硝子壜の中のエマ【改訂版】
一
オレンジ色の夕暮れ。真っ青な電車がまだ水の張られていない、広大な田園地帯をずんずんと進んでいく。まばらに見える、瓦ぶきの田舎風の家や、プラスチック製のおもちゃのような現代風の住宅。線路はまっすぐにそこを突っ切る。行き先に、大きな、一つの街ほどもありそうな横広の囲いが現れる。頑丈そうなコンクリートの塀で、中は見えない。
電車が近づくと、塀の一部が重そうに持ち上がった。ちらりと見える、異国的な色彩。しかし電車が中に入って塀が閉じると、辺りはただの田園地帯に戻る。
街は昼に比べると人もまばらになってきた。それでもここは人が多い。石畳をこつこつと鳴らす足音がかき混ざって騒がしい。
街並みは特徴的だった。木造で、群青や白や煉瓦色のスレートぶきの屋根。ショウウインドウは大きいが、不思議な幾何学模様の細工が施された木枠に入っている。そんな店がずらりと向かい合って並んでいる。
品物は最新流行のものばかりだ。西日に照らされて色あせて見えるが、袖の膨らんだワンピースに、それに合ったハイヒールのパンプス、籐編みのバッグ。それに立派なスーツにネクタイに輝くネクタイピン。宝石屋のウインドウには大きな桃色珊瑚が飾られている。その他にも靴屋、化粧品店、ペットショップ、呉服店と枚挙にいとまがない。ビルは少ないが、この街はかなり栄えている。
その中を、一人のほっそりとした青年が、うつむきながら歩いていった。彼は礼儀正しそうに見えるが、今は倒れそうなほど青ざめた顔をしている。服装は普通の若者と同じだ。藍色の半袖のシャツにデニムのパンツ、白いスニーカー。彼はこれほどに魅力的なショウウインドウを見向きもしなかった。むしろこの通りを抜けて、寂れた方へ寂れた方へと向かっている。
「こんにちは。お花、いかがですか」
重そうな籠に花束を一杯詰めたものを石畳に置き、彼よりも四つか三つくらい年下らしく見える女性が彼に話しかける。あまりきれいだとは言えないが、よく笑う、感じのいい女性だ。
「帰りに買うから」
彼が言うと、訳知り顔にうなずいて、手を振って見送った。
彼はまたうつむき加減で歩き出した。目的地がはっきりと見えてきたからだろう。大きな木造の倉庫。彼はガラスの両開きのドアを片方だけ開けて、滑り込むようにして中に入った。
やけに静かだ。空気も重い。がらんどうに見えるこの空間には、囲いが二つ、入り口から見て右と左にある。囲いはベニヤ板で出来ていて、右には黒で男、左には赤で女、とマジックインキで書かれている。彼は女と書かれた方を選んで足取りも重く、中に入った。
中にはガラス壜がずらりと並べてあった。それも人が入った壜だ。裸の女たちが壜の中でうずくまって彼を見ている。うらぶれた、虐待された猫のような目で。彼はそれでもひるまずに壜を一つ一つ凝視した。
壜の中の女たちはどれも美しかった。目の丸い女。小さな口の女。体つきの整った女。大きな乳房の女。それもそうだ。女たちは愛玩用なのだから。
長い足で顔を隠している女を見て、彼が「あっ」とつぶやいた。目を見開いて女を見ていると、顔を上げた。途端に失望したように彼は目をそらす。ひときわ美しい、髪の短いその女は、安心したようにひざに顔を埋めた。
人がこれだけいるのに、ここは静か過ぎた。彼は何も言わない女たちに背を向け、倉庫の隅にある応接室をノックした。中からはうなり声のような返事があり、彼は中に入っていく。
途端に彼の真横に、また壜が姿を現した。中に入っている、うずくまった長い髪の女は、明らかに少女だった。彼は呆気に取られたようにそれを眺めている。
「いいでしょう。生娘なんですよ」
応接間らしいソファとテーブルの向こうに大きな机がある。そこに座っている四十がらみの男が、にやにや笑った。
「今日も一通り見てきました」
