻想の世界なのか分からなくなっていた。
確かに、あの赤い世界を叩き割る瞬間、僕は此処にいると本能的に、確実に認識していた。でも僕の今の頭は、アレを現実とすることを拒んでいた。
「相変わらず、“縛られし者達”は、中立を語るか」
その声と共に、妙な感覚に、僕は囚われる。それは世界から、色が無くなったような感覚と似ていた。
「な、なんだ?」
一見今までと何も変わらないように見えるが、世界から音が消えていた。
車の雑音も、虫の声も、風の音も、無くなっていた。
そして一人の男が立っていた。
そいつは黒い服を着て、マジシャンの様に頭には、大きなシルクハットを被っていた。
「始めまして、奥井思遠君、そして久しいな“青炎の暴君”よ」
男は楽しげに話す。
「貴方が此処にいるってことは、“背徳者”は既に動いているのね」
炎菜は今までと変わらない、抑揚の無い声で返す。
男は口元を緩め、嫌らしいような不気味な笑みで細く笑む。
僕は数秒、男のおぞましい気配に圧倒され言葉を失うが、炎菜の殺気と比べればどうということは無い。
「観察だけだったのだがね。面白いものを見させていただいたよ」
「あんた誰だよ! つか此処は何処だ!」
男は驚いたのか、目を見開き僕を見て笑い出した。
「く、くぅく、くははは」
男は笑う、さっきまでの気配が嘘のように無邪気に笑う。
訳が分からなくて僕は立ち尽くし、男を見詰める。
何がそんなに可笑しいんだ……?
っ!
唐突に大気の温度が変わり、炎菜の気配が強まる。それを感じ取ったのか、男の笑うことを辞め、炎菜を睨む。
「“青炎の暴君”よ。私には、戦う気は無いのだがね……」
あのおぞましい笑みを浮かべて男が言うと、大気の温度は下がり、炎菜の気配も小さくなる。すると男の気配も小さくなり、僕は安堵のため息を吐いた。
「ふぅ〜失礼したね。思遠君、私の名はアゼラス・フレイルだ。フレイルとでも呼んでくれたまえ。それにしても、この私を見て固まるどころか、あんな問いかけをしてくるとはね。くくく」
また男は嫌な笑みを浮かべ、苦笑する。炎菜は、というと空を見上げている。
「……フレイル、此処は何処だ?」
「君は本当に面白いな、私のことが怖くは無いのかい?」
男は楽しげに、笑ってずれたシルクハットを直しながら訊く。
「怖いけど……」
僕はチラッと炎菜の方を見る。それに気がついたのか、フレイルはさっきのように無邪気に笑う。
確かにフレイルは怖いが、炎菜に比べれば数倍ましだ! と、多少失礼なことを自己確認する。
「くくく、なるほどね。さて君の質問に答えよう」
男は改まったように真面目な顔になり、語り始める。相変わらず、僕と炎菜とフレイルしか、いないように感じるこの世界は、静かでフレイルの劇を演じるような声が、良く響く。
「死生界、それがこの世界の名だ。君に言っても解らないだろうが、この世界は生界、死生界、死界、と三つに分かれている。君が普段いる世界が生界、今居る世界が死生界だ」
そう言って男は解ったか? という感じで僕の方を見る。
当然、意味解らん……僕は首を傾げつつも知ったかをする。
「なんとなく」
「生界、普通の人間が住んでいる世界。死生界、死んだ人間や、私たちみたいな特殊な人間のいる世界。死界、生きている者のいない、エネルギーだけの世界」
いきなり抑揚の無い声で、炎菜が説明をする。
おおお! なんというか、判りやすい説明だ。
「さ、流石は青炎、わかりやすい!」
やけに明るい声で言う。フレイルに対して、炎菜は冷たく、腕を組んだまま、見詰める。
つか、よく解んないけど、青炎と関係ないだろ!!!
とは思うものの、フレイルの異様な気配が、増していくのが解る。現実ではありえない、白い月の、明りが僕たちを映し出す。
その空に、一筋の白い線が入る。
「どうやら、この世界も限界か……“白銀の女王”のお出ましのようだ」
「白銀?」
ピシ、ピシ
世界にヒビが入っていく。地面にいくつもの線が走る。そこから冷たい空気が流れ出す。
「さて、私は舞台から退場するとしよう。では皆様、次回の喜劇でお会いしましょう」
そうして揚々しくお辞儀をすると、フレイルは溶けるように闇に消えた。
その瞬間にヒビの入った世界は、粉々に崩れる。僕は中空をさ迷う様に、重力から切り離された。
「うわ!」
と叫んだ時には、元居た学校に戻っていた。
僕の両足はキチント地面に足を着き、さっきと同じように立っている。炎菜は相変わらずの無表情で、校門の方を見詰める。
そこに一つの影があった。
「はぁ〜逃がしましたか」
明るい声で、悪い結果を人影は言う。
「黒井志摩?」
校門の人影に、僕はそう尋ねた。誰か解るほど見えるわけじゃない。ただ明るく言うわりに、気配の冷たい感じが志摩だと思わせた。
そうして影は、あからさまに首を傾げた。
「思遠ちゃん? 暴走したわりに、ずいぶん元気ね」
その人影はやっぱり志摩で、相変わらずのわけの解らないことを言ってくれる。
志摩は炎菜のほうを見ると、しばらくして何か納得したように頷く。炎菜といえば特に何をするわけでもなく、何を言うでもなく志摩の方を見ているだけで特に変わりは無い。
ただ、少し弱々しく感じるような気がする。なんというか、覇気が感じられない。
「ふ〜ん、そういうこと、良かったわね、思遠ちゃん」
「……思遠ちゃん?」
「聞きたいことも沢山あるんだろうけど、もう遅いし、また学校で会いましょう」
「え、あ、うん」
あまりに自然に流されたので、僕は何も考えずに、返事をしてしまった。
実際、僕自身もこのとき何を話して良いのか、解らなかったのでそのまま別れてしまった。
そうして僕は帰宅したのだが……
「思遠にぃ、今までどこ行ってたの? 今何時だと思ってるの? 自分が倒れたってこと解ってる? 人がどれだけ心配したと思ってるの!!!」
帰宅したのが2時で、しかも何故か由香が起きていて、僕は冷静かつ容赦の無い質問攻めを受けた。
本当のことを言えるわけも無く、散歩と言ってみたのだが中々信じてもらえるわけも無い。最終的に由香が寝るまで、僕を見張るという異様な状態にまで、成ったのは驚きである。
「……由香、そこに居られると寝れないんだけど」
眠いのだろう、由香の目は中途半端に鋭くなっていて、世間一般で言う、据わった目つきになっていて非常に怖い。
「思遠にぃが、寝たら離れてあげるよ」
さっきから、これの一点張りだ。つか寝れないのに、寝たら離れるって、おかしいだろ!
30分経過
「すぅ〜すぅ〜」
由香は、僕の机の椅子で寝てしまい、仕方なく僕は由香を抱き上げ、自分のベッドに寝かせた。
当然、一緒のベッド寝れるほどの神経は無いので、僕は一階のソファーで寝た。本末転倒とはこのことだろうと、僕は胸に刻んだ