第七話 風が刃になる日
街道を外れた。
地図はない。方角だけで歩いている。三日、人に会っていない。食料も水も、まだある。
草原が続いている。地平線まで同じ景色だった。変わるものがない。空の色だけが、朝は白く、昼は青く、夕暮れは橙になっていく。
エウフェミアが口を開いた。
「この辺りは、昔は何かあったのか」
わからない、と言おうとした。だが足元の土を見た。少し締まっている。人が踏み固めた跡に似ていた。
『何かはあったと思う』
エウフェミアは頷いた。
二人とも、続きを言わなかった。草を踏む音だけが続いた。
その夜、乾いた土の上で野営した。燃やすものが少なく、焚き火は小さかった。
エウフェミアが空を見ていた。星が出ていた。雲も風もない、静かな夜だった。
「眠れるのか」
エウフェミアが言った。こちらを見ていなかった。空に向けたまま言った。
少し間を置いた。
『眠れる。お前は』
エウフェミアは少し考えてから答えた。
「……最近は」
続きはなかった。
夜明け前、体の奥底に何かが沈む感触で目が覚めた。澱のように重い。
気配があった。草原の向こうから来ている。一体ではない。
起き上がった。エウフェミアもすでに剣に手をかけていた。目が合った。お互い、何も言わなかった。
動いた。
重力を展開した。二体の足元が沈む。踏み込んで胸郭を叩く。骨が砕ける感触が拳に伝わる。崩れた。
残り三体。その間にも、死んだ自分が見えた。今日で何度目かわからない。
エウフェミアが二体を抑えている。剣が光る。一体が膝をつく。
最後の一体を収束点に引き込んだ。バキバキと音が鳴る。本来あり得ない方向へ折れ曲がっていく。静かに、潰れる。
終わった。
息を整えた。
脇腹がじわりと熱い。いつ裂かれたか、わからなかった。塞がるのを待った。
エウフェミアが近づいてくる。こちらを一度見た。何も言わない。
街道を歩き始める。ついていった。
街に入った。次の目的地ではない。ただ近くにあった。
物資を補充した。水と食料と包帯。それから宿を取った。
エウフェミアは宿に戻るなり、椅子に座って目を閉じた。眠っているのか考えているのかわからなかった。こちらは窓際に立って外を眺めた。
街は普通だった。人が歩いている。子供が走っている。夕暮れが石畳を橙に染めていた。
だが神殿が気になった。街の端にある。今まで見てきたものと様式が違う。もっと古く、汚れた土地の匂いがした。
エウフェミアが目を開いた。
「外か」
頷いた。
エウフェミアが立ち上がった。何も言わずに剣を手に取った。
二人で外へ出た。夕暮れの中、神殿の方向から風が来た。風の中に、何かが混ざっていた。
街の外れで、気配があった。
十五体以上。複数の方向から来ている。街の端に古い神殿の跡がある。別の様式だった。汚れた土地だ。
逃げるには遅かった。
風が鳴った。
エウフェミアが無言で剣を抜いた。
『引き受ける』
体の奥底で、何かが沈んだ気がした。
動いた。
骨格を強化する。神経を同期させる。視界が鮮明になった。
先頭の三体。重力を二点に集中させ、互いに引き寄せる。激突する音がする。骨が折れる音が重なった。二体が崩れる。残りの一体が怯んだ隙に踏み込む。胸郭を叩く。陥没する感触があった。手の骨まで震えた。
残りの異形が密集していた。石畳に重力をかけると亀裂が走り、破片が散った。数体が体勢を崩す。
その隙に収束点を複数作った。
バキバキと音が鳴り続ける。関節が本来あり得ない方向へ折れ曲がっていく。皮膚が最後まで残った。静かに、潰れていく。
エウフェミアが左側を抑えている。視線が一瞬交わった。それで足りた。重力で右側の二体を壁へ叩きつける。エウフェミアの剣が動く。音がする。声はない。
数が減っていく。こちらも磨り減っていく。
残りが二体になった頃だった。
一体が、動きが違った。速い。重さも違う。他とは格が違った。
踏み込んできた。重力で押さえる。だが止まらない。腕で受けた。
よりによって、その瞬間に来た。
内側から崩れた。体の奥底が、音もなく沈んだ。
脇腹が裂けた。熱い。肋骨の間から滲み出す。血の味が口に広がる。一瞬、呼吸が止まった。
膝が折れかけた。歯の隙間から吐き出した。
もう一発来た。間に合わなかった。
エウフェミアが割り込んだ。剣で弾く。
そこだった。
エウフェミアの体から緑の光が滲んだ。一瞬だけ。本人は気づいていない。光がこちらへ向かった。
見ていた。
臓腑が裏返った。
肺が内側から押し潰される感触があった。空気が入らない。膝をつく。石畳に両手をついた。視界が歪む。胃の中身が上がってくる。堪えた。
少しの間、動けなかった。
血が石畳に落ちる。手に力を入れた。立ち上がった。
もう一体はエウフェミアが仕留めていた。
静かになった。
塞がっていく。今日は遅い。随分と。
エウフェミアが立っている。数歩の距離。こちらを見ている。剣を下げたまま動かない。
目が合った。
いつもの無表情ではなかった。計算しているような顔だった。確かめているような。
何も言わなかった。エウフェミアも、何も言わなかった。
夜、宿に戻った。
食事の間、エウフェミアはずっと黙っていた。何かを考えていた。
食事が終わった。エウフェミアが口を開きかけた。閉じた。また開きかけた。閉じた。
しばらくして、視線がこちらへ向いた。
「私が庇った後、お前の……」
止まった。
風が鳴った。
答えなかった。
エウフェミアの視線が、また窓の外へ戻った。唇が少し動いた。続きは来なかった。窓の外で風がまだ鳴っていた。今日、何度も聞いた音だった。戦闘の中でも、ずっと鳴っていた。
風が、刃になった日だった。
彼女の唇が、まだ少し動いていた。言葉にならないまま、夜が過ぎた。