彼が少し細い声でそう言うと、男は太い眉尻を下げて、いかにもあわれむような顔をした。
「いつも大変だねえ」
「そうですね」
「こっちも手を尽くしてるんだけどね。なかなか見つからないよ」
「ありがとうございます。助かります」
彼はちらりと少女の入った壜を見た。細い肩が震えている。
「この壜はどうしてここに?」
男がそれを聞いて好色そうに笑った。
「観賞用に置いてるんだよ」
彼の顔がわずかに歪む。
「そんなことをしていいんですか」
「そんなことって?」
にやにやと笑う男は、壜の中の少女を見た。少女はかたくなにその体を見せようとはしない。
「生娘なんだ。これからのために男を知っておいた方がいいだろう。そう思わないか」
男がいかにも楽しみであるかのように手をすり合わせたときだ。彼は真顔で言い放った。
「僕に売ってくださいませんか」
男はぽかんと彼を見て、狼狽を始めた。
「だって、あんたは」
「僕に売ってください。売れないわけでもあるんですか」
「そりゃあないけど」
男がしぶしぶ言うと、彼は詰め寄った。
「今すぐ僕にください」
「今すぐ?」
男は素っ頓狂な声を上げた。
「今すぐは駄目だよ。手続きが煩雑だし、明日以降でないと」
「明日では駄目でしょう」
その言葉に、男は眉をぴくりと上げた。仏頂面で机の引き出しから出した書類にサインをする。
「あんたもサインを。良かったな。生娘が手に入って」
「そうですね」
「銀行振り込み、忘れないでくれよ」
男が椅子から立ち、彼の方へやって来た。二人がかりで大きな壜を倒すと、少女はおずおずと中から這い出してきた。長い髪はいかにも伸ばしっぱなしで、化粧もしていなかったが、肌は白く、目は丸くて子供らしい顔立ちをしていて愛らしい。
「服は?」
彼の言葉に舌打ちした男は、隣の部屋からぼろぼろの赤いワンピースと男物の運動靴を持ってきた。少女がそれを身に付け終わると、男はふんと鼻を鳴らす。
「じゃあ、行こうか」
彼が優しく声をかけると、少女は上目遣いに見て歩き出した。
「壜は僕の家に届けてください」
「はいはい」
応接間を出てドアを閉じると、彼は小さくため息をついてつぶやいた。
「僕もいい加減この街の奴隷制度に慣れなければいけないな」
少女が不安げに見上げると、彼はにっこり笑った。倉庫を出ると、辺りはすっかり夜だ。奴隷がそこここにいる。首輪に繋がれて歩く、美しい女たち。昼ともなれば、荷物持ちや子守りの奴隷が大勢歩く、この街。
「その子は誰ですか」
花売りが呆然と彼に尋ねる。
「どう見ても奴隷じゃないですか」
「奴隷じゃないよ」
花売りと少女が彼をじっと見る。彼は少女の小さな手を握った。
「エマって言うんだ」
少女は目を丸くした。つないだ手を、じっと見る。花売りは傷ついた顔をした。別れ際、彼が手を振るのには微笑み返したが、エマが頭を下げるのは無視した。花売りは青ざめていた。
「きみは一度も笑ってないだろう」
彼がエマの顔を見て笑った。エマは不思議そうな顔をした。
「だからきみが笑うように、エマと名づけたんだよ。『笑まひ』という言葉を知ってる? 笑うことっていう意味だよ」
エマは首をかしげた。彼は少し寂しそうな顔をした。
入り組んだ住宅街を二人で進んで行き、たどり着いたのはおんぼろの木造の家だった。彼はエマに笑いかけた。
「今日からここが君の家だよ」
細い庭にはすでにあの壜が置いてあった。エマが少しぼんやりとする。
「これは僕が君を所有しているという証明の品だ」
彼は壜を見つめながら、無表情につぶやいた。
二
エマが目を覚ますと、枕元にはラッピングされた箱が二つあった。畳の部屋を抜け、どたどたと走る。
「エマ、きみは奴隷のくせに寝坊なんだね」
狭い台所に行くと、目玉焼きを焼いている後姿で、彼がおかしそうに言った。
