流行りの小説に憧れて「婚約破棄」を宣言してみた。+++お飾り婚約者の私では無理だと言うので、各大臣の合意書から母国の全権委任状まで完璧に揃えたら、冷徹なはずの王太子殿下が青ざめています+++
私は、大切な"書類"を抱え込んだまま、勢いよく体当たりするようにして、重厚な扉を押し開けた。
「バンッ!」という品の欠片もない音が、静寂に包まれていた王宮の執務室に響き渡る。
部屋の奥、山積みになった書類の向こう側で、羽ペンを走らせていた銀髪の青年が、眉をひそめてこちらを見上げた。
彼の名はクロード。この国の優秀なる王太子殿下であり、私の『婚約者』ーー。いや、『婚約者だった』とでも言おうか。
私は、その『関係』を終わらせに来たのだから。
「……ノックの仕方も忘れたのか、ルシエル。見ての通り、私は今、非常に忙しいのだが」
クロード殿下の瞳は、よく"黒曜石の刃"に例えられる。黒く美しい。しかし、鋭く、うかつに触れようものなら、切り裂かれる。
いつもの私なら、その鋭い視線と美貌に怯み、「申し訳ありません、殿下」と淑女らしく引き下がっていたかもしれない。
だが、今日の私は違う。胸の奥で燃え盛る怒りの炎が、私から一切の恐れを遠ざけた。
私はツカツカと足音を荒立てて執務机の前に進み出ると、クロード殿下をにらみつけて言った。
「忙しい? ええ、そうでしょうね! 美しき踊り子と逢瀬を重ねるのにも、さぞかしお忙しかったことでしょうから!」
「……何を言っているんだ、君は」
殿下は小さくため息をつき、視線こそこちらに向けているが、決して羽ペンをインク壺の横には置かない。
その態度が、私の神経をさらに逆撫でする。
私は大きく息を吸い込み、王宮中、いや、国中に響き渡るほどの声で、ずっと言いたかった『あの言葉』を放った。
「クロード殿下! 私、あなた様との婚約を破棄させていただきますわ!!」
言った。ついに言ってやった。
最近、他国から輸入された流行りの恋愛小説の主人公たちが、こぞって口にする魅惑のフレーズ。
愛なき関係に終止符を打ち、自らの足で新たな人生を歩み出すための、魔法の言葉。
しかし――。
私のその劇的な宣言を、しっかり聞いたはずのクロード殿下の反応は、いつもどおり静かだった。
「…………それで」
クロード殿下は、数秒間、私を見つめた。私も負けないように、しっかりと見つめ返す。
ふっ、と息を漏らし、ようやく口を開く。
「……婚約破棄? 君と私が? 何を言っている。……そういえば、先日、遅くまで起きて、恋愛小説を読んでいたな。君は影響されやすい。それが今の流行りというやつなのか? 真似をしてみたくなったのだな。戯れも良いが――」
さすがクロード殿下。私のことをよく知っている上に、察しがいい。すぐに答えに行き着いてしまった。
「ば、馬鹿にしないでくださいませ! 私は本気です!」
「本気、ね」
クロード殿下は、私に興味を失ったかのように、書類に視線を落としながら、続けて言った。
「ルシエル。現実を見なさい。今更、そんなことできるわけがないだろう?」
クロード殿下の言う通り"今更"なのは確かだ。
私は遠い母国から嫁ぐためだけに、一人だけで送り込まれた来た"人質"であり、両国の平和を裏付けるただのお飾りにすぎない。
一方でクロード殿下は、この国の王太子にして、陛下の右腕として権勢を振るう絶対的な存在。今も、執務の"ついで"に、私の話を聞いている。
そんなクロード殿下との婚約を、私個人のちっぽけな感情で破棄できるなど、思う方がおかしい。
どうにかできるはずがない。クロード殿下が私を見下し、高を括るのも無理はなかった。
――もっともそれは、私がただの"普通の人質"だったなら、の話だけれど。
「……私の一存では、婚約を破棄することはできない。殿下はそうおっしゃるのですね?」
「いや、そもそもの、前提がおかしい。できる、できない、ではなくて、君と私の関係は――。いや、すまないが、今は本当に忙しいんだ。あとでゆっくりと話を聞いてあげるから、部屋に戻って頭を冷やしてきなさい」
書類から視線を上げようともしないクロード殿下は、私を説き伏せるためであっても、執務への集中を切らすつもりはないらしい。
私は、冷たい微笑を浮かべた。ええ、予想通りの反応ですわ。
