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第三話 破滅は笑わない



次の街に着いたのは、昼過ぎだった。


石造りの建物が並んでいる。広場がある。神殿がある。どこの街も大体そうだった。


だが神殿の扉が閉まっていた。石段に雑草が生えている。供物台は空のまま放置されていた。広場を行き交う人間は神殿の前を素通りしていく。誰も立ち止まらない。神官の姿もない。


エウフェミアが神殿を一瞥した。何も言わなかった。


宿を取った。



数日が経った。


魔力の回復を確かめた。骨格強化の出力が上がっていた。まだ本調子ではないが、先週より動ける。


エウフェミアは毎朝早く出て、夕方に戻った。どこへ行くのか聞かなかった。聞く必要もなかった。


夜、彼女は剣に何かを施していた。指先が刃の上を滑るたびに、微かに光が走る。昨日より丁寧に、時間をかけていた。



それは夕方に起きた。


最初は遠くで声がした。複数の悲鳴が重なり、すぐに広場まで届いてきた。


窓から見ると、人が走っていた。転ぶ者もいた。子供を抱えた女が路地へ消えた。


広場の石畳が割れた。下から何かが這い出てくる。二本足で立ち上がった。人の形をしているが、人ではない。皮膚がない。骨と肉だけが歪に組み合わさっている。


一体ではなかった。路地の角から、屋根の上から、次々と現れた。


街の人間が神殿へ向かって走った。閉まっていた扉を叩いた。


「神よ、お救いください」


誰かが叫んだ。それが広がった。


外へ出た。



エウフェミアはすでに広場にいた。


剣を逆手に持ち、三体を同時に相手にしている。刃が光るたびに、異形の動きが歪んだ。一体が崩れ落ちた。


残り二体へ向かった。


頭の奥が一瞬、軋んだ。爪が胸を貫く映像が過る。体が無意識に左へ傾き、爪を避けつつ骨格強化の拳で胸郭を叩きつけた。異形が後退する。


もう一体が背後から来た。


間に合わなかった。


爪が左肩を裂いた。構わず重力を足元に集中させた。石畳が沈み、異形がつんのめる。その頭部を踏みつけた。動かなくなった。


肩から血が出ている。深くはない。身体が知っていた。後で来る。


広場の端で、逃げ遅れた老人が転んでいた。


エウフェミアが動いた。老人を庇うように立ち、迫る異形を剣で受けた。


その瞬間、老人が呻いた。転んだ拍子に手をついたのか、指が曲がっていた。おかしな方向に。


異形の仕業ではなかった。


エウフェミアはそれを見なかった。見ていたが、見ていなかった。


剣の柄を、少し強く握った。


何かが、胸の奥で引っかかった。名前のつかない感覚だった。



異形の数が減った頃、広場の中央に人影が現れた。


白銀の髪。年代のわからない衣をまとっている。顔立ちは整っていた。整いすぎていた。笑っていた。最初から笑っていた。


裾が地面に触れていない。浮いているわけではない。ただ、触れていない。


影が、おかしかった。光源とは逆の方向に伸びていた。


目が合った。一瞬、何を考えていたかわからなくなった。頭の中で何かが滲んだ。諦めに似た感覚だった。


息が、一拍遅れた。


女に見えた。だが声を聞いた瞬間、わからなくなった。


「皆さん、ご安心を」


よく通る声だった。広場全体に届いた。


「私はAte。神に仕える者です。皆さんの祈りが、私を呼びました」


神殿の扉を叩いていた人間たちが振り返った。Ateを見た。その顔に、安堵が広がった。


Ateが異形へ向かった。


その動線上に、逃げ遅れた老人がいた。


Ateは避けなかった。見ていなかった。老人など、そこにいないように歩いた。


エウフェミアが動いた。老人の前に立ち、Ateを遮った。


Ateが止まった。笑顔のまま、エウフェミアを見た。


「信仰なき者を、庇うのですか」


エウフェミアは答えなかった。剣を構えた。


「面白い。あなた方は、神に愛された方々ですね」


愛された、という言葉が広場に広がった。街の人間たちが二人を見た。