「僕は早起きして買い物を済ませてきたよ。枕元、見た?」
彼が微笑みながら振り返ると、エマが何度も首を縦に振る。
「開けた?」
今度は横に振る。
「じゃあ開けてごらん」
エマはまた、どたどたとあてがわれた部屋に戻った。ショッキングピンクの包装紙から開ける。そっと、破れないように。薄い箱を開くと、新品のワンピースが入っていた。広げて自分に合わせてみる。黄色い花模様で袖の膨らんだワンピースを、泣きそうな表情で抱きしめた。
ワンピースを着てもう一つの箱を開けると、緑色のハイヒールのパンプスが出てきた。それをはいて、またあわただしく彼の元に行く。顔を紅潮させて、彼に見せる。彼は、
「似合うよ」
と微笑んだ。
「サイズは全部Мなんだ。ぴったり?」
エマはうなずく。そしてほろりと涙をこぼした。
「大げさだよ。そんな大した買い物じゃないんだ。ショウウインドウにあったものを買っただけ」
彼はにこにこと嬉しそうに笑い、
「喜んでもらえてよかったよ」
と言った。エマはそのまま狭い玄関に下り、こつこつと靴を鳴らしながらくるくると回る。スカートはふんわりと膨らんだ。
居間で食事の用意が出来ると、エマはぱくぱくと目玉焼きを食べ、味噌汁をすすった。彼は満足げにそれを見ていた。
「きみは料理できる?」
エマは困ったように首を振った。
「じゃあ僕が作るしかないね。僕もそんなに料理は上手くないんだけど」
エマが何度も頭を下げる。彼はそれを止めて、微笑む。
「奴隷はしゃべってはいけないという規則があるというけど、家では話していいんだよ」
エマは悲しそうに首を振る。
「どうして?」
エマはまた首を横に振った。彼はため息をつく。
「君は親に売られたんだろう? どんな家庭だった?」
また首を振る。同時に涙がこぼれだした。彼はあわてた。
「ごめん。もう聞かないよ。それが辛いことだというのは分かってるし」
少しだけ泣いて、エマはまた食事を始めた。彼は安心したように箸を動かし始めた。
エマは少し遅れて食事を終えると、テレビを見ている彼をじっと見つめた。彼はふと気づき、
「どうしたの?」
と尋ねた。エマが訴えるような視線を向ける。
「何か仕事がしたいの?」
うなずくエマ。
「洗濯は僕がするし、料理も僕がする。掃除くらいかな、頼めるのは」
居間を飛び出そうとするエマを止めて、彼はこう諭す。
「掃除は一緒にしよう。でも今日はすることがないよ。済んだから」
しゅんと畳に座り込むエマを見て、彼は笑った。エマが何故笑うのかと問うように唇をとがらせる。
「犬みたいだ」
彼の言葉に、エマは少し笑った。彼はそれを見て嬉しそうにする。
「じゃあ、出かけようか。必要なものはまだまだあるよね」
それを聞いたエマは、本当の犬のようにぴょんと立ち上がり、おずおずと彼の腕にすがりついた。
「ありがとうってこと?」
彼が聞くと、エマは何度もうなずいた。
出かける前に、エマは髪を切った。玄関に椅子を置き、彼が器用にはさみを動かす。黒く光る髪がねずみ色のタイルの上に落ちていく。長すぎた髪は背中で切りそろえられ、前髪も長めに切って横に流した。鏡を見ると、エマは笑うのを我慢するように唇をきゅっと結んだ。
「笑ってもいいのに」
と彼がつぶやくと、エマは困った顔をした。
「奴隷は笑っちゃいけないの?」
首をかしげる。
「笑っていいから、遠慮はしないで」
彼が言うと、エマはうなずいた。
バスに乗って街で降りると、エマは興奮して辺りを見回した。
色とりどりの服を着た人々。混ざる靴音。木枠の中のショウウインドウ。エマはうっとりとそれらのものを感じようとしているようだった。
彼が手を差し出すと、エマはそれを握った。手をつないで歩き出す。