だからこそ、私が今も大事に抱えている"書類"が何を意味するのか、気づきもしていない。
それが何か理解したときの反応が楽しみでならない。目にもの見せてあげるから。
「ふふ、ふふふ……」
「なんだ、気味が悪いな」
「私を、ただ感情に任せて喚き散らすだけの、無能な女だと思っていたのでしょう? 甘いですわ。甘すぎます。砂糖を限界まで溶かした王都名物のマカロンよりも激甘です!」
私はついに、手にしていた"書類"を。――美しく装丁された分厚い羊皮紙の束を、クロード殿下の執務机に叩きつけた。
驚いたことに、重厚な執務机はまったく振動せず、山積みになった書類はびくともしなかったが。
しかし、これを見たクロード殿下はそうはいくまい。
「なんだ……?」
「見ての通り、私がかき集めた関係各所の『合意書』ですわ。苦労しましたのよ?」
私は胸を張り、勝利を確信した高らかな声で告げた。
「真っ先に、母国の父上(国王)には竜便を飛ばして、国家としての"全権委任状"をむしり取って……コホン、いただいておきました!『ルシエルの好きにするが良い』という公式なサイン入りですわ!」
「なにを言っている……?」
「ですから! 本気です、そう申しております。竜便の速達料金がどれほど高かったかご存知!? お小遣いが一瞬で消し飛びましたのよ!」
「いや、金の問題じゃない。それに君の父上君も、国家の命運がかかった"全権"を、娘の突拍子もない手紙一枚で?」
「父上だけではありませんわ! 私は昨日はお茶を楽しむ時間も惜しんで、あらゆる関係各所に文を書きまくり、直接足を運んで直談判してきたのです!」
「それで、昨日は静かだったのか。執務がはかどるから不思議に思っていたんだ」
「まずは法務卿の私邸へ早朝に突撃し、国家間の婚約破棄に伴う法的手続きの特例申請書を、その場で作成をお願いしました! 寝巻き姿で紅茶を吹き出していらっしゃいましたわ」
「国家の重鎮なんだぞ……。なんて迷惑をかけているんだ」
「さらに大聖堂へ向かい、枢機卿閣下に『神の御前での婚約解消に関する特例措置』の嘆願書を提出いたしました! 閣下は『神の試練ですな』と、とても深く深く考え込んでおられましたわ!」
「それは、考え込んでいるんじゃない。途方に暮れていたんだ。君と私の婚約を破棄せよなど、どのように教皇様にご報告してよいものか、とな」
「他の政務卿の皆様にも根回ししました。財務卿には、私の持参金返還ルートの確保と、殿下への違約金請求の仮見積もりを出させました! 誰も彼も、私が必死にお願いしたら、快く付き合ってくださって……。本当に、この国の方々は温かいですわ!」
「君が母国の"全権委任状"を振りかざしているから、無碍にできずに、やむを得ずだぞ。胃に穴が開きそうな顔をして書類を作っている財務卿の姿が目に浮かぶようだ……」
「そして、国王陛下……、お義父様にも今朝方直訴し、現在、最終的な承諾印を押していただくのを待っているところですわ!」
「…………は?」
「お義父様は『若い二人の問題だからなぁ。まあ、あのクロードが泣いてすがる姿を見てみたくもあるから、考えてやらんでもない』と、とても協力的でしたわ」
「ま、待て。待て待て待て待て!」
先ほどまでの余裕はどこへやら。クロード殿下はガタッと音を立てて椅子から立ち上がり、私から書類を奪い取り、血眼になって目を走らせた。
法務卿や財務卿たちにすれば、「これは王太子殿下が責任を持って後始末するのだろう」と胃を痛めつつも書類を作って、責任の所在をクロード殿下に押し付けた。
クロード殿下にしても、自分が頭を下げて回れば、臣下たちは後からどうとでも納められる、そう思って聞いていた。
しかし、唯一、クロード殿下の謝罪や説得が一切通用しない、絶対に逆らえない存在。それが国王陛下だ。
「父上に直訴……!? お前、たかだか痴話喧嘩で、本気か!? 戯れにしては度が過ぎるぞ!」
「痴話喧嘩ではありません! これは私の尊厳に関わる重大な裏切り行為に対する、正当なる抗議です!」
書類を読み進めるごとに、クロード殿下の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
そう! その顔が見たかったのだ!