Ateが向かってきた。理由は説明しなかった。ただ来た。


エウフェミアが先に動いた。


剣がAteの衣を裂いた。刃が光った。だが傷がない。衣だけが揺れた。


Ateが笑った。


「痛みはわかりますよ。ただ、効かないだけです」


Ateの手が伸びた。エウフェミアが後退する。


横から割り込んだ。骨格強化した腕でAteの手を受け止める。冷たかった。骨まで冷えた。


頭の奥が軋んだ。首が折れる映像が過る。


体が先に動いた。


Ateの指が耳の横をかすめた。


地面の重力を極限まで高めた。石畳が割れ、Ateの足元が沈む。その隙にエウフェミアが踏み込んだ。剣がAteの胸へ入った。


傷はなかった。だが止まった。


頭の奥がまた軋む。腹を貫かれる映像。右へ半歩ずれた。Ateの手が空を切る。


エウフェミアが三連撃を叩き込んだ。Ateが後退する。


エウフェミアの腕に傷が走った。Ateの指が掠めていた。


一瞬だけ見た。傷が、薄くなっていた。


気のせいかもしれない。見間違いかもしれない。



Ateが止まった。


二人を見ている。笑顔のまま。ずっと笑顔のまま。


やがて広場を見渡した。街の人間たちが膝をついていた。さっきまで神殿を素通りしていた人間が、地面に額をつけて祈っていた。神官が扉を開けて出てきた。Ateに深く頭を下げた。


Ateが小さく息をついた。


「今日はここまでにしましょう」


Ateが両手を広げた。光が走った。残っていた異形が一斉に崩れた。


街の人間たちが息を呑んだ。誰かが膝をついた。


笑顔のまま、輪郭が薄れた。消えた。



広場に静寂が戻った。


神官が神殿の扉を開けて出てきた。二人を見た。それから素早く目を逸らした。


「あなた方は……神に愛された、とあの方は言いましたね」


声が微かに震えていた。


「信仰なき者はいずれ裁かれる。それが道理です。あなた方がいると……その、神の御心が乱れる」


言葉が途切れた。理屈になっていなかった。神官自身もわかっているようだった。


「出ていってください」


街の人間たちが頷いた。さっきまで神殿の扉を叩いていた人間が頷いた。さっきまで助けを求めていた人間が頷いた。


異形に追われて転んだ者が頷いた。子供を抱えて路地へ逃げた女が頷いた。指が折れた老人の隣に立っていた男が頷いた。誰一人として顔を上げなかった。顔を上げる必要がなかった。正しいことをしているから。神が見ているから。さっきまで誰も信じていなかった神が、今この瞬間だけ全員の口から出てきた。


広場の端で、あの老人が立っていた。目が合った。老人はこちらを一瞬見た。それから、ゆっくりと目を伏せた。


それだけだった。それだけで、十分だった。


エウフェミアが一度だけ神官を見た。それから前を向いた。


何も言わなかった。



宿に戻り、荷物をまとめた。


街を出る時、神殿の鐘が鳴った。


振り返らなかった。だが聞こえた。一つ、また一つ。やがて複数の声が重なり、祈りの言葉になった。


さっきまで誰も寄りつかなかった神殿から。


その時、代償が来た。


左肩が裂けた。異形に裂かれた場所だ。塞がった。だが今回の方が、前より痛かった。


声を殺した。壁に手をついた。指先が石の冷たさを拾った。それだけが、今確かなものだった。


エウフェミアは見ていなかった。だが、半歩先で足が止まった。すぐに動いた。何も言わなかった。


街を出た。夕暮れだった。



しばらく歩いた。


『慣れているのか』


エウフェミアは少し間を置いてから答えた。


「慣れるものではない」


それだけだった。


エウフェミアが前を向いたまま、独り言のように言った。


「昔も、こうだった」


何も聞かなかった。


エウフェミアも続きを言わなかった。


風が吹いた。夕暮れの中、二つの影が伸びた。同じ方向に。


ただ歩いた。



破滅は、笑わなかった。


ただ笑顔が、張り付いていただけだった。


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