エマが興味を示すと、彼はどんな店にでも入っていった。服屋で籐編みの小さなバッグを、雑貨屋で細いカチューシャを、化粧品店で薄いピンクの口紅と、白いマニキュアを買った。バッグを持ち、カチューシャを頭につけて、エマは嬉しそうだった。彼はそれを見ながら、微笑んだ。
花売りが近寄ってきた。今日も花束を売っていたようだ。
「こんにちは」
彼が声をかけると、花売りは嬉しそうにはにかんだ。
「ここにいた昔、よく彼女から花を買ったものだよ」
「そうですね。一年も前でしょうか」
「懐かしいな。今日も買おうか。その白いマーガレットの花束をくれる?」
「はい」
花売りは笑って花束を彼に渡したが、それがエマの手に渡った途端表情を険しくした。エマはそれを見て、怯えたように目を伏せた。
「それじゃあ」
彼が手を振ると、花売りもそうした。エマはぺこりと頭を下げたが、花売りは気づかないふりをした。エマは無表情になった。それを彼は疲れたのだと誤解して、喫茶店に向かった。
「僕の仕事が何だか分かる?」
席に着いて彼が聞くと、エマは首を振った。彼は大きな布製のバッグからスケッチブックを取り出した。開いてみせると、エマは目を輝かせた。そこには穏やかな海があった。真っ青で、島影が見える。浜辺では浮き輪に入った小さな子供が母親と水遊びをしている。
「僕は画家なんだ。絵本や児童書の挿絵を描いてる。今は休んでるところ」
エマが首をかしげる。
「実はこの街でどうしてもやり遂げなければならないことがあって」
彼は空虚な笑いを浮かべて、古いスケッチブックをもう一冊取り出した。それを開いて見せる。
「彼女を見たことがある?」
そこには短い髪の、黒目がちの目をしたきれいな女性がいた。公園のような場所でベンチに座って微笑んでいる。
「ずっと探しているんだ。君みたいに、親に売られてしまった。借金の担保にされてたんだってさ。僕の恋人なんだ」
エマは眉尻を下げて首を振った。
「全国で売られた人たちは、この隠された街の中でひっそりと売り買いされ、消費される。人間である資格を失った奴隷たちは『有意義に』使われる。どこの国でもあることだ」
彼は皮肉めいた笑みを浮かべている。
「彼女もその犠牲になった。簡単に、人間から物になった。ここにいるに違いないんだ。全然知らない?」
エマはうなずいた。彼の力が抜ける。のろのろと、スケッチブックをしまう。
「会って、助けたいんだ」
エマはうなだれて、ぎゅっと自分の手を握る。それを見た彼は、唐突にこんなことを言った。
「エマ、笑って」
戸惑ったように、エマは首をかしげた。彼は、エマの顔をじっと見ている。
「笑わないと、品物を全部返品するよ」
冗談っぽく彼が言うと、エマは少し笑った。
「エマ」
彼が微笑んだ。つられてエマも笑顔になった。エマは驚いて一瞬それを消したが、また笑った。唇の端をしっかり上げて、目尻は下げて。彼は安心したようにエマを見た。
「ありがとう、エマ」
「あの、止めていただけませんか?」
隣のテーブルの中年女性が声を上げた。彼とエマが見ると、女性の横には首輪を付けた女奴隷が立っていて、じっと床を見ている。
「奴隷を放し飼いにして、その上話しかけるなんて。ひとり言みたいで気味が悪いわ」
彼は一瞬目を閉じて、ため息をつくように、
「すみません」
と謝った。中年女性はそれでも我慢ならないという風に、荷物を持った奴隷を連れて店を出て行った。店中の視線が二人に突き刺さる。やむを得ず、彼とエマは静かに店を出た。
帰り道、彼は低くつぶやいた。
「ごめん、謝ったりして。これがこの街のルールなんだ」
エマは首を振って笑った。彼は少し安心したように、微笑み返した。
彼は新しいスケッチブックにエマの絵を描いた。エマの子供っぽいなだらかな鼻だとか、まつ毛の長い目だとかが写実的に描かれていく。出来上がると、エマはにっこり笑った。彼も笑った。