「――、信じられん。完璧に公認の印を揃えて、その上、最高級の『極薄子牛皮紙』だと……!? 」
「最高級の……牛皮紙、ですの?」
「知らずに使ったのか? 国家の命運を左右する儀典書にしか許されない至高の贅沢品だぞ。おい、誰だ、君にこれを与えた黒幕は……っ!」
「母国から送られてきた、花瓶や宝飾品を包むための緩衝材として使われたものですわ」
「だから、君の国は"大陸最後の異界魔境"と言われるんだ、おそろしい……っ!」
事態の深刻さをようやく理解したらしいクロード殿下は、大きく深呼吸をして、必死に平静を装い始めた。
「ルシエル。落ち着いて聞いてくれ」
「私は落ち着いていますわ。どちらかといえば、クロード殿下こそ、落ち着いてくださいまし」
「これが、おちっ!……いや、そうだな、私がのまれてどうする。そもそも、だ。"今更"、こんなことになった原因だが……」
「お心当たりはございまして?」
「もちろんだ。君が怒っている原因は分かっている。『渡り鳥』の件だな?」
"渡り鳥"というのは、情報工作員の呼び名であるらしい。様々な職業に扮して、各国を渡り歩いて、情報を売るのが本業だとか。
――問題は、今回の"渡り鳥"は、"旅の踊り子"であったということだ。
「ええ、そうですわ! あんな露出度の高い、けしからん衣装を着た若く美しく胸の大きな踊り子を、わざわざこの執務室に招いたそうですわね? すぐに侍女たちが知らせてくれましたわ! その上、人払いまで! いったい、お二人で、何をなさっていたのか! 私というものがありながら、不潔です!」
「違う! 誤解だ!」
殿下は机に手をつき、必死に弁明を始める。
「最近、北の帝国との国境付近の動きが不穏だろう? だから私は、自ら"渡り鳥"に接触し、他国の情勢や軍の動き、街の噂を聞き出していただけなんだ!」
殿下は、すらすらと論理的な言葉を並べ立てる。
確かに、北の帝国の動向については、お茶会の席でも夫人たちが噂していた。彼の言葉に嘘はないのかもしれない。
「私はこの国の王太子。国を守るため、あらゆる手段を使って情報を集めなければならない。決して、君が疑うようなやましいことなど、一切ない!」
それは正論なんだろう。私も、王妃教育で治国策の基本を学んだ身。他国の情勢分析がどれほど重要かは理解している。
けれど、クロード殿下はわかっていない。
普通の令嬢なら、ここで「まあ、そうだったのですね。疑ってごめんなさい、殿下」と頬を染めて許すところだろう。
だが、私は許さない。
「……言い訳など聞きたくありませんわ」
「い、言い訳ではなく事実だ!」
「事実ですって? ええ。存じています。侍女が目撃したそうですわ。大きな胸の谷間をのぞき込むほど密着して話されていたと」
「ま、待て。確かに、その、必要があって、私は彼女の胸元を見て――」
「どんな必要があったのですか! そもそも殿下は、私にはいつも『公務だ』と言って冷たくあしらうくせに、あの踊り子にはとても優しそうな笑顔を向けていた、そう聞きましたわ!」
「あれは情報を引き出すための交渉術の笑みで……っ!」
見苦しい抗弁を続けるクロード殿下。いつもそうだ、そうやって私を正論で黙らせ、最後には甘い言葉でごまかしてしまう。
しかし、今日ばかりは、そんなことを許さない。ぜったいに!
