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最も幸せな国

作者: シメサバロール
掲載日:2026/03/14

 ボブは、幸福感に包まれながら瞼を開き、目を覚ました。

 何せ、彼は幸運にも、この世で一番幸せな国の住民の一人なのだ。


 ふかふかなベッドから、柔らかいウールで仕上げられたスリッパへと足を移し、カーペットの程よい沈み込みを感じながら、彼は加熱されたバターのいい匂いに誘われるまま、ダイニングルームへと歩き始めた。


 私は、なんて幸せなんだろう。

 ボブは心底そう思った。


 テーブルには、美しい妻との愛の結晶であるかわいい子供たちが座っている。一人は男の子で、一人は女の子。二人は、仲良く一緒に絵本を読んでいた。


 「おはよう!ぱぱ!」「ぱぱおはよう!」


 「ああ、二人ともおはよう、ジェミー、ジェシー。今日もいい子だね」 


 ペットの大きなゴールデンレトリバーもボウルの前から立ち上がり、この家の主に敬意を払いに来た。その艶やかな毛並みは、どんな駿馬のたてがみにも引けを取らないだろう。

 

 「ワン!ワン!」

 

 「ジャックもおはよう」


 ダイニングルームの奥手側に、清潔なストーブの上のフライパンがまず目に入る。妻の手で巧みに調理されるべーコンは脂の甘い香りと軽快な音を放ち、絶妙の焼き具合を以て仕上げられた目玉焼きは、その卵黄を白熱電球のごとく輝かせていた。


 「おはよう、あなた。ちょっと待っててね、朝食はもうすぐだから」


 なんて美しい女神だ。そう噛み締めながら、ボブは妻の腰に優しく手を回し、彼女のこめかみにそっとキスを落とした。豊かな髪の毛から伝わる感触と、トースターから漂うカリカリを予感させる芳香に、ボブは感極まった。


 「おはよう、ハニー、いつもありがとうね。今日も世界で一番美しいよ」


 「ふふ、あなたったら」


 頬を赤らめる妻を注視する○○○は相変わらず天井にへばりついて、調子はずれの鼻歌を歌っている。


 しょうがない奴だなと、ボブは心の中で肩をすくめた。


 「さあ、出来たわよ!ジェミー、ジェシー!お絵本を片付けてちょうだい!」


 「うん!わかったよ、まま!」「はーい!」


 赤と白のチェッカー柄のテーブルクロスに包まれた食卓には、サラダ、フルーツ、牛乳や搾りたてのオレンジジュース。そして何と言っても、圧倒的な存在感を示す、まだ切り分けられていないローストビーフが、そこに堂々と鎮座している。添えられたグレイビーはホカホカとした湯気を立てて、焼きたてのベーコンと、目玉焼きと、トーストと一緒に重厚な濃霧を作り出し、摩天楼ごときローストビーフの荘厳な御姿を覆い隠そうとした。それらの料理は、いずれも瑞々しい輝きを放ち、競い合うように自身の新鮮さと旨さを誇らしげに見せびらかす。


 豪勢な朝食を前に、一家は神に誠心誠意の感謝を捧げてから、この饗宴に取り掛かった。


 「うーん、絶品!やっぱりママのローストビーフは世界一だな!」


 「ふふ、まだまだ沢山あるから、ジェミーもジェシーもいっぱい食べてね」


 「うん!ぼく、いっぱいたべるよ!」「たくさんたべるの!」


 山盛りだった料理の数々は、みるみるうちに減っていき、瞬く間にきれいさっぱり無くなった。

 食後のデザートは、みんな大好きなチョコプリン。つるっとしたプリンの頂を冠するのは、甘くも優しく光っているサクランボのシロップ漬が飾られた、角が立つホイップクリーム。そして、ボブ夫妻にはホットコーヒー、子どもたちにはイチゴたっぷりのミルクセーキ。