夜寝る前に、彼はエマの手と足の爪に、白いマニキュアを塗った。一本一本丁寧に。エマはうっとりとそれを眺めた。出来上がった爪を乾かすと、エマは遠慮なく彼にすり寄った。
「本当に犬みたいだよ、エマ」
彼が笑うと、エマは四足で歩き、白いのどをそらして無音でほえた。彼はそれを見て声を上げて笑った。
「おやすみ、エマ」
隣り合った別々の部屋に入り、エマは一人で笑顔の練習をしながら眠った。彼も、微笑みながら床に就いた。
それから一月、エマは彼の家でのびのび過ごした。毎日一緒に食事をし、一緒に掃除をした。彼の借家は古い木造で今にも潰れそうだったけれど、エマは幸せそうだった。
けれど、ある日それは壊れた。奴隷商人のあの男がやって来たのだ。
三
青いトラックが狭い路地に停められている。奴隷を連れた人々が、迷惑そうにそれを見て、隙間を縫って歩いていく。
「狭い家だね」
男は扇子でぱたぱたと顔をあおいでいた。彼とエマは、男に麦茶を出して沈んだ顔をしていた。彼が口を開く。
「どうしたんです。いきなりいらっしゃるなんて」
運転手が玄関に涼みに来た。エマはぱたぱたと走って、台所に彼らのための飲み物を用意しに行った。男がにやにや笑う。
「いい子だねえ」
「そうですね」
盆にグラスを一つ載せて、そっとエマは廊下を歩いていった。夏も真っ盛りなので、家中の戸を外してある。
「いやね、教えに来たんだよ。一月に一度の奴隷の仕入れ日、あんた忘れてただろう」
「あ」
彼は心底後悔したように唇をかんだ。エマが盆を持って戻ってくる。
「恋人を探すんだろう? ええ? 売れてたらどうするつもりだったんだ?」
「彼女はいましたか?」
彼は青くなって男に尋ねた。エマは彼の横でうなだれていた。
「いなかったよ。でも奴隷っていうのは使われているうちに人相が変わってくるものだからね。中古の奴隷がたいていだから、俺も分からないね」
黙りこんで畳を見つめる彼の肩に、エマはそっと触れた。彼はその手をぎゅっと握って、目を閉じた。男がその様子をじっと見つめている。
「明日、行きます」
「今日でなくてもいいのか?」
「今日はすることがあるので」
「ふうん。ところであんた、奴隷と仲がいいようだけど、具合はどうだい?」
彼は顔を上げて怪訝な顔をした。エマも首をかしげる。
「元気ですよ。見ての通り」
彼の返事に、男はじれったそうに首を振り、大声を出した。
「あっちの具合だよ。毎日やってんだろ?」
途端に彼は冷ややかな表情になって、男を見た。エマはますますうなだれて、手遊びをしている。
「彼女は僕の生活を潤してくれていますよ」
「そうか」
男はげらげらと満足げに笑い、立ち上がった。彼は男をじっと見つめている。
「じゃあ、うちの奴待たしてあるから、行くよ。またな」
最後の「またな」はエマに向けられたようだった。彼とエマは男を送り出すと、不安げに顔を見合わせた。
「どういうつもりなんだろう」
エマは手遊びを止めない。彼はそれを見て、急に厳しい表情になった。
「もう、こんなことは止めにしたいね」
エマはそっと彼を見た。彼はエマを見ていない。急に立ち上がる。
「ちょっと出かけてくる」
彼はふらりと家を出て行った。エマは一人になった。
エマは洗い物を済ませると、家の中で静かにテレビを見ていた。スピーカーから流れる音や画面ばかりがにぎやかで、エマは少しも楽しそうにしていない。時折庭に置いてある壜を見るたびに、暗い顔をした。嫌な想像に溺れているかのように、ひざに顔を埋めた。それが奴隷倉庫にいたときと同じポーズだとは気づきもせずに。
一時間ほどして、彼が帰ってきた。庭でがたごとと金属の音がする。エマはのろのろと外に出た。そして、驚いたように目を丸くする。彼が、巨大な赤いかなづちを振り上げていたのだ。
「エマ」
持ち上げていたかなづちを、何も生えていない地面にどすんと下ろして、彼はエマを手招きした。