「うるさいうるさいうるさーい! 私の心はすでに決まっております! 婚約破棄です! 明日には荷物をまとめて国へ帰りますからね!」
私は両耳を塞ぎ、そっぽを向いた。
もはや理屈ではない。私が怒っているのは「浮気をした(かもしれない)」こと以上に、「私を不安にさせた」ことなのだから。
執務室に、重苦しい沈黙が降りた。
頑なに目を合わせようとしない私を見て、深く、とても深く、疲労困憊したようなため息をついた。
「……分かった。降参だ」
「あら、ついにご自身の罪を認める気になりましたの?」
「いや、君の言う疑い(浮気)を認めるわけでは断じてない。だが……」
殿下は困ったように眉を下げ、私の手をとった。
「君を不安にさせたこと、そして寂しい思いをさせていたことについては、謝罪しよう。すまなかった、ルシエル。だから、その……両国を巻き込んだ騒動にするのだけは勘弁してくれないか」
一見すると、誠実な謝罪に見える。
しかし、私の目は誤魔化せない。
「……お断りしますわ」
「なっ……謝っただろう!?」
「ええ、形だけは。ですが殿下の本心は『自分は悪くないのに、面倒なことになったから適当に謝って丸め込もう』と考えていらっしゃいますよね?」
「っ……!?」
図星だったのか、殿下が一瞬言葉に詰まる。
「自分が本当に悪いと心から認めてもいないのに、その場しのぎの謝罪で済ませようなど――」
「いや!そんなつもりでは!」
「そんな誠意のない謝罪、絶対に許しません! やはり婚約破棄です! 今すぐお義父様のところへ行って、承諾印を無理やりにでも押していただきます!」
「ま、待てルシエル! それだけは……!」
私が本気で踵を返そうとしたその時。
殿下は頭を抱え、天を仰いだ。そして、何かを深く決断したように、低い声で言った。
「……少し、待っていろ」
「え?」
「いいか、絶対にこの部屋から出るなよ。すぐ戻る」
言うが早いか、殿下はバタン! と大きな音を立てて執務室を出て行ってしまった。
一人取り残された私は、ぽつんと立ち尽くした。
「……逃げる気かしら?」
まさか、お義父様や政務卿たちのところへ行って、私の根回しを無効化するつもりだろうか。それとも、私が冷静になるのを待つための時間稼ぎか。
(いいえ、決して絆されてはだめ。私は強い女。自立した女。あの小説のヒロインのように、凛としていなければ……!)
私は腕を組み、仁王立ちになって彼を待ち構えた。
五分。十分。
静かな部屋の中で、時計の針の音だけが響く。そろそろ足が痛くなってきた頃。
ガチャリ、と扉が開いた。
「戻ったぞ」
「遅いですわ! 逃げ隠れしても無駄だと……え?」
戻ってきた殿下の姿を見て、私は目を丸くした。
彼の両手には、書類束でも、近衛騎士たちでもなく。
銀色のドーム型の蓋が被せられた、美しい銀のトレイが恭しく掲げられていたのだ。
「……それは、何ですの?」
「ルシエル。私は君への誠意を言葉で示すのが下手らしい。だから、これでどうか私を許してくれないか」
殿下は執務机の上の書類を乱暴に端へ寄せると、その空いたスペースに銀のトレイを置いた。
そして、ゆっくりとドーム型の蓋を開け放つ。
――ふわり。
その瞬間、執務室の中に、信じられないほど芳醇で、甘く、そして爽やかな香りが広がった。
私の視線は、トレイの上の『それ』に釘付けになった。
「こ、これは……?」
二つのスィーツが鎮座していた。
一つ目は、透明度の高い水晶のような器に色鮮やかな果実たちが、ぷるぷると震える琥珀色のゼリーの中に閉じ込められている。
その隣には、見たこともないほど深い漆黒の色をした、なめらかなカカオクリームを波打つように撫でつけたケーキ。表面には金箔が散らされ、高貴な輝きを放っている。
「南の大陸にある新興国から、特別に取り寄せた品だ。フルーツを時間の檻に封じ込めたような『妖精の琥珀涙』と――」
なんてロマンチックで、それでいて食欲をそそる響きかしら!