 コーヒーとプリンが織りなす、絶妙な苦みと円やかな甘みによる協奏曲に舌鼓を打ちながら、ボブはふっと、何かを思い出した。


 「そういえば先週、△△国で暴動が起きたじゃないか。あれ、どうなったかな?」


 「ええ、もう鎮圧されたって話よ。あんなに多くの人が亡くなるなんて、悲しいことね」


 「うーん、可哀想に」


 ーーああ、やはりこの街は、この国は最高だ。私たちはなんて幸せなんだろう。


 「ごちそうさま。今日も最高に美味しかったよ、ハニー」 


 芳醇なコーヒーを最後の一滴まで飲み干し、ボブは静かに幸福感を噛み締めた。

 そしてボブは、鮮やかな赤いネクタイをキッチリと締め付け、愛する妻と子供たちに抱擁と口づけを与えた。この最高に幸福な国を、さらなる高みへと至らせるため、健全な国民の義務たる労働が行われる場所へと赴くべく、ドアを開けて、勇ましい足取りで愛しい我が家から出た。


 ちょうど隣人たちも出勤だ。左、右、上、下、そして向こうも。みんなは一緒に、ボブと寸分違わぬ画一的な動きでドアを閉めた。

 

 「「「「やあ!おはよう!今日もいい一日だね!」」」」

 

 ボブの挨拶も、この大合唱に溶け込んで消えていった。数瞬のうち、高層ビルの谷間を彷徨うかのように、同じ挨拶があちこちからやって来た。それが自分の声の反響か、はたまた遠く離れた見知らぬ住民のものか、聞き分けることなど誰にもできない。

 これだよこれ。勤勉と秩序、それは大変素晴らしいことだ。やはり、幸福な国は、幸福な労働者の手によって作らないと。

 そう感じずにいられないボブであった。 

 

 勤労への期待感を高めつつ、通路を通り、ボブは同僚たちとともに地下鉄の車両に乗り込む。

 一人、また一人、そしてさらにもう一人。押して押されて、まるで人間ランチョンミートだ。しかし、文句を言う奴など、誰一人としていなかった。


 うなじに感じるのは、息の荒い同僚が吐き出す湿った鼻息。

 鼻先に感じるのは、汗ばむ同僚から発せられる体温。

 スーツの繊維を一本一本はっきり感じ取れるほどの密着度。 

 この圧迫感こそが、個では決して辿り着くことの叶わない境地へと人々を導き、至福の恵みを齎す秘儀。

 ーー同じだ。みんなは、みんなが、同じなのだ。

 

 夢心地のまま、ボブは同僚たちの成す波に身を任せ、ふらふらしながらも、なんとか自分の席に座り込んだ。感涙したせいか、スーツには点々と黒ずんだ跡が残っている。

 

 いかんいかん、シャキッとしないと。

 名残惜し気に、ボブは法悦の薄霧に覆われた脳ミソを奮い立たせ、数え切れないほどに繰り返された動きからくる滑らかさで、十本の指をタイプライターにそっと触れさせた。

 

 踊る、踊る、踊る。

 ボブの指が鍵盤を叩く度に、微かな擦過音と、ぬらりとした湿っぽい水音が響く。

 あちこちから立ち上がる同種の音が、消毒液のカルキ臭のように隙間なくオフィス全体を充満していく。

 カチカチカチ、ぬちゃ。カチカチカチ、ぬちゃ。 

 

 仕事に没頭している内に、あっという間に昼休みとなった。

 社員食堂へ足を運ぶまでもなく、豪華な昼食が一人一人に配膳される。


 丸ごとロブスター入りのマカロニグラタンに、チョコクリームとチョコソースたっぷりのホールケーキ。食事とともに供されるのは、文字通り浴びるほど用意された、新鮮な果物が盛りだくさんのフルーツポンチ。器に飾られたロブスターの兜は、凱旋将軍のごとき傲然たる風格で直立し、黄金色に焼き上げられたチーズの花道の真ん中で、その鮮烈に輝く赤を自慢げに誇示する。何段も重ねられたしっとりと分厚いチョコスポンジは、濃厚なクリームによって強固に結ばれて、豪壮な闘技場となって聳え立つ。ジュースに浮かぶイチゴ、マンゴー、バナナ、メロン、スイカ、キウイなどの果物の数々は、さながら浴場を悠々と漂う群衆。古の帝国の栄光が、縮図としてボブのデスクの上に再現されていた。


