第六話 苦しみは鏡に似ている
街道が続いていた。
どこへ向かうかは決めていない。いつもそうだった。向かった先に何かあれば、そこにいればいい。何もなければ、また歩く。
エウフェミアは少し前を歩いている。歩幅が広い。追いつこうとしているわけではないが、気づけばいつも同じ距離を保っていた。
昨日、小さな村を通った。子供が走り回っている。老人が井戸の横に座っていた。何もない村だった。何も起きなかった。ただ通り過ぎた。
エウフェミアは村を出る時、一度だけ振り返った。何を見ていたのか、わからなかった。
聞かなかった。
霧が出た。
朝から低く、街道を飲み込んでいた。十歩先が見えない。草の輪郭が滲み、木々が灰色の壁になる。
エウフェミアが少し距離を詰めた。いつもより近い。何も言わなかった。
足元だけを見て歩いた。しばらくは何もなかった。ただの霧だ、と思っていた。
気配に気づいたのは、エウフェミアが先だった。
立ち止まった。剣に手をかける。
霧の中に、何かがいた。
輪郭が見えた。人の形をしている。だが重さが違った。近づくほど、息が少し詰まる。空気が重くなる。肺に入る量が変わらないのに、足りない気がした。
霧が動いた。
姿が見えた。
止まった。
自分の姿だった。背丈も、肩幅も、立ち方も同じだった。ただ目が違った。こちらを見ていない。どこも見ていない。あるいは、内側だけを見ていた。
「私はOizys」
間があった。
「苦悩そのものだ。お前の中にある、答えの出ない問いが——私を呼んだ」
脅しではなかった。説明だった。まるで当然のことを告げるような声だった。それが、余計に堪えた。
「お前が動くたびに、何かが失われる」
声も同じだった。
「止まれば楽になる」
頭の奥が軋んだ。死の映像が流れ込む。押さえた。
「痛みは続く。救っても、消耗するだけだ」
わかっていた。
だから何だ、という感覚があった。言葉にならなかった。ただ、足が動いた。
骨格を強化する。神経を同期させる。霧の中でも視界が鮮明になった。
Oizysが動いた。距離を詰めてくる。速くはないが、圧があった。近づくほど、霧が濃くなった。Oizysを中心に、空気が歪んでいる。足元の草が倒れていく。押しつぶされるように。
接触しなかった。
近づいてくる。だが触れない。触れようとしていない。ただ、そこに在るだけで何かが滲み出してくる感触があった。痛みではない。疲弊に似た何かだった。奥歯の感覚が薄くなった。指先が、重くなった。
おかしい、と思った。
距離が詰まっている。なのに何もしてこない。攻撃の気配がない。構えもない。ただ歩いてくる。それが余計に気持ち悪かった。戦い慣れた体が、次の動きを読もうとする。来ない。また来ない。何も来ない。
重力を展開した。Oizysの足元が沈む。石が割れる。泥が跳ねる。霧が一瞬だけ晴れた。それでも動きが鈍るだけで、止まらない。
その隙に踏み込んだ。拳を入れる。手応えがあった。だが深くない。霧のようにずれた。
Oizysは反撃しなかった。ただ、こちらを見ていた。
「擦り切れた先に、何がある」
声が耳の横から来た。
体が反応した。半歩ずれた。Oizysは何もしていなかった。ただ、そちらへ向いた。それだけで、体が動いた。近づかせてはいけない、という感覚だけがあった。
「誰かが助かっても、お前は残らない。名前も残らない。覚えている者もいない」
知っている。
だから何だ。
それでも、何かが胸の奥で引っかかっていた。
助けた者の顔は出てこない。声も出てこない。残っているのは感触だけだ。誰かがそこにいたという感触。それが積み重なっている。それが何になるのか、わからない。わからないまま、動いてきた。
重力を収束させた。一点に極限まで集中させる。石畳が割れた。霧が吹き飛んだ。一瞬だけ、視界が開いた。
Oizysの右腕がバキバキと音を立てた。本来あり得ない方向へ折れ曲がった。皮膚が最後まで残った。静かで、残酷だった。
だがOizysは痛がらなかった。声も出さなかった。ただ、こちらを見ていた。折れた腕のまま、立っていた。
「苦しいだろう」
声の方向が変わった。
「ずっと、苦しかっただろう」
足が、一瞬止まりかけた。
止まらなかった。
「救われない者を救い続けて、摩耗して、それでも止まれない。なぜだ」
答えが出なかった。
なぜだ、と自分でも思う。止まれば楽になる。それはわかっている。痛みが来なくなる。誰かを失わなくて済む。それでも足が動く。意志なのか、それとも転生を重ねた体が覚えてしまったのか。もうわからなかった。
ただ、止まる理由もなかった。それだけは、はっきりしていた。
出なくていい、と思った。そういう問いを抱えたまま歩いてきた。ずっと、そうだった。
横でエウフェミアが動いた。
Oizysに踏み込む。剣が光る。エンチャントが炸裂する。Oizysが大きく後退する。
エウフェミアが一瞬、動きを止めた。剣を構えたまま、Oizysを見ていた。
「……来ない」
独り言だった。確認するような声だった。こちらも同じことを考えていた。あれだけ近づいても、言葉しか来ない。それが一番、厄介だった。
Oizysがエウフェミアを見た。
「お前も、同じだ」
エウフェミアの手が、一瞬止まった。
「助けようとするたびに、誰かが死ぬ。近づくたびに、壊れる。それでも止まれない」
剣を構えたまま、動かなかった。
「苦しいだろう」
エウフェミアの肩が、わずかに下がった。
そこへ重力を展開した。Oizysの足元を沈める。エウフェミアが瞬時に踏み込んだ。結界を展開する。Oizysを内側から押さえ込む。動けない。
「終わりにしよう」
エウフェミアが静かに言った。
剣がOizysの胸へ入った。
Oizysは動かなかった。抵抗しなかった。ただ、剣を受けたまま立っていた。
輪郭が、ゆっくりと崩れ始めた。
「……そうか」
声が変わった。今までとは違った。疲れた声だった。自分の声ではなく、もっと遠い何かの声だった。Oizysの声ではない、という感じがした。
「お前たちも、止まれないのか」
笑っていた。嘲りではなかった。哀れみでもなかった。ただ、知っていたと言うような笑い方だった。最初から知っていた、という顔だった。
霧の中に溶けた。音もなく、静かに。
最後まで、攻撃はしなかった。
霧が少し薄くなった気がした。
息を整えた。肩が重い。内側にまだ何かが残っている。Oizysの声が通り過ぎた場所だ。触れてはいない。それでも、何かが残っていた。痛みではない。澱のようなものだ。まだ、そこに在る。
エウフェミアが立っていた。剣を下げていた。こちらを見ていた。
目が合った。
何も言わなかった。
エウフェミアの目に、見覚えのあるものがあった。疲弊ではない。諦めでもない。それでも止まれない、という色だった。
エウフェミアが先に目を逸らした。
それで、十分だった。
しばらく、その場に立っていた。
霧がゆっくりと薄くなっていく。草の輪郭が戻ってくる。木々の色が戻ってくる。街道が見え始めた。
歩き出した。エウフェミアがついてくる。二人とも、何も言わなかった。
夜、宿を取った。
食事が終わった後、しばらく沈黙があった。エウフェミアが窓の外を見たまま、口を開いた。
「転生を、長く繰り返しているのか」
少し間を置いた。
『お前は』
エウフェミアが窓の外を見た。
「……長い」
続きはなかった。それでよかった。
苦しみは、鏡に似ていた。
映った先に、同じ顔があった。同じ目をしていた。