革新的な文化の流行を生み出す新興国の技術が、このぷるぷると震える美しいゼリーの中に注ぎ込まれているというの!?
「最高級カカオを時間をかけて練り上げた『星降る漆黒竜の鱗』というらしい」
一度だけ見せてもらったことがあるが、あの"星降る漆黒竜"の鱗のように妖しく艶やかに輝いている。
「本当は明日のお茶会で君を驚かせようと、秘密裏に手配していたものなんだが……。これを、君に進呈しよう」
な、なんてことを企んでくれていたのかしら!
「あ、明日のお茶会ってまさか、お義母様の主催される、青晶式のお祝いの……」
一般に、灰結晶、蛍結晶、青結晶と、年を重ねるごとに固く、価値あるものになっていく。
「ああ。母上から是非に頼まれてな」
こんな素敵なサプライズ。明日のお茶会で初めて見せられた日には、淑女のメッキが剥がれてはしたなく悲鳴を上げて大喜びしてしまうところだった。
「また、お義母様に睨まれることになるところだったじゃないですか!」
「それこそ、母上の企み――。私も母上から睨まれるのを覚悟の上で、だ。さあ、バレないうちに食べてしまってくれ」
ごくり、と。
私は無意識のうちに、喉を鳴らしてしまった。
クロード殿下は、銀のスプーンをそっと私に差し出した。
悪魔の誘惑。いや、共犯者になれという脅迫だ、これを食べたからには私はお義母様の企みに逆らうことになってしまう。
私は必死に抗おうとした。
(だめよ、ルシエル。この国で生きる女が絶対に敵に回しては行けない存在!こんなもので揺らいでだめ。私のプライドが、尊厳が、あの小説のヒロインのように……!)
「そ、そんなもので……私の決意が揺らぐとでも……っ」
震える手でスプーンを受け取る。まるで幼い子を見るような優しい表情のクロード殿下を見ないふりをして。
私は琥珀色のゼリーを少しだけ掬い取った。
そして、それを一口、口に含んだ。
「――っ!?」
舌の上でつるりととろけるような、滑らかな食感。
南国の太陽をいっぱいに浴びた果実の弾けるような酸味。ひと匙ごとに味が変わっていく。
それを包み込む、上品で蠱惑的な甘みが後をひき、またスプーンで掬わざるを得ない。
隣の漆黒のカカオケーキも気になって仕方がないが、貴族の淑女として、口の中に食べ物がある状態で次へスプーンを伸ばすなど、意汚い真似は許されない。
『完全に飲み込むまで、一度カトラリーはお皿へ戻すのが基本です』という教育係の厳しい声が聞こえてくるようだ。
分かってはいる。分かってはいるのだけれど、私の右腕はスプーンを皿に戻すことを断固として拒否していた。
「マナーなど気にするな。誰も見ていない。好きに食べるといい」
不意にかけられた声に視線を上げると、クロード殿下が優雅に紅茶の香りを愉しんでいるところだった。
私の前にも、いつの間にか温かい紅茶のカップが差し出されている。
その様子を見て、ようやく冷静になることができた。いつの間にか、私はフルーツゼリー(妖精の……なんでしたか)を食べ尽くしていた。
「お口に合ったようで何よりだ」
殿下は、安堵したように息を吐き、優しく微笑んだ。
その笑顔は、ここしばらく見ていなかった陽だまりのよう。柔らかく、私だけに向られた特別なものだった。
私はコホン、とわざとらしく咳払いをし、姿勢を正した。
「……仕方ありませんわね」
「ん?」
「この甘味に免じて。……そしてお義母様を敵に回すかもしれないリスクを負う覚悟に免じて、今回の件は不問に付してさしあげます。婚約破棄は、ひとまず『延期』ということですわ」
