第五話 彼女は知らない
前の街を出て、二日が経った。
次の目的地はない。地図を持っているが、この先の道は細くなっていた。人が少ない。神殿も少ない。それでも歩く。向かった先に何かあれば、そこにいればいい。
エウフェミアは少し前を歩いている。昨日も今日も、同じ歩幅で同じ速度で歩いている。疲れているのかどうか、表情ではわからない。
昨夜、宿がなかった。草原の端で焚き火をして夜を明かした。エウフェミアは何も言わなかった。こちらも言わなかった。焚き火が小さくなる頃、エウフェミアは目を閉じた。寝ているのか考えているのか、わからなかった。
朝、霜が降りていた。エウフェミアが先に起きて荷物をまとめていた。それだけだった。
土が、違った。
草原が続いている。雲が低い。風が少し強い。だが足の裏から伝わってくるものが、昨日までの道と違った。
エウフェミアが足元を一度だけ見た。何も言わなかった。
神殿の残骸か、砦の跡か。石積みが崩れていた。供物台らしい石が、半分土に埋まっている。信仰も、記憶も、もう残っていない土地だった。
足が止まった。
石積みをもう一度見た。形が違う。今まで見てきた神殿とは、どこかが違う。柱の間隔か、供物台の向きか。うまく言葉にならなかった。ただ、違う。
こういう場所には、異形が湧く。
しばらく歩いた。
エウフェミアが口を開いた。
「あの神官の話。信じたのか」
少し間を置いた。
『お前は』
エウフェミアがしばらく黙った。草を踏む音だけが続いた。
「……昔から、知っていた気がする」
続きはなかった。二人とも何も言わなかった。
ただ歩いた。しばらく、そのまま歩いた。
丘を越えたところで、集落が見えた。煙が上がっている。人の声もする。普通の集落に見えた。
だが、足元の空気が変わった。
気配があった。集落の方向から来ている。
七体。大きくはない。骨と肉が歪に組み合わさった、よく見る類だ。ただ動きが少し違った。眼窩に光がない。こちらを見ていない。ただ、前へ進んでいる。
エウフェミアがすでに動いていた。
『三体』
エウフェミアが一瞬こちらを見た。頷く。
残りを引き受けた。
骨格を強化する。神経を同期させる。視界が鮮明になった。動く前に、次が見えた。
先頭の一体へ向かった。拳に重さが乗る。胸郭を叩く。骨が軋んだ。手の骨まで震えた。奥歯が噛み合った。
それでも、止まらなかった。崩れた。
残り二体。距離があった。
少し、止まった。空間を読んだ。
二点に重力を集中させる。光も炎も出ない。ただ、空気が沈んだ。二体の動きが止まった。潰れるように膝をつく。その頭部を順に叩き潰した。
数が減っていく。
そこで気づいた。
集落の端に、子供がいた。逃げ遅れたのか、物陰に隠れていたのか。蹲って動けない。異形の一体がそちらへ向かっていた。空気が歪んでいた。その一体だけ、周囲の色が違って見えた。
「右」
エウフェミアの声だった。
動いた。残りの一体を重力で押さえる。その間にエウフェミアが子供の前に立ち、両腕を広げた。結界を展開した。異形の魔術がそこへぶつかった。弾けた。子供は無事だった。
その瞬間だった。
エウフェミアの体から、薄く緑の光が滲んだ。一瞬だけ。エウフェミアは気づいていなかった。
半歩後ろで、足が止まった。
息が詰まった。
内側から何かが来た。臓腑が、一瞬だけ裏返るような感触だった。吐き気ではない。痛みでもない。
指先の感覚がなくなった。一瞬だけ。
もっと根本的な何かが、ずれた。痛みとも違う。名前がつかなかった。
何かが、内側で動いた。
一拍おいて、また動いた。
残りの異形を片付けた。
集落の人間が出てきた。子供が母親に抱きかかえられる。誰かが礼を言う。エウフェミアは何も言わなかった。すでに歩き始めていた。
ついていった。
汚れた土地を抜けると、風が変わった。少し軽くなった。だが何かが、まだ胸の中に残っていた。
夜、宿を取った。
食事を終えて、部屋に戻った。
エウフェミアが口を開いた。
「また痛むのか」
答えなかった。
エウフェミアはしばらくこちらを見ていた。それから目を伏せた。
窓の外で風が鳴っていた。
エウフェミアは目を閉じた。今日、子供を庇った瞬間のことを考えていたかもしれなかった。考えていなかったかもしれなかった。わからなかった。ただ、呼吸が少し深くなった。
彼女は、知らなかった。
緑の光が何を意味するのか。あの瞬間、何が起きたのか。
それでも、眠った。静かに、深く。