「壜を横にするのを手伝ってくれ」
壜の口の方を持って、少しずつ倒した。壜が回らないように、彼が懸命に抑える。完全に倒れて、二人とも汗だくになってぜいぜいと息をしていると、彼はかなづちを持って、
「エマ、これを壊してしまおう」
と言った。エマが目を白黒させているうちに、彼はかなづちを振り上げた。
「エマも持って」
あわてて横から取っ手を握った。重みは全て彼にかかっているが、彼は納得したらしく、思い切りそれを振り下ろした。
壜は見た目に反してもろく、一度の打撃で大きく崩れた。彼は何度も何度も壜にかなづちを叩きつけた。粉々になるまで続けた。
日はまだ高かった。そのために、彼は顔を真っ赤にしてふらふらとよろけた。エマが彼を支えて、家の中まで連れて行く。居間の畳に寝かせて、台所から冷えた麦茶を持ってきた。
「ありがとう、エマ」
のどを鳴らしてそれを飲み終えた彼は、寝たままエマの長い髪を撫でた。エマはにっこり笑って彼を見下ろした。
「これで君は奴隷じゃないよ。もう君の入れ物はないから」
エマはしばらく表情もなく、動かなかった。しばらくして、ぽつぽつと涙を落とし、懸命にてのひらでそれをふくが、どうしても止まらないようだった。エマは彼の横に寝転がった。そして、いつものように、彼の腕を抱きしめ、「ありがとう」の気持ちを伝えた。
「いいんだよ」
彼が天井を見ながら笑った。
「僕は君が大好きだからね」
エマはそれを聞くと、目を閉じて彼の腕にますます強く抱きついた。彼は笑顔のまま、
「この街にいるとおかしくなりそうだ」
とつぶやいた。エマは目を開いて起き上がった。
「どこもかしこも当たり前の顔で人間をペットか物のように扱う人間だらけだ。奴隷たちには元々自分たちと同じような生活があったなんて、思いもしない。不要の人間を一掃するためにそうするしかないんだとか人生の敗北者だから仕方がないんだとか言い放つ連中もいる。僕はそれが耐えられない」
エマが彼の額に手を当て、髪の方へと滑らせる。
「エマ、僕は助けたい人が二人いる。彼女と、君だ。君はここから出たくないか? 方法があるんだ」
エマが目を輝かせる。彼の腕にもう一度抱きつこうとする。
「一人で、出て行ける?」
エマがゆっくりと体を起こした。表情が消えている。
「嫌なの?」
彼が起き上がって驚いたように尋ねると、エマの目から涙の粒が落ちた。
「泣かないで、エマ。仕方のないことなんだ。僕は彼女を買い取るまで、この街から出るわけにはいかない」
それを聞いたエマは、泣くのを止めて、にっこりと微笑んだ。彼も笑って、また畳に倒れこんだ。しばらく彼の計画を聞いて、彼がそのまま寝入ると、エマは静かに一人で泣いた。
次の日の昼に、彼はエマに手を振って、奴隷倉庫に向かった。バスを乗り継いで、通りを抜けてやっとたどり着くこの場所は、相も変わらず殺風景だ。
女たちの顔ぶれはがらりと変わっていた。それでも同じように見えるのは、女たちの表情が同じだからだろう。女たちには希望も、自由もない。
彼はため息をつきながら応接室に向かった。今日も彼女はいなかったのだ。ノックをする。返事がない。ドアを開けると、誰もいない。
近くを通りかかった業者に、男の所在を尋ねた。すると、こんな返事が返ってきた。
「あんたんとこの奴隷、大丈夫? うちの社長、商品の奴隷をものにするのが大好きなんだよ。商品価値が落ちるからと、毎回止めてるんだけどね。確か、あんたのとこの奴隷はまだ生娘だったでしょう?」
終りまで聞くこともなく、彼は走り出した。着飾った人々や鎖に繋がれた奴隷や犬の間を縫って、地面を蹴る。彼は血走った目で通りの出口に着くと、バスではなくタクシーを止めた。
「急いでください」
運転手にそう怒鳴った彼の顔は、脂汗でてらてらと光っていた。
「エマ」