私は寛大な心でそう告げると、再び幸せなスイーツの世界へと没頭し始めた。
さあ、さっきから私に「食べて!」と訴え続けている、黒い魅惑の甘味を、ひと匙すくい、口に運んだ。
「……んー!」
口を開いては、せっかくの甘い香りが逃げてしまうので、叫べないが。本当なら叫びたい気持ちだ。
美味しい。明日のお茶会でも食べられるなんて、私はなんて幸せ者なのかしら。この国に来て本当によかった。
機嫌を完全に直し、鼻歌交じりにケーキを頬張る私。
その姿をじっと見つめていたクロード殿下は、今日一番の、地底の底から響くような深いため息をついた。
「はぁぁぁぁぁぁぁ……」
「どうしましたの、殿下? ため息をつくと幸せが逃げますわよ?」
口にスプーンを咥えたまま尋ねる私に、殿下は半ば白目を剥きながら、絞り出すように言った。
「だから……。なぜ『婚約破棄』なんだ」
「え?」
「君の愛読している流行りの小説に影響されているのは百歩譲って我慢しよう。だがな、ルシエル」
殿下は私の左手をとった。
そこには、王家の紋章が刻まれた、美しいダイヤモンドの指輪が光り輝いている。
「私たちはもう、結ばれたはずだぞ?」
「…………」
私は聞こえないふりをして、右手握ったスプーンを、漆黒竜の……なんでしたっけ? カカオケーキへ突き立てる。
「離婚、というならまだ分かる。――いや、あり得ないことだが。だが、『婚約破棄』とはどういうことだ」
「……あり得ないことだからこそ、いいんです。殿下もおっしゃいました。なにを今更、と。だから、皆は"冗談"だとわかってくださるでしょ? これが離縁となると、本当にはあり得ないと言いながらも、不可能ではない。ましてや、早とちりな母国のお父様が本気にしたら――」
「やめてくれ。考えたくもない、、君の母国と戦争になってしまうなんて。あの"大陸最後の異界魔境"と恐れられている、君の国。君の父上は――」
お父様が、もし"異国に嫁いだ娘に何かあった"なんて考えてしまったら、明日にはこの国には無数の"星降る漆黒竜"が解き放たれるでしょうね。
「魔王、ですものね」
「……大丈夫なんだろうな? 本当に、君の父上は、冗談だと、わかっているのか?」
「さすがに、大丈夫ですわ。送られてきた『ルシエルの好きにするが良い』というサインのあとに、"気が済んだら、たまには国に帰ってきなさい"ってありましたし」
「そうか。……わが父上も、父上だ。さぞ呆れながら君の『直訴』とやらを聞き流していたことだろうな。『またルシエルが小説の真似事をして、クロードと夫婦喧嘩をしている』と」
「…………お義父様は、むしろ楽しそうに乗り気でいらしたわ。お義母様が"ほどほどになさい" と仰らなければ、押印までしてくださるところでした」
「さずがは母上か」
「あ、でも、お義母様が"クロードに伝えて頂戴。別のものを、もちろん用意なさい、と"」
「……さすがは母上か。すべてお見通し、か」
ぽつりと呟いたきり、殿下はぴたりと動きを止めてしまった。紅茶を飲むことも忘れ、その端正な顔を痛そうに歪めている。
おでこに手を当て、こめかみのあたりをきつく指先で押さえているその手は、気のせいか小刻みに震えているようにも見えた。
私は、スプーンで掬ったカカオケーキをぱくりと口に放り込み、その濃厚な甘みにうっとりと頬を緩めながら、魂が抜けかかっている"旦那様"の様子をのんびりと眺めることにした。
