第二話 不幸の隣
町を出た。理由はない。ただあの神殿の粟立ちがまだ消えていなかった。
街道を外れ、森の縁を歩く。地図はない。どこへ向かうかも決めていない。向かった先に何かあれば、そこにいればいい。何もなければ、また歩く。何度転生しても、そうやって動いてきた。
半日ほど歩いたところで、煙が見えた。
炎の煙ではない。くすぶっている。何かが燃えた後だ。
足が向いた。
廃村だった。
いや、廃村ではなかった。数時間前までは人が住んでいたはずだ。井戸の横に洗いかけの布が落ちている。かまどにはまだ火の気が残っていた。
だが人がいない。
正確には、生きている人間がいない。
広場の中央に三人の男が倒れていた。武装していた。傭兵か使役の者か。どちらにせよもう動かない。傷は深い。一撃で仕留められている。
手練れの仕事だ。
村の外れで、また剣の音がした。
黒髪の女が戦っていた。
長身だった。髪が動くたびに、耳の輪郭が見えた。人間のものより、少し長い。剣を逆手に持ち、二人の男を同時に相手にしている。動きに無駄がない。踏み込みが速く、剣筋が読めない。
刃が男の剣を受けた瞬間、微かに光った。金属が当たる音ではない。男の剣腕が不自然に流れた。
見たことのない動きだった。武器に何かある。それだけわかった。
考える間もなく、状況が動いた。
だが女の横に、村人らしき男が立っていた。逃げずに残っていた。女を守ろうとしているのか、あるいは動けないのか。
敵の一人が村人へ向かった。女がそちらへ動く。その隙にもう一人が女の背後へ回った。
女は気づいていた。だが村人を優先した。
背後からの刃が、女の肩を浅く裂いた。
同じ瞬間、村人が崩れ落ちた。
敵の攻撃ではない。村人の肩から血が滲んでいた。何も当たっていないのに、女が受けたのと同じ場所が裂けていた。
女が振り返る。村人を見る。その顔に、言葉にならない何かが浮かんだ。驚きではなかった。悲しみでもなかった。
また、という顔だった。
残った敵二人へ向かった。
一人の剣を重力で足元へ引いて体勢を崩し、もう一人の踏み込みを骨格強化した腕で受け止めて弾いた。二人が距離を取る。
頭の奥が軋んだ——予見だ。
現実ではない。これから起きる可能性の光景が流れ込んでくる。脇腹に刃が入っている。倒れている。痛みがある。
光景が消えた。
体が動いていた。右へ半歩ずれ、刃をかわしながら男の首筋へ肘を当てた。男が倒れる。残った一人は、それを見て走った。
足音が遠ざかる。追わなかった。
女が立っていた。剣を下げ、こちらを見ている。瞳の色が薄かった。光の加減か、あるいはそういう生まれか。視線が動かない。感情が読みにくい。
『生きているか』
村人へ向けて言った。村人は呻き、ゆっくりと起き上がった。肩を押さえている。深くはないが、血が出ていた。
女はそれを確認してから、また視線をこちらへ戻した。
「あなたは」
『通りがかりだ』
「そう」
それだけだった。女はしばらく無言でこちらを見ていた。値踏みしているのか、別のことを考えているのか、わからない。
やがて女が口を開いた。
「肩を貸せるか。村人を家まで連れて行きたい」
断る理由はなかった。
村人を家まで送り届けた。
扉を閉めて外へ出た時、女が小さく息をついた。
「また助かった」
独り言のようだった。だが声には安堵より疲労の方が多かった。助かった、という言葉が、喜びとして響いていない。
村を出る道すがら、女は何度か後ろを振り返った。その度に少し、表情が固くなった。何かを数えているような目だった。
その背中を見ながら、気づいたことがあった。
あの村人が倒れたのは、女が肩を裂かれた瞬間だった。
偶然かもしれない。だがそれだけではない気がした。
森の縁で立ち止まった。
女が振り返る。
「どこへ行く」
『決めていない』
「そう」
また沈黙があった。女は少し考えるような顔をしてから、前を向いた。
「一人より二人の方が都合がいい場面がある。しばらく同じ方向へ歩くだけでいい」
同行の申し出とも、条件の提示とも取れる言い方だった。
『構わない』
女は頷き、歩き始めた。名前も聞かなかった。こちらも名乗らなかった。
その夜、野営した。
焚き火を挟んで女が座っている。目を閉じているかと思ったが、違った。剣の刃に何かを施していた。指先が刃の上を滑るたびに、微かに光が走る。音はない。息を詰めるような集中だった。
何をしているのか聞かなかった。聞く必要もなかった。
代償が来たのは、深夜だった。
脇腹が裂けた。塞がった。それだけのはずだった。
だが今回の方が、前より痛かった。
声を殺した。焚き火から少し離れ、木の幹に背を預けた。
痛みが引いた頃、焚き火の方を見ると女がこちらを見ていた。目が合った。
「死ななかった」
女が静かに言った。問いかけではなかった。確認だった。
『ああ』
女はしばらくこちらを見ていた。それから目を閉じた。何も言わなかった。それ以上聞かなかった。
夜が明ける前、森が静かになる時間があった。
風が止み、鳥の声もまだない。焚き火の残り火だけが小さく揺れていた。
女は先に起きていた。荷物はまとまっていた。焚き火は消えていた。
「エウフェミアだ」
唐突に言った。
『アロゴス』
エウフェミアは頷き、歩き始めた。
その背中を見ながら、昨夜倒れた村人のことを思った。
女が誰かを助けようとするたびに、近くの人間が倒れる。
気のせいかもしれない。だがそうでないかもしれない。
そして昨夜の痛みは、前より鋭かった。
どちらも、まだ何もわからない。ただ何かが積み重なっている感覚だけがあった。
不幸は、隣にいた。
まだ、何もわからなかった。