家の門でそう叫んだ彼は、返事がないことにあせって、玄関を開けた。途端に力が抜けたようにひざをついた。
家の中は、家捜しをしたようにめちゃくちゃだった。居間のテーブルはひっくり返って、麦茶が畳にこぼれている。それぞれの寝室の押入れも開いて、布団が乱暴に引っ張り出されている。台所は無事だが、ここには人が隠れる場所がない。
「さらわれた?」
彼は間の抜けた声でつぶやいた。あわててエマのいる場所へ行こうとして、家の中の人の気配に気がついた。
「エマ」
中に入り、あちらこちらを探す。とは言っても、侵入者によって全ての隠れ場所を暴かれて、どこかに誰かがいるようには見えない。彼はもう一度、
「エマ」
と叫んだ。すると、がたごとと彼の部屋の天袋が鳴って、引き戸が開いた。エマはゆっくり降りてきた。押入れの段を使って、器用に。
エマは彼の元に走り寄ってきた。彼をぎゅっと抱きしめる。泣いている。声もなく。彼は長い長いため息をついて、エマを包み込む。エマは激しく泣いていた。それでも声は出なかった。
「声、出ないの?」
彼がはっとしてエマの顔を見る。エマはうなずく。
「どうして? いつから?」
エマは口をぱくぱくと開いて、また泣きだす。
「奴隷にされたときから?」
エマは何度もうなずいた。
「エマ」
彼はもう一度強くエマを抱きしめた。
「エマ」
しばらくそうしていた。エマの涙は止まらなかったし、彼もエマの存在を確認しようとするかのように手を離さなかったからだ。けれど、彼は決意したかのようにエマを離した。
「行ってくる」
玄関を飛び出すと、もうタクシーはなかった。彼は歩いた。バスを待っている余裕はなかった。ただ歩いて、汗だくで通りに着き、そこから走り出した。
奴隷倉庫の中は、さっきと変らず静かだった。奴隷の入った囲いを無視して、真っ直ぐに応接室に行く。ノックもせずに開けると、男と、机の手前に先ほどの業者がいた。男は笑っていた。
「あの奴隷はまだ生娘か? まあこういう可愛がり方をする飼い主もいるな。特殊なケースだが。それともあんたはインポテンツか?」
彼はつかつかと業者の前をすり抜け、机を回って男に近寄り、殴りかかった。男は上手くよけた。しかしすぐにもう片方の拳を振ると、男の鼻に当たった。鼻血がどっとあふれ出す。
もう一度殴ろうとすると、その手は誰かに掴まれた。業者だった。
「止めとけ」
業者はあわれむような目で彼を見ると、床に振り下ろした。彼は床に転がり、体勢を立て直すと男を睨んだ。男は鼻血を抑えながら、業者の後ろに隠れている。男は明瞭でない声で叫んだ。
「そんなに奴隷を奴隷扱いするのが嫌ならな、この街から出て行け。どうせお前の恋人も、どこかの男に買われて自由にされてるんだろうよ。あきらめろ。とっとと出て行け。そうでなければお前の奴隷を無理にでもものにしてやる。俺は捕まらないからな。何しろこの街は俺の手腕で成り立ってる。お前のようなちっぽけな存在とは違うんだ」
彼はじっとそれを聞いていたが、やがて立ち上がり、静かに部屋を出て行った。彼は女奴隷たちをもう一度見に行った。一人一人、彼を恐れた目で見る女たちを眺めているうちに、涙が筋となってこぼれてきた。
彼が帰ってくると、エマはまた彼に抱きついた。けがはないかと顔や体をあちこち触る。
「どこも痛くないよ、エマ。ありがとう」
穏やかな声で彼は言った。そして、花束を差し出した。白いマーガレット。エマはもう一度彼に抱きついた。
四
少し伸びたエマの髪を、真っ直ぐに切る。玄関は、以前のように山を作ったりしなかった。その後、彼はエマの髪を器用にまとめ、金色の髪飾りを挿した。
居間に戻ると、彼はエマの爪に除光液を塗って古いマニキュアをはがし、新しく塗った。最後に、口紅の蓋を外して、紅筆で丁寧に唇を塗った。唇がふっくらと濡れたように輝きだす。
