ただ一人の少女の恋をかなえてくれてもいいではないですか
「ソフィー」
先ほどまで窓の外を眺めていたお嬢様が立ち上がり、甘えるようにして体を抱きしめた。胸元に顔を埋め、肩が小さく震えている。
ああ、と私は理解した。また、トーヤ=シノノメが他の女性たちと一緒にいるのを見てしまったのだろう、と。
彼にしてみれば他愛のない話をしているだけのことだが、恋する女性というのはそんな風に捉えることが出来ない。嫉妬もするし、落胆もする。お嬢様も例にもれず、そんな女性のうちの一人だった。八つ当たりをしないなど、辺りに気付かせない彼女はとても可愛らしい。恋する女性というものが、全員が全員可愛らしければ、修羅場などというものも起きなかっただろうに、と関係のないことまで頭は考える。
やはり、あの男、さっさと帰ってもらわなければ。
「ソフィー」
「な、何でしょうか、お嬢様」
「やっぱり、上手くいかないものね」
「そんなことはありません。お嬢様のお茶会には、必ず、他の女性たちの誘いを断って参加しているのですよ? 私は、お嬢様の笑顔が一番可愛いと思っています。絶対です、幼い頃から見ているのだから、私の目に狂いはありません」
「まるで、お父様みたいなことを言うのね、ソフィー」
「大事なのです、誰よりも」
ありのままを話せば、小さく噴いて彼女はようやく笑顔を見せてくれた。私が好きな、蕾が花開くような笑顔。この顔をトーヤ=シノノメの隣で見ることは屈辱ではあるが、お嬢様の幸せのため、少しくらいは貢献したい。
この御顔を曇らすことだけは許さない。いつだって、彼女には笑っていてほしいと願うのだ。
お嬢様は体を離し、「弱気になりました」と言って微笑みを浮かべる。その御姿がいじらしくて、またも、あの男には勿体ないと私の頭は決めつけた。
「お嬢様!」
「あら、なあに? ソフィー」
「お菓子作り、しませんか?」
「ソフィーが教えてくれるの?」
「ええ、それを彼に渡してみてはいかがでしょうか?」
男の心をつかむのならば、まずは胃袋から。
以前、お嬢様の恋のために読んだ書物の一文にあったものだ。効果の程は知らないけれど、やってみて損をすることもないだろう。それに、少しでも彼女の慰みになるのではないかとも思ったのだ。あの男のために傷ついて、けれど、あの男のために何かをしてあげたいと思う心は私には分からない。良いように弄ばれてるんじゃないかとさえ考えてしまう。
でも、私の一言でお嬢様は微笑んでくれた。やる気になって、今では動きやすいように袖もまくっている。それを見て、私は悔しいようなもどかしいような、複雑な気持ちに駆られてしまうのだ。蝶よ、花よとふらふらする男のどこがいいのかと責めたくもなってしまう。
だけどそれは出来ない。私の気持ちはお嬢様にとって害だ。恋を邪魔する悪者にしか他ならない。
悪者の私はお嬢様が頑張って作ったお菓子があの男の胃袋に収まろうとも、必死に殴りたくなる衝動を抑えておこう。
でも、一発だけは許されるかしら。
そんなことを思いながら、料理長に厨房の使用許可を得なくてはと行動を起こし始めた。
* * *
快く許可をもらった後、タルトを作るために材料を量っておく。お嬢様に教えるのは初めてのことであり、意外と時間がかかるお菓子の一つだ。一日でできるにはできるが、二日かけた方がタルト生地が美味しく仕上がる。これを口実に誘えばいい、と本心ではない言葉を口にした。
また、私を思い悩ませることも存在している。今はまだお茶会に同伴しているけれど、そろそろ二人きりという時間を作った方がいいのではないかと思うのだ。でなければ、芽生えるものも芽生えないだろう。勿論、本当に二人っきりにしてあげるわけはない。こっそりと隠れて二人を見ていなくては、トーヤ=シノノメがお嬢様に対して不埒なことをするかもしれない。すぐに殴ってでも止める人物が必要なはずだ。
こんなことを考えて、また、重い溜息をついてしまう。
これでは、結ばれるものも結ばれない。お節介にもほどがある。お嬢様の幸せを、私は願っているのに。
計量が終わって後ろを振り返った途端、どんっと何かに当たってしまった。後ろは壁になっているわけではないのに、何故?