 毎日毎日、いつも食べている料理だが、飽きることなど、微塵も頭をよぎらない。

 全く、本物の魔法使いだな、料理人という人種は。ボブはアツアツのグラタンを頬張りながら、深く感心した。


 ゆっくりと食事を取り終え、食後のコーヒーを楽しむ。昼休みの時間は十分に長く、仕事の再開が待ち遠しく感じるほどだ。

 やがて、タイピングの音が再びオフィスに満ち始める。

 仕事に精を出すボブの耳に、突如として落ち着きのない、不作法な騒音が飛び込んできた。

 音の大きさからして、元凶はボブのキュービクルにかなり近い。

 この素晴らしい職場環境にふさわしくない不協和音に、ボブは思わず眉をひそめたが、鍵盤から指を離すことだけは決してなかった。

 くぐもった叫び声のようなそれが、何かがガンガンガンとデスクに力強く打ち付けられる音とともに、心地のいい静寂を引き破っていく。


 ガンガンガン。

 雑音は、中々止まない。

 それでもボブは無心で仕事に取り組む、取り組もうとする。


 カンカン。カンカンカン。

 しかし、寸分の狂いもなかったボブの打鍵も、徐々にずれ始めた。

 

 カンコンガン。グチャ。

 黙れ。

 

 ピチャ。ガン。ペチャ。ゴン

 静かにしろ。

 

 ゴン!ゴン!グチャ!ゴン!ゴン!

 静かにしろ。

 静かにしてくれ。


 グチャ!ゴチャ!!ガンゴン!!グチャグチャグチャグチャ!!

 誰でもいいから!!

 頼む!!

 静かに!!

 させろ!!!

 アレを!!アレヲ!!!!

 アレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲアレヲーーーーあっ。 


 ○○○だ。

 天井から降ってきた○○○が、ずるりとボブの鼻孔に入り込んだ。

 チクリと鼻腔の奥深くに刺激が走る。

 その後、ぶわぁと溢れ出した清涼感が、ボブの意識を優しく包み込んだ。


 ……私は……一体、何を?


 ふとボブは、下唇に鋭い痛みを感じ、思わず指を当てた。

 鉄の匂いを放つそれは、生温かく、ぬるっとしていた。

 俯くと、真っ白だったシャツが巨大な赤色の染めに蹂躙されている。

 

 まあいい。とりあえずは仕事だ。

 ボブはそれらの些事を頭の外へと追いやり、言いようのない一体感に身を任せ、周囲の打鍵音と合流した。


 程なくして、退勤の時間がやってきた。

 さあボブ、帰りましょう。

 愛しい我が家へ。

 

 扉を開くと、美しい妻が、いつものように温かくボブを迎えた。

 かわいいかわいい子供たちは、リビングで仲良く絵本を読んでいた。


 「おかえりなさい、あなた。ちょっと待っててね、夕食はもうすぐだから」


 「ただいま、ハニー。いつもありがとうね、愛してるよ」


 「ふふ、あなたったら。わたしも愛してるわ」

 

 夕食後の長いシャワーを終えたボブは、先ほど口にしたローストビーフとベーコンの滋味を思い返しながら、心地よい眠気に身を任せ、ふかふかなベッドに潜り込んだ。

 

 明日も、明後日も、明々後日も、その後も。きっと、変わらない、いや、もっともっともっと幸福な日々が待っているでしょう。


 ーーああ、なんたるこううん。ああ、なんたるこうふく。

 

 ボブは、幸福感に包まれながら瞼を閉じ、深い深い眠りへと落ちていった。


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