「僕も出て行こう。君のためだ」
彼が突然言うと、エマは目をぱちくりさせた。彼は自分の部屋からスケッチブックを持ってきて、探していたはずの彼女の絵を見せて、
「もういいんだ」
と寂しげに笑った。エマが困ったように首を振る。
「いいんだよ。僕には君を守る義務がある。好きだよ、エマ」
それを聞いたエマは、ぼんやりと彼を見て、這いながら寄ってきた。そして彼の顔をてのひらで包んで、そっと、口付けをした。彼はエマの顔を間近で見ながら、ためらっていた。しかし、抱きしめて、口付けを返した。
バスに乗って、駅まで向かう。着飾ったエマは、バスの中の少女たちとなんら変わりはなかった。
「これがパスポートだ。この国で、この街でだけ必要なものなんだよ。奴隷には与えられない」
彼が渡したものは、海外渡航の際に使うパスポートによく似ていた。エマは自分の嘘の名前を見て、うなずいた。これは偽造パスポートなのだ。
「大丈夫、うまく行く」
街と同じく巨大な木造の駅の改札口で電車の券を通した後、パスポートを確認された。彼もエマも、笑っている。うまく、ただの旅行者のふりが出来た。パスポートが返されると、エマの顔が少し歪んだ。
「後は僕の街に帰るだけだ。さあ、行こう」
彼と手をつないで真っ青な電車に乗る。もう片方の手にはマーガレットの花束。並んで席に着くと、やっと安心したように二人とも息をついた。後ろに、同じく旅行者らしい二人組が椅子に座った。
「おまわりさん」
甲高い叫び声が聞こえて、彼とエマはぎょっと体を起こした。窓の外を見ると、あの花売りが二人のいる窓を指差してわめいていた。
「奴隷が電車に乗ってる。偽造パスポートだよ。早く捕まえて」
警察官はまだ来ないが、駅員が大勢ホームに現れた。電車内の客が、立ち上がったり辺りを見回したり、がやがやとしゃべりだしたりする。彼はエマの手を握ってささやいた。
「大丈夫。でもおかしいな。僕は彼女を信頼して話したのに」
彼もエマも、顔をこわばらせている。
「白いマーガレットを持ってるの。私が売ったからよく覚えてる。ねえ、早く捕まえて」
駅員が電車の中に乗ってきた。彼とエマは前を向いたままそ知らぬふりをした。すると、後ろからささやき声が聞こえた。
「心配しないで」
彼もエマも、声に反応してぴくりと肩を動かした。けれど、駅員が前から歩いてきたので振り向くことができなかった。駅員が、二人の席の隣で足を止めた。
「君が奴隷か」
駅員の声に、おびえた二人が顔を上げると、駅員はエマを見ていなかった。振り返ると、華やかな服装をした一人の女性が立ち上がって、ぺこぺこと頭を下げている。真後ろの席にいたらしく、席が空いている。
「君は手引きをしたんだな。奴隷解放運動のメンバーか」
もう一人の女性が立ち上がり、駅員を睨んだ。
「全く、馬鹿な真似をしたもんだ。早く降りなさい」
降り際に、その美しい顔立ちの奴隷がちらりと彼の方を見た。途端に彼は虚脱したように椅子に埋まった。
「大変ご迷惑をお掛けいたしました。今から電車を発進いたします」
車内アナウンスが響き、電車が動き出した。乗客はまだざわざわと騒いでいる。電車の騒音の中で、花売りが狂ったように叫んでいる。
「違う。違う。その奴隷じゃない。まだ乗ってるから捕まえて」
ホームの人々は、花売りを狂人でも見るような目つきで見ている。奴隷とその連れは、駅員にがっちりと捕まって、駆けつけた警察官に手錠をはめられた。その光景が、ゆっくりと通り過ぎていく。
彼は窓の外を見ながら震えていた。眉尻を下げたエマが彼に触れると、彼は振り返ってエマに抱きついた。
「彼女だった」
彼の声は震えていた。
「彼女が僕と君を助けてくれた」
彼は泣いていた。冷静な彼には似つかわしくないほどに。エマは彼の背中をそっと撫でながら、自身もほろりと涙を落とした。
《了》