ぶつかった鼻を押えながら目で追っていくと、そこには元凶であるトーヤ=シノノメの姿があったのだ。
「なっ、何故ここにっ!?」
「いちゃ悪いか。……菓子でも作るのか?」
珍しく、彼にしてはうんざりといったような顔をしている。不思議に思って首を傾げれば、私の言いたいことを察したのだろう。
何を聞いたわけでもなしに、彼の方から説明をされた。
「最近、ずーっと菓子ばっか食って胃がもたれるんだ。あの教育係まで持ってくるんだぜ。疲れたときには甘いもの、っつーけど俺は太らされるためにいるのかよ」
「最近……ですか」
「最近な。そうそう、誰かさんに俺が甘いものが好きだと言ったぐらいの頃だな」
「不思議なこともあるものですね」
「お前がそれを言うのかよ」
その言葉と同時にぎゅっと鼻をつままれてしまった。やめてくださいと離れようとしても、なかなか手を離そうとしない。それどころか、余計に笑みが深まった気がする。
思いっきり突き飛ばしたところ、反動で私も後ろへとのけぞってしまった。それも、先ほど量ったばかりの材料たちが乗っているテーブルの元へ。頭を打ち付ける上に、粉まみれは必須だ。
しかし、その寸前に力強く前へと引っ張られる。支えきれなかったのか一緒に倒れこみ、トーヤ=シノノメを押し倒すという形でテーブルと衝突という事態は避けられた。
その代わり、引っ張ってもらった手をなかなか離してもらえない。
「……ありがとうございました。それと、手を離して頂けると助かります」
「ソフィー」
「はい」
「手、小さいな」
「そうですね。ですが、これでも力はあるのですよ」
「ふうん……。なんか、いいな、こういうの」
壊れ物を扱うように、優しく触れられていく。女性の手など、彼にしてみれば珍しくもなんともないだろう。第一、小さいと言っても私の手はところどころささくれ立っている。白魚の手、というのには程遠いものだ。彼の言ったことが腑に落ちず、手もなかなか離れない。振り払ってしまおうかと考えていたところ、鈴の鳴るような可愛らしい声が厨房に響いた。
その声が誰であるのか咄嗟に判断し、手荒く彼の元から脱出して立ち上がった。
「あら、ソフィー。そこにいたのね、準備ができたから始めましょう?」
「お嬢様、実はもう一人いらっしゃるのです。あと、作るものも変えましょう」
「それはいいけれど……、あっ」
無理やりトーヤ=シノノメの手を掴み、彼も相手がお嬢様だと分かるとすっくと立ち上がった。途端に顔を赤らませるお嬢様に向かい、何とも人のよさそうな笑顔を彼は浮かべている。
これも何かの縁だろう。偶然にしては出来すぎている気がしなくもないが、利用しない手もない。
にっこりと笑い、お嬢様、と言葉を続けた。
「トーヤ様がお手伝いをしたいと申しておりまして、一緒に作ってみてはいかがでしょうか? それと、ゼリーでも作りましょう。たくさん果物もありますし、出来上がったらトーヤ様と一緒に頂くとしましょう」
「そ、ソフィー! トーヤ様も都合が」
「いや、俺も楽しそうだからやってみたいな。でもやるのは初めてだから、シルフィア、よろしく」
「そんな! こちらこそ、お願いしますね」
二人の姿を少しだけ離れた場所で見つめる。
一枚の絵画を見ているみたいに、二人はとてもよくお似合いだった。お世辞でもなく、正直な感想だ。気持ちの整理はつかないけれど、お嬢様は顔を綻ばせて楽しそうにしているのが見て取れる。幸せそうで、私と共にいてもあんな顔はさせてあげられないと自然に理解していた。
あれが、恋なのか。
いつか離れてしまう相手かもしれないのに、神様はなんと残酷なことをなさってくれる。
お嬢様の、──たった一人の少女の恋を叶えてくれてもいいのに。