「クロード殿下がいけないのです。大きな胸にデレデレとされて! そんなに大きな胸がお好きなのなら、乳牛とご結婚されれば良かったのです」
私がプイッとそっぽを向くと、クロード殿下はとつぜん立ち上がった。
その思い詰めた表情は、まるでこれから、身一つでドラゴン退治にでも赴く冒険者のよう。
そして、私の座る椅子の背もたれと肘掛けに両手をつき、逃げ場を塞ぐように覆い被さってくる。
「な、なんですか……」
見上げれば、鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離に、息を呑むほど美しい黒曜石の刃が迫っていた。
いつもは冷静なその瞳が、今は熱を帯びてとろけるように私を見つめている。
殿下は長くて美しい指を伸ばし、私の口元についていたカカオパウダーをそっと拭うと、そのまま自らの唇で舐め取った。
「っ……!」
「乳牛と結婚? 冗談を。私が一生を添い遂げると誓ったのは、世界で一番愛らしくて、私の心を誰よりも乱す、たった一人の女性だけだよ」
鼓膜を震わせるような、低くて甘い声。心臓が、トクン、と大きく跳ねた。
「侍女が君に告げ口したのは、やつの体に隠し刻まれた『暗号章』を確認したときだろう。"渡り鳥"を騙る者もいるからな。……信じてくれるか?」
「そ、それは……」
「だが」
殿下は私の言葉を遮るように、私の左手を取って、結婚指輪に、誓いを立てるように深く、熱い口づけを落とす。
「君が私を失うかもしれないと、そんなにも可愛らしいヤキモチを焼いてくれるのなら……。少しばかり冷や汗をかいたが、悪くない誤解だったな」
「ヤ、ヤキモチなんかじゃありませんわ! 私はただ、妻としての尊厳が……!」
「ルシエル」
強がろうとする私の言葉を、殿下は私をそっと抱き寄せることで塞いだ。
彼の大きな胸の中にすっぽりと収められると、少し早く波打つ鼓動が聞こえてくる。それが自分の音か、殿下の音か、区別はつかない。混ざり合うように。
「私には、君しかいない。私を恐れず、そして気高く、無垢な振る舞いができるのは、君しか。突拍子もない戯れも、抱きしめても、怯えず赤くなる頬も。菓子を幸せそうに頬張る笑顔も。……すべてが狂おしいほど愛おしい」
耳元で囁かれる甘い声に、全身の力が抜けていく。
「君が、私以外の腕の中で眠るなど想像しただけで反吐が出る。同時に、私が君以外の者に心許すことなど、ない。……私の世界には、君しかいない」
「クロード様……」
「だから、どうか私を捨てないでおくれ。私の、最愛の妻よ」
――ズルい。本当に、この人はズルい。
結局は、いつも通りだ。私を正論で黙らせ、私にだけ謝って形だけの誠意を見せ、最後には甘い言葉でごまかしてしまう。
そして、ごまかされてしまう。最後には必ず私の不安の炎を撫でて消し、一番欲しかった言葉をとびきり甘い声で囁いてくれるのだから。
私のヤキモチに、一切の妥協なく本気の愛で応えてくれる、その底なしの愛情は、本物だから。
(……甘いのを食べたから、気も済んだし、ね)
私は殿下の背中にそっと腕を回し、その仕立ての良い服をぎゅっと握りしめた。
「……仕方、ありませんわ。婚約破棄は、取り消します。私に"愛を誓う"と言ってください。三年前のように」
精一杯の強がりを言うと、頭上からふっと優しく吹き出す声が聞こえた。
「ああ、誓おう。君が望むなら、何度でも」
そうして、執務室に降り注ぐ柔らかな午後の光の中、私たちはどちらからともなく顔を寄せ合い、甘いお菓子の香りがする、甘くて長いキスをしたのだった。




