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第八話 忘却は優しさ




三日、雨が続いた。


街道が泥になった。靴の底に重さが乗った。エウフェミアは文句を言わなかった。こちらも言わなかった。ただ歩いた。


二日目の夜、宿が取れなかった。廃屋の軒下で夜を明かした。エウフェミアが先に壁に背を預けて目を閉じた。少し間があってから、こちらも同じ壁に背を預けた。


距離は、手を伸ばせば届くくらいだった。


何も言わなかった。何も起きなかった。ただ、雨の音が続いた。


三日目の朝、雨が止んだ。


空気が軽くなった。草の匂いが戻ってきた。泥が固まり始め、足元が少し歩きやすくなった。


エウフェミアが空を見上げた。雲が薄くなっている。青が見え始めていた。


「晴れるな」


エウフェミアが言った。独り言のようだった。


『ああ』


エウフェミアは少し口角が動いた。笑ったのかもしれなかった。笑いにならなかったのかもしれなかった。どちらでもよかった。


しばらく歩いた。草原が続いていた。遠くに廃村の跡のようなものが見えた。近づくにつれて、空気が変わった。


色が、抜けていた。


草も瓦礫も、近づくほど白くなっていた。輪郭が曖昧になっていた。霧ではなかった。別の何かだった。


エウフェミアが立ち止まった。剣に手をかけた。抜かなかった。


一歩踏み出すたびに、頭の後ろが鈍く痛む。



「久しぶりだろう」


声が来た。どこからか、わからない。遠い。近い。どちらとも言えなかった。


過去の記憶を確かめようとした。


出てこなかった。


いつもそこにあるはずのものだった。助けた誰かの声。あの時の空の色。手を伸ばしても、何もない場所に触れるような感覚があった。指先が冷えた。


霞のような気配が見えた。人の形をしていた。見ようとするほど、薄くなった。



エウフェミアが踏み込んだ。剣が空を切った。霞のようにずれた。


重力を展開した。だが形が定まらなかった。触れた瞬間に薄くなった。掴めなかった。


その気配が、ゆっくりと近づいてきた。


「私はLethe」


名乗り以外、何も言わなかった。


また記憶を引っ張り出そうとした。


砂漠の街だった。子供が泣いていた。水がなかった。子供の顔は出てこない。泣き声だけが、まだある。


大きな広場の記憶が浮かんだ。英雄と呼ばれた。神の使いと呼ばれた。声も顔も出てこない。ただ、何万もの期待を一身に受けた、あの息が詰まる感触だけが残っている。救われたと泣く顔があった。名前を呼ぶ声があった。それが重かった。それでも、捨てられなかった。


もっと小さな場所の記憶が浮かんだ。英雄でも神でもない、ただの誰かとして誰かの隣にいた。笑っていた。穏やかだった。その温度だけが、まだある。


記憶が剥がれていく。石畳の目地から砂が抜けていくように、一枚一枚、静かに。


Letheが近づくたびに、色が抜けた。砂漠の泣き声が遠くなった。橙色が薄くなった。橋の上の感触が、霞んだ。


引き止めようとした。だが手がない。形がない。触れるものが何もなかった。ただ、薄くなっていく。


それでも残っているものがある。顔のない記憶ばかりだった。それでも、確かにそこに誰かがいたという感触は消えない。それがある限り、動ける。


答えなかった。


楽になりたいとは思わなかった。その感覚だけは、Letheに触れても消えなかった。



そこで、Letheの気配が変わった。


エウフェミアへ向いた。


エウフェミアの足が止まった。


Letheは何も言わなかった。ただ、エウフェミアの周囲の色が抜けていった。草の緑が白くなった。石の灰色が溶けていった。


エウフェミアの過去が、そこに浮かんでいるように見えた。慈愛の象徴と呼ばれた記憶。縋る手があった。祈る声があった。それを受け続けた重さ。近づくたびに、失われていく。


エウフェミアの手が、わずかに震えた。


Letheの声が、初めて届いた。


「お前の中では」


エウフェミアの目が伏せた。唇が少し動いた。言えなかった。


奥歯が、軋んだ。


あの顔を、このまま終わらせてたまるか。エウフェミアのためだと認めたくなかった。だが、そうとしか言えなかった。胸の奥から熱くなった。怒りより静かで、深かった。


気づいたら歯を食いしばっていた。


「エウフェミア」


声が出ていた。気づいたのは、呼んだ後だった。



エウフェミアが顔を上げた。目が合った。


何も言わなかった。言葉はいらなかった。


「忘却は——」


「優しさ、だろう」


エウフェミアが静かに言った。


「知っている」


長い沈黙があった。


「——お前たちの中には、何がある」


Letheの気配が遠ざかっていった。抗わなかった。引いていった。だがその時、奪われた記憶が一瞬だけ見えた。顔のない誰か。声のない笑い。消えた神殿の残像。全部、Letheが連れていった。それでも、何かが残っていた。


消えた。



静かになった。


頭の中を確かめた。消えた記憶は戻らなかった。砂漠の泣き声は残っている。橙色は残っている。橋の感触は残っている。それでよかった。


エウフェミアが壁の前に来た。


座った。膝を抱えた。こちらを見ない。前を見ている。


何も言わなかった。ただ、隣にいた。


風が来た。色のある風だった。


エウフェミアの肩が、少しだけ下がった。目を閉じた。だが、さっきとは違う顔をしていた。



忘却は、優しさだった。


それでも、記憶を手放さなかった。


隣に、誰かがいた。ただ膝を抱えて、同じ方向を見ていた。


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